2011年11月15日火曜日

主イエス様の証し[2]

主イエス様の証し[2]
2011年11月15日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
10:5 「しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」


10:15 「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。

10:38 「しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」

今日は日曜日に続いて、「主イエス様の証し」について、一緒に考えたいと思います。人間が、もちろん証しすることができるのは、幸せです。イエス様に出会った人々は、結局、喜んで証ししたい。すなわち、証しする事とは、イエス様を紹介することです。もし、誰もイエス様を紹介しなかったならば、私たちは救われたかどうか、解かりません。主は、やっぱり、どうしようもない人間の証しを用いて、人に出会います。

けれども、人だけではなく、イエス様も証ししてくださいました。イエス様の証しとは、どういうものであったかと言いますと、今、読んでもらいました箇所を見ても解かります。イエス様は、「わたしは良き牧者です。」良くない牧者もいる。雇い人は、良い牧者ではない、偽者でしょう。イエス様は、本物であります。唯一の良い牧者であるという証しをもって、イエス様は、旧約聖書で約束された者であるということを、主張してくださいました。

イスラエルの民は、もちろん、旧約聖書を知っていたから皆、確信したのです。すなわち、来るべき救い主は、迷える羊のことを、心の底から、自分を無にして、心配してくださる良い羊飼いです。

ダビデは、生ける神を体験した男でした。すなわち、彼は、彼の過ち、とんでもない罪を、徹底的に明らかにされることによって、赦されたことを確信するようになりました。そして、結果として、主は、私の羊飼いです。乏しいことはない。心から喜ぶことができる。安心して、すべてをこの良い牧者に委ねることができるのです。詩篇の二十三編は、皆よく知っているところです。多くの人々にとって、もっとも愛される詩篇なのではないでしょうか。けれども、実際は、聖書の中で、他のみことばほどは、信じられることの少ない箇所なのではないでしょうか。問題がなければ、みな平気で言う、『主は私の羊飼いです。』けど、いろいろな問題が出てくると、急に、『自分でがんばらなくてはいけない、羊飼いなしに何とかなる、できるのではないか』と思うようになるのが、私たち人間なのではないでしょうか。

主は、私の牧者です。そして、主は、私の牧者ですから、心配する必要はない。いったい誰がこのことを心から信じるのでしょうか。私たちは困った時、本当にこのみことばに頼ることができるのでしょうか。結局、「主は、私の牧者である」と言う人は、同時に、次のことを言わざる得ない。すなわち、「私は、助けのない、愚かな無力な羊にすぎない」とも、証しせざるを得ないのではないでしょうか。自分自身のみじめさをよく知っている人は、良き羊飼いのところに来て、すべてをこの牧者なる主にゆだねることができるのではないかと思います。

良き牧者は、徹頭徹尾、自分を無にして、羊たちの世話だけを考えます。悪い牧者は、もちろん、自分のことだけしか考えない。羊たちの幸いのために配慮することをしない。けど、良き牧者なる主は、赦すお方です。与えるお方です。

そして、イエス様の次の証しとは、「わたしは門です。」盗人でもないし、嘘つきでもない。盗人は、盗むため、殺すためにやって来たけど、イエス様は、守るため、救うために、解放するために、力づけるために、来られたお方です。「わたしは門である」ということばでもって、イエス様は、「わたしによって守りと保護、また、安全が約束されている」と、おっしゃるのです。

イエス様は、どうして良き牧者なのでしょうか。なぜ、イエス様は門なのでしょうか。答えは、「わたしは、羊たちのためにわたしの命を捨てます。彼らの債務と罪のために、わたしは身代わりとして死ぬ。わたしの死は、彼らの罪に対する裁きです。けれども、わたしは、ただ単に、贖いと赦しのためにだけ死ぬのではなく、彼らにわたしの命を与えるために死ぬのです。わたしは、羊たちがわたしの命を、自分のものとすることができるために、わたしの命を捨てます。」

良き牧者の近くで生活する者は、必要な糧を備えていてくださり、病気になった時、看病してくださり、誘惑から守ってくださり、そして、さらに多くの守りと安全を保障してくださいます。

