2011年4月5日火曜日

この宇宙の将来[1]

この宇宙の将来[1]
2011年4月5日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マタイ
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

第一コリント
15:28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。


黙示録
21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。

22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

この間、土曜、日曜日、また、大阪で、本当の意味での喜びの集いがありました。四百三十人がみえましたし、そして、だいたい三十人、ゆっくり交わることができ、やっぱり、イエス様に従いたい、そういうことになったから、非常にありがたい。主御自身が、御自分の教会を建てるという証拠なのではないかと思います。

いつも言いますけど、私たちは、ただ救われるために救われたのではなく、我々によって、生けるまことの主なる神を満足させるべきであると、聖書ははっきり言っています。パウロは、どうしてエペソ人への手紙を書いたかと言いますと、もちろん、彼らにとってどうしても必要だったからです。

エペソ(口語訳)
4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。

今日から、ちょっと3回に渡って、「この宇宙の将来」というテーマについて、一緒に考えてみたいと思います。多くの人々は、たしかに拠り所なしに、失望してしまっています。けれども、私たち、主を知るようになった者にとって、主の御心とは何なのでしょうか。この宇宙の将来は、いったい、どういうものになるのでしょうか。世界的王国の戦いの終わりは、いったい何なのでしょうか。

この質問に対する答えを、知らなければならない。前に読んでもらいました箇所に、結局、答えが含まれているでしょう。マタイ伝、四章十節でした、『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕え(口語訳)』なさいとあります。コリント第一の手紙、十五章二十八節、『それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである(口語訳)』とあります。また、最後に読んでもらいました黙示録二十一章二十二節、『全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである(口語訳)』とあります。また、二十二章の三節、『のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にある(口語訳)』とあります。

この宇宙の将来は、何なのでしょうか。聖書は言っていますね。「私は、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして、主なる神と小羊とがその聖所なのである」とあります。これこそが、この宇宙の将来であります。すなわち、霊的歴史の終わりは、全能者にして、主なる神と小羊とが、その聖所なのであります。今朝、ちょっと三つの事柄について簡単に、一緒に考えたいと思います。第一番目、全能者にして主なる神。第二番目、小羊である主イエス様。そして、第三番目、呪われるべきものは、もはや何ひとつない。

全能者にして、主なる神と小羊である主イエス様は、すなわち、結びつけられていますが、けれども、小羊である主イエス様と、呪われるべきものは、もはや何ひとつないとも、結びつけられています。すなわち、小羊と呪われるべきものと言いますと、全能者にして、主なる神と小羊は、聖所なのです。これは、礼拝を、まことの礼拝を、意味しています。

この宇宙の将来、世界的帝国の戦いの終わりは、礼拝です。けれども、どうしてここで、小羊と呪われるべきものは、結ばれているのでしょうか。もし、全能者にして主なる神が、あらゆる礼拝の中心でなければ、呪いが来るのです。この呪いに対する主なる神の答えは、小羊です。だから、小羊と呪われるべきものは、結びついています。

この宇宙の終わりは、聖所ではなく、捧げられた小羊たちではなく、祭司たちではなく、色々な捧げ物ではなく、全能者にして主なる神と、小羊とがその聖所なのです。そして、「神が、すべてのものにあって、すべてとなられるためである」と、聖書には、はっきり書いてあります。

宇宙の将来は、礼拝であり、そして、他のことがら全部が、礼拝にかかっているのです。この礼拝は、ただ、この世にかかっているものではなく、この世に勝るものであると覚えるべきです。今日は暇がないんですけれどもも、エゼキエル書の28章2節から5節まで、また、11節から17節までと19節、また、イザヤ書の14章12節から19節までを読むと解かります。

【参考】エゼキエル
28:2 「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。
28:3 あなたはダニエルよりも知恵があり、どんな秘密もあなたに隠されていない。
28:4 あなたは自分の知恵と英知によって財宝を積み、金や銀を宝物倉にたくわえた。
28:5 商いに多くの知恵を使って財宝をふやし、あなたの心は、財宝で高ぶった。

【参考】エゼキエル

28:11 次のような主のことばが私にあった。
28:12 「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。
28:13 あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。
28:14 わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。
28:15 あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。
28:16 あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。
28:17 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」

【参考】エゼキエル

28:19 「国々の民のうちであなたを知る者はみな、あなたのことでおののいた。あなたは恐怖となり、とこしえになくなってしまう。」

【参考】イザヤ

14:12 暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
14:13 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
14:15 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。
14:16 あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、
14:17 世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』
14:18 すべての国の王たちはみな、おのおの自分の墓で、尊ばれて眠っている。
14:19 しかし、あなたは、忌みきらわれる若枝のように墓の外に投げ出された。剣で刺し殺されて墓穴に下る者でおおわれ、踏みつけられるしかばねのようだ。

