2012年5月15日火曜日

家庭集会の大切さ(三)

家庭集会の大切さ(三)
2012年5月15日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

使徒行伝
16:13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。
16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。

16:40 牢を出たふたりは、ルデヤの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出て行った。

今日も、前に引き続いて、『伝道活動における家庭集会の大切さ』についてです。おもに使徒行伝の中でよく、家、家々という言葉が出てきます。


使徒行伝
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

結局、公(おおやけ)の宮で彼らは集っただけではなく、家々、これは、もちろん、いわゆる家庭集会だったのです。もちろん、今日も、集会はいっぱいありますけれど、家庭集会を持たない集会は問題です。新しい人が、あまり来ない。これは大問題なのではないでしょうか。もちろん、人数は、別にどうでもいい。けど、家庭集会を持つこととは、考えられないほど大切です。もちろん、私たちは、家庭集会のことについてよりも、はるかに多く、伝道活動について、考えるべきなのではないでしょうか。というのは、私たちの目標は、家庭集会そのものではなくて、家庭集会はどこまでも、人々が救われるための手段として用いられるにすぎない。

家庭集会は、集会の対立物になってはいけない。その反対に、家庭集会を通して、集会全体の統一が促進されるべきなのではないでしょうか。もし、そうでなければ、家庭集会の存在理由はないと言ってもいいでしょう。本当の家庭集会は、求めている人々に対する個人的な伝道に役立ちます。すなわち、家庭集会は、それによって、戦いの場、そしてまた、イエス様に対する献身の場となります。

ここで私は、広島にあるひとつの家庭集会のことを思い出します。そこには、四人の小さい子供の母親としての、全く絶望的な婦人が出席していました。彼女は、原子爆弾によって、両親を失いました。しかし、彼女は、みことばを聞くことによって、イエス様の救いの力を経験したのです。そこにいた人たちは、この全く絶望的な婦人が、わずか二時間のあいだに、自分の経験した救いのゆえに、喜びに輝いたときの様子を忘れることができないでしょう。この姉妹は、それ以来、今日(こんにち)まで三十年間、主なる神に対する夫の拒絶的な態度にもかかわらず、イエス様に忠実に従っています。

東京の近辺で、たぶん三十数箇所のところで、家庭集会が持たれています。その家庭集会の原動力となっているのは、前に読んでもらいました箇所のルデヤのような姉妹たちです。そのルデヤのような姉妹たちは、また、主から遠ざかっている人たちのために、一生懸命、苦労し、その人たちが、主に対して心開くまで、真剣に日々、祈り続けます。そして、その人たちが一度、みことばを聞いてみたいという意思表示をすると、他の人々が、その人にみことばを宣べ伝えられるように頼まれます。ピリピのルデヤは、パウロと彼の同労者たちに頼み、強いてそうさせたように、そして、また、そのことを通して主なる神の導きを知ることができるようになりました。

私たちも、また、主がどのようにして、家庭集会を与えるかを再三、経験することができます。けど、それは、家庭集会のためにではなく、目的のための手段として、その人たちをイエス様に導くため、一人でも多くの人々を、主のために獲得するためのものです。このように、頼み、強いてそうさせることは、私個人、もはや、すべてのこれに関する義務を果たすことができないほどになって、今日(こんにち)に至っています。家庭集会のための前提条件は、前に言いましたが、次のようなものですね。第一、召しにふさわしく歩みたいという意欲。第二に、証し人として生きようという意欲。そして、第三に、幾人かでも獲得しようとする意欲です。

すなわち、それは決して、中心的な役割を演じたいという意欲とは違います。教会の中で、集会の中で、中心になれないから家庭集会で中心となるというような態度は、決して、全体の幸いには役に立ちません。ルデヤのような姉妹は、毎日、自分の隣人たちのために労しました。その反響は、良かったのです。

広島で、十人の人々が、翌日の午前中に来ると約束しましたけれど、集会の朝、次から次へと断ってしまいました。ある人は夫が病気になり、ある人は子供が熱を出し、ある人は突然、来訪を受けることになったんです。その姉妹は、私が着くやいなや、泣きそうになってしまいました。けど、一人の婦人が現れ、それから、もう一人の婦人も来てくださいました。その二番目の婦人は、すでに二番目の子供が生まれる寸前の状態でした。しかも、産みの痛みは、始まってしまいました。しかし、その婦人は、最後までがんばってくれました。その結果、その集会の朝に、二人の婦人が、主を信じ受け入れたのです。その時、もう子供が生まれる直前でしたので、このすばらしい経験をした後、すぐに、私はそのご婦人と母親とを車に乗せて、病院に連れて行きました。まもなく、子供は生まれたのです。子供とお母さんとが同じ日に、生まれたのはめずらしいのではないでしょうか。

