2011年4月12日火曜日

この宇宙の将来[2]

この宇宙の将来[2]
2011年4月12日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

黙示録
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え・・・、

マタイ
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

第1コリント
15:28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです

このあいだも言いましたように、最近、昔に準備したメッセージが次々と出てきたんですね。今日のメッセージも五十五年前に準備したけれども、使わなかったのです。けれども、御言葉は時代と関係ないし、いつも、新しいものであり、そして、イエス様は、「天と地はいつか滅び去りますが、わたしのことばは、永遠に残る」と約束してくださいました。

この前の回で、この宇宙の将来は、いったい何かという題名を持って、考えてまいりました。この宇宙の将来について、聖書は言っているのです。すなわち、「わたしは、この都の中には聖所を見なかった」とあります。聖所、宮は、いつも、礼拝する場所です。けれども、宇宙の終わりは、聖所はなく、捧げられた動物ではなく、祭司たちではなく、いろいろな捧げ物でもなく、全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのであるとあります。

次の三つの事柄について、ちょっと考えたいと思います。第一番目、全能者にして主なる神。第二番目、小羊である主イエス様。三番目、呪われるべきものは、もはや何ひとつない。

『全能者にして主なる神』と『小羊』は、結びつけられています。なぜなら、主なる神と小羊は聖所なのであるから。すなわち。全能者にして、主なる神と小羊は、この宇宙の礼拝の中心になるのです。そして、『小羊』と『呪われるべきもの』も、結ばれているのです。いったい、どうしてでしょうか?呪いは、どうしてあるのでしょうか?悪魔は、いと高き者のようになろう、自分は上へ昇りたい、自分の位(くらい)を高くしようと言った時、一番、高い天から追放されました。その時から、強固な戦いが始まりました。悪魔は、神の呪いのもとに堕ちた。また、悪魔に従う人間、みんなが呪われた者になったのです。この呪いに対する主御自身の逃れ道は、小羊である主イエス様です。

ガラテヤ
3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」

十字架につけられる者は、みな、例外なく呪われた者である。イエス様の十字架によって、呪われるべき者は、もはや、何ひとつないと言えるのです。したがって、全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのです。主なる神と小羊は、礼拝の中心となるのです。この礼拝は、ただ、この世にかかっているものではなく、この世に勝るものだという事実も、もうすでに見てきました。すなわち、この礼拝は、血肉の問題ではなく霊的なものであるから。

この宇宙の将来は、主なる神がすべてのものになって、すべてとなられる。これは、定められた事実ですけれども、私たちは、毎日の生活の最中(さなか)に、どなたに礼拝するでしょう。『悪魔ですか、それともイエス様でしょうか』という一番、大切な質問に答えなければいけないのです。これは実に恐るべき戦いを意味しています。

ところで、私たちは、喜びの声をあげて、確信して、信仰によって、今日(こんにち)でさえも、将来のことばを聴くことができるのです。すなわち、「ほふられた小羊こそ、力と富と知恵と勢いと誉と栄光と賛美とを受けるにふさわしい。御座にいます方と小羊とに賛美と誉れと栄光と権力とが世々限りなくあるように。」

私たちは、今日、この礼拝に関係している事柄について、ちょっと考えたいと思います。

まず、『聖書と礼拝』についてです。ご存知のように聖書は、数え切れない多くの事柄について語っています。この多くの事柄の後ろに、ただ一つの問題があります。すなわち、礼拝という言葉に含まれています。あらゆる事柄の終わり[最終目的]は、生けるまことの神に対する礼拝です。もし、私たちが、今日の世界のあらゆる事業と試みを見ると、ちょうど反対のことを見るのです。すなわち、神ではなく、悪魔が礼拝されたものということを見るのです。悪魔は、高き者になろうと考えた時、主なる神を拝もうと思わないで、かえって、『全人類が悪魔の礼拝者となるように』と努めています。けれども、宇宙の将来は、全能者にして主なる神と小羊とがその聖所なのです。すなわち、全能者にして主なる神と小羊とが、礼拝の中心になることは確実です。

