2022年12月10日土曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】7.世界全体が揺り動かされる

7.世界全体が揺り動かされる

黙示録6章2節から7節まで

1.弟子たちの質問、世の終りの前兆
2.大きな地震
[1]地球
[2]天空
[3]人間
3.恐れおののいて祈る人々
[1]いつ祈っているか
[2]誰に向かって祈っているか
[3]何を祈っているか

(12)私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。(13)そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。(14)天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。(15)地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、(16)山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。(17)御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」(黙示6・12~17)

黙示録6章12節から17節までの部分の題名は、「世界全体が揺り動かされる」、または「世界史の最後の章」です。この部分の内容は、「終わりの時代における最後の時」です。

七つの封印を解いていくことは、のちに起こることの要約を見ていくようなものだということを、私たちは学んできました。第六の封印が解かれる部分は、黙示録の8章から20章までの内容を簡単に要約しています。この箇所では、世界がどのようにして最後の審判へと向かっていくかが語られています。

これから、次のことを学んでいきましょう。「弟子たちの質問」、「全てのものの震撼」、そして「恐れをもって祈る人たち」です。

1.弟子たちの質問、世の終りの前兆


マタイの福音書公章で、弟子たちはイエス様に向かって、いろいろと質問しました。

イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは、必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」(マタイ4・3~9)

彼らは、将来起こるべきこと、イエス様の御国が来る時や世の終わりについて知りたいと思ったのです。それに対してイエス様は、黙示録6章と同じ、終わりの時のことを話されました。この部分を少し見てみましょう。

弟子たちはマタイの福音書24章3節で、イエス様に尋ねました。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」と。

それに対するイエス様のお答えの4節から5節には、偽キリストのことが語られていますが、これと同じことは、黙示録では第一の封印が解かれる部分、6章1節から2節に白い馬に乗っている偽キリストとして書かれています。

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24・4~5)

また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。(黙示6・1、2)

次に、マタイの福音書24章6節から7節前半には、戦争のことが書かれています。黙示録6章の第二の封印が解かれる部分では、戦争と死について書かれています。

「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」(マタイ24・6~7)

小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また彼に大きな剣が与えられた。(黙示6・3、4)

マタイの福音書24章7節の後半には、ききんのことが書かれています。同じことが、黙示録6章5節から6節に書かれています。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。(マタイ24・7)

小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ、大麦三枡る一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」(黙示6・5、6)

マタイの福音書24章7節の最後、またルカの福音書21章11節に書かれている地震、疫病は、黙示録6章7節から8節に見ることができます。

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」(マタイ24・7)

それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。」(ルカ21・10、10)

小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。(黙示6・7、8)

マタイの福音書24章9節から13節までと同じことは、黙示録6章9節から11節に見ることができます。これは第五の封印が解かれる部分、迫害にあう信者を示しています。

「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ24・9~11)

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。(黙示6・9~11)

マタイの福音書24章29節と同じことは、黙示録6章12節から17節に見ることができます。第六の封印が解かれると、世界が揺り動かされます。それは、大きな不安を伴います。

「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」(マタイ24・29)

そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。(ルカ21・25、26)

私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。誰がそれに耐えられよう。」(黙示6・12~17)

弟子たちの質問は、「あなたの来られる時や世の終りには、どんな前兆があるのでしょう」ということでした。この質問に対するイエス様のお答えは、「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば」(マタイ24・15)というものでした。預言者ダニエルによって語られた「荒らす憎むべき者」というのは、旧約聖書の次の箇所にあります。

彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。(ダニエル9・27)

つまりその前兆として、大きな苦しみがこの世を激しく襲い、偽キリストがエルサレムにある宮の中に入り、あらゆる人々に自分を礼拝するように求めるようになります。

だれでも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。(第二テサロニケ2・3~4)

イエス様は、弟子たちの「あなたの国はいつ来るのですか」という質問の答として、黙示録の第一から第六の封印が解かれる部分の内容を預言なさったのです。そして、終わりの時には、世界はどのようになって終わるのかについて、次のように預言なさっておられます。

だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。(マタイ24・29、30)

私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」(黙示6・12~17)

