2011年11月22日火曜日

主イエス様の証し[3]

主イエス様の証し[3]
2011年11月22日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。


10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

この間に引き続いて、「イエスの証し」という題名で、一緒に考えてみたいと思います。

イエス様の告白とは、今、読んでもらいました11節ですね。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」良い牧者であるイエス様の捨てられたいのちこそが、考えられないほど愛されている証拠なのではないでしょうか。27節、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」

前にも話したのですけど、ドイツのカールスルーエというところで、ナオ子も何回も行ったんですね。カールスルーエという町は、南ドイツの町で、ある羊を飼っていた人が、朝、目を覚ますと、一匹もいない。五百匹、泥棒されたんです。危ない国だよ、ドイツは。彼は、もちろん、全財産だったよ。全財産をいっぺんに失うのは、ちょっと考えられないことです。もちろん、彼はすぐに警察と連絡をとって、警察だっていろいろなことを調べたんですけど、様子を見てみましょう。一週間後でしょうかね、カールスルーエから、ずいぶん離れているケルンという町で、一万匹の羊があったのです。外国まで行く羊たちだったのですけど、警察は、「何もわからないけど、あなた一度、行ってね。もしかしたら、あなたの五百匹が入っているかもしれない。」行ってから、もちろん、もしそうだったらありがたいけどね。羊は、みな同じ顔をしてるよ。どうしよう。けども、考えて、『よし、今までのように羊を呼びましょう。』それから、向こうで一匹、出て、向こうでは二匹、あっちこっちで出たんですね。後で数えると五百匹でした。ちょっと考えられない。

羊は普通、愚かなものだと言われていますけど、そんなに愚かではないよ。少なくてもね、羊飼いの声を聞くんです。イエス様の言われたとおり。

イエス様は、自分の証しの中で、「わたしは良き羊飼いであり、雇い人ではない。偽者ではない。本物です。」唯一の良い牧者であるという証しをもって、イエス様は結局、自分自身を紹介してくださいました。「わたしは、旧約聖書で約束された救い主です」と。イスラエルの民は、もちろん、みな、旧約聖書をよく知っていたし、解かったんです。すなわち、来るべき救い主は、迷える羊のことを心の底から、自分を無にして、心配してくださる良い牧者そのものであると。

ダビデという王様は、生けるまことの神を体験しました。すなわち、彼は、彼の罪が、徹底的に明らかにされたことによって、しかし、また、それと同時に、彼の債務が赦され、主こそ私の羊飼いですと、喜びの声を上げることができたのです。生ける救いをもたらすお方を、体験的に知るようになりました。『主は私の牧者です。そして、主は私の牧者ですから、私には乏しいことがない。』いったい誰が、このことを本当に信じているのでしょうか。確かに、私たちは困った時、本当に、このみことばを信じることができるのでしょうか。「主は私の牧者です」と語り、そして、証しする者はそれと同時に、何を告白せざるを得ないかと言いますと、「私は助けのない本当に愚かな無力な羊です」ということも言わざるを得ないのではないでしょうか。

自分自身のみじめさをよく知っている者は、良き羊飼いのところに来て、すべてをその羊飼いにゆだねます。渡します。良き牧者は、徹頭徹尾、自分を無にして、羊たちの幸いだけを考えます。悪い牧者は、もちろん、自分だけのことしか考えられない。真(まこと)の牧者である主は、自分のことを考えないで、羊の幸いのために配慮していてくださるのです。真の牧者は、結局、赦すお方であり、与えるお方です。

それから、イエス様は、「わたしは門です。唯一の門です。わたしは結局、盗人ではなく、嘘つきでもない。」盗人は盗むため、また、殺すためにやって来ます。けど、イエス様は、守るため、力づけるため、必要なものを与えるために来たのです。

