2011年4月19日火曜日

礼拝の大切さ

礼拝の大切さ
2011年4月19日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

黙示録
4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」
4:9 また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、
4:10 二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
4:11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」


5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。
5:2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。
5:3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった
5:4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
5:6 さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。
5:7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。
5:8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。
5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
7:10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
7:11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
7:12 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
7:15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
7:16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

今、読んできてくださった箇所は全部、将来、起こることについての箇所です。将来、一番、大切なのは、もちろん、今、読んでもらいました箇所を見てもわかる。礼拝です。私たちは、礼拝の大切さをまだ、はっきり解からない。けれども、もっとも、大切なのではないでしょうか。この宇宙の終わりには、『全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのです』と、聖書は言っています。すなわち、礼拝の中心なのです。そして、『主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるためである』と。この礼拝は、ただ、この世にかかっているものではなく、この世に勝るものだという事実を、私たちは聖書を通して、はっきり知ることができるのです。

この間、私たちは、この礼拝と関係している事柄という題名をもって学びました。今日は、いったい、いかにして、この目的を達することができるかということについて、一緒に考えてみたいと思います。礼拝は、実に初めから、この世に勝るものでした。すなわち、悪魔は、「いと高き者のようになろう。自分は上へ昇りたい。自分の位(くらい)を高くしよう」と言った時、一番、高い天から追放されてしまいました。その時から、強固な戦いが始まったのです。すぐ後で、この戦いは、この地上でも始まりました。人間は、どなたに礼拝するでしょうか?悪魔ですか、それとも、主なる神なのでしょうか。他の事柄、全部がこの礼拝の問題にかかっています。

絶対的な礼拝をされたものは、いったいどなたでしょうか。これこそが、一番、大事な問題です。だから、無意味なこと、いわゆる小さいことがない。毎日の生活のいわゆる小さな事柄が全部、一番、大切なことに、すなわち、主なる神に対する礼拝にかかっています。私たちの礼拝の中心は、生ける真の神なのでしょうか。徹頭徹尾、主なる神だけなのでしょうか。「もし、あなたがひれ伏して、わたしを拝むなら」などは、これは問題であり、恐るべき戦いです。この戦いの勝利者は、どなたなのでしょうか?悪魔ですか、それとも、生ける真の神なのでしょうか。今、読んでもらいました箇所を見ても、もちろん、もう解かる。黙示録を見ると次のように書かれています。

黙示録(口語訳)
21:22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。

22:3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。

ここで、礼拝の問題は、解決されています。戦いは終わった。全能者にして主なる神と、小羊なる主イエス様とが、礼拝の中心なのです。

本当の意味で救われた者とは、いったい何者かと言いますと、単なる教えや教理を受けた者ではなく、悪いことを憎んでいる、善を行う者ではない。主によって救われた人々の際立っている特徴は、生ける真の神に対する礼拝です。異性ではなく、金ではなく、仕事ではなく、主を拝むことが問題です。

目に見えるものは、大切ではなく、この後ろにある問題、すなわち、礼拝の問題が大切です。あらゆる出来事は、単なる出来事ではなく、この後ろに、この礼拝の問題がある、ということを、知るべきなのではないでしょうか。もし、私たちが、主との生き生きとした交わりを持てば、私たちは、主と共に働く者です。すなわち、主イエス様によって、十字架によって、尊い血潮によって、主なる神がすべてとなられるのです。主なる神が、礼拝の中心になるのです。主なる神が、私たちにあって、すべてとならなければいけません。そのとき初めて、エペソ書、三章十節というみことばが、成就されます。

エペソ(口語訳)
3:10 それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであ(る。)

我々の生活は、この宇宙の将来に対して、とっても大切だということを考えるべきなのではないでしょうか。だから、無意味なこと、いわゆる、小さいことがないのです。

イエス様が人間となった。初めのない、終わりのない神が、人間のかたちをとって現れた事実こそが、聖書の中心テーマのひとつなのではないでしょうか。イエス様の人となることは、いったい、どうして必要だったでしょうか。どうして、主なる神は、肉において現れたのでしょうか。主なる神の御子である主イエス様は、どうして、人の子となったのでしょうか。その答えは・・・、

第一コリント(口語訳)
15:28 ・・・万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、(主なる)神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

万物が、主イエス様に従う時には、御子自身も、また、万物を従わせたその方に従うのである。それは、父なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるためであると聖書は言っています。どうして、神なるイエス・キリストは、人の子となったのでしょうか。主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるためです。

