2011年4月26日火曜日

まことの礼拝とは

まことの礼拝とは
2011年4月26日、火曜学び会 
ゴットホルド・ベック

マタイ
14:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

第2歴代誌
33:10 主はマナセとその民に語られたが、彼らは聞こうともしなかった。
33:11 そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。
33:12 しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、
33:13 神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。


今日の話のテーマは、「真の礼拝とは、いったい何なのでしょうか。」主なる神を、イエス様を通して知り、イエス様の前にひれ伏し、また、『自分の理解しがたい悩みは、主のせいだ、主の道である』と認めた人は、礼拝に導かれます。イエス様は、霊とまことをもって礼拝する真の礼拝者をたずね求めておられます。最も大切なのは、結局、主の前にひれ伏して、礼拝することなのではないでしょうか。我々の全生涯そのものは、主に対する真の礼拝そのものであるべきです。

私たちは、日曜日の朝、いったいどういう気持ちで集会に集うのでしょうか。「もっともっと愛するイエス様を知りたい」という切なる願いを持って集まるのでしょうか。イエス様の弟子たちは、主を礼拝するようになったと聖書は言っています。今、読んでもらいましたマタイ伝14章26節ですね。

マタイ
14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

イエス様の弟子たちは、嵐の真っ最中、海の真ん中に出て行き、荒れ狂う波を行かんともすることができないでいました。そこへもって、変な姿が現れましたから、弟子たちは、なおさら、恐れおののきました。彼らは、確信して、幽霊だと思ったんです。けど、幽霊ではなく、イエス様でした。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエス様は、ご自身を啓示してくださったから、弟子たちは主を知るようになったのです。イエス様を知ることこそ、主に対する礼拝のもとです。

マタイ
14:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んだ。

『拝んだ』、結局、『礼拝した』とあります。そして今、読んできてもらいました、歴代誌下の中で、マナセという王様について書かれています。もう一回、12節だけ読みます。

第2歴代誌
33:12 しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだった。

大いにへりくだることなしに、心から主を礼拝することはできないのではないでしょうか。このマナセは、いったい、いかにして、主を知るようになったのでしょうか。いろいろな苦しみを通してです。彼は、敵によって、鉤で捕えられ、青銅の足かせにつながれて、バビロンへ、敵の国へ引いていかれました。この悩みを通して、理解しがたい導きを通して、彼の心の眼が開かれました。そして、マナセは、主こそ神であると、体験的に知るようになったのです。これを知るようになった人は、もちろん、主を拝まざるを得ないのであります。

私たちは、いったいどういうふうに、真の礼拝者となることができるのでしょうか。主なる神が、私たちの天のお父様であり、また私たちは、この偉大なる主の子供であるという知識を持つことで充分です。私たちは、主をすべてを支配しておられるお方として、知る必要があります。主を知ること、自分は徹頭徹尾、主のものである、自分の持っているものすべては、主のものであるということを意味しているのです。

主を単なる助け手として、救い主としてだけではなく、主として知ることだけが、霊と真をもって、礼拝することができるのです。イエス様の弟子たちが、波の上で主の声を聞いた時、すなわち、イエス様が自分自身を明らかにして、啓示してくださった時、彼らは、「それは主である」と、知るようになり、主を拝むようになりました。結局、前の悩みとは、礼拝に変えられました。

このマナセという王様は、それが主の道であると知った時、それが主であることを知りました。主を知り、主の前にひれ伏し、また、自分の理解しがたい悩みは、主のせいである、主の道であると認めた人は、真の礼拝に導かれます。

今日、なお、主は、我々の真ん中に御臨在しておられ、霊と真をもって礼拝する真の礼拝者をたずね求めておられます。真の礼拝者について考えると、おそらく、誰でもヨハネ伝4章を考えるのではないかと思います。

ヨハネ
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

けど、礼拝とは何でしょうかね。ふたつのことが言えます。第1番目、真の礼拝とは、主の道、また、主の導きに全く心からなる賛意を表することです。2番目、すべてのことを主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己(おのれ)を委ねることです。

主のなさること、主の導きは、もちろん、主の道です。主は、ご自身のなさること、また、ご自身の導き、経験によって、私たちが主に眼を開く、その結果は、私たちが自発的に心から、主を礼拝せざるを得なくなるように、主は働いておられます。主を心から礼拝を捧げ得る人のみ、主の導きを歩みゆくことができるのです。

主の道を知り、主の道を喜ぶ、これが一番、大切な私たちの課題です。そうなったら、私たちは、なぜ、どうしてと主に言うことができなくなります。どうしてでしょう。なぜかという人は、主を見上げない人であり、従って、真の礼拝を成すことができない。主の道を歩みえない人です。

エジプトの国からイスラエルの民を導き出した指導者である、モーセについて考えましょうか。

出エジプト記
34:5 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。
34:6 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、
34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
34:8 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、
34:9 お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」

