2022年12月9日金曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】6.殉教者の数が満ちるまで

6.殉教者の数が満ちるまで

黙示録6章9節から1節まで

1.苦難の前半の殉教者
2.忠実なユダヤ人の残りの者
3.答えられた祈り
[1白い衣
2どれだけ待たなければならないか

(9)小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。(10)彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」(11)すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。(黙示6・9~11)

イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。」と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」(マタイ24・3~9)

マタイの福音書の24章3節から9節と黙示録の6章とを比較してみるのは、大変興味深いことです。マタイの福音書24章3節から9節で、イエス様は、ユダヤ人にのぞもうとしている苦難について述べておられます。同じことが黙示録6章にも記されています。どちらも同じように、戦争、ききん、病気、地震が、苦難の始まりとして述べられているのです。またマタイの福音書24章では、その次に迫害がやってくることが語られていますが、同じことが黙示録でも記されています。

ここでは、三つのこと、「苦難の前半の殉教者」、「忠実なユダヤ人の残りの者」、そして「答えられた祈り」についてごいっしょに考えてみましょう。

1.苦難の前半の殉教者


黙示録6章9節で、私たちは御座の前にある祭壇を見ることができます。祭壇は礼拝がささげられる場所です。黙示録には祭壇について書かれたところが七ヵ所あります。祭壇には多くの殉教者たちの魂があります。彼らの殉教の原因は、イエス様を証ししたためでした。もし彼らが証しをせず、黙っていたならば、殺されることはなかったでしょう。そして神の祭壇の下、神のもっとも近くにいることもなかったでしょう。

この殉教者たちについては、次の三つのことが言えます。

はじめに、彼らは殺されたにもかかわらず、死んでいるのではなく、生きています。死ぬということは、決して存在がなくなることではなく、存在の場所を変えることです。

次に、この殉教者たちは、見られることができる存在でした。ヨハネは彼らを見ることができたのです。

そして最後に、彼らは御座のもっとも近くにいました。彼らはイエス様のそばにいたのです。

このように、死も、殉教者たちを神から引き離すことはできませんでした。殉教をとおして、彼らはいっそう神に近づいたのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8・38、39)

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。(ピリピ1・21~23)

私たちは、最初の四つの封印が解かれたとき、四つの生き物の声が「来なさい。」というのを聞き、馬に乗っているサタンの手下たちに裁きを行う命令が与えられたことを見てきました。神から離れている者たちに対する裁きは、御座から直接出たものです。しかし黙示録のこの部分での信者たちの苦難は、御座から出ているのではありません。ですからこの部分には、私たちは御座から出るどのような命令も見ることがないのです。

神はこれら裁きによる苦難を許しておられます。しかし神は悪魔の手綱を持っておられます。なぜなら、これらの苦難が、神の栄光を現わすために用いられるからです。ここで私たちは、殉教者たちがいつ死ぬのかについてすこし考えてみましょう。

教会の携挙の後、反キリストが現われ、七年の間この地上を支配します。殉教者たちは、この七年のうちの最初の三年半の間に命を捨てるのです。ということは、これらの殉教者たちは、大きな苦難の前に死ぬのです。大きな苦難は、反キリストが支配する後半の三年半の間に起こるのです。

封印を破ることによって、反キリストの七年の支配の間にどういうことが起こるのかについては、私たちには伝聞の形で、また簡単な記述によって示されています。

封印を破ることによって行なわれる裁きは、あたかも本の目次のように順に示されています。つまり黙示録6章1節から8章1節までは、裁きの内容が簡単に記されています。封印が破られたあとで、巻物が開かれ、はじめて巻物の内容が詳しく述べられます。それについては、8章2節から22章5節までに書かれています。また、黙示録の中には、同じことが繰り返して述べられている箇所が出てきます。

2.忠実なユダヤ人の残りの者


現代においては、まことの教会こそが神の証しです。しかし教会の携挙のあとは、ユダヤ人たちが神の証しとなります。彼らが告げ知らせるのは、神の恵みではなく、来たるべき神の国です。

今日は、まだ、恵みと救いの時代です。私たちは、「イエス様のもとに来なさい。罪を告白しなさい。そしてあなた自身をイエス様に明け渡しなさい。十字架について死なれたイエス様に感謝し、あなたの生活の支配権をイエス様に明け渡しなさい」という招きを受けているのです。

