2011年5月10日火曜日

イエス様の支配は満たされる秘訣

イエス様の支配は満たされる秘訣
2011年5月10日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ピリピ
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

今、読んできてくださった箇所の中でも、「主イエスは主である」と、あります。今朝の学びの題名、テーマは、「イエス様の支配に満たされる秘訣」です。イエス様ご自身が何を言われたかと言いますと、「わたしは主です。」


【参考】ルカ
6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」

パウロも、全く同じことを言ったのです。イエス様のことについて、「この方とは唯一の主です」と言ったのです。

第一コリント
8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。

イエス様とは、唯一の主であります。もちろん、イエス様だけではなく、パウロも、そして、ペテロも、同じことを言ったのです。

使徒行伝
10:36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

新約聖書の中で、『イエス様こそが唯一の救い主、そのものである』と、何回、書かれているか、ご存知かな?二十六回。「イエス様は、救いを与える贖い主である。」二十六回。けど、『イエス様とは主である』ことについては、二十六回ではなくて、六百七十回、書かれてます。イエス様は、単なる助けておられるお方だけではなくて、主の主であられます。それを、いつか分かるようになれば、やはり、礼拝せざるを得なくなる。永遠に渡って。

今の聖書の箇所を見ると、どうしてもイエス様は、すべての者の主であられることを、認めないわけにはいきません。イエス様のご支配こそが、もっとも大切です。「イエス様は、すべての者の主であられる。」これは、初代教会の兄弟姉妹が、述べ伝えたことがらであり、初代教会の真ん中に、このイエス様は中心となり、このイエス様はすべての者の主であるという精神は、強く貫き通されたのです。初代教会の信者たちは、上からのいのちに満たされていました。また、集会を持つたびに、会衆はあふれ、また、そこでなされる信者の証は、泉があふれいずるのごとく、豊かで、力に満ちていたのです。めいめいの信者、一人ひとり、また、集会全体の内にイエス様の満たし、イエス様のいのちを見ることができた。この秘密は、すべての者の主なるイエス様です。すなわち、イエス様の絶対的なご支配です。

今日は簡単に三つの点にわけて、ちょっと一緒に考えたいと思います。第一番目、今日の悩み。第二番目、解決する方法。そして、第三番目、主の御心。この三つに分けて、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。

今日の世界中の教会における大きな悩みは、少なくても、迫害されていない信じる者の悩みは、このイエス様の満たしに欠けていることではないでしょうか。この満たしの欠乏を素直に認め、「私は富んでいる。私は豊かである」ということを、やめなければいけないと思います。イエス様は、黙示録の中で言いました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」とおっしゃっておられます。私たちの考えるところと異なり、主イエス様の仰せになることは全く真実です。

現状はどうでしょうか。多くの人々は救われ、兄弟姉妹の群れに加えられますけど、ちょっとしたつまずきで、それまで前へ進んでいたのが、止まってしまい、前進することができなくなり、満たしに至らない状態なのではないでしょうか。

それらの兄弟姉妹の霊的生活は、主の満たしに至っていません。これらの兄弟姉妹は、初めに経験した救いについて語りますけど、それから続いて与えられる霊的な祝福、新しい恵みについて、語ることをいたしません。前進が止まってしまっている場合を多く見うけます。これらの兄弟姉妹は、主のあわれみによって、ドロップすることはしませんけど、前へ進むこともできなくなっている。これは、大きな悲劇なのではないでしょうか。

二番目、この悩みを解決する方法は、いったい何でしょうか。

イエス様は、どうして初代教会の兄弟姉妹をあんなに、ご自身のかたちに創り変えることができたのでしょうか。どうして、初代教会の兄弟姉妹は、あんなに霊的に、内面的に進歩したのでしょうか。なぜ、初代教会は、あんなに早く成長し、日々、信者が加えられたのでしょうか。また、いったいどうして、最初の日に、五旬節の時、三千人も加えられ、それから、しばらくして、今度は、五千人もの男が加えられたとあります。どうしてでしょう。

また、どうして短い間に、あの広い世界に福音が述べ伝えられて行ったのでしょうか。どうして、初代教会は、霊的な光といのちが満ち溢れていたのでしょうか。なぜでしょうか。

