2022年12月25日日曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】10.嵐の前の静けさ

10.嵐の前の静けさ

黙示録8章1節から5節まで

1.香の満ちた香炉
[1]聖徒の祈り
[2]イエス様の祈り
[3]聖霊の祈り
2.火の満ちた香炉、祈りのこたえ
[1]祭りのためのラッパ
[2]戦争のためのラッパ
[3]戴冠式のためのラッパ

(1)小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。(2)それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。(3)また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。(4)香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。(5)それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。(黙示8・1~5)

この部分に出てくるラッパについて、私たちは、旧約聖書の民数記に記されている記述を思い起こします。

ついで主はモーセに告げて仰せられた。「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を召集し、また宿営を出発させなければならない。この二つが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入口の、あなたのところに集まる。
もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。また、あなたがたがそれを短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。あなたがたが二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するには、短く吹き鳴らさなければならない。集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く吹き鳴らしてはならない。祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の定めである。また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが、あなたがたの神、主の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。」(民数10・1~10)

これからはじまる箇所の題名として「嵐の前の静けさ」、あるいは「天国の眺め」というのが適当だと思われます。黙示録は神のしもべたちに対して与えられたものです。これによって神は、心から主に仕えたいと願うしもべたちに対してご自分の計画と目的について示してくださっています。私たちが主なる神に近づけば近づくほど、神は私たちにご自分の計画を明らかにしてくださるのです。

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15・15)

主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。(創世記18・17)

まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。(アモス3・7)

黙示録においては終わりの時代のさばきが明らかにされています。終わりの時代には、「封印のさばき」、「ラッパのさばき」、「怒りの鉢のさばき」という三つのさばきがあります。しかし、すでに見て来たように、これら三つのさばきは順序よく示されているわけではありません。19章までを通して「封印のさばき」として見られるのはさばきの大体の内容でしかありません。これに比べて「ラッパのさばき」と「怒りの鉢のさばき」は、19章までに細かく一つ一つが同時に記されています。

私たちが6章3節から17節までに見てきたのと同じことが8章、9章において詳しく記されているのです。

「嵐の前の静けさ」はいつ始まるのでしょうか。黙示録8章1節には「小羊が第七の封印を解いた時、天に半時間ばかり静けさがあった。」とあります。ここでの「静けさ」は、神が怒りを抑えて待つことができるということを表わしています。神の怒りは、神の愛に反するものではありません。神の怒りは「さばき」となって表われますが、それは神の来られる時が近づいていることを示します。さばきはすべて神によるものであり、神はあらゆることの支配者です。

では、天において静けさが保たれている間にどのようなことが起こるのでしょうか。神は聖徒たちの祈りを聞いておられ、顧みることを忘れてはおられません。ここで二つのこと、第一に「香の満ちた香炉」、第二に「火の満ちた香炉」について考えてみましょう。「香の満ちた香炉」とは祈りを表わし、「火の満ちた香炉」とはこの祈りに対する神の答を表わしています。そして祈りに対する神の応答がラッパのさばきなのです。

1.香の満ちた香炉


はじめに香で満たされた香炉、つまり、「祈り」について考えて見ましょう。ここでいう祈りには、聖徒の祈りも、イエス様の祈りも、聖霊の祈りも、そのすべてが含まれます。

[1]聖徒の祈り


聖徒たちの祈りは聞かれています。この祈りは黙示録11章に出てくる二人の証人の祈りであり、イスラエルの十四万四千人の人々の祈りであり、そして患難時代の始めの三分の一において救われる人々の祈りです。また地上で苦しんでいる人々の祈りでもあります。

「香」は主イエス様がなしとげられたみわざのことです。イエス様がなされたことを通して、初めて人々の祈りは神に聞き入れられるようになったのです。多くの祈りは自己中心のものでしかなく、何と多くの祈りが、苦しみから逃れるためのものであり、報復のためのものであり、不満と拒絶から出てくるものでありましょうか。しかし、そんな罪深い私たちのためにイエス様は身代わりとなって死んでくださったばかりか、父なる神にとりなしていてくださるのです。このことを忘れるわけにはいきません。

[2]イエス様の祈り


8章3節にでてくる「御使い」は疑いもなくイエス様のことを指しています。聖書の中には天使が主の前で私たちのためにとりなしをするという記事はなく、ただ大祭司としてのイエス様だけが、私たちのためにとりなしの祈りをしてくださっているからです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8・34)

[3]聖霊の祈り


そして、主イエス様が私たちのためにとりなしてくださるだけではなく、聖霊もまたどう祈ってよいのかわからない私たちのために代わって助けてくださいます。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ8・26)

もし「香」がなければ、つまり、イエス様と聖霊による助けがなければ、私たちの祈りは何の価値もないものになります。イエス様と聖霊の助けを通してのみ、私たちの祈りは大きな力をもちます。私たちはしばしば、自分の祈りが神に聞かれているかどうか疑いを持ってしまいます。しかし、8章には祈りが大きな効果のあるものだということが明らかに記されています。

