2011年11月13日日曜日

主イエス様の証し[1]

主イエスの証し[1]
2011年11月13日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
10:5 「しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。


10:15 「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」

10:17 「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。」
10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。

10:38 「しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」

信じる者の使命とは、イエス様を紹介することです。『あなたがたは、私の証し人(あかしびと)となる』と、イエス様は言われました。その時、弟子たちだって、考えられなかったのです。みじめで、弟子と呼ばれていたのですけど、本当の意味の弟子ではなかったのです。五旬節の日から、はじめて、彼らは、本当の意味での弟子となり、主に用いられるものとなりました。

イエス様を紹介することとは、証しすることなのではないでしょうか。

まず、二人の証しを紹介いたします。九十歳の方の証し、『主の御名を賛美します。今、私は元気です。けれども、いつ召されるか分からないので、皆さんに最後のことばを残してゆきたいと思います。私の今の気持ちは、詩篇23編の、「たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」というとおりです。また、「私の杯はあふれています」とのみことばは、何とうれしいことでしょう。私もそのように言えるように導いたのは、イエス様です。ありがたいことです。イエス様がいつも共にいてくださる、その人生は何と、すばらしいことでしょうか。私は、その喜びで、平安で、希望で満たされています。ですから、今、何の心配もありません。思い煩いがありません。・・・私はいつまでも、主の家に住まいましょう。イエス様に心から感謝いたしております。』九十歳の方の証しです。

今度は若い、六歳の女の子の証しです。『聖書をありがとうございました。大事に使います。わたしはイエス様が大好きです。困ったり、悩んだりしたときに、いつも、イエス様にお祈りしています。イエス様、大好きです。』二人の証しです。

証しすることとは、今、話したように、イエス様を紹介することです。そして、聖書の呼びかけとは、イエス様から目を離さないでいなさい。離すと、すぐ、悩むようになります。人間は、もちろん、みな、簡単に惑わされます。いわゆる人間に作られた宗教に入った人々は、皆、例外なく、だまされています。イエス様は、ありがたいけど、要求するお方ではない。与えたいお方です。いうまでもなく、偽物ではなくて、本物を与えたいのです。また、導きたいのです。教えたいのです。満たしたいのであります。

本物の主イエス様とは、罪を明るみに出すお方であり、けど、明るみに出された罪は、許してくださる、忘れてくださいます。本物のイエス様とは、近づいていてくださり、聞く耳を持つお方であり、答えてくださるお方です。このイエス様を仰ぎ見ると、結果として、礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。人間の証しとは、確かに大切です。けども、イエス様の証しも、大切ではないでしょうか、今、千尋兄が読んでくださった箇所の中で、イエス様の証しも含まれています。

イエス様は、三つの事実について、語ってくださいました。第一に、私は良き羊飼いである。そして、私は雇い人ではない。私は本物であり、偽物ではない。二番目、私は、門です。そして、私は、盗人ではなく、嘘つきではありません。三番目、私は、父の息子です。そして、私は、冒涜者ではないと、イエス様は言われました。

まず、私は、良き羊飼いである。そして、私は、雇い人ではなく、本物である。偽物ではないと、イエス様は証ししてくださいました。唯一のよい牧者であるという証しをもって、イエス様は、私は旧約聖書で約束されたものであるということを、主張したのであります。イスラエルの民は、次のことをよく知っていました。すなわち、来たるべき救い主は、迷える羊のことを、心の底から、自分を無にして、心配してくださる良い羊飼いです。

ダビデは、生ける神を体験しました。すなわち、彼は、彼の罪が徹底的に明らかにされたことによって、しかし、また、それと同時に、彼の債務が許され、主こそ、私の羊飼いですと、喜びの声をあげることができたのです。私の救い主とは、生きる救いをもたらすお方であると言えたのです。おもに、詩篇の23篇は、人々から最も愛される詩篇の一節ですけど、しかしながら、実際は、聖書の中で他の御言葉ほどは、信じられることの少ない聖句であると言えましょう。

主は、私の牧者です。そして、主が私の牧者であるから、私には乏しいことがない。いったい、誰がこのことを本当に信じているのでしょうか?私たちは、困ったときに、本当にこの御言葉を信じることができるのでしょうか。主は、私の牧者ですと、語り、そして、証しする者は、それによって、同時に、また、私は、助けのない、愚かな無力な羊ですと言うことをも、言い表し、証ししているのです。自分自身のみじめさを、よく知っている者は、良き羊飼いのところに来て、全てをその羊飼いにゆだねます。詩篇の作者は、次のように書いたのです。