主なる神が、イスラエルの民の家族の生活を整理した時、一番、大事な子は、長男であると言われたのです。なぜなら、お父さんの権利、栄光、名誉、目的は、長男にかかっているのであるから。もし、長男が失敗したら、お父さんはこの恥を受けなければなりません。お父さんの遺産は、全部、長男のものになった。したがって、息子はお父さんの名誉や満足のために、努力しなければいけない。出エジプト記20章12節にあります。短い大切な文章です。

出エジプト記
20:12 あなたの父と母を敬え。

これは何を意味しているのでしょうか?単なる社会的な助けでしょうか。決して、そうではありません。この後ろに、礼拝の問題があるのです。父なる神と御子、主イエス様は、密接に結ばれているのです。そして、父なる神の栄光、権利、全部が御子にかかっています。これを考えると、イエス様の人間となることは、解かるはずです。悪魔の、「わたしが、いと高き者になるように、自分は上へ昇りたい、自分の位を高くしよう」という考えは、父なる神に対する攻撃でした。父なる神の場所、主なる神の権威、神の栄光に対する攻撃でした。悪魔は、神の呪いのもとに堕ちて、また、悪魔に従う人間、みなが呪われた者となったのです。

困難と苦しみがあります。けれども、その中に、「主よ、御旨を行うように」と、あえて言うことができれば、すばらしい。こういうふうに、私たちは、生ける真の神を拝むことができるのです。我々の内に、『子たる身分の霊がある』と、聖書は言っています。エペソ書の一章を見ると、次のように書かれています。エペソ書、一章の五節です、『わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるように(口語訳)』と、あります、もう一箇所、ヘブル人の手紙の二章十節を見ると、次のように書かれています、『多くの子らを栄光に導くのに(口語訳)』とあります。

ご存知のように、我々信者は、本当に新生を経験し、聖霊の働きによって、イエス様を宿し、永遠のいのちを持っていますけれども、これは終わりではありません。私たちは、成長し、成人した神の息子、娘とならなければいけません。それは、私たちが、神のご栄光を現す(ため)、神の同労者として、主に対する働きと責任を持つようになるためです。本当にそうです。すなわち、私たち一人ひとりが、どうしても成人した神の息子、娘までに前進しなければなりません。なぜならば、成人した息子、娘によってのみ、主が徹頭徹尾、この宇宙の礼拝を持つようになるからです。いったいどうして主なる神は、人間を子にしたのでしょうか。神がすべてのものにあって、すべてとなられるためであると、聖書は答えています。私たちの内には、子たる身分の霊があるのでしょうか。新生によって、私たちは、聖霊を自分のものとしました。そして、聖霊によって、主イエス様は、我々の内に住んでいらっしゃいます。私たちは、霊なる神の住まいです。

ローマ(口語訳)
8:15 あなたがたは・・・子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。

イエス様の生活の目的と、我々の目的は、同じはずです。すなわち、主なる神のみが、この宇宙の礼拝の中心になるように、また、主なる神が、すべてとなられるように。これは、個人個人の使命であり、共同的に教会の使命であります。私たちによって、神の栄光や名誉や権威があるように。

これは、毎日毎日、恐るべき戦いを意味しています。たとえば、私はいつも次のような質問に答えなければいけません。すなわち、私は、これを今やると、主なる神が満足されているのでしょうか。あるいは、悪魔が喜ぶのでしょうか。もし、私が、この問題を解決しなければ、神に栄光があるでしょうか、それとも、悪魔が勝利を得るのでしょうか。私たちがひれ伏して、悪魔を拝むことは、悪魔の望みであり、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられることは、主の目的です。どなたが、我々の生活の礼拝の中心になるのでしょうか。悪魔ですか、それとも、生ける真(まこと)の神でしょうか。これは、実に恐るべき戦いです。

もちろんこれは、教理的な問題ではなく、これは、徹頭徹尾、実際的な問題です。私たちは、毎日の生活の苦しみの最中(さなか)に、この質問に答えなければなりません。誰が礼拝の中心なのか。悪魔か、それとも、主イエス様かのどちらかです。

エペソ
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

私たちは、子たる身分を授ける霊を受けました。私たちは、御子イエス様との交わりを持つようになりました。なぜなら、私たちは、御子イエス様と共に、悪魔の攻撃によって起こった問題を解決するために、神に、教会により、また、主イエス様によって、栄光が世々限りなくあるように。