「わたしは門です」ということばでもって、イエス様は、「わたしによって、守りと保護と安全が約束されている」と、おっしゃるのです。

なぜ、イエス様は良い牧者なのでしょうか。なぜイエス様は門であると言うのでしょうか。答えは、「わたしは、羊たちのために、わたしの命を捨てます。彼らの債務と罪のために、わたしは身代わりとして死にます。わたしの死は、彼らの罪に対する裁きです。けど、わたしはただ単に、贖いと赦しのためにだけ死ぬのではなく、彼らにわたしの命を与えるために死ぬのです。わたしは、羊たちがわたしの命を自分のものとすることができるために、わたしの命を捨てるのです。」

良き牧者の近くで生活する者には、必要な糧を備えていてくださり、病気になった時、看病してくださり、誘惑から守ってくださり、そして、さらに多くの守りと安全を保障してくださいます。主は良い牧者、そのものであられます。イエス様のように、次のような言明を行なった者はいないでしょう。イエス様は言われました、「わたしだけが良き牧者であり、ただ、わたし一人のもとにのみ、本当の満足がある。わたしだけが、門、そのものであり、わたしを通らなければ、誰でも父の御許に行くことができません。わたしだけが、父とひとつになっている者です。わたしは永久(とこしえ)の神です。」

イエス様がその言明によって、真理を語っておられたということを、主の復活を通して、明らかにされたのです。証明されました。そして、今日、イエス様こそ私の救い主であると告白する一人ひとりも、その証明なのではないでしょうか。イエス様の証しとは、御自分についての証しだっただけではなく、イエス様は、御自身の羊たちについても語っておられました。もちろん、イエス様は、まだ、御自身の羊とはなっていない人々についても語っておられますが、けど、救われて羊となっている人々については、次のように三種類の答えを明らかにしておられます。すなわち、第一番目、「彼らは、わたしの声を聞き、その声を知り、そして、その声を聞き分けます」と、言われました。二番目、「わたしの羊たちを、わたしはよく知っており、そして、また、わたしは、彼らによってよく知られています。」三番目、「わたしの羊たちは、わたしに従います。」

ところが、そもそも羊というものは、愚かな動物で、一匹の羊が、川の流れに入ってしまい、溺れてしまいますと、その羊に続いている全体の羊の群れは、同じことを行ない、同じ運命にあいます。羊飼いのいない羊は、失われて、どうすることもできない状態におかれ、守ってくれる者もなく、完全に助けのない存在です。そして、生ける主なる神は、人間のそのようなものである、助けのない羊にたとえておられます。有名なイザヤ書五十三章の六節に次のように書かれています。

イザヤ
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

人間は、自分が何故、生まれたのか、人生の意味は何か、死んだ後、どうなるのかということを知りません。すなわち、人間は愚かな羊と同じような者です。羊はどこまでも羊であり、そして、また、羊に留まるのであって、突然、熊になったり、ライオンになったり、蛇になったりすることはあり得ない。そして、人間もまた、どこまでも人間であり、守りなく、助けのない存在にすぎない。その状態に留まるのです。

確かにある人はね、「失敗は成功のもとだよ」と言っています。別の人は唄いました、「わかっちゃいるけど、止められない。」聖書は、人間の心は陰険で直らないと言っています。もしも、私たちが、ただ自分の力に頼ると、死ぬまで全く、同じくダメな者です。

エレミヤは、もうすでに二千五、六百年前に書いたのです。十七章九節、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」そのような人間が、ひとたび良き牧者と結びつくようになると、迷ったり、空しく探し求めたりすることを止めます。しかし、依然として、羊のように、どうしても、助けと導きを必要としています。イエス様の御手の中で、自分が守られていると言うことを知っています。それでは、いったい誰が、主の羊に属するのでしょうか。答えは、ペテロ第一の手紙、二章に次のように書きしるされています。

第一ペテロ
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

これこそが、救いであります。主の声を聞くことは、どうしても必要です。主の声を聞く者は、慎重になり、立ち返ります。その人は、悔い改め、謙虚になって、イエス様の御許(みもと)に行き、そして、イエス様によって受け入れられます。意味は、信じる者は救われます。ヨハネ伝の五章二四節、次のように、まことの救いを得る道について書き記されています。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