詩篇
80:1 イスラエルの牧者よ。聞いてください。ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ。光を放ってください。ケルビムの上の御座に着いておられる方よ。

『イスラエルの牧者』は、主なる神、御自身です。この牧者は、自分に属するものを、見守っていてくださるお方です。イザヤ書の中に、似ていることばがあります。

イザヤ
40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

この御言葉は、来たるべき救い主、約束されたメサイアについての約束です。そして、この約束は、イエス様を通して、成就されました。もう一箇所、読みます。

エゼキエル
34:11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
34:12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
34:13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。
34:14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
34:15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。

ユダヤ人たちは、旧約聖書の内容を、もちろん、よく知っていました。そして、彼らは、良き牧者について、どれほど多く約束されているかを、もちろん、知っていました。そして、今や、イエス様が、急に、彼らの真ん中に現れ、私こそ、良き羊飼いですと、御言葉によって、ご自身を明らかにしてくださいました。イエス様は、自分こそ、約束された救い主、メサイアであると、主張している多くの者たちとは、対立します。その人たちは皆、良き牧者ではなく、悪い牧者だったのです。彼らは、門から入らないで、他のところを乗り越えてくるのであり、すなわち、旧約聖書の約束通りではありませんでした。

ヨハネ
10:1 まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

旧約聖書の約束は、悪い牧者によっては、実現されませんでした。彼らは、主の羊たちを探し求めないで、自分自身を牧したのです。

エゼキエル
34:8 ・・・わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。

良き牧者は、徹頭徹尾、自分を無にして、羊たちの世話だけを考えます。悪い牧者は、自分だけのことしか、考えず、羊たちの世話のために配慮することをしません。まことの牧者は、赦すお方であり、与えるお方です。

イエス様は、まず第一に自分自身について証ししましたね。私は、良き羊飼いである。そして、私は雇い人ではない。私は本物であり、偽物ではない。

二番目の証しとは、私は門です。そして、私は、盗人ではなく、嘘つきではありません。盗人は盗むため、また、殺すためにやってきます。しかし、イエス様は、守るため、力付けるために来られます。

私たちは、当時の羊飼いのことを調べると、次のことが分かります。羊飼いは夜になると、全ての羊をひとつの囲いの中に追いやります。けど、この囲いには門がない。そうすると、『いったい、羊たちは、門のない囲いの中に留まるのでしょうか』という質問が出てくるでしょう。その通りです。それでは、羊にとって危険ではないか。決して、そうではない、けど、門がないのならば、猛獣が来た時に、いったい、どうなるのでしょうか。羊飼いは、微笑みながら答えてくれるでしょう。私こそ、門です。そして、羊飼いは夜になると、その入り口のところに横たわって、寝るのです。ですから、その囲いを出ようとする、どんな羊も、もちろん、出られないし、また、どんな猛獣も、私の上を通らなければならないのです、と。

私は、門であるという言葉でもって、イエス様は、私によって、守りと、保護と、安全が約束されているとおっしゃるのです。イエス様により頼み、イエス様に信頼する者は、今日(こんにち)もなお、守り、保護、そして、安全を経験します。悪い羊飼いや雇い人たちは、自分自身のことだけしか考えません。ですから、羊たちのことは彼らにとって、真剣な問題とはなりません。盗人は盗み、そして、人を殺します。けど、イエス様は、自分自身を全く忘れ、いつでも、羊たちの救いのために、御自身のいのちを投げ出してくださる覚悟でおられます。

ヨハネ
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

なぜ、イエス様は良い牧者なのでしょうか?なぜ、イエス様は、門であるというのでしょうか?答えは、私は羊たちのために、私のいのちを捨てます。彼らの債務と、罪のために私は身代わりとして死にます。私の死は、彼らの罪に対する裁きです。けど、私はただ単に、贖いと赦しのためにだけ死ぬのではなく、彼らに、私のいのちを与えるために死ぬのです。私は、羊たちが、私のいのちを自分のものとすることができるために、私のいのちを捨てるのです。

けど、良き牧者はただ単に、御自身が、罪そのものとされたことをよしとしてくださっただけではなく、よみがえって、再び、御自身のいのちを受けてくださいました。イエス様は、御自身のいのちを与えてくださった良き牧者だっただけではなく、今日(こんにち)もなお、臨在しておられ、私たちのために生きておられ、私たちの一人一人のことを考えていてくださるのです。我々のことを、配慮しておられるのです。