自己中心の生活を止めた結果、家庭集会となるべきです。すなわち、自分と自分の家を大切にする、いわゆる、自分のお城としての家庭から解放され、我が家を主のために使っていただくという変化が現れてきます。内面的に絶望的な人々のために、我が家を提供するという備えができている結果として、家庭集会は成立します。この心がまえは、どうしても必要です。このことを考えてくれる人、私のために時間をさいてくれる人、私を愛してくれる人、何でも打ち明けることのできる人は一人もいないという孤独な人たちのために、家庭集会はどうしても必要です。失われた魂に対する主の愛が働いて導くところには、あらゆる賜物(たまもの)と可能性が豊かに開かれます。

このようにして私たちは、何十年前だったか、もう忘れましたが、ドイツ・ケーキの講習会と結びつけ、あちこちで家庭集会を持っていました。初めの四十分は、ご婦人たちと一緒に、家内はケーキを焼きます。焼き上がるのを待つあいだ、私がみことばを順番に学び、その後で、いつも、かなり長い時間、交わりの時を持ちます。

ドイツでは、たいてい、夜に家庭集会を持ちますが、日本では、だいたい、百パーセントぐらい、午前と午後に持ちます。ドイツでは、一般に家庭集会の中心は、聖書の集いであると考えられています。それに対して、日本では、集る人によって、決めなければならないという、ドイツとは違った事情があります。日本における家庭集会の目的は、お互いの信頼関係を作ることです。もしも、人が私たちを信用できないならば、私たちが語ることも信頼できないのは、当然ではないでしょうか。また、時間の点を、比較してみましょう。ドイツでは、一時間半を超えることは、ほとんどありませんが、日本では、いつも三時間、四時間ぐらい続くのが、普通なのではないでしょうか。それは、日本人の方が、ドイツ人よりも、多くの時間を持っているからというようなことではなく、日本人も一日、二十四時間という限られた時間の中で、家庭集会のために、時間を作り出しているのです。優先順位は、両国では異なったところに置かれています。自分が一番、大切なことを、何よりも第一にしなければなりません。もっとも大切なことは、天国で喜びの凱歌があがることです。なぜならば、あちこちの家庭集会で、罪人、が悔い改めに至るからです。

聖書は言っています。「信じない者は、すでに裁かれている。御子を持たない者は、いのちを持たず、その人の上に神の怒りが留まる」という、みことばの大切さを、私たちはみな、誰一人として、疑いません。一度、十分間だけでも、静まって、あなたの知り合いの人のことを考えてみてください。私の息子、私の娘、私の夫、私の妻、私の兄弟、私の姉妹、また、主を知らない多くの知人、友人たちのことを、『彼らはみな、すでに裁かれており、主なる神の怒りがその人々の上に留まる』ということを。『御子を信じない者は、すでに裁かれており、その人の上に神の怒りが留まる』ということを考えた時、心に、何の重荷をも感じない者は、新しいいのちを持っているかどうかは、疑わしいのです。けど、重荷を感じる者は、真剣に祈り初め、そのために犠牲を払う覚悟ができています。

ルデアたちのような姉妹の価値は、言葉に言いあらわせないほど、貴重なものです。おそらく、ご婦人としては、夫に向かって、次のように言うこともできるでしょう。『あなたは今晩も、また、大勢の人々を呼んだのですか。今夜は、一週間の内で、ただ一晩だけ、自由な時を持てた日で、私たち家族だけが、ゆっくりできたでしょうに』と、言ったとしても、普通ですが、けれど、ルデヤのような姉妹たちは、決して、そうは言いません。喜んで、犠牲を払うご婦人は、幸いです。犠牲を払う備えがあるかどうかは、祈りの生活の中で、現れてくるのではないでしょうか。

集会における多くの姉妹たちは、祈り人たちです。姉妹たちの多くは、毎日、二百人以上、三百人以上の未信者の夫たちのために祈ります。ある姉妹たちは、三十分ずつ分けて、二十四時間のあいだ、絶え間なく、祈り続けました。集会の一人の姉妹が、言いあらわすことのできない悩みの中に置かれたので、すべての姉妹たちが同じように共に悩み、この祈りの輪は、初められたのです。後で聞いて解かったことですけれど、ある人は、三十分、祈っても足りず、二時間に延ばして、祈ったそうです。それほど、幸せだったことはないと、彼女たちは証ししたのであります。もちろん、これは、真似すべきことでもありませんし、また、その必要もないでしょう。けれど、確実なことは、真剣に祈らなければ、一人のルデヤも生まれないということです。そして、集会が、教会が、一人のルデヤをも持たない場合には、夜通し働いても、何も獲れなかったという状態になりがちです。