そして、三番目に、イエス様の証しは、「わたしは、父の息子である」と、言うことができたのであります。それを聞いた多くの当時の宗教家たちは、怒って、『殺すべきです』と思うようになりました。確かに、イエス様のように、次のような言明を行なった者は一人もいない。イエス様は言いましたね、『わたしだけが、良き牧者であり、ただ、わたしのもとにのみ、本当の満足があります。また、わたしだけが、門です。わたしを通らなければ、誰も、父のもとへ行くことはできません。救われ得ない。そして、わたしだけが、父とひとつになっている者です。わたしは、永久なる神です。』イエス様が、その言明によって真理を語っておられたということを、イエス様の復活が証明します。私たちの真ん中にいるどの信者も、その証明なのではないでしょうか。

イエス様は証しました。まず、ご自身について、けれども、それだけではなく、ご自分の羊たちについても、イエス様は証しなさったのです。何を言ったかと言いますと、『彼らは、わたしの声を聞き、その声を知り、そして、その声を聞きわけます。それから、わたしの羊たちを、わたしはよく知っている。そして、また、わたしは彼らによって、よく知られている。もうひとつ、わたしの羊たちは、わたしに従います。』

けれども、そもそも羊というものは、愚かな動物です。一匹の羊が、川の流れに入ってしまい、溺れてしまうと、その羊に続いている全体の羊の群れは、同じことを行ない、同じ運命にあいます。羊飼いのいない羊は、失われ、どうすることもできない状態に置かれ、守ってくれる者もなく、完全に助けのない存在です。そして、生けるまことの神は、人間をそのように例えているのです。人間とは、助けのない羊のようなものである。有名なイザヤ書の53章6節に書いてありますね。

イザヤ
53:6 私たちはみな(・・・例外なく・・・)、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

人間は、自分がなぜ、生まれたか、人生の意味は何か、死んだ後、どうなるのかということを知りません。すなわち、人間は愚かな羊と、全く同じようなものです。羊はどこまでも羊であり、そして、羊にとどまるのであり、突然、熊になったり、ライオンになったり、蛇になったりすることはありません。そして、人間もまた、どこまでも人間であり、守りなく、助けのない存在にすぎない。その状態にとどまるのです。

ある人は言います。失敗は成功のもとであると。はたして、そうでしょうか。別の歌もあります。前によく、唄われたのです、『解かっちゃいるけれども、止められない。』その通りなのではないでしょうか。聖書は、人間の心は、陰険で直らないと言っています。もし、私たちは、自分の力に頼ると、死ぬまで全く同じくダメな者です。エレミヤは、もう2700年前に書いたのです。

エレミヤ
17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。

これは、主のことばです。そのような人間が、ひとたび良い牧者と結びつくようになると、迷ったり、空しく探し求めたりすることを止めます。しかし、依然として、羊のようにどうしても、助けと導きを、もちろん、必要とします。イエス様の御手の中で、自分が守られているということを知っています。それではいったい誰が、主の羊に属するのでしょうか。ペテロは、次のように書いたのです。

第一ペテロ
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

主の声を聞くことは、どうしても必要です。主の声を聞く者は、慎重になり、立ち返ります。その人は悔い改め、謙虚になって、イエス様の御許(みもと)に行き、そして、イエス様によって、受け入れられます。聖書の中心になるものとは、何なのでしょうか。もっともひどい罪は、信じないことです。ヨハネ伝5章24節は、よく引用される箇所です。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

『信じる者は持つ』とあります。確かに聞くということは、信じることを意味しています。そして、信じるということは、永遠のいのちを持つことを意味します。イエス様の御声を聞くということは、イエス様の御声を知るということに他ならない。そして、それによって、主ご自身を知るということになるのです。前のヨハネ伝の10章に戻ります。

ヨハネ
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。

これこそが大切です。決心するということは、充分ではありません。罪から離れることも、充分ではありません。もっと良くなりたいと思うことも、もちろん、充分ではない。大切なことは、私たちがイエス様を、個人的に知るかどうかということ。そして、わたしたちが主の御声を聞いたかどうかということです。主の御声を聞くことは、実践的な意味を持っています。すなわち、イエス様のみことばを真剣に、受け止め、自分のものにすることを意味するのです。イエス様は、しばしば、言われました。困った悩んでいる人々に、『安心して。あなたの罪は赦された。『このイエス様のことばを聞いた人々は、嬉しくてうれしくてしょうがなかった。信じられないけれども、イエス様は嘘つきじゃないから嬉しい。

悔い改めて、イエス様の御許に来て、恵みを切に求める者は、「私の罪は赦されている」ということを理解できません。けれども、信じることができます。『』として、イエス様の御許に来る者は、罪を赦される』ということは、否定することができない、すばらしい事実です。それですから、自分の債務をイエス様に打ち明け、イエス様は赦してくださったということを、幼子(おさなご)のように信じてください。

