2011年11月1日火曜日

主にある姉妹の証し[1]

主にある姉妹の証し[1]
2011年11月1日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第1コリント
11:1 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。
11:2 さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。
11:3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
11:4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。
11:5 しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。
11:6 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。
11:7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。

11:8 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、
11:9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
11:10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。
11:11 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。
11:12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
11:13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
11:14 自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、
11:15 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。
11:16 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。

主イエス様に奉仕する者として、奉仕しているうちに、いろいろな悲しい経験をさせられるものです。自分がこれは主の御心であると確信し、ぜひ一度、話さなければならないと思っていることがあるけど、自分が話そうと思っていることを、聞く者が聞きたくない、また、理解できないといったことがある。そのような時、非常に、悲しい思いをしなければなりません。けど、主に仕える者にとっては、目に見える結果が大切なのではない。主の命令に従順であることこそが大切なのではないでしょうか。主の命令に従順であるということは、時には、誤解され、一人ぼっちになることを意味します。けど、どんな立場に置かされても、主にだけ従順であることは、聖所への唯一の道であり、また、主に喜ばれる唯一の道であることも信じています。

今日は、このコリントへの第一の手紙の11章、2節から6節まで今、読んでもらいましたけれども、題名は、「主にある姉妹の証し」であります。きっかけになったのは、ある姉妹はおもしろくない環境で、どうしましょうか?神道の葬儀だったのですけれども、非常に迷ったらしいし、けど、かぶりものをして守られている、勇気が出てきた、葬儀の途中で大きな声で祈ることができ、賛美することができ、周りの人々の救いのために祈るようになった。

だから、このような今日の読んでもらいました箇所について、メッセージを聞いたことがない、多くの人々はしばしば、この箇所を誤った解釈を施しているように思われます。パウロがこの11章3節に、「あなたがたに知ってもらいたい」と言っているのです。知るべき知識を持っていなければ、イスラエルの民と同じ結果になるかもしれない。次のように書かれています。

ホセア【口語訳】
4:6 わたしの民は知識がないために滅ぼされる。あなたは知識を捨てたゆえに、わたしもあなたを捨てて、わたしの祭司としない。あなたはあなたの神の律法を忘れたゆえに、わたしもまたあなたの子らを忘れる。

このようにホセア書6章4節に書いてあります。神の知識に富む者となりたいものなのではないでしょうか。

パウロはこの11章で、姉妹たちが祈ったり、預言したりする時、どのような態度をとり、どのような服装をすべきか教えています。すなわち、「姉妹は、女らしくしていなさい、兄弟と同じ権威を持っているとは思うな」と、パウロは教えています。

当時のコリントの兄弟姉妹たちの間では、非常に風紀が乱れ、男女の区別がつかなくなるといった危険にさらされていました。主にある姉妹は、あくまで、主から与えられた男女の区別をはっきりさせなければならない。もし、そうしなければ、娼婦(しょうふ)と同じように見られてしまうと、パウロは、まず、警告しています。ここで二つのみことばを読みましょうか。

ガラテヤ
3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

区別なし、ひとつ。

エペソ
5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

このふたつのみことばを読むと、主にあっては、男女の間は区別はなく、平等であることが、もちろん、解かります。けど、そればかりでなく、同時に、妻は夫を、すなわち、女性は男性を敬いなさいという意味が含まれています。男女は主によって平等であるが、自然の秩序は、男子に女子が従属するものだと言っているわけです。けれども、これは男は偉くて、女は低いといった区別ではありません。これを間違って取ったら、本当に困ります。父なる神とイエス様はひとつです。けれども、イエス様は違うところで、「父はわたしよりも上なるお方である」と、言われました。

ヨハネ
10:30 わたしと父とは一つです。

14:28 『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

イエス様はこう言われました。父なる神と主イエス様は、本質的には、等しいお方ですけど、イエス様は、子として父なる神に従う立場を取られました。

男子と女子の場合も同じです。男子と女子は主にあって、何の差別もなく、平等ですけど、女子のかしらは男子であり、女子は女子として、男子に従属する立場をとりなさいと、パウロは、パウロだけではなくて、御霊がパウロを通して、言っているのです。その現れとして、姉妹は髪の毛を長くし、被り物を被りなさいというわけです。パウロはその当時の習慣がそうだから、そうしなさいと言ったばかりでなく、その裏に隠れている霊的な真理に眼を留め、証しのためにそうしなさいと薦めているのです。