主によって非常に用いられた説教者、ベッハ-博士が、臨終の時、一人の人が尋ねられました、『ベッハ-博士、あなたは、いろいろなことをご存知です。一番、大切なのは、いったい何でしょうかね。』答えは、次のようなものでした。『神学ではなく、論争点に関する議論でもなく、魂の救いです』と。

次のように祈ることのできる人は、本当に幸いです。「主よ、私のいろいろな障害物や、能力のなさにもかかわらず、私を人を漁(すなど)る者になさってください」と。イエス様は、完全に挫折したペテロと同じように、次のように語るでしょう。すなわち、『わたしに従いなさい。わたしは、あなたを人を漁る者として用いよう』と。『わたしはしよう。あなたは、どうせできないから』と、主は言っておられます。

主なる神の行ないは、創造的なわざです。存在しないものも存在するようになります。祈りの答えとして。人を漁(すなど)る者になるのは、自分の努力によってではない。人を漁る者になるのは、研究や頭の知識によってでもありません。人を漁る者は主の創造的なわざによるのです。『「主よ、陶器師であるあなたが私の人生を――粘土を――お取りになり、それから、あなたの御手の栄光のために役立つものをお造りになってください。そして、多くの人々が救われるようにしてください。ここで私は言います。どうか、我が家と私とを、お用いになってください』と、祈る人は祝福されます。

主が弟子たちを、人を漁る者として、お用いになるために、従うようにと弟子たちに呼びかけた時、彼らは、自分のものをすべて捨てて、主に従いました。彼らは、自分のものをすべて捨てて、妨げとなるもの、引き留めようとするもの、すべてを捨てて、副次的なもの、すなわち、第二、第三のものをすべて捨てました。

パウロも、また、自分の網を捨てました。彼は言っています。

ピリピ
3:7 私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

すべて自分のものは、主の働きの妨げとなります。我々の最大の敵は、私たちの自我です。御心は言っています。みことば、聖書にあることばです。『権力によらず、能力によらず』、他の方法や道にもよらずに、人間の計画にもよらず、『わたしの霊によって』とあります。わたしに従いなさい。わたしはあなたを人を漁る者としよう。」

【参考】ゼカリヤ
4:6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。

初めに言いましたように、私の申し上げたことは、ああすべきか、こうすべきだという処方箋では、決してなく、単に事実に関するひとつの証しにすぎません。私たちは、計画を立てて、その目標を追求しようとしたのではなく、主の示されたとおりに、動いただけです。

家庭集会を通して、最初の触れ合いと信頼ができ、一人ひとりの魂を配慮することが、その人たちを、主に導く手段となります。私たちは、『私たちの高められた主イエス様が、さらに、多くのことを行ないたいと願っておられます。あらゆる信者を器として用いたいと願っておられる』・・・というビジョンを必要としています。今の状態で満足してしまうと、成長は止まり、集会の群れは、宗教的なクラブになってしまいます。ほとんど毎週、内面的に挫折してしまった人々が、主の御名を呼び求める備えができ、信仰に至るようになっています。

そのような成長の秘訣とは、いったい何でしょうか。集会の中に、本当に主に献身している少なからぬ兄弟姉妹がいます。この群れは、ひとつのことを、はっきりとした目標として持っています。すなわち、失われた魂が、主のために獲得されるということです。ですから、主を証しする機会をおろそかにできません。あらゆる成長のためのおもな奉仕は、祈りの奉仕です。主は、みことばを守り、失望させない方ですから、大いなることを主から期待することができ、奇跡をも経験することができるのです。一人の人が主に献身すると、それは、他の人にも広がっていくということを、私たちは何度も経験しています。

三千年前に同じようなことがあり、イスラエル全体は、ゴリヤテという巨人に対しては、どうすることもできないと思い込んでしまいました。けれど、部外者、ダビデは、違うことを考えていました。彼は、生ける主なる神を侮(あなど)る、大胆不敵な異邦人に対して、憤りを感じ得ませんでした。ゴリヤテが倒された後、他の人たちもそれを行ない、多くの巨人たちが倒されたとしるされています。一人の人が、主のために失われた魂を獲得しようとすると、その波紋は次々と広がり、他の人たちも、突然、同じ目標と願望を持つようになります。

