2012年5月17日木曜日

生きる望みを持つようにしてくださった

生きる望みを持つようにしてくださった(仮題)
2012年5月17日、中町家庭集会
ゴットホルド・ベック

第一ペテロ
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

今、読んできてくださった箇所は、初代教会の中の一人、ペテロです。神は、私たちは、生ける望みを持つようにしてくださった。だから、彼らは大いに喜ぶことができたのです。心配から、不安から解放されました。

ドイツのある姉妹が作ったうたを、紹介いたします。前にも紹介したことがあると思うんですけど、非常にすばらしいものなんです。ガンになって、もう手遅れですと、宣告された時、作った文章です。本当は祈りなんです。


『主イエスよ、
私が心配し、問題を持ち、無力になると、
あなたは私にご自分の喜びを用意する。
あなたが愛でもって、私のためになされた救いを
信仰によっていただきます。

主イエスよ、あなたはあわれんでくださり、
目標をもって、私の一生涯を導き、
あなたの愛の現れとして、
いつも最善をなしていてくださいます。
したがって、安心して喜ぶことができます。

あなたは、決して私から離れられない。
一時的な幸せよりも、まことの救いが私にとって大切です。
ですから、あなたの御手から今の重荷を受け取ります。

あなたの導きを受け入れにくくても、私は確信しています。すなわち、全てがあなたから来ている。

あなたの近くにいて、みことばを聞くと、
あなたを自分の避け所、また、助け手としてほめたたえられます。

あなたこそが、私の人生を豊かなものとしてくださいました。
あなたは、私のために大いなるみわざをなされました。
あなたに愛され、そして、
あなたの満ち満ちた富から豊かに与えていてくださるから、
私は、また、愛することができます。

今から、あなたの光の内に歩みたい。
私はなにがあっても、主イエスよ、
どうか私を祝福してください。

喜ぶことができるために救われ、
平安に満たされたものとして、
私は心からあなたをほめたたえます。』

どうしてこういうふうに言ったか、イエス様との出会いによって、生ける真の神との出会いによって、結局、心配から、不安から解放されたからです。普通の人は、末期のガンになると、どうしよう・・・・そういう気持ちになるでしょうけど、何でもイエス様から受け取れば、見方が変わります。すなわち、イエス様を信じ、イエス様とつながっているものは、考えられない富を、宝物を持っています。すなわち、生きる望みです。

一般的に望みと言う場合には、将来の何か良いこと、たとえば、幸せ、福祉、正義、そういうものを待つのです。とくに、す。若い人は、希望でいっぱいでしょう。けど、比較的、歳をとった人でさえも、それほど激しくはないかもしれないけど、静かな望みを抱いています。もはや、望むべきものが何もなくなってしまうと、そこには、絶望と、死だけが存在するに過ぎない。

聖書的な望みとは、将来、行われる救いの完成を、確信を持って、待ち望むことであり、やはり、何があっても、約束を与えた方は、約束を満たすお方であると確信することです。

以上に言った、一般的な望みと、聖書的な望みとは、お互いに相容れないものであることは、もちろん、明らかです。前者は、一般的な望みは、常に、この世に向けられているものであり、本当の確信がないために、心の奥はむなしさが支配しています。後者、すなわち、聖書的な望みは、イエス様に与えられた望みの故に、この世のあらゆる世俗的なものを捨てる力を持っており、そのために、常に満たされ、慰められ、そして、力を与えられています。

生き生きとした望みの秘訣は、いったい何でしょうか?生き生きとした望みの秘訣とは、私たちが、自分自身を見たり、他人を見たり、私たちを取り巻く周囲の状況を見たりすることをしないと言うことです。そして、望みである主ご自身を見上げることです。それは、心配、不安、また、怖れからの解放を意味しているのです。

ちょっと、三つの点に分けて考えましょうか。第一番目、生きる望みとは、苦しみを通して、本物であるか、偽物であるか、明らかになります。二番目、生ける望みとは、内に住み賜う御霊の実であります。三番目、生ける望みとは、自分が主によって選ばれたものであるという確信に基づいております。

人間のできること、うまくできることは、計算することだけなのではないでしょうか。例えば、地図を書く人は、百パーセント、完全な地図を作るということはあり得ない。不可能です。また、同様に、歴史家も過ぎ去った事実について、百パーセント、完全に書くことはできない。百パーセントできることは、結局、計算することだけではないでしょうか。算術的な計算です。

2+2=4である。このことを疑う人は、おそらくいないでしょう。パウロは、手紙の中で、ローマ書、八章の十八節で、『私は考えます』と言う表現を使ってしまったんですけども、実は、言語を見ると違う表現が出てきます。『考えます』ではなくて、『計算します』となっているんです。

