2022年12月15日木曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】9.苦難の後に御座に集う人々

9.苦難の後に御座に集う人々

黙示録7章9節から17節まで

1.どのような人々か
[1]教会ではなく
[2]旧約時代の信者ではなく
[3]苦難の時に救われるあらゆる国々の人々
2.彼らが集う場
[1]そこへの手段
[2]途中での経験
[3]苦難の後の栄光
3.御座の前で仕える
[1]しゅろの枝
[2]2神への賛美
[3]神へのつとめ

(9)その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。(10)彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」(11)御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、(12)言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
(13)長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。(14)そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存知です。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。(15)だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。(16)彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。(17)なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(黙示7・9~17)

黙示録7章9節から17節には、あらゆる国民のうちから、数えきれないほど大ぜいの群衆が御座と小羊の前に立っているありさまが記されています。黙示録には、「その後」とか、「この後」という言葉がよく出てきますが、これらはたいへん大切な言葉です。前に見た4章1節にある「この後」とは、いつのことでしょうか。それは教会の時代が終わり、真の教会は天に引上げられ、地上に真の教会がなくなった、「その後」を指しています。その時、制度としての教会は残っています。しかし、聖霊によって印を押された本当の信者たちはすでに天に引き上げられてしまっています。

いま学んでいる7章1節にある「この後」は、「場所」が移り変わったことを意味します。というのは、6章まではヨハネは天を見ていたのですが、7章から彼は地上を見ています。彼は、地上において十四万四千人のユダヤ人たちが「印を押されている」のを見ているのです。

7章9節に、また「その後」が出てきますが、これも場所が変わっています。それまでヨハネは地上を見ていましたが、9節からは天で行なわれていることを見ているのです。この場合は単に場所が変わるだけでなく、周囲の霊的な状態もまた変わっています。

1節から8節までは、これから起こる「さばき」の前の緊張感がありました。しかし9節から17節では、「勝利の歌」が歌われています。というのは戦いはすでに過ぎ去って、そこは平和と喜びに包まれた場所に変わっているのです。

この章では、三つの問題、御座と小羊の前に立っている大ぜいの人々とは「どのような人々か」、また「彼らが集う場」、「御座の前で仕える」ことについて見ていきましょう。

1.どのような人々か


黙示録7章9節にある、御座と小羊の前に立っている大ぜいの群衆とは、どのような人々でしょうか。

[1]教会ではなく


彼らは、十四万四千人のユダヤ人たちの伝道を通してイエス様のもとに導かれた人々です。十四万四千人のユダヤ人たちは、「主イエス様がまことの救世主である」こと、そして「イエス様の流された血潮によって、罪が赦される」ことを伝えました。

その結果、数えきれないほどの人々が救われることになるのです。この人々とは、教会を指すのではなく、反キリストの大きな苦難のときに救われる人々の群れを指します。

ヨエル書2章32節の預言が、ここに成就されます。

しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。(ヨエル2・32)

教会の長老のひとりが、ヨハネに次のように聞きました。「この人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と。こう聞いたのは、これらの人々が教会ではなくて別のグループの人々だったからに違いありません。

4章4節、5章8節などで、長老が冠をかぶり、立琴を持って小羊の前にひれ伏しているありさまがわかります。7章9節にある大ぜいの群衆は、冠をかぶらず、立琴を持たないで、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っています。

[2]旧約時代の信者ではなく


これらの人々は、旧約時代の信者でもありません。なぜなら旧約時代の信者たちは、教会の携挙の時に天に引き上げられたからです。

旧約時代の信者なら、ヨハネにも彼らが誰であるか、すぐわかったことでしょう。なぜならイエス様の弟子だったヤコブやペテロやヨハネは、山の上でイエス様のところにエリヤとモーセが現われた時に、教えられなくてもそれらの人々を見分けることができたのですから。

イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。(マタイ17・1~5)