イエス様を本当に信じる者は、永遠のいのちを持っています。これらの人々は、携挙の時にイエス様の花嫁としてそこに置かれます。そして、教会の携挙のあとには、裁きと復讐の時が来るのです。パウロが瞬間にして回心したように、その時にはイスラエルの民も神の霊に動かされて、神の国の到来を宣べ伝えるようになります。彼らも、イエス様をメシア、救い主として宣べ伝えるようになります。彼らの真実と勇気と熱心との結果、彼らは殉教者となるのです。

そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。(マタイ24・9)

黙示録6章10節では、殉教者たちは復讐を求めて叫んでいます。イエス様もステパノも、その殉教のときに、「彼らをお赦しください」と祈られました。これが「恵みの時代の殉教」の特徴です。しかし、この黙示録の部分で、殉教者たちはどうして復讐を求めたのでしょうか。なぜなら、「恵みのとき」がすでに過ぎ去り、「復讐のとき」が来たからです。この殉教者たちとは、証しのために命を捨てた殉教者たちです。

6章10節で、この殉教者たちは三つの言葉で神に対して呼びかけています。「主」、「聖なる方」、「真実な方」です。

「主」とは、全てがその主人に属する、という意味です。11節の「しもべたち」も、この主のものです。もし、しもべが危害を受けるなら、その所有者も危害を受けます。もし、しもべが殺されるなら、その所有者は大切な持ち物を失うことになります。

さらに彼らは、「聖なる方」、そして「真実な方」と呼びかけています。主なる神は、罪とけがれとを許すことができない真実なお方です。殉教者の血を流すことは、不正の最たるものです。殉教者たちが真実な方に呼びかけたのは、真実な方は決して失望させないお方だからです。

しかしここでの裁きの訴えは、悲しみから出た声、自分自身に対する悲しみから出た叫びでは決してありません。なぜなら、彼らは自分の命をも惜しまなかった人々であり、すでに神の御座の近くにおかれて喜んでいる人々だからです。神の近くにいることは、真の幸福です。

彼らの叫びは神の栄光を悲しむ叫びでした。これらの人々は、神に向かって「自分たちのために復讐してくれ」と言っているのではなく、「神の栄光のために復讐してくれ」と叫んでいるのです。

殉教者たちの思いは何だったのでしょうか。彼らは、「神の栄光が問題である。神の国が問題である。悪魔を滅ぼすことが問題である。神の栄光と神の義を現わすことが問題である。」と叫んでいるのです。彼らにとって、もっとも大切なのは、自分自身でも、自分の名誉でも、自分の持ち物でも、自分の健康でもなく、ただ、神の栄光のみが問題だったのです。

しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。(詩篇73・23~26)

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。(詩篇73・28)

殉教者はすでに、自分のことと神のことを分けることができない者になっているのです。彼らはただ一つの願いを持っています。それは、神が「全てにおいて、全てになられる」ということです。

しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。(第一コリント15・28)

殉教者たちは、地上の全ての場所における真理と正しさと、正義の勝利を求めました。

殉教者たちは、イエス様だけがあがめられ、そしてほめたたえられることだけを望んでいたのです。彼らの態度は、自分たちに何が起こるかではなく、イエス様だけがあがめられることを望む、というものでした。

しかし、彼らがこのような態度をとった結果、彼らはまわりの人々からもっとも悪い者だと言われるようになるのです。しかし、このような一見して悪魔の勝利に見えることも、実は悪魔の表面的な勝利にしか過ぎないのです。なぜなら、イエス様はこのような殉教者たちの祈りに対して、はっきりと答えられるからです。

3.答えられた祈り


次に、「答えられた祈り」について考えていきましょう。殉教者たちの祈りは、無駄ではありませんでした。彼らの祈りは答えられました。生きておられる主は私たちの祈りを聞いてくださいます。しかし、私たちの望みどおりに聞かれるとは限りません。

殉教者たちの疑問は、主はいつ正義を現わされるのかということです。それは「神の正義」を求める叫びでした。あらゆる不法に対して、神の正義が現わされなければなりません。このような叫びは、神に対する愛から来ます。なぜなら殉教者にとって、神の正義と神の栄光が踏みにじられることは耐えられないことだからです。

さて、黙示録の中には「地に住む者」という言葉が繰り返し出てきます。地に住む者というのは、どのような人のことを指すのでしょうか。

「住む」というのは、「気持ちよくしている」状態です。それは「巡礼する」ということの逆です。聖書によれば、この地とは悪魔の座のあるところです。したがって、地に住むというのは悪魔の座のあるところで気持ちよくしているということになります。地に住む者とは、あたかも自分が主人であるかのようにふるまう、神なしでいる、また神に敵対している人々のことです。