【参考】ローマ
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

パウロがここで、このように言っていることは事実だけです。パウロがここで言っている、『今の苦しみ』とは、パウロの妄想でもなければ、幻想でも夢でもない。これは、パウロにとって、現実的でした。彼は、私たちが考えることができる以上のことを苦しみました。今日は時間がないんですけど、コリント第二の手紙を読むと、彼は正直に、自分の悩みについて、経験した苦しみについて書いたのです。そして、彼は、 『今の時』と言う表現を使いました。『今の時』とは、永遠に続くということを意味しているのではありません。限界のあることを意味しているのです。苦しみには、はっきりとした目的があり、どこかへ至る道であるか、手段であります。

パウロは、自分の肉体が弱いということを知っていました。パウロは、しばしば、病気になりました。常に病気であったと言ってもよいと思います。それから、彼は、外にも内にも、重荷を持っておりました。外面的には、迫害を受けたと言うことであり、内面的には、教会に対する心遣いがあったのです。パウロは、滅び行くものの束縛によって悩まされました。けど、パウロもまた、来るべき栄光を待ち望んでおりました。それゆえ、彼は今の苦しみと将来、啓示されようとしている栄光とを、比較しました。そして、彼は、この苦しみが、栄光に比べれば、取るに足りないものであるということを、証ししたのです。経験したから、告白することができたのです。

もし、パウロが、自分の苦しみを示されるべき栄光と比べることをしなかったならば、彼は、この苦しみに押しつぶされてしまい、彼の喜びも、平和も、力も失せてしまったことでしょう。悪魔は、私たちを疑惑に陥れることを企んでいます。パウロもまた、そのことを、知っておりました。それゆえ、彼は、苦しみと栄光とを秤にかけて、今の現実的な苦しみは、将来の栄光に比べれば、取るに足りないことを、断固として確信しました。

私たちは、信じる者として将来の栄光に、もうすでに部分的には、あずかっているのではないでしょうか。イエス様は、祈りの中で言いました。

ヨハネ
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。

『いつか与えられる』だけではなく、もう与えた!とあります。この栄光とは、いったい、どういうことでしょうかね?次のことばが、この栄光について、説明しているのではないでしょうか。有名な詩篇の三十二篇に当時の王であるダビデは言ったのです。

詩篇
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

パウロは、また、ローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。

ローマ
5:1 信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

私たちは、神との平和をいつかもらうのではなく、今、持っている。

第一ヨハネ
1:3 ・・・・私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

いつかなるのではなくて、今、現在、持っている!これらの御言葉は、私たち信じる者が、今、すでに持っている栄光について述べています。主を知らない人々は、自分の人生を、運命であるとあきらめて、未来に対して不安を持ちながら、生活しています。救われた人々は、今の苦しみが、束の間のものであり、将来、イエス様の栄光に預かるものとされると言うことを確信しています。

捕虜になった人々は、近い将来、家族と再び、あいまみえるようになることを想えば、囚われの身であっても、力が湧いてきます。生ける望みを持っていない人は悲惨です。生ける望みは、喜びと力とを与えてくれるものです。

二番目、生ける望みとは、内に住みたもう御霊の実でます。努力の結果ではない。生ける望みとは、栄光の御霊の結ぶ実です。私たちがいかに弱く、力のない状態にあるかと言うことについて、聖書は多くのことを述べています。例えば、次のような表現が出てきます。「弱い私たち」、「私たちはわからない。」そういう表現がよく出てきます。ここでは信じるものの祈りではなくて、信ずる者のうちに住まっている聖霊の祈りこそが大切です。

ハドソン・テイラーというイギリス人だったんですけど、昔、ずっと中国で伝道して、イエス様を紹介した方なんですけど、彼は次のように告白したことがあります、『私にはもう聖書を読む力もない。祈る力もない。ただ、私の無しうること、それはイエス様に寄りすがることだけだ。』こう証ししました。御霊の力により頼まない人は、気の毒なのではないでしょうか。全く役に立たない者であると言わざるをえないのではないでしょうか。もし、私たちが自分自身を御霊にゆだね、御霊の導きに従うならば、御霊は、いったい何を私たちになさるのでしょうか。

御霊は第一に、我々に確信を与えます。私たちが神の子供であり、この栄光の御霊によって私たちが栄光に預かる者とされると言うふたつの確信を与えてくれます。聖霊は第二に、私たちに力も与えます。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

これが初代教会の経験でした。私たちは、しばしば弱い、力のない、どうしたらよいか分からない、自由を持たない状態に陥りますけど、その時、御霊は私たちを助けてくださいます。