主の前に大いなることを期待しつつ、立ち続ける者は、他の兄弟姉妹もまた、同じ霊によって、捕らえられるということを、やがて経験するようになります。誰でもが、影響を及ぼすものです。自分自身を大切にしようとする者は、他の人々も、また、自分自身を大切にするようになり、それによって、死が入り込んでしまうということを経験します。家庭集会から始まって、ほとんど至るところで、祈りの集いも主によって起こされました。信仰に導かれたばかりの人々は、ここで祈りを学び、しかも、共に祈ることを通して、学びます。

原則として次のようなことが、依然として、妥当します。家庭集会は、一人の未信者も来ない時は、集会は止め、求める者がいるようになったら始めます。そして、祈りの集いにおいては、信者同士の完全な一致が存在せず、お互いに身を低くし、すべてを明るみに出す備えがない時には、しばらくのあいだ、やめることを、私たちは薦めています。

健全な成長、それは、私たちの切なる願いです。私たちの主は生きておられます。よく知られているヨハネ伝十二章二十四節ですね。

ヨハネ
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

健全な成長の結果は、豊かな実です。私たちの主は、死におもむいてくださいました。それは、ただ単に私たちの身代わりになって罰せられるため、私たちのために呪いとなるため、罪そのものとされるためではなく、主のいのちの所有者となるように、ご自身のいのちを与えてくださったためでした。そして、主のいのちが明らかになり、あふれるばかりの主のいのちが流れ出る時、もはや、古き人に留まることはできません。すべてが新しくなるのです。人間が、高められた主との交わりを持つようになると、今日もまた、あふれ出る圧倒的な実を結ぶいのちが明らかになります。

コリントの信者たちに対して、パウロは、次のように書いたのです。

第一コリント
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

ここでも書いてありますように、もっとも大切なものは、主の真実です。主は、常に真実です。そして、全く偉大なるものは、主の目標です。主との交わりを持つために、日々、主と共に歩むために、私たちは召されました。主が、我々を導きたいと思っておられる道は、長ければ長いほど狭く、十字架まで続いています。自分の命を愛する者は、自分のものに固執する者、自分自身を否定する備えのない者は、霊的なカタワになってしまいます。

イエス様は、我々の生活の中で、第一のものとなっているのでしょうか。自己否定なしには、いかなる復活のいのち、すなわち、主イエス様のいのちの現れはあり得ません。今日、多くの問題となっていることは、十字架を知らないキリスト教が宣伝されていることなのではないでしょうか。いかなる努力、いかなる熱心さ、いかなる聖書的信仰も、私たちが十字架、あるいは、十字架につけられることを恐れる時、すべて、不従順なものになってしまいます。主イエスの苦しみにあずかることなしには、成長も、実を結ぶこともあり得ません。日々、打ち砕かれることなしには、我々の自我は、主の働きの妨げになってしまうのです。

聖書全体の言っていることとは、次のようなものです。

打ち砕かれた後で、初めて、主はお用いになる。ギデオンと共にいた三百人の兵士たちの持っていた土の器が砕かれた時、初めて、その中に入っていたたいまつが光を放ちました。主はまず、ご自身に持ってこられたパンを裂くことによって、初めて、何千人もの人を満腹にすることができたのです。ナルドの壷も、また、高価な香りを家中に満たす前に、砕かれなければならなかったのです。サウロが、徹底的に砕かれる備えを持った時に、初めて、主は彼を用いることができるようになりました。ヤコブもまた、腰の骨をはずされて、びっこを引いて歩くようになったと、聖書に記されていますが、彼もまた、砕かれた後、初めて祝福を受けることができたのです。

私たちの中にある主イエス様のいのちは、私たちが日々、主に自分の意思を意識的に従わせることによって砕かれる時にのみ、明らかになります。

主が、我々にお与えくださったみことばは、目に見える世界のあらゆる現実よりも、信じるに足るものとみなされます。私たちの主は、みことばを成就するためには、自然法則全体をも打ち破ることがおできになるということを覚えましょう。私たちの主は、ご自身の約束を決して破りません。主は、すべての力を握っておられ、主のみことばは、永遠の真理ですから、必ずみことばの通りになります。この信頼を私たちは必要としています。間違った謙遜さ、すなわち、不信仰によって、私たちは、主の御名を汚すことになります。

主のために生きる備えのあるところには、歓呼の喜びが我々の心を満たし、それは、革命的な働きをします。我々の周囲は、急に聞くようになり、飢え渇きを持つようになります。そして、私たちは、備えられた心に福音を宣べ伝えるチャンスと可能性を持つようになるのです。

おわり

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