聖書は、何について語っているのでしょうか。最終的な目的は、いったい何なのでしょうか。その答えは、礼拝です。これを絶えず、覚えるべきなのではないでしょうか。なぜならば、何と多くの人々は、ただ一つの真理をもって、この真理は、お手の物になったでしょう。たとえば、ある人は、いつも、救いについて考えて話します。他のキリスト者は、一生懸命、聖書の預言について研究し、預言だけが大切であると考えています。また、聖書は、信じる者の奉仕について語っているのです。けれども、どうか?これは、全部じゃない。また、教会に対する偉大なる啓示は、何という大切なことでしょう。けれども、ある人々は、ただこれらの教会、新約聖書の教会について話すのです。もし、私たちが、ただ一つの真理をもって、いつまでも、このことについて話すと、この結果は、制限と弱さを意味しているのです。

もちろん、救い、預言、奉仕、教会という真理は、大切ですけれども、しかし、最終的な目的を忘れることはいけません。これらの事柄、これらの真理は、目的を達するために必要です。けれども、鎖のただ一つの輪を持っているだけではいけないのです。聖化、成長は大切です。教会の真理を見ることも大切ですけれども、これらの真理は、終わりを意味しているのではない。聖化と教会の目的は、生けるまことの神を拝むこと、礼拝することです。

聖書は、事実、数えられない多くの事柄について語っていますけど、これらの事柄は、決して、終わり[最終目的]ではありません。終わりは、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられることです。すなわち、神に対する完全で無制限な礼拝、そのものであります。出エジプト記二十章に、いわゆる十戒、モーセの十戒について、詳しく書いてあります。もちろん、十戒は、イスラエルの民に対する主の掟でした。あなたは、「私たちは、律法の時代に生きていない。私たちは、教会の時代、すなわち、恵みの時代に生きているのですから、このモーセによって示した十戒は、我々に当てはまらない」と、言うかもしれない。けれども、決してそうではありません。

主なる神の示された掟は、主と同じように、時間的ではなく、永遠に渡って、有効なのです。申命記6章5節を見ると、皆さんよく聞いたことばです、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』ただ、『主の存在を認めなさい』ではない。ただ、『信じなさい』ではない。『主を愛しなさい』とあります。どうでしょうか。このみことばは、ユダヤ人に対する掟だけでしょうか。過去の時代に対する掟だけでしょうか。新約聖書には、『主なるあなたの神を愛し、ただ神にのみ仕えよ』とありますが、旧約聖書には、『あなたは、わたしの他に何ものをも神としてはならない。あなたは、自分のために、刻んだ像を作ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない』とあります。私たちは、創世記からヨハネの黙示録までに、同じことについて読みます。最終的な問題は、唯一の神の無制限の礼拝なのです。

結婚の掟はどうですか。毎日の生活に対する掟は、いかがでしょうか。ツンボやメクラの掟はどうでしょう。百姓の仕事に対する掟もあるんです。すなわち、『牛とロバとを組合わせて耕してはならない』と聖書は言っているのです。着物に対する掟もあります。『羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない』とあります。二種類の寸法や目方、同じくびきの下に二種類の動物、着物においても、二種類の材料はいけないと、主は言われます。これはいったい、どういうことですか。何を意味しているのでしょうかと言いますと、生けるまことの神は、あらゆる『混合』は、大嫌いです。混合の初めは悪魔です。

この事柄の後ろに、ただ一つの問題があります。すなわち、神の絶対的な完全な無制限な礼拝です。しかし、混合があれば、これは不可能です。結婚に対しても、混合はいけないという主なる神の掟があるのです。結婚生活においての混合は、姦淫です。イスラエルの民の歴史を見ると、この混合の呪いがわかります。イスラエルの民は、絶え間なく主なる神に対する姦淫をして、偶像礼拝者になってしまいました。聖書の中に出てくる、バラムは混合をしているのです。