それから、ダニエルという預言者は、三週間、一生懸命、祈った時、天の使いがいらっしゃって、ダニエルに言ったのです。

ダニエル(口語訳)
10:12 「ダニエルよ、恐れるに及ばない。あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれたので、わたしは、あなたの言葉のゆえにきたのです。
10:13 ペルシャの国の君が、二十一日の間わたしの前に立ちふさがったが、天使の長のひとりであるミカエルがきて、わたしを助けたので、わたしは、彼をペルシャの国の君と共に、そこに残しておき、
10:14 末の日に、あなたの民に臨まんとする事を、あなたに悟らせるためにきたのです。・・・」

みことばを見ると、ダニエルの祈りは答えられました。けれども、この祈りに答えるために、天の使いが来ました。けれども、ペルシャの君、すなわち、悪の霊の君は、強く反対して、二十一日の間、戦ったのです。この戦いは、闇の世の主権者、また、天上にいる悪の霊に対する戦いでした。また、ヨブという人の生活を観察すると、同じ事実を見ることができるのです。ヨブの戦いは、実に血肉に対するものではなく、もろもろの権威、支配と天上にいる悪魔の霊に対する戦いでした。

また、イエス様が、聖霊に満ちて前進した時、すぐに、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊、悪魔に対する戦いが始まりました。悪魔は、初めにイエス様のからだによって、攻撃したのです。「もし、あなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。」その時、イエス様は四十日間、何も食べなかった、断食したのです。お腹がすいていたのは当然です。それから、悪魔は、イエス様の魂を試みました。けれども、これも、空しい努力でした。最後は、イエス様の霊に対する攻撃でした。実にこれは悪魔の目的だったのです。悪魔は、イエス様に、「もし、あなたがひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものをみな、あなたにあげましょう。」ひれ伏してわたしを拝むなら・・・。結局、礼拝が問題でした。霊を持って礼拝することが、問題なんです。

悪魔は、いつの時代でも、からだと魂によって、人の霊を攻撃したのです。もし、『あなたがひれ伏してわたしを拝むなら・・・。』これが、問題なんです。パウロの言葉を、よく覚えるでしょう。

エペソ
6:12 私たち(・・・信じる者、主の恵みによって救われた者・・・)の格闘は血肉(・・・目に見えるもの、もちろん、人間・・・)に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

礼拝は、霊的なものなのです。礼拝は、ただ、この世に属しているものではなく、この世に勝るものだという事実を知るべきなのではないかと思います。主なる神は、霊であるから、礼拝する者も、霊とまことをもって、礼拝すべきです。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられると、イエス様は、はっきり言われました。

聖書の言っていることばを、覚えるべきです。「私は、この都の中には聖所を見なかった。全能にして主なる神と小羊とが、その聖所なのです。」これこそが、この宇宙の将来です。すなわち、霊的な歴史の終わりは、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるのであるということです。パウロも、コリント第一の手紙に同じことを書いたのです。

第一コリント(口語訳)
15:28 万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

ここでも、子たる身分という真理が含まれています。私たちは、どうして、子供と息子の区別について、そんなに考えるのでしょうか。それは、主がすべてのものにあって、すべてとなられるためである。主に対する礼拝が、問題であるからです。成人した神の息子、娘によってのみ、主なる神が、徹頭徹尾、この宇宙の礼拝を持っているのです。もちろん、『神が、すべてのものにあって、すべてとなられるのである』という真理は、今も事実です。けれども、実際的に、主なる神が、我々の内に、また、私たちの内に、すべてとなられてはいません。そうではないでしょうか。けれども、成熟した息子、娘たちによって、主に、この宇宙の礼拝になるのです。これこそが、今の戦いの原因です。

この戦いは、いったい、いつ頃、初めましたでしょうか。悪魔は、いと高き者のようになろう、自分は上へ昇りたい、自分の位(くらい)を高くしようと言った時、一番、高い天から追放されました。その時から、強行な戦いが始まったのです。人間は、どなたに礼拝するでしょうか。悪魔でしょうか。それとも、主イエス様でしょうか。これこそが、この世の戦いの問題です。私たちは、これは大したものではないと考えるかもしれない。私たちは、主なる神を礼拝するからです。