その答えは、先ほどのみことばである、すなわち、「すべての者の主なるイエス、」このことばの中にあるのです。初代教会の兄弟姉妹は、イエス様を単なる助け手として、救い主としてではなくて、主として述べ伝えました。イエス様のご支配を、自分たちのメッセージとして、述べ伝えました。ことばだけではなくして、実際生活において、彼らは、イエス様は『すべての者の主』であることを証していきました。イエス様のご支配こそ、満たしの秘密です。

けれども、満たしとは、いったい何でしょうか?聖書に使われている満たしとは、完全な満足、そして、絶えない湧きいずる喜び、また、限りない主にある平安を意味しています。もし、イエス様が、我々の実際生活の主とならなければ、このような幸いなる満たされた生活に入ることはできません。

こう言いますと、「それはもちろんそうだ。イエス様はすべての者の主である」と、言われるかもしれない。信じる者はみな主のご支配を信じています。けど、多くの場合、信じる者にとって、イエス様は、すべての者の主であるということがらは、抽象的な事実にすぎない場合が多いのではないでしょうか。

新生した、新しく生まれ変わった兄弟姉妹の多くは、イエス様のご支配を、頭の中で信じていますが、中には、少数の信者は、実際に、具体的に、イエス様は支配したもう主であることを知り、かつ、実践します。イエス様は、多くの信じる者の内で、主となっていない。これが多くの悩みの原因なのではないでしょうか。また、あらゆる欠乏の原因でもあります。もし、イエス様が我々の心の内を全く支配しておられたら、私たちを支配する他のものは何一つなくなるはずです。

私たちは、ありとあらゆる偶像から、全く縁を切っているのでしょうか。大きな偶像のひとつは、私たちの意志であり、自分の思いです。私たちの心の王座には、誰が座って、支配しているのでしょうか。イエス様なのでしょうか。あるいは、私たちの自分の意思、自分の思いなのでしょうか。誰が我々の支配者なのでしょう?自分の性質ですか、好き嫌いでしょうか。

もし、イエス様が、私たちの心の内に、王となっておられなければ、幸いなる豊かな主の提供されている満足、喜び、平安と望みを自分のものとすることは決してできません。私たちは、本当にしばしば、自分の考えを正しいものとし、判断し、自分の考え方だけが正しいとしてしまいます。己(おのれ)が正しいのであると、あまり強く主張するので、主は、その人の主となり得ないのです。

イエス様にお従いしていた弟子たちも、満たされる前に、イエス様に心の内で反感を持ち、口答えいたしました。その時の弟子たちの内で、主となっているのは、イエス様ではなくて、彼ら自分の意思、自分の感情、自分の考えだったのです。

これらの主の喜びに頼らず、自分の意思、自分の感情、自分の考えが十字架によって、粉々に砕かれた時、その時、イエス様が支配する道が大きく開いていてくださいます。イエス様が、我々の内に全きご支配の権をとる時、初めて、そこにイエス様の豊かな満たしが訪れてまいります。全聖書は、この事実を我々に証明しています。その内の三つをちょっと取り出してみたいと思います。

第一番目、イスラエルの歴史です。毎日毎日、奴隷の生活であり、いつ解放されるかを知らず、絶望と苦しみの生活であり、行く先はただ、死を待つのみであった、あのエジプトから導き出されたイスラエルの民は、荒野でさまよい続けましたが、その間、欠乏、不平、不満が絶えなかったのです。このようにして、イスラエルの民は、四十年もの間、荒野をさまよい続けました。この間、主が支配者であることを知りながら、自分の意思が、また、自分の考えが支配しようとし、迷い続けて、遂に四十年のうちにヨルダン川にやってきました。このヨルダン川に来た時、イスラエルの民の指導者であるヨシュアに、主の軍勢の将が現れ、「あなたの足の靴を脱ぎなさい。あなたの立っている所は、聖なる所である」と言った時、ヨシュアは靴を脱ぎ、主の御前にひれ伏した。

ヨシュア
5:13 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
5:14 すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
5:15 すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