黙示録
2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。

生ける神を礼拝し、偶像を拝むことは、結局、不品行です。このような混合があれば、生けるまことの神に対する不正義(誠実?)な礼拝は不可能です。お解かりになったでしょう。聖霊によって見たでしょう。すなわち、聖書の数え切れない多くの問題、多くの事柄の後ろに、いつもこの主に対する礼拝は、問題です。たとえば、旧約聖書の会見の幕屋について読むと、解かります。この幕屋の材料、幕屋の器や物は、全部、主なる神に示しているものでした。

また、宮の歴史を見てもわかります。祭司たちの歴史を見てもわかります。王国の歴史、預言者を学べばわかる。これらの事柄の後ろに、なるほど、礼拝の問題があるという事実がわかります。主なる神は、いったい、どうしてサウロという王を捨てたのでしょうか。混合があったから。サムエルという預言者は、サウロ王に、「それならば、私の耳に入るこの羊の声と私の聞く牛の声は、いったい何でしょうか」と、尋ねました。その答えは、「人々が、アマレク人のところから引いてきたのです」というものでした。民は、あなたの神、主に捧げるために、羊と牛のもっとも良いものを残したのです。主なる神は、『残してはいかん』とはっきり言ったのに。

けれども、主なる神は、混合を欲しくない。アマレク人は、主なる神の民の敵でした。ですから、主は、決してこのような混合を受け入れることができなかったんです。したがって、サウロは、主から捨てられた者になってしまいました。そして、主は、それから、神は、サウロを退け、ダビデを王とされたが、彼について証しをして、「わたしは、エッサイの子、ダビデを見つけた。彼は、わたしの心にかなった人である。わたしの思うところをことごとく実行してくれるのであるから」と、主は言われました。

どうしてでしょうか。どうして、ダビデは、主の御心にかなった人で、主の思うところを実行してくれたのでしょうか。タビデが、心から生けるまことの神を礼拝したからです。詩篇の大部分は、ダビデによって書かれたものですけれども、詩篇を読むとわかります。ダビデは、決して完全な男ではなかった。大きな罪を犯してしまった。けれども、彼は、決して、混合をしなかったのです。主の思うところは、いつでもダビデも思うところでした。ダビデは、主に向かって、心を全うする者でした。ダビデは、礼拝者でした。

実にあらゆる聖書の事柄や真理の後ろに、礼拝の問題があります。聖書の解約を研究してみると解かります。安息の問題は、単なる掟でしょうか。それとも、この後ろに礼拝の問題ではないでしょうか。主なる神が、すべてのものであって、すべてとなられることが問題です。これを絶えず覚えるべきではなのではないでしょうか。もし、誰かが、ただ一つの真理を持って、いつまでも、このことについて話すと、この結果は、今、話したように制限と弱さを意味します。残念ながら、おもな教会の出発はこれなのです。

しばしば、聖書の真理ではなく、自分で作った教えです。聖書の真理は、終わりを意味していません。あらゆる真理の目的は、生けるまことの神を礼拝することのはずです。けれども、何と多くの信者は、単なる掟を守ろうと努力し、彼らの生活にあって、主はすべてとなられることができないでしょう。我々の生活において、主はすべてでありましょうか。他の事柄は全部、目的として、主に対する礼拝なのでしょうか。宇宙の将来は、何でしょうか。全能者にして主と小羊とが、礼拝の中心になること、それなんです。

コリント第二の手紙四章四節のように悪魔は、この世の神です。今の我々の目に見える世界の支配者は、悪魔です。もちろん、主が許しているからです。

【参考】第二コリント
4:4 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

もし、私たちが悪魔を拝まなければ、地獄の激動を感じるでしょう。悪魔は、あなたを殺そうと努めています。アベルという義人は、主のみに礼拝して、悪魔はすぐ、カインによって、この礼拝者を殺してしまいました。疑いもなく、私たちは、悪魔の攻撃の的です。私たちが、生けるまことの神を拝み、と同様に、悪魔に仕える、これこそが悪魔の目的です。毎日毎日、悪魔は私たちを誘惑しようと、努力しています。そして、もし私たちが、主から離れて罪を犯したら、悪魔はすぐに、私たちを告訴します。