良き牧者の近くで生活することは、必要な糧(かて)を備えていてくださり、病気になった時、看病してくださり、誘惑から守ってくださり、そして、さらに多くの守りと安全を保障してくださいます。イエス様は、父に至る唯一の門であり、天国に至る唯一の道であり、イエス様お一人だけが、罪の赦しと永遠のいのちを提供していてくださるお方です。ヨハネ伝10章9節ですね、『だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。』これこそ、喜びの訪れです。すなわち、福音です。ありのままの状態で、まさに、そのままの状態で、誰でもが、イエス様の御許に行くことを許されています。イエス様は待っておられ、決して、拒むことを、誰一人に対しても、なさらないお方です。

イエス様は、許してくださったり、癒してくださったり、解放してくださったり、本当に、新しくしてくださいます。ローマ書の10章11節、皆、暗記している、すばらしいことばです、『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』イエス様は唯一のよい牧者であり、イエス様だけが決して、失望させません。イエス様は解放されるための唯一の門です。誰一人として、イエス様の御許に行くものは失望させられることはありません。求めているものを間違いなく、見出すのです。

イエス様の御自身についての証しとは、そういうものですね。第一、私は、良き羊飼いである。そして、私は雇い人ではないし、本物です。偽物ではない。二番目の証しとは、今、話したように、私は門です。そして、私は盗人ではなく、嘘つきでもない。

そして、第三番目の証しとは、私は、父の息子である。そして、私は冒涜者(ぼうとくしゃ)ではありませんと、イエス様は言われたのです。ヨハネの福音書の中では、イエス様は生ける神を、八十回以上も、『わが父』と呼んでおられます。『天と地を創造されたお方とは、私の父だよ』と、イエス様は言われました。

ヨハネ
10:17 「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

ここで、イエス様は、『わたしの父』を証ししたのであります。イエス様は、ただ、単に父によって、よみがえらされただけではなくて、イエス様、ご自身の力でもって、よみがえってくださいました。すなわち、父なる神がおできになることは、御子イエス様もまったく、同じように、おできになるのです。イエス様は多くの奇蹟を行いました。けど、いつも、『私は、父の御業を行うのです』と言いました。奇蹟は、私のわざではなく、私が父と結びついて、ひとつになっていることを表すことに他ならないと、イエス様はいつも証ししてくださいました。

ヨハネ
10:30 「わたしと父とは一つです。」

10:38 「しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」

そして、また、イエス様は、『わたしと父とは一つです』ということも言われました。すなわち、永遠から永遠にいたるまで、父とともにおり、力、権威、知恵、愛、恵みの点についても、父なる神と、完全に一致していると、イエス様は仰ったのです。そして、また、イエス様は、ご自身について、私は、よき牧者であり、門であり、父の息子であるという証しをなさいました。イエス様は御自信を現して、啓示してくださったのです。

イエス様が御自信を現してくださるとき、その反応は二つのかたちをとります。すなわち、一方において、31節に書いてあります。多くの人は、石を取り、彼を殺そうとしました。

ヨハネ【参考】
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。

他方において、42節を見るとわかります。多くの人々がイエス様を信じました。

ヨハネ【参考】
10:42 そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。

イエス様のように、次のような言明を行った者は一人もいません。すなわち、イエス様は仰いました。わたしだけ、よき牧者であり、ただ、わたし一人のもとにのみ、本当の満足があります。私だけが門です。私を通らなければ、誰も、父の御許に行くことはできません。また、私だけが、父とひとつになっているものです。私は、とこしえなる神です。イエス様が、その言明によって、真理を語っておられたということを、主の復活が証明しているのではないでしょか。

信じるものの証しとは、次のようなものでしょう。

私は、イエス様がよき牧者であることを知っている。イエス様は私の牧者であり、その主に、私は、信頼し、その主に、私は、心から従いたいのです。それから、私は、イエス様が唯一の門であることを知っている。イエス様お一人だけが、あらゆる問題の解決です。イエス様の御許に来て後悔した人は一人もいません。もうひとつ、私は、イエス様が約束された救い主であることを知っている。イエス様は、とこしえなる神です。と言うのは、主は、私の罪を許してくださり、私に永遠のいのちを与えてくださったからです。

こういうふうに証しすることができるものは、本当にしあわせなのではないでしょうか。


おわり

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