これについて、もっとくわしく学んでみましょう。まず、大きな地震から見ていきましょう。

2.大きな地震


ここで起こる地震とは、地球上の限られた部分で起こる地震ではなく、地球の全体が、世界中が、さらには宇宙の全体が揺り動かされる大地震のことです。同じ大地震が、黙示録11章13節と16章18節にも記されています。

そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。(黙示11・13)

すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。(黙示16・18)

[1]地球


最初に揺り動かされるのは地球です。聖書において「地震」は、つねに裁きを意味しています。イエス様が私たちの罪のために裁きを受けられ、十字架の上で息を引き取られたときにも、地震が起こりました。

すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。(マタイ27・51)

主なる神は、地震をもって、全ての罪に対する怒りを現わしておられるのです。そして黙示録6章では、イエス様の裁きを受け入れなかった人々が裁かれているのです。

興味深いことに、地震を記録する震度計は、原子爆弾の爆発による震動をも記録します。つまりこの地震は、原子爆弾によって引き起こされるものかもしれないのです。

[2]天空


しかし、地球が動かされるだけではなく、天空もまた動かされます。2節の後半には、「太陽も黒くなる」と書かれています。太陽はしばしば、生ける神を象徴するものと考えられています。

まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。(詩篇84・11)

神なる主は、太陽です。

自然が太陽を必要とするように、人間は生ける神を必要とします。太陽が月に隠されるときに日蝕が起こります。多くの人々には、ちょうど日蝕で太陽が隠れてしまうように、自分の罪のために神が隠れてしまわれることがしばしば起こります。

あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59・2)

罪の問題が解決されていない状態では、神との交わりはありえません。そして、光の源である神との交わりが失われるときに、暗やみがきます。暗やみはまた、裁きの象徴でもあります。

主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真暗やみとなった。三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。(出エジプト10・21~23)

出エジプト記においても、裁きのときにエジプト全土は真っ暗やみになりました。また、イエス様の裁きのときにも、暗やみが起こりました。

さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。(マタイ27・45)

終わりの時代にも、同じような暗やみが起こる、と預言されています。

わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。(ヨエル2・30、31)

だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。(マタイ24・29)

水素爆弾などの爆発により、地のちりが大空高くに舞い上がり、太陽を見えなくしてしまうということもありうるのです。

太陽が光を失うときに、月もその光を失ってしまいます。月はしばしば人間と人間の知恵を象徴します。私たちは文学、音楽、美術などにおいて、すでに人間の精神が暗くなっているのを見ることができないでしょうか。

星もまた地上に落ちます。ここでの星というのは流星群かもしれず、また地球のまわりを回っている人工衛星のことかもしれません。これらの人工衛星から水素爆弾が発射されるということはありうることです。

「星というものは、よく、人間にはっきりとした方向、理想を指し示すもののたとえとして用いられます。たとえば家族とか、結婚とか、真理とか、清さとか、忠実さなどの理想の方向を象徴する意味で用いられます。しかし、多くの人々は、自由とか、愛とか、平和とか、正義とか、そういう言葉の中にまったく異なった概念をもちこみ、お互いに理解しあっている気になっています。非常に多くの人々が、何が正しくて何が間違いであり、何が真理で何が偽りであるかをほんとうに理解してはいません。

このようにして、エゼキエル書32章8節にある「わたしは空に輝くすべての光をあなたの上で暗くし、あなたの地をやみでおおう。」という預言の言葉が成就されるのです。

黙示録6章14節をみると、「天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり・・・・」とあります。聖書では、天はしばしば地球を取り巻いている空を意味しています。地球を取り巻く空気がなければ、人間も動物も植物も生きていくことはできません。巨大な水素爆弾の多数の爆発によって、このような空気の層が破壊されることはありうることです。空気の層が破壊されるとき、この地上の生命を守るものはなくなってしまいます。

6章14節には、続けて「すべての山や島がその場所から移された。」とあります。山は人間のしっかりとした土台であり、島は海の中にある人間の逃げ場のようなものです。しかし、これらのものは全て揺り動かされ、移されるのです。なにものも動かないものはないのです。

黙示録6章10節において、私たちは殉教者たちの叫びと祈りを学んできました。第六の封印が解かれるのは、この殉教者たちに対する神のお答えではないでしょうか。神は祈りに対して、しばしば地震をもって答えられます。