しかし、そればかりではなく、主に対しても、悪いことを言うのです。すなわち、「神は、本当の愛を持っていない。また神は、不忠実なものである」などと言うのです。苦しみと困難によって、悪魔は、何としばしば、自分の目的を達したのでしょう。覚えるべきことです。すなわち、あらゆる教えは、問題ではなく、主なる神に対する礼拝が問題です。あらゆる聖書の教えや真理の後ろに、礼拝が問題です。キリスト者の生活とは、結局、礼拝生活であるべきなのではないでしょうか。

キリスト者の生活の始まりは、いわゆる、救いです。詳しく言えば、義とされるのは、イエス様を信じる信仰によってです。私たちの義とされたことは、『傷もしみもない、小羊のようなキリストの尊い血によったのである』と、ペテロ第一の手紙一章十九節に書きしるされています。『傷もなく、汚れもない、小羊のようなキリストの尊い血によったのです』とあります。これこそが、私たちの救いの喜び、私たちの経験ですけれども、これはいったい何を意味しているのでしょうかと言いますと、悪魔は、私たちに対する権利の要求を全然、持っていないのです。

旧約時代で、いかに罪人は神の御前に出ることができたのでしょうか。傷もしみもない羊を選び、そして、罪人は、羊の頭に両手を置きました。こういうふうに自分の罪は、離され、また、羊の清さは、罪人のものになったのです。もちろん、これは、信仰の問題でした。生けるまことの神の御言葉に対する信仰の問題でした。御言葉を信じる信仰によって、罪人はいのちと救いを自分のものとしました。

イエス様の救いの土台は、いったい何なのでしょうか。神は罪人の生活のすべてのことにおいて、第一のものとなり、また、こういうふうに悪魔は、我々に対する権利と、権利の要求を持っていないということです。これこそが、我々の救いの土台です。御子イエス様によって、悪魔は、権利の要求を持っていません。小羊によって、父なる神は満足されているのです。悪魔は、我々に対する力を少しも持っていないのです。これは、動かすことのできない事実です。

けれども、悪魔は、我々にいつも、「これは嘘だ。自分の生活をごらんなさい」などと言うのです。私たち、一人ひとりは悪魔が攻撃している者です。そして、何としばしば、私たちの弱さ、自分の罪、自分だけを見たことでしょう。こういうふうに主は、すべてではなく、悪魔は、権利の要求を持っていて、我々を訴えることができたのです。

けれども、終わりは弱さではなく、主にある大いなる力であり、悲しみではなく、満ち溢れる喜びです。私たち一人ひとりが、クリスチャン生活における一番、小さいことでさえも、経験によって、自分のものとしなければならない。ご存知のように、これは子供の遊びではありません。苦しみと困難によって、主が私たちを教育されます。もちろん、あらゆる経験は問題ではなく、主なる神に対する礼拝が問題です。あらゆる経験の後ろに、礼拝は問題です。私たちの経験は、終わりを意味していません。あらゆる経験の目的は、生けるまことの神を礼拝することのはずです。苦しみと困難によって、私たちは、主をもっとよく知らなければいけないのです。

あなたは、「私はもうダメだ。自分の信仰は変になった」などと、言うかもしれない。けれども、この教育の終わりに、あなたは、主をもっとよく知ることができ、悪魔は、あなたに対する権利の要求を失ってしまったということが、明らかになります。けれども、何としばしば、私たちは、「ああ、悪魔は勝利を得た」と考えたでしょう。けれども、主は忠実であって、終わりは悪魔の勝利ではなく、主を拝むことです。

信じる者の奉仕と礼拝について、考えるともちろん解かります。旧約聖書を読むと、次の事実が解かります。すなわち、奉仕と礼拝は二つのものではなく、一つのことであるということが、わかります。たとえば、出エジプト記七章十六節に、「わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ」とあります。そして、イスラエルの民は、主を礼拝するために、犠牲の動物を持って来なければなりませんでした。主を拝むことは奉仕でした。