もちろん、短い髪の毛をしている人で、本当に霊的に深い恵まれた姉妹方もたくさんいます。これに反し、長い髪の毛をしている女の方で真(まこと)の救いを持たず、偽善者の生活をしている人々もたくさんいるでしょう。ですから、信者になるには、長い髪の毛をしていなければならないなどということは、もちろんありません。パウロはここで、長い髪の毛をし、被り物をしなさいと、はっきり言っていますが、この言葉と真正面から取り組まず、この言葉を避けて通るためにいろいろな解釈を施しています。

まずひとつ、神の言葉は、そのまま解釈する必要はないという考え方です。パウロはこのように書いたのですけれども、神の御心は違うところにあると、思う人はいっぱいいます。主なる神は、我々一人ひとりに、解かるようにお話になります。みことばにそう書いてあったら、主はそうさせたく思っておられる。それに加えて、主は、我々がみことばに従順に従うように、願っておられます。そして、私たちの従順は、いけにえや奉仕に勝るものと主は思っておられます。主は、私たちの成した奉仕に従って我々に報いられず、みことばに私たちが従順に従うかどうかによって報いられます。大切なのは、みことばに対する態度であります。

パウロは、神のことばを曲げないと、コリントにいる兄弟姉妹に送っています。

第2コリント
4:2 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。

みことばを曲げて解釈するということは、『この問題はコリント人だけに向けて書かれている、神のことばは、そのまま受け取る必要はない、これは、表面的、また、掟(おきて)的に解釈されるべきではない、もっと、霊的に解釈すべきだ、心の持ち方が大切であり、髪の毛の長さや、何か外に現れることは、あまり大切ではない。』このような態度は、みことばを曲げることです。

もし、このようにみことばを曲げて解釈し、そのように人々を導いて行くなら、メクラがメクラを導くといった結果になり、それに応じて、主に裁かれてしまうと思います。みことばを曲げていこうとする人には、子供らしい従順がありません。何とかして逃れ道を見いだして、そのみことばを避けようとします。もし、主のみことばを避けて、逆らうなら、みことばから出る力を、自分のものとすることができないし、力のない生活を送らなければならない結果になるでしょう。

聖書には末の世になると、いろいろな間違った教えが入ってくると、警戒しています。みことばをそのまま解釈しないような間違った教えは信じないようにしましょう。コリントへの第一の手紙の11章は、パウロによって書かれたばかりでなく、御霊によって書かれたことは、言うまでもありません。御霊が語ることは、時間と場所の制約がありません。ある人が、神の御旨に反し、離婚した時、みことばに従わず、逃れ道を見つけるために、『この箇所は、パウロが書いたのであって、神の教えではない。私は、信じる者として御霊を内に宿している。私は、みことばも何もいらない。内に住みたもう御霊に従って行くだけだ』と言って、ついに神のみことばを無視して、離婚してしまった人がいます。その人が内に宿しているのは、聖い神の霊ではなく、みことばに従う事のできない悪の霊だったことを思います。これは実に恐ろしいことです。

パウロの言葉に疑問を持ち、この11章をそのまま受け取らない理由として、『これはね、今の時代には、あてはまらない。その当時と、今とは違う』という人がいます。もし、髪の毛を長くし、被り物を被るのが、時間が経つといつか消えてしまう流行であるならば、御霊は決して、「このようにしなさい」と、言われなかったでしょう。御霊は、つまらない表面的なことに関しては、永遠に変わることのない規則を作ったりいたしません。当時の習慣として、集会の時、特別に、祈りの時、靴を脱ぐ習慣がありましたが、けど、御霊は、このコリント第1の手紙11章では、そのことに少しも触れていません。ただ、被り物について語っています。

主なる神は、ある時代にだけ、あてはまることだけを聖書に述べておられません。時代が変わり、環境が変わったら、みことばも変わるなどということはあり得ません。その当時と今の時代の教会の霊性を比べますと、今の時代は、当時のコリントの教会と同じく、暗い、霊的に低いか、または、それ以下の状態ですから、この神のみことばは、今の時代にも当てはまります。私たちは今日(こんにち)、どんな時に生きているのでしょうか。もちろん、今は末の世であり、堕落の世です。黙示録は末の世は、淫らな大淫婦の時代と言っているのです。多分、黙示録の淫婦も短い髪の毛を持っていたことでしょう。

今の時代の女の人々は、映画女優の服装や、髪の毛の形を理想にして、それを真似ます。私たちは、末の世に生きています。まもなく、偽キリストが起こってくるでしょう。悪魔はだんだん、その力を及ぼしてきます。終戦後、法律で男女平が唱えられました。婦人たちは、だんだん指導的立場を獲得し、男の上に立つようになったのです。これは、やはり、末の世のしるしと言わざるを得ないのです。上から出たものではなく、下から出てきたと思います。婦人が、男の立場をとり、男の立場に出て来る、これを人々は、「進歩だ、発展だ」と、言いますけど、神の目からは、正しくないものに見えます。