次に、イエス様は、ご自身の羊たちについて、また、言われました。もう一回、ヨハネ伝10章に戻ります。

ヨハネ
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

『わたしは彼らを知っています、わたしのものは、わたしを知っている』と、あります。イエス様が、私を知っておられるということは、大きな慰めなのではないでしょうか。イエス様は、人間一人ひとりのさまざまな戦いを知っておられます。イエス様は、我々のいろいろな失望もご存知です。イエス様は、あらゆる人のすべての問題を知っておられますけど、イエス様はただ単に、我々を知っておられるだけではなく、そして、また、イエス様はただ単に、すべてのことをご存知であられるだけではない。一人ひとりのために、全く個人的に、御臨在しておられる良き牧者です。

非常にきびしいことばのひとつが、マタイ伝7章に書かれています。

マタイ
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜい・・・

少なければありがたいけど、イエス様は、『大ぜい』と言ったのです。

7:22 ・・・大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし・・・、

預言をすることと、御言葉を述べ伝えることです。

7:22 ・・・あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

この箇所には、イエス様の恐ろしい判断が記されています。すなわち、『わたしは、あなたがたを決して知らない。』そして、わたしたちは知ることができます。すなわち、人がイエス様の名によって、預言をすることができる。イエス様の名によって、悪霊を追い出すことができる。イエス様の名を使って、奇蹟を行なうことができる。けれども、これらのことは、イエス様と結びついていなくても、できるのです。

救われていることの特徴は、主の御心を行なうことですね。

マタイ
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

『わたしは、わたしのものによって知られています。彼らは、わたしを知っている。』このことこそが、大切ではないでしょうか。イエス様は、彼らがキリスト教の教えを知っているとは言わなかったのです。「彼らはわたしを知っている。」イエス様は、良き牧者であるということを知っているだけでは、充分ではない。「イエス様は、私の牧者である」と、誰もが堅く信じて疑わないというように、ならなければいけないのです。主は私の牧者ですから、私に乏しいことがない。というのは、イエス様が私を伴われ、イエス様は私を導かれ、イエス様は私を力づけ、イエス様は私と共におられます。

もうひとつですね、イエス様は羊たちについて、第三のことなんですけれども、「彼らはわたしに従います」と、言われたのです。イエス様について行くということは、主に従うことを意味しています。主に従う者は、主の羊に属します。主について行くことは、赦されているということは、大きな特権です。人はもはや、暗やみの中で、手探りする必要はありません。人はもはや、迷う必要はありません。

「私は主を信じている」と言いながら、日常生活の中には、本当に主に従っている様子がぜんせん見えない人が、確かにいるでしょう。けど、従順なき信仰はありません。それは、せいぜい、迷信、あるいは、思い込みにすぎないのです。イエス様は、次のことを言われたのです。注意や警告としてではない。すなわち、『わたしの羊たちは、わたしの声を聞き、彼らはわたしについてくる』べきではなく、むしろ主は、『わたしの羊たちは、わたしについてくる』ということを事実として、おっしゃっておられます。

私たちは、主に従っているのでしょうか。主の御心は、我々にとって、すべてを意味しているのでしょうか。

イエス様がパウロに出会った時、パウロは尋ねました。『主よ、私は何をしたらよいのでしょうか。』パウロはこのことによって、次のことを言い表したのではないでしょうか。

『今まで私は、自分自身の主でしたよ。私はすべてのことが完全に間違っていたということを認めざるを得ません。私は、神に仕えたと思っていたけれども、実際は、悪魔に仕えていました。私は、生ける神に対して全くメクラでした。今から、私は、成すべきことを知りません。どうか、私を導いてください。というのは、私はあなたについて行きたいからです。』

こういうふうになるのは、やっぱり考えられないことです。奇跡です。イエス様との出会いによって、サウロ、後のパウロは、『私が愚かな羊であり、私は良き牧者、すなわち、イエス様の導きを必要としている』ということを知りました。主は、私の良い牧者であると確信できる人は、本当に幸せなのではないでしょうか。今まで、私たちは、ふたつの点、すなわち、イエス様のご自分についての証しと、御自身の羊たちの証しについて考えたんです。