これは、本当でしょうか。私たちは、すべてをもって、実に、心から主を礼拝するのでしょうか。

ヨブ記を読むと、この礼拝の問題は、恐るべき戦いでした。悪魔は、いろいろな質問、疑問や不安によって、ヨブの礼拝を得ようと努めました。成功したでしょうか。ヨブは、悪魔を礼拝したのでしょうか。それとも、主なる神にのみ、礼拝したのでしょうか。ヨブ記一章の二十二節に、主の判断が書かれています。『全てのことにおいて、ヨブは罪を犯さず』と、あります。もし、私たちがヨブ記を読むと、しばしば、『ああ、ヨブは神に対して、悪いことを言った、これは正しくない』などと、言うでしょう。けれども、主は、『すべてのことにおいて、ヨブは罪を犯さず』と言っておられます。ヨブの友達、たいへん、信心深い友達は、とても良い事柄を話したのですが、主は、彼らに対して何と言ったでしょう。

ヨブ(口語訳)
42:7 主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。」

私たちの大きな困難の中で話した言葉は、大切ではなく、苦しみのうちに感じた疑問や不安も大切なのではなく、問題なのは、私たちは、礼拝をもって、主を信じること、信頼すること、礼拝することです。これこそ、闇の世の主権者、また、天上にある悪の霊に対する戦いです。

私たちが、ひれ伏して悪魔を拝むことは、悪魔の望みであり、主なる神が、すべてのものにあって、すべてをなさることが主の御目的です。これは、この宇宙の霊的な歴史の初めから問題でした。どなたが、礼拝の中心になるか、悪魔か、それとも、生けるまことの神かのどちらかです。けれども、礼拝とはいったい何なのでしょうか。賛美歌を歌うことですかね。祈ることでしょうか。礼拝式を行うことでしょうか。決してそうではない。毎日の生活の最中に起こるのです。もし、私たちが、これを今やると、主が満足されるのでしょうか。あるいは、悪魔が喜ぶのでしょうか。もし、私はこの問題を解決しなければ、神に栄光があるのでしょうか。それとも、悪魔が勝利を得るのでしょうか。

もし、二人の信者が、一致しなければどうでしょうか。悪魔は、これによって勝利を得るでしょうか。必ず勝利を得るのです。あなたは、この二人の信者が、一致するように努力しなければいけません。そして、この二人が一つになると、これこそ、礼拝なんです。そしたら、初めて、生けるまことの神が、すべてのものにあって、すべてとなられるのです。礼拝とは、何かと解かるでしょう。礼拝は、主があなたにあって、すべてとなられることです。そして、この宇宙の将来は、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるのです。覚えるべきなのは、我々の生活は、この宇宙の将来に対して、とっても大切です。だから、無意味なこと、いわゆる小さいことがない。

毎日の生活のいわゆる小さな事柄が、全部、一番、大切なことに、すなわち、主に対する礼拝にかかっています。我々の礼拝の中心は、生けるまことの神でしょうか。徹頭徹尾、主なのでしょうか。これが、我々の心の態度であるべきです。この礼拝の問題は、恐るべき戦いです。もし、私たちは今日、「私たちは、全生涯を主に捧げ、私たちのためではなく、主だけが満足され、栄光をお受けになるように」と、決心するとすぐ、悪魔の激怒を感じるのです。恐るべき戦いが始まるのです。私たちは、必ず戦いの内に、悪魔の声を聞いたでしょう。すなわち、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものをみなあなたにあげましょう。』残念ながら、これらの悪魔から提供したものを欲しがった人々がいます。

『この姉妹が失敗した。あの兄弟、全然、集会に来ない』と、このような事実は、小さな無意味な事柄ではありません。悪魔が、勝利を得たのです。そして、私たち皆が妨げられています。けれども、私たちは、あえて次のように言いたいのではないかと思います。『いえ、私たちは悪魔を拝みたくない。生けるまことの神だけに栄光あれ』と。ほふられた小羊こそは、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美とを受けるにふさわしい。『御座にいます方と小羊とに賛美と誉れと栄光と権力とが、世々限りなくあるように』と、あえて言いましょう。

これは、我々の使命です。私たちは、この建物の中で、主の御声を聞くにしろ、学校で勉強にしろ、事務所で働いている、あるいは、家の仕事をすることによって、『ほふられた小羊こそは、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい』(という気持ち)になるでしょうか。

たとえば、賛美歌を歌うことについて、考えると解かります。私たちは、いったい、どうして賛美するのでしょうか。集会が始まるためでしょうか。『何番を歌って集会を始めましょう。』どうして私たちは歌うのでしょうか。歌うこととは、我々のプログラムの中で、ただ一つのポイントなのでしょうか。その代わりに、悪魔を攻撃するために、また、臨在しておられる生けるまことの神を礼拝するために、歌うのでしょうか。これを考えると、私たちは、いろいろな歌を歌わないでしょう。けれども、霊をもって、主を礼拝すべきです。歌うことは、生けるまことの神を拝むことのはずです。