今が末の世であるというしるしは、大きな世界情勢に見られるばかりでなく、我々の身の回りにおける小さな出来事の中にも、それが見られるのではないでしょうか。小さな出来事は、決して小さなこととして、見過ごしにできないと思います。

戦前は、そうではなかったのですけれども、終戦後、ドイツでは、急に髪を切って、パーマネントをかける人が増えてきました。従ってパーマネント屋ができてきたわけですけれども、美容院の人々は、もし、これが一時的な流行にすぎず、すたれてしまうなら、店を開いても何もならないと考え、相談したところ、これは、一時的な現象ではなく、今までの時代の流れを振り返ってみると、パーマは決して、すたれないという結論に達したということです。確かに、パーマはすたれないでしょう。けど、これは、末の世に起こる一つのしるしであります。

多くの人は、「どんな髪の毛をしてもかまわない。神様は、そのようなことは気にも留めない」と、考えています。私たちも、そう思うのでしょうか。私たちに大切なのは何でしょうか。神のみことばでしょうか。この世の流行でしょうか。または、自分の考えでしょうか。とにかく、大切なのはそれが上からのものか、または、下からのものかを、見極めることです。聖書の箇所をいくつか挙げて、主は髪の毛について、何を語っておられるのか見てみましょうか。

第1コリント(口語訳)
11:15 女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。る。

11:6 髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。

第1ペテロ(口語訳)
3:3 あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく・・・、

マタイ(口語訳)
10:30 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。

ルカ伝の中で、「しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはない」(ルカ21:18)と、このように書いてありますが、神の与えたもうたものを、自らの思いで切り、その美しさを損なってよいものなのでしょうか。

第1テモテ(口語訳)
2:9 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。

ルカ(口語訳)
7:38 泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。

長い髪は女の光栄です。罪の女は、長い髪で、イエス様の足をぬぐいました。罪の女には長い髪の他に一つの光栄も持っていなかったのです。罪の女は、このただ一つの光栄を主にささげました。そして、主は、これを非常にお喜びになりました。もし、罪の女が、短い髪をしていたらば、ひとつの光栄も身につけていなかったでしょう。主の足元をもちろん、拭くこともできなかったでしょう。

御霊は、第1コリント11章14節で、自然そのものが教えているのではないかと、私たちに語りかけておられます。自然は、主なる神によって創られたものです。聖書は、自然に逆らうことをたしません。かえって、自然に目を留め、それを、清いものにしていきます。しかし、今日のいろいろな流行を見ると、主なる神によって創られた自然を壊していってしまっています。これは、どの霊の影響でしょう。自然は、長い髪は女の光栄であると教えています。長い髪を持っていないなら、それは、悲しむべきことであり、恥ずべきことであると教えています。

旧約聖書において、髪の毛を切るということは、何を意味していたかと言いますと、それは、悲しみと恥、また、裁きを意味していたのであります。二、三の聖句を、ちょっと読みます。

イザヤ
3:16 主は仰せられた。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」それゆえ、
3:17 主はシオンの娘たちの頭の頂をかさぶただらけにし、主はその額をむき出しにされる。

3:24 こうして、良いかおりは腐ったにおいとなり、帯は荒なわ、結い上げた髪ははげ頭、晴れ着は荒布の腰巻きとなる。その美しさは焼け傷となる。

似ている箇所は、いっぱいあります。7章20節、15章2節、22章12節、全部、同じようなことばが出てきます。

イザヤ【参考】
7:20 その日、主はユーフラテス川の向こうで雇ったかみそり、すなわち、アッシリヤの王を使って、頭と足の毛をそり、ひげまでもそり落とす。

15:2 モアブは宮に、ディボンは高き所に、泣くために上る。ネボとメデバのことで、モアブは泣きわめく。頭をみなそり落とし、ひげもみな切り取って。

22:12 その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ。」と呼びかけられたのに、

我々が問題にしているコリント第一の手紙の11章の主なメッセージは、信者は、御霊のご支配のもとでは、男は男らしくなり、女は女らしく。けど、下からの霊の支配の下では、男が女らしくなり、女が男らしくなる。女は、男のように髪の毛を切り、被り物をかぶらず、祈るようになるということです。14節の自然そのものが、教えているのではないかと書かれています。