靴を脱ぎ、主の御前にひれ伏したということは、主に自分の持てる一切の支配の権をお任せするということを意味しています。この時から、イスラエルの民は、主が前からすでに備えてくださった満たしを経験したのです。主が支配する時、そこには、主の満たしがあります。

また、一方、旧約聖書の士師記を見ると、この時のイスラエルの民は、主の満たしを持っていませんでした。士師記の時は、もうすでにイスラエルの民は、ヨルダン川を渡り、約束の地、カナンに入ってからのことでしたのに、満たしを失ってしまいました。そこには、ただ制限と絶望と束縛と囚われがあるばかりだったのです。けれども、神の御心にかなった王、ダビデがイスラエルの民の王となった時、再び、主の祝福、また、主の満たしがイスラエルの民に訪れてきたのです。それはどうしてでしょうかね。この神の御心にかなったダビデ王は、全部の支配を主にお任せしていたからです。主のご支配が、主の満たしに渡る鍵のようなものです。

(二番目)新約聖書にも同じことが見られます。使徒たちのうちに、イエス様が主となられるまで、あの大きな働きをした使徒と言えども、敗北と弱さに負けていたのではないでしょうか。天におられる諸々の支配である主イエス様が、五旬節に及び、使徒たちの心の内で王となり、支配者となった時、使徒たちは満たされ、心からなる喜びを持って、「イエス様はすべての者の主である」と、述べ伝えるようになったのです。

ペテロの生涯について考えると、一番よく解かるのではないでしょうか。イエス様がペテロの支配者となられるまでには、たいへんな戦いがありました。ご存知のようにペテロは、三年間、イエス様の愛を受け、共に生活し、主のなされた数々の奇跡を目の当たりに見て、イエス様はまことに約束された救い主であり、神の御子であると、信じていたところの信者でした。けれども、ペテロは、イエス様が囚われ、自分の身に危険が及んだ時、何と言ったでしょう。イエス様を指して、「私はあの人と関係ない。全く知らない」と、三度も否んだのではないでしょうか。

その時のペテロの心は、もう暗闇でした。その後、イエス様が、ペテロの心の内に光となり、支配者となるまでに、多くの戦いがあったのです。

その内のひとつの戦いが聖書に書かれています。ペテロはある時、祈っていました。その時、印象を見たということが、聖書に書いてあります。ペテロが祈っておりますと、天から、大きな布に包まれて、いろいろな種類の動物、すなわち、聖くない、食べてはいけない動物が、天から、吊り下ろされるのを見ました。そして、天から声があり、「ペテロよ、これを食べなさい」と言いました。ペテロは、「私は聖くないものを食べるわけにはいけません」と、彼の声に逆らいましたが、ペテロに与えられたこの幻は、一回だけではなくて、二回だけではなくて、三回、起こりました。そして、布に包まれた動物が天に引き上げられた時、コルネリオという人の召使が、ペテロに訪れたんです。「どうかお願い、コルネリオのところに来て」と、頼みました。そこでペテロは、聖くないとされていた異邦人のもとへ、行くことになったわけですけど、その決心が固まるまで、並々ならぬ戦いがあったわけです。

ペテロは戦いに勝ち、主に全く従って、コルネリオという異邦人の所に参りました時、主の偉大な栄光、また、祝福を経験することができたのです。けれども、ペテロは、どんなメッセージをコルネリオのところでしたのでしょうか。これも、珍しい。我々はちょっと当てはまらない。「イエス様は、常に赦すお方です。孤独から解放するお方です」と言ったらいいんじゃないの。全く違う。「イエス・キリストは、すべての者の主である」というメッセージでした。

そして、ペテロが伝えたメッセージの結果、コルネリオ、及び、コルネリオの家族だけではなく、そこにいた親族全部が救われたばかりではなくて、「聖霊に満たされた」とあります。これらすべてのすばらしい出来事は、どこから起こってきたかと言いますと、それは、ペテロが、新しく主のご支配をいただいたところから、起こってきたということを見ることができます。それまでのペテロは、主をほんの少ししか、経験していませんでした。けど、その時、主がどんなに偉大なお方であるか、自分のものとすることができたのです。