第三の点について進む前に、もう一度、今まで見てきたふたつの点をまとめてみたい。まず、第1の点は、イエス様がご自身の証しをしておられるということでした。すなわち、わたしは、雇い人ではなく、唯一の良い牧者です。わたしは、盗人ではなく門であり、わたしのもとには安全がある。わたしは天国に至る唯一の門です。もう一つ、『わたしは冒涜者ではなく、父なる永遠の息子である』と、イエス様は言われたのであります。

前に紹介したことがありますけれども、ちょっと、昨日、また、手に入れたんです。アフリカのザンビアという国の総理大臣の証しです。その時、このザンビアで働いている友だち、宣教しとして、そこで働いている弁護士からの手紙をもらいました。その手紙を読んだ時、ちょっとびっくりしました。本当かな、単なる夢なのではないか、そういう気持ちになったのですけれども、本当でした。すなわち、その年の4月27日、ザンビアとセネガルのあいだで飛行機が落ちて、そして、それによって、ザンビアのサッカー・チームが皆、一人残らず、死んでしまったのです。

次の日、国としての葬儀が行なわれたのです。葬儀の時、ザンビアの総理大臣が話されたのです。けど、彼はその話の前に、彼は、全国の住民に言ったのです。すなわち・・・、

『話をする前に祈らせていただきます。なぜなら、私は、この国、そのものを主なる神に、捧げたいからです。愛する住民がた、お願いいたします。ご一緒に祈ってもらいたい。』

『ああ主よ。あなた様はアブラハムの神であり、ヤコブの神であり、イサクの神であられます。そして、また、あなた様を恐れる者の主です。私は今朝、御前にひれ伏しています。この国は、あなた様のものです。あなた様ご自身が、私たちを導くことができ、あなた様の御心だけが行なわれますように。』

『自分勝手に王となろうと思っても、うまくいきません。総理として生まれた者もいません。あなたは与え、また、あなたが取られるお方です。聖なる御名だけが崇められますように。私は、この世で単なる居留者であり、旅人です。私たちは、あなたを信じ、あなたに信頼しています。裸で私たちは生まれたのであり、また、裸で私たちは死ぬのです。あなたの御名だけが、褒め称えられますように。』

『私たちの愛するあの若い人たちは、自分の召される時が、そんなに早く来るものであることを知りませんでした。彼らは、私たちよりも、罪深い者ではありませんでした。主よ。あなたの尊い御名を褒め称えます。私たちも、いつ召されるのか解かりません。神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためである。いと高く、神の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。わが避けれどもころ、わが砦、私の信頼するわが神。』

『主よ、私たちは感謝いたします。主よ、私たちはあなたを褒め称えます。主よ、この国の住民たちを顧みてください。今、私たちは何を考えるべきか全く解かりません。どういうことが起こったのか、わかりません。しかし、あなた様は、私たちの近くにおられます。御使いたちは、私たちを守るために遣わされた者です。』

『主よ、私たちは、愛する人々を亡くしたのです。しかし、あなた様は必要な助けを必ず、与えるお方です。主よ、あなた様だけが、与えられる平安をいただきたいものです。この世の与える平安を、私たちは欲しくない。あなた様ご自身の平安を、私たちは必要とするのです。あなた様の平安は、人のすべての考えにまさる真(まこと)の平安です。私たちは、この国でまさにこの平安を味わい、慕いたいものです。』

『主よ、私たちはあなたを賛美し、褒め称えます。主よ、私たちは自分の持っているものをすべて、あなた様に明け渡します。私も、他の人々よりも、立派ではありません。あなた様に遣わされた者にすぎません。あなたの御名を褒め称えるために、私は総理になったのです。』

それから、総理大臣は、祈り続けようとしたのですが、大きな声で、泣きはじめました。それから、続いて祈るのです。

『主よ、私は今、ここで国の住民の前、また、あなたの前に約束いたします。私は、続いてあなたの御名を誉め称えます。あなたを宣べ伝えます。何があっても、私は、真理を語ります。私は、あなた様を主として誉め称えます。私たちの経験した理解しがたい導きは、今日から始まるものではありません。あなた様に愛されたヨブも、一日で10人の子供を亡くし、財産、富もいっぺんに失くしたのです。』

『今の真っ暗やみの中でも、私たちは、主よ、あなたに信頼します。この国の住民たちと共に、私は、今、告白します。主イエス様、あなた様こそが私たちの神であり、主であり、この国を支配したもうお方です。私は勝利を得るようになります。イエス様によって、私たちは勝利者となります。主の御名によって、お祈りいたします。アーメン』

このように祈ったのです。このような総理を持つ国は、おそらくないのではないでしょうか。


おわり

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