『信じる者は持つ』とありますね。確かに、聞くということは、信じることを意味しています。そして、信じるということは、永遠のいのちを持つことを意味します。イエス様の御声を聞くということは、イエス様の御声を知るということにほかならない。そして、それによって、主御自身を知るようになるのです。

ヨハネ
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。

これこそが大切です。決心するということは、充分ではありません。罪から離れることも、充分ではありません。もっと良くなりたいと思うことも充分ではない。大切なことは、私たちが、主を個人的に知るかどうかということ、そして、私たちが主の御声を聞いたかどうかということです。主の御声を聞くことは、実践的な意味を持っています。すなわち、主のみことばを、真剣に受けとめ、自分のものにすることを意味しているのであります。

イエス様は、しばしば、「あなたの罪は赦された」と言われました。今日、悔い改めて、イエス様の御許に来て、恵みを切に求める者は、「わたしの罪は赦されている」というみことばを信じることができます。理解できなくても、何も感じられなくても。罪人として、結局、どうしようもない者として、イエス様の御許に来る者は、罪を赦されるというこのことは、否定することのできない事実です。それですから、どうか、あなたの債務を、すべてイエス様に打ち明け、イエス様が赦してくださったということを幼子(おさなご)のように信じてください。

次に、イエス様は、ご自身の羊たちについて、また、言われました。

ヨハネ
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

わたしは彼らを知っています。わたしのものは、わたしを知っています。イエス様が、私たちを知っておられるということは、大きな慰めなのではないでしょうか。イエス様は、あなたのさまざまな戦いを知っています。いろいろな失望をご存知です。あらゆる問題を知っておられます。けど、イエス様は、ただ単に、我々を知っておられるだけではなく、そしてまた、ただ単に、すべてのことをご存知であられるだけではありません。イエス様は、我々一人ひとりのために、全く個人的にご臨在しておられる、良い牧者です。

マタイ伝の七章、非常に、聖書の中で最も厳しいことばのひとつではないかな。

マタイ
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

今の箇所には、イエス様の恐ろしい判断が記されています。すなわち、「わたしは、あなたがたを決して知らない」と、イエス様は言っておられます。そして、私たちは、知ることができます。すなわち、人は、イエス様の名によって、預言をすることができ、悪霊を追い出すことができ、奇跡を行なうことができますけど、これらのことは、イエス様と結びついていなくてもできることです。これらの人々に対するイエス様の判断は、「わたしは、あなたがたを全然知らない。わたしから離れよ。不法を行なう者」と、いうものです。

自分の力によったり、悪霊の力と結びついて行なう場合には、奇蹟を行なうということでさえも、不法を行なうことになり得るのです。救われていることの特徴は、主の御心を行なうことです。二十一節ですね。

マタイ
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

イエス様は、こう、はっきり言われました。「わたしは、わたしのものによって知られています。彼らは、わたしを知っている。」このことこそ、大切なのではないでしょうか。イエス様は、彼らが、キリスト教の教えを知っているとは言わないで、「彼らは、わたしを知っている」と言っておられます。

イエス様が良き牧者であるということを、知っているだけでは充分ではない。イエス様は「わたしの牧者である」と誰もが、堅く信じて疑わないというようにならなければいけないのです。イエス様は、私の牧者であるから、私には乏しいことがない。というのは、主が私を伴われ、主は私を導かれ、主は私を力づけ、主イエス様は、私と共におられます。

それから、イエス様は、主の羊たちについて、第三のこと、すなわち、「彼らは、わたしに従います」と言われたのです。

御自身の羊たちについて、考えてきました。これこそ大切です。イエス様の証しとは、いったいどういうものであったかと言いますと、もう一回まとめましょうか。『わたしは、雇い人ではない。唯一の良き牧者である。』二番目、『わたしは、盗人ではなく、門であり、わたしのもとには安全がある。わたしは、天国に至る唯一の門です。』それから、『わたしは、冒涜者ではなく、父の永遠の息子である』と、イエス様は言われたのです。

おわり

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