使徒行伝
11:17 ・・・どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。

『もうお手上げです』と言っていますが、これは、自分の考えは本当に制限されたものであり、イエス様に心の目を開くなら、主はどんなに偉大なお方であり、すべてであられるかが解かるということを、我々に教えていると思います。私たちもペテロと同じく、新しく心の目を開き、イエス様がすべての主であることを知るならば、その結果、主の豊かな満たしにあずかることができると確信するものです。

それから、三番目、パウロの経験について、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。パウロは非常に早く、内面的、霊的に成長した男でした。彼は、早く霊的に満たされた主の器になったのです。いったいどうして?

パウロは当時、秀才が集まったガマリヤの門下生となり、当時の最高の教育を受けたためでしょうか?決してそうではありません。パウロは、イエス様を信じる者を迫害するために、ダマスコに向かって急いでいるその道すがら、主の光に照らされ、改心してから、数日の間、ダマスコの兄弟姉妹と共に過ごし、その後、直ちに「イエス・キリストは万民の救い主であり、すべての者の主である」と述べ伝え始めたのです。なぜパウロは、そのように、霊的に早く成長したのでしょうか。パウロは改心した時に、聞いたんです。祈ったのです。「主よ、あなたはどなたですか。主よ、私はいったいどうしたらいいのでしょうか」と、二回ともイエス様を主と呼びました。初めから、パウロにとって、イエス様は限りなき主でした。これが、満たされた、祝福された生活の秘密だったのであります。

使徒行伝を見ると、他の人たちは、イエス様を、救い主として述べ伝えませんでした。イエス様を、主として述べ伝えました。なぜなら、使徒たちは、主の永遠からのご予定は、イエス様がすべての者の主であるということを知っていたからです。イエス様は、すべての者の主となられるために、救い主となられました。もし、全人類が悪魔の支配のもとにあるならば、イエス様は支配者となることができません。ですから、イエス様は、十字架にかかり、全人類を悪魔の支配から解き放ち、救い出し、そして、支配者となられました。

イエス様はすべての者の主である。これが、使徒たちの証しでした。もし主が、もしイエス様が主であるなら、救い主でもあるはずです。イエス様は、我々の生活において、救い主であられるばかりでなく、主として崇められていなければいけないのです。私たちは、新しく生まれ変わっただけでは、不十分です。霊的に育って、満たしに至らなければいけません。ですから、使徒たちは、イエス様を主として述べ伝えたのであり、それが、父なる神の御心であると述べ伝えたのです。イエス様のご支配は、イエス様の豊かな満たしに至る秘密です。

最後に、信者、一人ひとりに対する主の御心とはいったい、何なのでしょうかね。

主なる神の御心は、私たちが救われるばかりではなく、救われた後、御子イエス様によって、完全に生活が支配される、これが主の御目的です。主は、どんな値を払ってでも、この目的を達しようとしておられます。信者である我々の生涯には、偶然がありません。すべてが主の許しであり、主の導きです。私たちが、『主はすべての者に支配者である』ということを認めるまで、主はいろいろな理解しがたい事柄を通して導いてくださいます。

主は、我々信者を一人ひとり全く個人的に、ご自身がすべての者の主であられることを知らせる、その目的をもって導いていてくださるのです。主は、パウロの場合もそうされたように、私たちをも、個人的に導いてくださいます。パウロが改心した時、共にいた者はみな、パウロと同じように地に倒れてしまいました。けれども、主は、パウロを個人的にお取り扱いになりました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と、パウロの母国語であるヘブライ語で、パウロ一人に名指しで、お語りになりました。

使徒行伝
26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』

私たちは、パウロと等しい経験は持っていないでしょう。けど、主は我々を、全く個人的に導いておられるのです。私たちの生活において、主が絶対的な支配の権をお取りになるかどうかが問題です。

多くの兄弟姉妹は、イエス様を奴隷以上のものに取り扱っていないのではないでしょうか。彼らは、悩みに沈んでいる場合は、彼らはイエス様の助けを求めます。また、彼らは、弱っている時、彼らはイエス様から力を得たいのです。また、彼らは、自分ひとりでもはやできない時、主イエス様に飛び込んでもらいたい。助けてもらいたい。イエス様は彼らに仕えるべきなのです。けれども、彼らは主の支配を欲しくない。