聖餐式を行うことも、礼拝であるはずです。私たちの毎日の生活のいわゆる小さな無意味な事柄も、礼拝であるはずです。未信者の毎日の生活は、悪魔を拝むことを意味しています。これに対して、私たちは、この悪魔の力と軍勢に対する主ご自身を礼拝することのはずです。ほふられた小羊こそは、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしいになるでしょうか。まことの礼拝こそが、最も大切です。集会の時だけではなく、ひとり一人の毎日の生活は、主を礼拝することのはずです。

この宇宙の将来は、何でしょうか。「私たちは、この都の中には、聖所を見なかった」と、書いてあります。どうでしょうか。聖所がなければ、これは、大変なことではないでしょうか。いえ、そうではありません。なぜなら、「全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである」と、書いてありますから。すなわち、霊的歴史の終わりは、全能者にして、主なる神と小羊とが礼拝の中心になるのです。

また、他の言葉で言えば、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるのです。けれども、いかにしてこれが可能なのでしょうか。「万物が主に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたその方に従うようになる。それは神が、すべてのものにあって、すべてとなられるためである」と、聖書は言っています。息子である主イエス様によって、十字架によって、小羊によって、悪魔に打ち勝つことによって、生けるまことの神が、礼拝の中心になるのです。だから、書いてあります。

黙示録
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

全能者にして主なる神と、小羊とが、その聖所なのである。生けるまことの神と小羊は、礼拝の中心になるのです。物ではなく、主なる神が、すべてのものにあってすべてとなられるのです。十字架によって、尊い血によって、主なる神が、すべてとなられるのです。全体の要点は、真に主の足元にひれ伏した生涯であるか、主は、我々の心の内に、どれほどの余地を持っているかが問題なんです。

主が、我々のために、いかほどの価値があるのでしょうか。主が、我々にとって、真に尊いお方であれば、あまりに良いというものは一つもありません。あまりに高いというものも一つもありません。私たちのあらゆるものが、それが、最も深く、最もすばらしくあっても、主に対して捧げます。イエス様は、我々の愛を待ち望んでおられます。イエス様は、我々の愛を持つために死なれました。そして、イエス様は、我々の愛を求め続けられます。イエス様は、シモン・ペテロに言いました。

ヨハネ(口語訳)
21:15 「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。・・・
21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼は(主)イエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。・・・
21:17 (主)イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエス(様)が三度も言われたので、心をいためてイエス(様)に言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」・・・

同じように、イエス様は、われわれにきいておられます、『わたしを愛するか』と。これは、一番、大切なことです。私たちが、イエス様に、「私はあなたを愛している」と言うことができた時は、地獄のすべての鬼は、逃げ去ります。私たちは、ただ救われるために救われたのではなく、私たちによって、主なる神が、礼拝の中心になるように、これこそ、我々の生活の使命なのです。礼拝は、主なる神が、私たちにあって、すべてとなられることなのです。

悪魔は、これを知っているのです。だから、彼は、何とかして、私たちをダメにしよう、私たちを滅ぼそう、私たちが失敗するように努めています。私たちは、多分、自分のクリスチャン生活の意味を解かっていないかもしれない。けれども、悪魔は、これをよく知りますから、異性、お金、自分の名誉によって、我々を偉大なる使命から引き退けようと努力しています。私たちが、ひれ伏して、悪魔を拝むことは、悪魔の望みであり、主なる神がすべてのものにあって、すべてとなられることは、主の目的です。どなたが、礼拝の中心になるのでしょう。悪魔か、それとも、生けるまことの神か、これは恐るべき戦いを意味しています。

ただ、いわゆるキリスト教に入った人々は、この戦いを経験しないでしょう。また、大勢が礼拝式に参加することも問題ではないのです。けれども、もし、私たちが新しく創られた、新しく生まれ変わった者であるならば、聖霊の持ち主になると、必ず悪魔の力と激動を感じるようになります。なぜならば、聖霊は、礼拝の霊だからです。聖霊の力によって、神がすべてのものにあって、すべてとなられるのです。けれども、これは、「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」と、聖書は言っています。絶えず覚えるべきです。すなわち、私たちは、ただ救われたのではなく、我々によって、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられることです。

前に読みました箇所を、もう一回読んで終わります。「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。・・・御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように(口語訳)」と、あえて言いましょう。


おわり

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