「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者」と、書いてありますが、モーセは、この恵みのことばを聞いた時、エホバなる主を礼拝せずにはおられませんでした。けど、この恵みのことばと共に、モーセは、7節の後半のごとく、「主は罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に」という厳しいことばを聞いた時、モーセは主の前にまず、己の罪を赦してくださいと謝る前に、主を礼拝いたしました。モーセは急いで、地にひざまずき、伏し拝んだ、とあります。主の恵みのことばを聴いた時、主を礼拝することは、もちろん簡単でしょう。けど、厳しいみことばの前にあっても、主を礼拝するということは、きわめて難しいことです。自分の力では、絶対にできません。礼拝とは、何でしょう。主の導きに、全く心からなる賛意を表することです。

そしてもうひとつ、真の礼拝とは、すべてのことを主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己を委ねることです。私たちは、しばしば、「主よ、御心をこのように変えてください。この環境を変えてください」と、祈り、叫び求めるのではないでしょうか。祈りは、結局、我々の願いの言い表しです。それは別に悪くない。けど、礼拝は、己のすべてを何もかも、主にお委ねすることです。

十字架につけられる前に、イエス様は、ゲッセマネの園で祈りました。

マタイ
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

イエス様の祈りは、自分の願いの言い表しではなく、本当の礼拝でした。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」真の礼拝とは、そういうものです。

モーセに続いて、イスラエルの歴史の最もすぐれた人とは、言うまでもなく、ダビデという王様でした。どうして彼は、御心にかなう人だったのでしょうか。完全だったからではない。主を礼拝した男だったから。

第2サムエル
12:13 ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
12:14 しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」

あなたは死ななくてもすむけど、あなたの子は必ず死ぬ。

12:15 こうしてナタンは自分の家へ戻った。主は(・・・主のせいです・・・)、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。
12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。
12:17 彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。
12:18 七日目に子どもは死んだが、ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。「王はあの子が生きている時、われわれが話しても、言うことを聞かなかった。どうしてあの子が死んだことを王に言えようか。王は何か悪い事をされるかもしれない(・・・自殺するかもしれない・・・)。」と彼らが思ったからである。
12:19 しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」
12:20 するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。

子供が死んだことがわかった時、彼は礼拝したとあります。聖書は、ダビデについて、彼は神の御心にかなう者だと言っています。どうしてでしょうかね。ダビデは、主を拝む真の礼拝者だったから。ダビデが歌った歌である詩篇を読むと、ダビデは最も深いどん底の苦しみにあっても、また、非常な絶望に陥っている時も、逃れ道が見えなくて、前途が真っ暗な時も、ひたすらに、主を礼拝する礼拝者だったとわかります。

主なる神の道、また、導きは、いつも、我々の願いと同じとはかぎりません。ダビデの場合がそうだったでしょう。この主なる神の御心にかなう人ダビデに、「あなたに生まれる子は必ず死ぬ」という、恐るべきことばが臨みました。ダビデは、自分の子を愛し、主に請い求め、断食し、地に伏して、ひたすらに祈り求めましたけど、その子は死んだと、聖書は言っています。多くの人は、かかる立場に置かれる時、どうして、なぜと言うでしょう。けど、ダビデは主の宮に入り、礼拝したとあります。

礼拝とは、真の礼拝とは何でしょうか。主の導きに、全く心からなる賛意を表することであり、全てのことを主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己を委ねることです。

最後にもう一人の教師、すなわち、ヨブについて、ちょっと考えたいと思います。

ヨブ
1:13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
1:14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
1:15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。
1:19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」
1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

彼は、必ず、「どうして主は許すの。どうして私はこの不幸を経験しなくではいけないの」と、思ったに違いないけど、考えても意味はない。大切なのは、礼拝することです。ヨブがそれまで持っていた財産の全部が取り去られ、愛する10人の子供も全部、死にました。多くの人が、あの神に仕える人が、どうして、こんな苦しみに会うのだろうと、いぶかしく思ったに違いない。けど、ヨブはどうでしょう。

ヨブは、礼拝したと書いてあります。「主の御名はほむべきかな」と、彼は告白しました。私たちは、主の道に従うことを学ばなければいけません。これはただ、礼拝によってのみ、でき得ることです。何千年も前に、ヨブは次のように証しました。「私は知っている。私を贖う方は生きておられます。」

このヨブは、短期間の内に、彼の全財産、富も宝も、また、子供たちも自分の健康も失ってしまいました。けど、ヨブは不平や不満を言わず、主なる神の完全な愛をも疑いませんでした。たとえ彼が、神の導きを理解することができなかったとしても、彼は、主なる神を次の言葉でもって礼拝したのです。「私の創り主なる神は、夜には褒め歌を与える。主が与え、主が取られたのだ。主の御名は褒むべきかな。私は知っている。私を贖う方は、生きておられる」と。

ダビデは、確かに罪を犯してしまったんですけど、ヨブは、主の前に全き人だったと、聖書は言っています。それにもかかわらず、2人とも、己をすべて主の御心に委ねたのではないでしょうか。「なぜでしょう、どうしてでしょうか」と、尋ねられても、答えることができません。なぜか、全然、理解できなくても、ただただ、心から、主を褒め称え、礼拝することこそが大切です。『主よ。あなたは常に完全なるお方です。全きことをなされます。あなたの導きも完全です。理解することができませんけど、あなたを心から崇めます』という態度をとることができれば、本当に幸いです。

礼拝とは、すべてのことを主の御心のままに、お委ねすることです。主の道に己を委ねることであります。

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