ですからこれらの人々が、旧約時代の信者でないことは明らかです。

[3]苦難の時に救われるあらゆる国々の人々


しゅろの枝を手に持ち、御座と小羊との前に立っている人々は、「大きな患難の中」から救い出された人々です。彼らは、あらゆる国々の中から救われてきました。この人々はそれまで、はっきりと福音を伝えられたことがありませんでしたが、携挙の時に驚き、そして目を覚まされた人々です。

しかし、福音をはっきりと伝えられながらそれを拒み、受け入れなかった人々は、反キリストの苦難の時に、その反キリストに欺かれることになります。

その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。(第二テサロニケ2・8~12)

大きな苦難の時に、大ぜいの人々が救われます。これはまさに、神による「奇蹟」です。反キリストの苦難を通して、多くの者が救いにあずかることになります。

2.彼らが集う場


これら大ぜいの群衆は、どこにいるのでしょうか。これらの人々は、天におられる神の御座の前にいます。ではさらにくわしく、「そこへの手段」、「途中での経験」、「苦難の後の栄光」についてごいっしょに考えていきましょう。

[1]そこへの手段


どのようにして、彼らは、御座の前へ行くのでしょうか。

それはもちろん、「自分自身の努力」によってではありません。また「苦しみ」によってでもありません。多くの人々は、苦しみの結果として、その報酬として、神は天国へ招いてくださると思いがちですが、それは間違っています。

苦しみを通して、人は天国へ招かれるのではありません。苦しみは、人を神のみもとへ来させるために、神のとられる手段にすぎません。

これら大ぜいの人々は、白い衣を着ています。その衣は、小羊の血によって白くされました。ルカの福音書15章にあるように、放蕩息子は、彼が心から悔い改めたときに、新しい着物を与えられました。こんにちも主は、悔い改める人々の罪を、かならず赦してくださいます。「悔い改め」と「白い衣」がなければ、その人々は外に投げ捨てられてしまいます。

「ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで王は言った。「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。」しかし彼は黙っていた。そこで王はしもべたちに、「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22・11~14)

これらの人々は、ただ「小羊の血を通して」、神の御座の前に近づくことができるのです。

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9・22)

「罪の赦し」は、ただイエス様の犠牲の血によってしか与えられません。「罪の赦し」がなければ、私たちは天におられる神の御座の前に出ることはできません。「イエス様の血」だけが、「赦しときよめ」とを与えてくださいます。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1・9)

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10・22)

[2]途中での経験


大ぜいの群衆は、神の御座の前へ行く途中で「多くの患難」を経験します。

弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。(使徒14・22)

このような患難はイエス様ご自身、また全てのイエス様の弟子たちによって予告されています。

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」(マルコ10・29、30)

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3・8)

彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。(ヘブル11・26)

いつの時代でも、イエス様の側に立つ人々は、苦難を経験することになります。ましてサタンが反キリストを通してその力を現わす時には、どのような苦難を経験することでしょうか。

黙示録13章1節によれば、獣の刻印を持っている者以外は「買うことも売ることもできなくなる」とあります。また、人々は飢饉をも経験することでしょう。獣、つまり反キリストの刻印を拒んだ人々は、大きな苦難を経験することになるのです。

また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。(黙示13・16、17)

[3]苦難の後の栄光


この苦難の後に、彼らは何を経験するでしょうか。

彼らは、これまで死ぬほどの迫害を受けてきましたが、いまは神のみもとでなぐさめられています。彼らは喜びの中でイエス様を賛美し、イエス様との交わりを経験しています。彼らには新しい着物が与えられ、足りないものはなく、彼らのあらゆる望みはすべて満たされています。

3.御座の前で仕える


次に神の御座の前にいる人々は、何をしているのかを考えてみましょう。

[1]しゅろの枝


戦いの時は、すでに過ぎ去りました。これらの人々は、しゅろの枝を手に持っています。しゅろの枝は、平和の象徴です。

しゅろは、勝利の象徴でもあります。当時の運動の選手は、勝利のしるしとしてしゅろの枝を与えられました。さらに、しゅろ、なつめやしは喜びの象徴でもあります。

「最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。」(レビ23・40、41)