聖書は、そのようなキリスト者を肉のキリスト者と呼んでいます。なぜなら、肉、すなわち、自己が支配を持っているから。そこには大きな心の悩みがないでしょうか。自分のための生活が、本当の信仰生活にとって、障害となっていることを、しばしば感じます。もし、イエス様が、我々の生活の主でなければ、我々の人生は、真(まこと)の価値を持っていないということになります。悔い改め、イエス様を信じ、新しく生まれ変わることは、主の御目的の第一歩にすぎません。

実に多くのキリスト者は、主の御目的である、イエス様の豊かな満たしに達していません。イエス様の支配に従う、自然の結果は、イエス様の豊かな満たし、そのものです。我々の目的は、いったい何でしょうか?私たちの願いは何なのでしょうか。私たちは、「主の御心にかなった者となりたい」その願いを持っているのでしょうか。イエス様が我々の心の内に、心の王座に、主として崇められ、限りなく支配をなしたもう、その時、初めて、主の御心は、満足させるのです。イエス様のご支配によって、私たちは決して、哀れな奴隷となることはありません。むしろ、非常に富める者となることができます。

エペソ書、一章二十三節、一文章だけですけど、非常に、考えられないほど大切な箇所です。

エペソ
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

主の御目的は、欠けたところのない、完全なる満ちた主イエス様です。けれども、天におられるイエス様は、救われた兄弟姉妹の頭(かしら)にすぎません。もし、肢体である私たち一人ひとりが満たされなければ、イエス様は、完全なお方とはなり得ないはずです。ですから、私たち、信じる者が、主にとってどんなに大切であるかが、よく解かります。

我々のテーマは、『主のご支配は満たしへの鍵である』と言いました。けれども、ここでは、教会は、すなわち、信者たちの群れは、満たしであると、みことばは言っています。ですから、イエス様のご支配は、教会の秘密、霊的成長の秘訣であるということになるわけです。

私たちは、今日、パウロと同じように、「私はキリストとともに十字架につけられました。生きているのはもはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである」ということができるのでしょうか。信仰によって、心から、このみことばを言い表すことができ、また、喜んで、こういうことができるようにしましょう。これは、全く実際的なことがらです。決して、宙に浮いた抽象的なものではありません。日常生活で、いろいろなことが起こってきますけど、何かをしようとする場合、自分でことを決心することができません。イエス様と共に十字架につけられ、自分はもはや生きていないから。自分ができることは、「主よ、私には何もできません。ただあなたの御心を成してください。私の成すべきことを教えてください」と、言えるだけです。

これこそ主のご支配です。もし、そうなったなら、私たちは一言も語らずに、主は、すべての者の主であることを証しすることができます。そうなったら、私たちは、自分の計画を遂行することをやめ、自分の目的を追い求めることをやめ、すべての兄弟姉妹と一緒になることができることを確信しています。この一致は、また、とりもなおさず、主イエス様は、すべての者の主であるという証しになるのです。そして、始め、主イエス様は、御栄えをお取りになり、このエペソ書一章二十三節のように、満ち満ちたかたちになることができるのです。

もし、私たちが、パウロのように、「私はキリストとともに十字架につけられて、生きているのはもはや、私ではなく、イエス様が私の内に生きておられる」と、言うことができるなら、これこそ真(まこと)の教会です。

イエス様はすべての者の主です。我々の生活の支配を、今日、新たに意識的に、イエス様の御手に委ねましょう。イエス様の意思を、無条件に受け入れましょう。自分自身をイエス様に完全に、百パーセント、無条件に、余すとことなく、明け渡しましょう。そうすれば、完全に満たされた生活、主イエス様の支配している生活、実を結ぶ生活が与えられるのです。そうすれば、私たちもパウロのように、告白することができるでしょう。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

第二コリント
1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神に(・・・主の主に・・・)より頼む者となるためでした。
1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

ローマ
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

ローマ
14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

第二コリント
4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。

第二コリント
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