信ずる者は、しばしば、八方ふさがりの状態に陥りますけど、どのような状態になろうとも、うちに住んでおられる聖霊は、力に満ち、確信に満ちています。たとえ、私たちが今、絶望したときも、御霊ご自身が、私たちのために、とりなしをして、私たちを助けてくださいます。こうして、私たちの弱さは、祝福されたものとなります。私たちが、自分自身の求めることを追求するのではなくて、御霊ご自身に自分を明け渡すことができれば、本当に幸いです。

永遠の昔から、父なる神は、イエス様にあって選ばれた人々をあらかじめ知っておられ、また、あらかじめ定められたと、聖書は言っているのです。考えられないほどすばらしい事実です。

【参考】ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

それから主なる神は、現在、あらかじめ定められた人々をさらに召し、召してくださった人々をさらに義と認めてくださった。もうひとつ、主は将来において、義と認められる人々を、さらに栄光にあずかるものとしてくださるのでするのです。

ある人は、人間は、あらかじめ、信者と未信者に定められており、未信者に定められている人は、いくら求めても主なる神を見いだすことができないと主張します。もちろん、このことはとんでもない間違いです。イエス様が、わたしのもとに来る者を決して決して捨てないと約束してくださいました。聖書は、イエス様がすべての人のために死なれたこと、そして、すべての人のために犠牲になられたこと、また、全ての人がイエス様にあって生きること、そのために死なれたと、聖書は言っているのです。

すなわち、父なる神は、永遠の昔から、イエス様を受け入れる人々をご存知であられ、イエス様の血潮によって清められ、義とされるようになる人々を永遠の昔から、ご存知でした。また、父なる神は、我々人間に自由意志をお与えになり、私たちが、恵みを受けるか、それとも、恵みを拒む者になるかを、我々の自由意志にお任せになりました。

また主なる神は、恵みを受ける人を、すなわち、救われる人を、あらかじめ知っておられました。けれども、定めておられたのではない。主なる神が定めておられることは、自由意志をもってイエス様を受け入れた人々が、御子に似る者となることを定めてくださったということです。いわゆる『予定説』と言うのは、信仰、すなわち、救われる人々に対する者ではなく、救われた人々が、後になって、間違いなく栄光にあずかる者とされると言うことを述べているのです。

義と認められた人々は、必ず、栄光にあずかる者となります。何があっても、約束されているから、安心して前向きに生活することができるのです。すなわち、救われることに対しては、すべての人々が救われることが、神の御心であるということを、聖書ははっきり述べています。『神はすべて』・・・この言葉にアンダーラインすべきです。『すべて』は『すべて』です。

第一テモテ
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

もう一箇所、内容的に同じですけど、やはり、『すべて』ということばが出てきます。

第二ペテロ
3:9 主は・・・・、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

人生において、もっとも大切なことは、イエス様を救い主として受け入れることです。死んでからの後悔は、役に立たない。恵みによって信仰に導き入れられた人々が、御子の姿に似た者に変えられます。この確固とした確信によって、生ける望みが生まれます。主のご計画を成就するためにすべてが働きます。偶然はない。

悪魔は、私たちをイエス様から引き離し、我々の確信をぐらつかせようとチャンスをねらっています。しかしながら、悪魔でさえも、主の目的を成就するための道具にすぎません。イエス様は、我々の手をしっかりと握っておられ、私たちが離そうとしても、もちろん、イエス様の方で、その手を離されません。有名なヨハネ伝の中で、『だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはない』(十・二十八)と約束されています。

私たちは、すべてのことを理解し尽くすということはできません。けど、私たちの目は完全にくもりのないものとされていませんが、けど、私たちが直面している問題や悩みの背後にはイエス様がおられ、すべてご存知であられると言うことに、私たちは確信を持っています。すべてのことを働かせて、益としてくださるためには、ひとつの条件があります。その条件とは、主を愛するということです。

主を愛する愛は、無条件の愛でなければなりません。主の愛を受け入れる人は、主を愛さざるを得なくなります。お終いに二つの節を比較してみましょう。まず、皆が暗記している箇所です。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

初めに引用しました箇所では、イエス様は、『神のひとり子』と書かれています。次の節では、イエス様は、『長子』となられると書いてあります。このふたつの言葉の違いは、いったい何でしょうか?父なる神のひとり子は、彼に続いて、他の兄弟たちが生まれることによって、長子となります。父なる神の目的は、ひとつの家族を作ること。主イエス様と他の多くの兄弟たちとの家族を作ることです。

イエス様を救い主として受け入れる人は、新しく生まれる人です。新しく生まれた人は、御子の姿に似た者になると言うことを、主は定めてくださいました。主なる神が定めてくださったことは、必ず成就されます。私たちもまた、イエス様に似た者と変えられるのであります。これこそが、私たちの確信であり、我々の生ける望みです。

第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

おわり

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