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4・31)

ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。(使徒16・26)

「父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。」(ヨハネ12・28~30)

[3]人間


地球や天空ばかりでなく、人間もまた揺り動かされます。全世界と全宇宙とを揺り動かした大地震は、人間をも揺り動かすのです。全てが揺り動かされます。揺り動かされないものは何一つありません。

この世界を研究し、この世界を支配することができると考えた人々は、これによってどのような影響を受けるでしょうか。「神なくして自分の力で美しい世界を造れる」。このように考えている人々は、その考えが「揺り動かされて」しまうのです。そして人間は、驚き、恐れ、絶望におそわれます。このことについて、もっとくわしく見てみましょう。

3.恐れおののいて祈る人々


「黙示録6章15節では、大ぜいの人々が集っているのを見ることができます。彼らは七つの異ったグループからなっていますが、この七という数字は、完全数です。ということは、小羊イエス様の救いを拒んだ全ての人が、ここに集っているということを意味しています。恐怖が彼らを一つにしたのです。どんなに自説にがんこな人も揺り動かされるのです。この世でもっとも強い権力者も力を失ってしまうのです。ここでは神の救いを拒んだ思い上がった人々が、もぐらのようにほら穴や山の岩間に隠れようとしています。しかし、これらの人々は、山や岩に向かって「落ちてくる水爆から私を守ってくれ」と言っているのではなく、「御座にある方、小羊の怒りから私を守ってくれ」と叫んでいるのです。

これらの人々は、水素爆弾や人間の武力から隠れようとしているのではなく、小羊の怒りから隠れようとしているのです。

次に私たちは、「いつ祈っているか」、「誰に向かって祈っているか」、そして「何を祈っているか」についてごいっしょに考えていきましょう。

[1]いつ祈っているか


これらの人々が祈っているその時は、「怒りと裁きの時」なのです。ですから、彼らの祈りはすでに「遅すぎる」のです。

私たちが生かされている今は、「恵みと救いの時」です。今日、すぐに罪を悔い改めてイエス様のみもとに来る人は、罪の赦しを受け、永遠のいのちと平安を得ることができます。

聖書からは、「神の怒り」について多くを学ぶことができます。しかし「小羊の怒り」については、あまり多くを知ることができません。「小羊の怒り」とは、「完全な破壊」を意味します。ご自身のあふれるばかりの愛から私たちにいのちを与えてくださった、そのお方が怒っておられるのです。

もしも、私たちに代わって父なる神の怒りをその身に受けてくださったお方が怒られるなら、だれがそれに耐えられるでしょうか。もしそういうことになったら、全てはおしまいです。小羊が怒られる時には、もはや救いはないからです。ちょうど逆のことを、私たちはローマ人への手紙8章にみることができます。

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8・31、32)

イエス様が私たちの味方であれば、だれも私たちの敵となることができません。しかし、イエス様が私たちの敵となるならば、だれが赦しと救い、解放と自由を与えてくださるでしょうか。小羊が怒られる時には、すべて、おしまいです。

[2]誰に向かって祈っているか


6章15節に書かれている人々は、山や岩に向かって祈っています。これはむなしい祈りです。

イエス様の御名を呼び求める者だけが救われるのです。ただまことの救い主、イエス様のみもとにのみ、救いがあるのです。イエス様は聖書において岩そのものと呼ばれるお方です。今日もなお、自分の支配権をイエス様にゆだねる人は、揺るがない永遠の岩の上に守られているのです。

しかし、15節にある王や高官、金持ち、自由人たちは山や岩に向かって熱心に祈っていますが、それは全く無駄です。ちょうどアダムとエバが神の前から逃げようとした時と同じく、これらの人々は恐怖と不安に捕えられているのです。

罪と良心の呵責とが、人間を神の前から逃げようとさせるのです。

罪こそ人間を臆病者に、そして神の前から逃げる者にさせるのです。

あなたは神の前から逃げている者でしょうか。そのようなことをやめて、悔い改めて神のもとに帰ってください。イエス様こそが、本当の逃れ場なのです。イエス様は、あなたを待っておられます。あなたを受け入れ、あなたを赦そうとなさっておられます。