聖書には「祭壇」について多くのことが書かれています。祭壇とは、罪を犯した人間の代わりに獣が捧げられる場所です。祭壇は神のさばきの場であり、神と人間の出会いの場でもあります。祭壇に捧げられた獣はさばきの火によって焼き尽くされます。罪はさばかれなければなりません。祭壇はすべて、キリストの十字架を示しています。私たちの身代わりとなって、私たちの罪を取り除くためにイエス様は十字架につかれました。

8章3節の「金の祭壇」は、神の御座の前にあります。祭壇はただ一度だけでなしとげられたイエス様の贖いを表わしています。キリストを通してのみ、私たちの祈りは主に届くのです。

私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。(エペソ2・18)

私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。(エペソ3・12)

次の聖書の箇所は、祈りについてもあてはまります。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14・6)

ここで忘れてならないことは、神ご自身が私たちに対して神を呼び求めるよう命令なさっておられるということです。

苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。(詩篇50・15)

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(イザヤ55・6)

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7・7)

いつでも祈るべきであり、失望してはならない・・・・(ルカ18・1)

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16・24)

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4·6)

このように神は私たちが祈ることを命じておられますが、それと共に、祈りを聞き届けてくださるという約束もなさっておられます。

「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11・24)

「・・・・してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11・13)

「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。・・・・」(ヨハネ14・13)

黙示録における祈りの主題は、「主よ、来てください」(黙示22・17)です。これは「神の国が来ますように」という祈りであり、言いかえれば「神の御心がなるように」、そして「すべての被造物によって神の御名がほめたたえられる日が来ますように」という祈りなのです。

「主イエスよ、来てください」という祈りが私たちの祈りの中心とならなければなりません。それはイエス様に「早くあなたのみもとに召してください」という祈りでもあるでしょう。

このような祈りは、私たちが感じている以上に価値のある祈りです。このように祈ることを通して、私たちは世界史の中に共に加わることができるのです。

2.火の満ちた香炉、祈りのこたえ


次に私たちは、8章5節にある「火の満ちた香炉」について考えてみましょう。これによって、神がどのようにして聖徒たちの祈りに答えられたかを見ることができます。

神は祈りに対して平和と幸福をもって答えられたのではなく、「雷鳴と声といなずまと地震」によって答えられました。

「火の満ちた香炉」は聖徒たちの祈りに対する神の応答でした。この火は祭壇から出てきた火です。さばきの火はさばきが行なわれる所から、つまり祭壇から出てくるのです。祭壇である十字架において、イエス様はご自身をお捧げになられました。そして、私たちはイエス様が罪人である私たちの身代わりとなって死なれたことを信じ、心からの悔い改めと感謝をもってこたえるとき、救われ、さばかれることはありません。しかし、イエス様の身代わりの死を否定し拒む人は、さばきの火の前に出るのです。

「雷鳴と声といなずまと地震」は神の神聖さを象徴しています。もはや神が悪に耐えることがおできにならないことを表わしています。そのためラッパのさばきが行なわれることになるのです。

「火」はさばきを表わしていますが、また同時に「火」は聖める力ももっています。イザヤ書には、次のようにあります。

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ6・6、7)

火によってこの地上は、イエス様の再臨の前に聖められるのです。「さばきの火」にあうことは、それによって聖められるか、または焼き滅ぼされるかのどちらかを意味します。

このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(第二テサロニケ1・5~10)

[1]祭りのためのラッパ


黙示録8章2節に出てくる、ラッパを与えられた「七人の御使い」は、ふつうの御使いではなく「御使いの頭たち」です。彼らは主の御前に立っているばかりでなく、主の側にいて周りを囲んでいる者たちです。イエス様がベツレヘムの馬小屋で誕生なさったときに、これを知らせたのもこの御使いの頭の中の一人でした。

[2]戦争のためのラッパ


七人の御使いに与えられた七つのラッパが吹き鳴らされるとき、いよいよ解放の時が来たことが告げ知らされるのです。この解放の時とは、それ以降イエス様のご支配による千年間の平和な国が続くことを示しています。解放の時には、敵である悪魔の要塞がすべて打ち破られます。こうして、ラッパは確かにさばきを知らせるものでもありますが、同時に神の救いをも知らせるものとなります。すばらしい千年王国の救いが来る前に、地上ではさばきが行なわれ、悪が取り除かれなければならないのです。

ラッパのさばきはまた、主がイスラエルの民をエジプトから脱出させる前にエジプトの国に送られた災厄や疫病に似ています(出エジプト7章から12章)。イスラエル人の祈りが神のみもとに届き、これに対する答として神のさばきがエジプトに下されたのです。そして、神はパロの支配からイスラエルの民を解放されました。

同じように終わりの時代において、神は聖徒たちの祈りを聞きとどけられ、あらゆるこの世の支配から私たちを解放してくださるのです。

[3]戴冠式のためのラッパ


小羊イエス様による絶対的な支配をもたらすことが、神のさばきの目的です。その時に、戴冠式のラッパが吹き鳴らされるのです。それを耳にする私たち一人一人がすでに小羊イエス様のご支配のもとにいる幸いな羊であるなら、何と感謝すべきことでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