また、この祭りには七日間、仮庵に住まなければならないことが旧約聖書に記されています。

「これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ23・43)

イスラエルの人々は、仮庵の祭りによって神がエジプトから救い出してくださった時のことを思い起こしてきました。彼らはその祭りで喜びのしるしとして、しゅろの枝を手に持ったのです。

また神の御座の前にいる人々は、しゅろの枝を手に持っていただけではありません。

[2]神への賛美


彼らは神の御座と小羊との前に立ち、「神と小羊とをほめたたえて」います。そして、だれひとり自分を誇らず、ただひたすら、全ての誉れを神と小羊とに帰しています。

これらの人々は、自分の力や努力では決して天国には行けないことをよく知っています。「礼拝」が、彼らのすべての中心になっています。彼らのただひとつの願いは「主に礼拝を捧げたい」ということです。ここではもう、どのような嘆きも、訴えも、自慢話も聞くことはありません。

これらの人々は、イエス様のご支配のもとにあり、イエス様の保護のもとにあり、それこそが彼らの幸せなのです。なぜなら、そこが彼らの故郷だからです。そこで彼らは生ける神、小羊イエス様との交わりを持っています。「神の前で仕える」ことこそが、私たちにとって大きな「特権」であり、また喜びです。

黙示録12章7節から9節によると、サタンは天で戦いを起こし、そこから投げ落とされてしまいます。その後サタンは、この地上で救われる人々を彼の力で堕落させようとします。しかしこの終わりの時代には、もはや救われている人々を告発しようとする者などどこにもいないのです。なぜならサタンはすでに投げ落とされてしまったからです。

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」(黙示12・10)

[3]神へのつとめ


そして、彼らは昼も夜も神に仕えています。この終わりの時代には、御座の前に、昼も夜も神に仕える人々の群れがあります。あらゆる国々の大ぜいの人々が、昼も夜も神に仕え、また礼拝するようになります。

16節からは、彼らがもはや「飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはない」と記されています。

これまで彼らは飢えと渇きに会い、迫害の炎熱を受け、多くの苦しみを経験してきました。しかしいま、すべては過ぎ去って、彼らはこれらの苦難から解き放たれています。

17節では、すばらしい三つの約束が彼らに与えられています。御座の正面におられる小羊が「彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださる」、そして「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」という約束です。

主が「彼らの牧者となる」ということは、「彼らを支配される」ということです。主のご支配のもとにある者には、本当の安らぎと、喜びと、満たしとが与えられます。

小羊であるイエス様が彼らを導いてくださいます。どこへ導いてくださるのでしょうか。「いのちの泉」である父のみもとへと導いてくださるのです。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14・6)

黙示録第七章のこの部分で、私たちは数えきれないほど大ぜいの救われた人々、幸せな人々が御座の前にいるありさまを見てきました。幸いなことに、私たちもこのように神の栄光の御座の前に出ることができるのです。

あなたはこのような幸せな人々の群れの中におられるでしょうか。小羊イエス様の血によってきよめられた人々の中に入っておられるでしょうか。アモス書4章12節の「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」という呼びかけに答え、イエス様に従いたいと思っておられるでしょうか。

主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(詩篇95・7、8)

このようにイエス様は、ご自身の血潮によって、御座の前に立つ人々を大きな喜びをもって主を賛美する幸せな者としてくださいました。また私たちにも、同じようにしてくださいます。イエス様は、あなたをきよめ、ご自身のご栄光にふさわしい者にしてくださるのです。

もしあなたが、「これから先、自分の人生はいったいどうなるのだろう。また死後、永遠に、自分はどうなってしまうのだろう」という不安と心配をお持ちでしたら、いま、あなたはご自分の罪を告白し、イエス様の流された犠牲の血潮に感謝を捧げていただきたいと思います。そうすればあなたもまた、御座におられる神をほめたたえる者に変えられます。あなたが次のような確信をもって神と小羊とをほめたたえることができれば、本当に幸いです。

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。(ユダ24、25)

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