どうでしょうかね。私たちの奉仕は、いったい何なのでしょうか。主に対する礼拝でしょうか。貧乏人を助けたり、物を配ったり、訪問したり(すること)は、これは、我々の奉仕でしょうか。このような奉仕をしながら、自己を高める、悪魔を拝むことは可能なことです。したがって、問題は、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられることです。もちろん、これは、すでに定められた事実なんです。けれども、私たちは、毎日の生活の最中に、「どなたに礼拝するでしょうか。悪魔ですか、それともイエス様でしょうか」という、一番、大切な質問に答えなければいけないのです。私たちは、主のために、いかほど奉仕するか、あるいは、いかほど聖書を読み、祈る(かという)ことは、実は問題ではない。それでは、大切なのは、いったい何なのでしょうか。主ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなることが、それなんです。

我々の主に対する奉仕は、礼拝でしょうか。もし、そうだったら、私たちは、イエス様をもっとよく知ることができ、悪魔は、我々に対する権利の要求を失ってしまいます。奉仕と礼拝は、一つのことであるのを覚えるべきです。いったい、どうして私たちは、福音を述べ伝えるのでしょうか。ただ、人々が救われるように、そのためでしょうか。決して、そうではない。問題なのは、主なる神が、礼拝の中心になるように、伝道する者は、終わりではない。この宇宙の終わりは、礼拝であり、そして、他の事柄、全部が礼拝にかかっているのです。

伝道の目的は、コロサイ書1章18節のように、「主イエスご自身が、すべてのことにおいて、第一のものとなるように。」これこそが、伝道の目的です。どうでしょうか。もし、未信者が集会に参りますと、その人々は顔を伏せ、主なる神御自身を拝み、「まことに、主が、あなたがたの内にいる」と、認めざるを得ないのでしょうか。もし、そうしなければ、我々の奉仕は、礼拝ではありません。

「主なる神が、あなたがたの内にいる。」これが、我々の奉仕の本質でしょか。我々の奉仕によって、主ご自身が、すべての事において、第一のものとなることができるのでしょうか。これが、個人個人の生活、また、共同的な生活の目的であるべきです。

全国のあらゆる集会、そのものが終わり[最終目的]なのではない。けれども、どこにおいても、イエス様の代表であるべきです。すべての集会によって、イエス様御自身が、すべての事において、第一のものとなるように。未信者は、「まことに神が、あなたがたの内にいる」という強い印象を受けなければいけません。我々の交わりは、どうでしょうか?どうして、交わりは大切なのでしょうか?ただ良い気持ちを得るため、また、一緒に喜ぶためなのでしょうか。決して、そうではありません。

霊的な交わりは、悪魔の軍勢に対する恐るべき力を意味しています。したがって、悪魔は、いつの時代でも、この霊的な交わりを滅ぼそうと努めました。霊的な交わりによってのみ、未信者は、「まことに神が、あなたがたの内にいる」と認めざるを得ない。霊的な交わりは、決して、理論や賛成することの問題ではありません。霊的な交わりは、聖霊なる神の働きの結果です。この交わりを、悪魔は滅ぼすことができません。問題が起こっても、苦しみと困難があっても、悪魔が攻撃しても、この霊的な交わりは、確実です。霊的な交わりは、実にイエス様に対する力強い証しです。すなわち、本当の礼拝です。

どうですかね。ひとつのことを覚えましょう。すなわち、あらゆる出来事の後ろに、この礼拝の問題があります。そして、私たちは、いつも、これによって、悪魔が喜ぶでしょうか、それとも、イエス様御自身が、すべての事において第一のものとなるのでしょうか。もし、悪魔がこれによって、自分の目的を達すると、私たちは、これを否定しなければならない。私たちは、毎日、瞬間瞬間にこれを考えるべきです。私たちが何を得るかは問題ではない。イエス様が礼拝の中心になるかどうかが、大切です。

宇宙の終わりは、全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのです。すなわち、礼拝の中心です。その時、呪われるべきものは、もはや、何一つない。主御自身が、すべての事において第一のものとなるように、ひたすら祈りましょう。


おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