私たちは、工場に行っても、事務所に行っても、学校に行っても、どこでも同じことを経験するでしょう。すなわち、どこでも、悪魔の攻撃を感じ、困難と苦しみを味わうでしょう。けれども、これらの事柄は、単なる出来事ではないのであります。この後ろに、恐るべき戦いがあるのです。すなわち、あなたの礼拝の中心はどなたでしょうか。イエス様ですか、それとも、悪の霊ですか。私たちは、『いったいどうして、救われたのか』と言いますと、私たちによって、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるためです。

主イエス様は、神が宇宙の礼拝の中心になるように、人間となり、呪いとなり、十字架によって、御自分のいのちを捧げたのです。イエス様は、お生まれになった時、地獄が激動して、攻撃しました。この者を滅ぼそうと悪魔は、人間によって、努力しました。そして、主イエス様は、あらゆる出来事は、単なる出来事ではないということを確信しました。出来事の後ろに、この礼拝の問題があります。どなたが、礼拝の中心になるか。生ける真の神でしょうか。あるいは、悪の霊、悪の軍勢なのでしょうか。これを確信しながら、イエス様はいつも、「父よ、御旨を行うように」と祈りました。これこそが礼拝です。こういうふうに、主なる神がすべてのものにあって、すべてとなられるのです。

もちろん、聖書の中心となるものとは、イエス様の代わりの死であり、十字架です。いったいどうして、イエス様の十字架は、必要だったでしょうか。イエス様の犠牲の血は、歴史的な事実ですけれども、この歴史的な事実の後ろに、もっともっと偉大なる戦いがあったのです。

ヨハネ
12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は・・・

この世を支配する者は今、悪魔です。もちろん、主はそれを許しておられます。

12:31 ・・・今、この世を支配する者は追い出されるのです。
12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

今こそ、この世の君は、追い出されるのです。そして、イエス様の亡くなられた時に、創造全体が、これを感じました。たとえば、ルカ伝を見ると次のように書かれています。

ルカ
23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。

三時間、暗くなった。

マタイ
27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
27:52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。

大地震のようなものだったらしい。この出来事はもちろん、単なる外側の出来事ではなく、この後ろに、恐るべき戦いがあったのです。パウロは、コロサイにいる兄弟姉妹に書いたのです。

コロサイ
2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

これが問題でした。どうして十字架は必要だったのでしょうか。なぜならば、悪魔はこの宇宙の支配の中心になろうと考えたからです。悪魔の、「わたしは、いと高き者のようになろう」という考えは、父なる神に対する攻撃でした。父なる神の場所、主なる神の権力、主なる神の栄光に対する攻撃でした。こういうふうに悪魔は、神の呪いのもとに堕ちてしまいました。

けれども、それだけではなく、悪魔に従う人間みなが呪われた者となったのです。人間は、悪魔の権力の下に入れられました。人間は、敵に意識して降参しました。人間は、自分で意識して、悪魔に降参したのですから、悪魔は、今やアダムを合法的に支配するに至りました。この、考えも及ばないほど絶望的な状態に対する、主なる神の答えは、十字架でした。この呪いに対する主なる神御自身の逃れ道は、小羊であられるイエス様です。イエス様は、十字架によって、罪の創設者である悪魔に、完全に打ち勝ちました。そればかりではなく、ガラテヤ書を見ると、次のように書かれています。

ガラテヤ
3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者は(・・・十字架にかけられるものは・・・)すべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

これこそが、十字架の意味です。十字架によって、イエス様は、悪魔や罪に対する絶対的な主になりました。御子のよみがえりは、この事実を証明しています。

ところが、この動くことのできない事実が、私たちの内に、現実とならなければなりません。イエス様の勝利が、我々の経験とならなければいけないのです。悪魔は、我々に対する合法的な権利を持っていません。私たちは、尊い血潮によって、買い戻された者です。私たちは、もはや、罪を犯さなくてもいいわけです。イエス様は、勝利者であるからです。『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません』と、ローマ書8章に書いてあります。『もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである(コロサイ2:15口語訳)』とあります。『もろもろの支配と権威との嘘を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えてさらしものとされた』のは、考えられないすばらしい事実なのではないでしょうか。悪魔は、実に我々に対する合法的な権利を持っていません。イエス様は、父なる神の裁きを荷って、代わりに呪いのもとに亡くなられました。したがって、私たちは、合法的に、徹頭徹尾、生ける真の神のものです。