[3]何を祈っているか


また、15節に書かれている人々は、16、17節で、山や岩に向かって「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りから、私たちをかくまってくれ。」と祈っています。これらの人々は、神の前に出るよりも山や岩に押しつぶされて死ぬ方を望んでいるのです。

彼らはかつて、自分の罪を認めようとしませんでした。そして小羊イエス様の提供されている救いを受け入れようとしなかったのです。そして今、彼らは小羊イエス様の怒りから逃れようと恐れまどっているのです。

しかし、裁きと小羊イエス様の怒りからは、だれひとり逃げおおせることはできません。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・・(ヘブル9・27)

神の裁きと小羊の怒りとは、恐るべき事実です。「だれがそれに耐えられよう。」と彼らは言いました。しかしこれは、心からの問いかけなどではなく、自分たちの恐れから出た単なる叫び声なのです。

だれも、神の裁きを受ける時には、その裁きがどうなるかという疑問は持っていません。なぜなら、小羊イエス様の裁きが正しいことを、全ての人が知っているからです。

その昔、裁判を受ける者は、裁判官の前にひざまずくか、ひれ伏すかしなければならず、ただ無罪の者だけが立つことを許されていました。しかし最後の裁きの時には、小羊イエス様の前にわずか一秒でも立つことのできる者は、一人もいません。なぜなら、救いのためには、もはや何の可能性もないからです。救い主であるイエス様ご自身が、裁き主となられるからです。

この第六の封印が解かれることは、私たちにとってもっとも厳粛な知らせです。そのことは私たちに、全てのものが速度を増し、解体し、無秩序になり、混乱に向かっていくことを示しています。

しかし私たちは、神と小羊イエス様が御座におられることに注意しましょう。破壊と裁きとは、小羊イエス様が封印を破られる結果として起こるのです。封印を破られるその御手は、かつて私たちのために十字架に釘づけられたその手なのです。この裁きは、祈る殉教者と、そしてうめきつつある被造物に対する答えなのです。

これらの裁きは、神のご計画を実現するための手段です。これらの破壊と裁きは、「神の国の実現と支配に対して邪魔になる、全てのものを清めるための手段」なのです。

小羊イエス様の怒りは、考えられるかぎりのうちでもっとも恐ろしいものです。

人のために神の怒りを取り除けられた、そのお方が怒られる時、だれがその怒りから逃れることができるでしょうか。

最後に、三つの質問について考えてください。この三つの質問は、いままで学んできた三つの項目と同じことをあなたに問うものです。

・「あなた」はいつ祈るのでしょうか。

あなたは今、恵みの時、恵みを受け入れられる間に祈るでしょうか。それとも恵みの時が過ぎ去り、全てのものが揺り動かされる時になって、遅すぎる祈りを始めるのでしょうか。

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(イザヤ55・6)

・「あなた」は誰に向かって祈るのでしょうか。

あなたは生けるまことの神に向かって、永遠の救いを提供しておられるイエス様に向かって祈るのでしょうか。それとも、全てが揺り動かされるのちの日に、岩や山に向かってむなしく祈るのでしょうか。

・「あなた」は何を祈るのでしょうか。

あなたは一時的な、あなたの身の守りについてのみ祈るのでしょうか。それともあなたの不滅の魂のために祈るのでしょうか。あなたの永遠のいのちのために祈るのでしょうか。

私たちは、今のうちに「罪人の私をあわれんでください」と祈るほうが、はるかに賢明です。自分の罪がイエス様の血によっておおわれている人だけが、世界全体が揺り動かされるその日に守られるのです。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32・1、2)

イエス様は、今の恵みの時にはなお救い主ですが、しかし裁きの日には、裁き主となられます。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3・18)

こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。(ヘブル12・28)

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5・24)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)

あなたの生活の基礎は何でしょうか。それがイエス・キリストにある人は幸せです。

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(第一コリント3・11)

主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。(箴言18・10)

今日もなお、永遠の愛を持っておられるお方の声が聞こえてきます。

御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。(詩篇2・12)

イエス様を信じる私たちにとっては、来たるべきまっ暗な裁きの日を前にして、何よりも二つのことが大切となります。それはまず、まだ救われていない人々のために絶え間なく祈ること、そしてそれらの人々をイエス様のみもとに連れてくるために、愛の労苦をすることです。

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