第1コリント【参考】
11:14 自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、

黒人の婦人は、生まれながらにして、ちじれ毛であまり髪が伸びません。もし、この黒人の夫人たちに、他の国の婦人のような長い艶やかな長い髪の毛をあげると言ったならば、黒人の夫人は、すべてをささげても、長い髪の毛を欲しいのではないでしょうか。黒人の女たちは、どうして短い髪しか持っていないのでしょうか。呪われたしるしである。今日は暇がないけれども、創世記9章20節から25節までを読むと書かれています。

創世記【参考】
9:20 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。
9:21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
9:22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
9:23 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。
9:24 ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、
9:25 言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」
9:26 また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。

当時のハムという男は、父の裸を見て、喜んだんです。その罰として、恥を覆う髪の毛が、ハムの子孫の黒人に無くなったとあります。

コリント第一の手紙へ戻りまして、『女に長い髪があれば、彼女の光栄になるのである。長い髪は、光栄のかわりに女にあたえられているのであるからである』とあります。けれども、今日の人々の多くは、信者でさえも、わざわざお金をかけて、黒人の女の人の真似をしているのではないでしょうか。

辱めを受けて、裸で、十字架に架かってくださったイエス様を思う時、恥のしるしである短い髪の毛を、あえてすることができるでしょうか。主は、決して、それを喜ばないでしょう。もし、イエス様が今日(こんにち)の信じる者をご覧になれば、悲しまれるのではないでしょうか。イザヤ書の53章3節に、『十字架につけられるようになる。』イエス様に対する、預言のことばでしょうね。

イザヤ
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

髪を切るのは、当時のコリントの習慣であり、時代が問題で、今日(こんにち)の時代には当てはまらないとするのは、悪魔の策略です。パウロは、御霊により、もし、人のためにやらないなら、天使のためにやってください。人のためにではなくて、天使のためにやりなさいと、あります。私たちはいつも天使に囲まれています。

ヘブル書1章14節には、『御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたもので』(口語訳)あると、書かれています。ペテロは、天使によって、奇跡的に救いにあずかったことが、聖書にあります。よく知られている使徒行伝の中で、この奇跡について、書きしるされています。

使徒行伝
12:7 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。

ペテロだけではなく、パウロも経験したのであります。パウロもよく、御使いについてしるしています。

使徒行伝
27:23 昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、
27:24 こう言いました。『恐れてはいけません。』

このパウロは、天使と悪霊を身近に感じて、生活していました。パウロは言っています、『信者であるあなたがたが、悪魔の仲間になることを望まない。』悪魔の杯を飲むことはできない。第1コリント10章20節から22節を読むとわかります。

第1コリント【参考】
10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
10:21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
10:22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。

結局、我々の戦いは、血肉、すなわち、人間に対する戦いではなく、天上にいる悪の霊に対する戦いであるとパウロは、エペソ書6章12節に書いたのであります。

エペソ【参考】
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

パウロは、信者でも注意を怠るなら、悪霊の仲間になることができるのだと、忠告しています。けど、パウロは、なぜ、髪の毛を長くし、被り物をかぶるのは、天使のためにそうしていると、言っているのでしょうか。おそらく、それは、信じる者は将来、御使いたちを裁く者であるからです。

第1コリント【参考】
6:3 私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。

信じる者は将来、御使いたちの裁き主になるとあります。また、エペソ書3章10節も、それをよく書かれています。

エペソ【参考】
3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、

悪魔は、末の世に、いよいよ、光の御使いを装い合い、信じる者の目をくらまそうとしてやって来ます。私たちも、当時のコリント人たちと同じように、天使と悪魔に取り囲まれているはずですが、このコリント前書、11章のみことばは、我々にもあてはまるはずです。けれども、ヨハネは書いたのです、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめる」と。このみことばは、当時の時代だけに通用するという人は、どこにいるのでしょうか。もちろん、いないはずです。または、人によって、解釈することが赦されるのでしょうか。イエス様は、言われました、「天地は滅びるであろう。しかし、わたしのことばは滅びることはない。」

もうすでに、申命記の中で書かれています、「わたしが、あなたがたに命じることばに付け加えてはならない。また、減らしてはならない」と、申命記の12章32節に書いてあります。

申命記【参考】
12:32 あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行なわなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。

また、聖書の最後の黙示録22章18節にも、同じことが書いてあります。

黙示録
22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

ヘブル(口語訳)
12:25 あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。

イエス様が、地上で語られたことは、福音書に記されています。けれども、その後、書簡に記されていることは、天から啓示されて、与えられたことばです。この天から啓示されたみことばで、今日(こんにち)の私たちに当てはまらないみことばがあるのでしょうか。

パウロはまた、第1コリント14章37、38節で、今まで説いてきたことばは、自分から出たものではなく、神の命令だと言っています。

第1コリント(口語訳)
14:37 もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。
14:38 もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。


おわり

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