けれども、この動くことのできない事実は、実際的に我々の経験とならなければいけません。そのために十字架、困難、苦しみが必要なのです。改心によって、イエス様が私たちの内に住むことによって、私たちは永遠のいのちの持ち主となりました。我々の霊は、主の宿です。そして、主の影響は、だんだん、魂や体に及びます。コリント第一の手紙15章54節というみことばは、成就されます。

第一コリント
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

十字架は、いったい、どうして必要だったのでしょうか。合法的に行われた救いが、実際的(現実)になるように(です)。実に、悪魔は、私たちに対する合法的な権利を持っていません。けれども、これが実際的になるために、十字架が必要でした。この根本的な問題は、いったい何なのでしょうか。十字架は、どうして必要だったのでしょうか?礼拝が、生ける真の神に対する礼拝が問題であるからです。悪魔の権利のもとにいる者は、主を拝まない者です。けれども、大きな苦しみと困難によって清められた者は、主を愛し、主を知っている。主を礼拝せざるを得なくなるのです。

ヨブという男の生活を観察するとわかります。ヨブ記のメッセージは、何でしょうか。あらゆる、争いと困難の後ろにいる者は、何だったでしょうか。このヨブ記の中で、ひとつの質問があるのです。すなわち、ヨブは、主なる神に無料で仕えるでしょうかという質問があるのです。悪魔は、決してそうではないと言いました。そして、ヨブは、非常に病気になって、財産も全部、だめになってしまいました。彼の十人の子供はみな命を失いました。自分の奥さんや、一番、良い友達も、攻撃しました。ヨブの力、知恵、人気、権威、威厳、職業、財産などが全部、だめになってしまいました。そして、神のみことばは、『すべてのことにおいて、ヨブは罪を犯さず』と、書いてあります。ヨブの主に対する態度は、『神よ、御旨(みむね)を行うように。』これでした。こう言うふうに主なる神が礼拝の中心になったのです。

私たちもみな、ヨブと同じ経験をしなければいけないでしょう。だから私たちは、今、黙示録、四章、五章、七章を読んでもらいました。ここで、礼拝が中心です。

黙示録 (口語訳)
5:12 ・・・ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。
5:13 ・・・御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように。

彼らは、喜びに満ちて、こう礼拝するのです。彼らに対しては、悪魔は、もはや要求の権利を少しも持っていません。すなわち、全能にして主なる神と小羊なる主イエス様とが、その聖所、すなわち、礼拝の中心なのであるからです。

最後に、ちょっと、ダニエルという預言者について考えて終わります。

ダニエル
1:8 ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。

いったい、どうしてでしょうか。これは、大したものではないのではないしょうか。外側だけを見ると、これは本当に、大したものではないでしょう。けれども、あらゆる事柄の後ろに恐るべき戦いがあり、この一番、大切な礼拝の問題があるのです。今日は。暇がないけれども、家でダニエル書三章を、ぜひお読みになってください。どうして、ダニエルは、当時の王様、世界を支配したネブカデネザルの食物を食べたくないと決心したのでしょうか。大したご馳走だったと思います。

この三章を読むと、この答えが解かります。その答えは、ひとつの言葉です。といいますと、礼拝なのです。この王様は、確かに世界一の金持ちだったし、すべてを支配した男でした。彼は、ひとつの金の像を作りました。そして、民は皆が、この像を拝まなければならなかったのです。けれども、ダニエル、また、ダニエルの友達は、反対して、結果として、火の燃える炉の中に投げ込まれてしまいました。人間的に考えれば、そうしたら、お終いですけど、お終いではなかったのです。結局、火の炉に投げ込まれた人々は、死ななかったのです。奇跡、そのものです。ですから、彼を炉に投げ込むようにと命令した男、当時の王様は、告白しました。

ダニエル
3:28 ネブカデネザルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき(・・・結局、私の命令にそむき・・・)、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。」

すばらしい証しですね。パウロは、彼の書いた手紙を読むと解かりますが、よく、礼拝の大切さを強調しました。

ローマ
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

聖化というのは、いったい何なのでしょうか。聖化は、少しも妥協しないで、心を全うすることを意味します。やはり、ダニエル書から、一箇所お読みします。

ダニエル
7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
7:14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

御座への道は、十字架、苦しみと困難です。私たちが、少しくらい妥協しても、大したものではないと考えると災いです。妥協すると、割合、楽な生活をすることができるでしょう。けれども、悪魔が勝利を得、生ける真の神が礼拝の中心にならないからです。私たちみなが、真(まこと)の礼拝者になるように、主ご自身が、我々にあって、すべてとなられるように。最後にもう一箇所読みます。

第2歴代誌
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。


おわり

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