これに対して、「殉教者たち」とは巡礼者であり、この地上に対してはよそ者のように生きている人々です。したがって殉教者たちは、真の所有者であり真の支配者である主に向かって、神がその約束を成就し、神の国をこの地上にもたらしてくださることを求めているのです。

この祈りに対して、彼らに二つの答が与えられました。白い衣が与えられ、そしてどれだけ待たなければならないか、ということを知らされたのです。

[1白い衣


白い衣とは、神に認められることを意味します。この世において、彼らは迫害を受け、悪い者であるといわれました。しかし、神は彼らを認めてくださるのです。

その昔、訴えられた人は黒い着物を着せられました。しかし無実だとわかった人には白い着物が着せられました。殉教者たちは、この地上では悪者扱いされますが、天に帰ったときには白い衣を着せられるのです。

黙示録には、三種類の白い衣が出てきます。

そのひとつは、古語で「ストラ」という長いゆるやかな外衣です。黙示録6章11節、7章9節と13節に出てくる白い衣はこれで、裁判のときに与えられるのもこのような着物です。

いまひとつは、古代ギリシャで見られるような、左肩に掛けて右の腰を巻きながら左腕に戻る長布、「ヒマチオン」という衣です。黙示録3章4、5、18節、4章4節に出てくる白い衣はこれを指し、勝利を得る者に褒美として与えられる衣です。

さらにもうひとつは、「ブシノン」という麻布の衣です。黙示録19章8節に出てくるきよい麻布の衣はこれで、小羊の花嫁に着せられる衣です。19章14節の白い衣は、再臨なさるイエス様とともに来る軍勢が着ているものです。

これら全ての白い衣は、全て神の証し人を表わします。

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ10・32~33)

殉教者たちは、その完全なご褒美を、第一の復活のときにいただくのです。

また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。(黙示20・4~6)

[2どれだけ待たなければならないか


殉教者たちはまた、彼らの祈りに、はっきりとしたお答えをいただいたのです。そのお答えとは、苦難のときは短い間である、というものでした。苦難のときは、限られているのです。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。(第二コリント4・17)

なぜ、苦難が必要でしょうか。なぜなら、苦難以上に私たちをイエス様に近づけるものはないからです。多くの人々はそれぞれ、イエス様ゆえの隠れた苦しみ、悩みを持っています。そしてこれらの苦しみ、悩みはある意味で「殉教」に通じるものであり、これをとおしてイエス様のより近くに来ることができるのです。イエス様が望んでおられるのは、私たちがもっとイエス様のおそば近くに来ることです。そのために、苦難が必要なのです。

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示3・21)

苦難が必要であるもう一つの理由は、神の忍耐と神の慈愛です。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3・9)

また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。(第二ペテロ3・15)

さて、教会の携挙はいつ起こるのでしょうか。それは「救われた人たちの数が満ちた時」です。

兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、・・・・(ローマ11・25)

同じことを私たちは黙示録6章に見ることができます。「いつまでですか」という問いに対して、イエス様は、「あなたがたの兄弟である殉教者の数が満ちるまで」と言っておられます。この「兄弟たち」というのは、苦難の時に、反キリスト時代の残りの三年半の間に、イエス様を信じるようになるユダヤ人のことです。つまり、教会の数が満ちるだけではなく、殉教者の数も満ちるまで、ということが示されているのです。

ここで神は、「神が定められた殉教者の数が満たされるまで、殉教者が殺される」のを待っておられるのではなく、「救われる者の数ができるだけ多くなるように」待っておられる、ということが強調されています。

「いつまでですか」という問いに対して、神は三年半というはっきりとした期間を示しておられます。この殉教者である「ほかの兄弟たち」について、私たちは黙示録20章4節で、「獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」であることを知ります。ここでいわれる獣の像、すなわち反キリストの像は最後の三年半の間に建てられます。したがって、殉教者たちが終わりの三年半の間に出ることは明らかです。

6章と20章に出てくる二種類の殉教者は、神からの栄光のからだを受け、そしてイエス様とともに千年王国を支配するようになります。

主イエス様が私たち全ての者に、私たちも死んだあと殉教者の群れに加わり、御座の近くで礼拝をささげるようになる確信を与えてくださいますように。そして殉教者の思いを持ち、自分自身が大切なのではなく、神の国がうち建てられることが大切であるという確信を与えてくださいますように。そして、この世にあってはよそ者として天国への巡礼者となり、天において主なる神の承認を受け、天で神に喜ばれる者になるという確信を与えられますように、心から祈りたいと思います。

しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。
しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。(詩篇73・23~28)

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