2014年8月10日日曜日

集会に集うべき態度(御代田)

集会に集うべき態度(御代田)
2014年8月10日、御代田福音集会
ゴットホルド・ベック

マルコ
1:21 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
1:24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
1:25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
1:26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
1:28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

『どういう心構えで集会に集うべきなのでしょうか』という、大切なことについて、一緒に考えてみたいと思います。三つに分けて、第一番目、イエス様、第二番目、初代教会の兄弟姉妹、そして、三番目、私たちであります。

どういう心の態度で集会に参加すべきなのでしょうか。

イエス様は、どういう心構えで、カペナウムの会堂で話されたのでしょうか?イエス様は、言うまでもなく、会堂で福音を宣べ伝えました。良い知らせを述べ伝えたのです。けども、福音が宣べ伝えられるところには、必ず、いつも悪魔の攻撃があります。したがって、イエス様は悪魔を攻撃するために会堂に入ったと言えるのではないでしょうか。

イエス様の悪魔に対する武器は、いつもみことばでした。イエス様は、すばらしい説教をするために、また、それはすばらしい話だったと人々にほめられるために、会堂に入ったのではありません。イエス様が会堂を訪れたのは、悪魔に対する攻撃そのものでした。

当時の律法学者たち、聖書学者たちは、立派な学校教育を受けた者でした。彼らはみな、よく旧約聖書を勉強した人々でした。安息日ごとに、聖書について話したのです。しかし、イエス様と当時の聖書学者たちとのあいだには、大変な大きな差がありました。

マルコ
1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」

このイエス様のいわゆる「新しい教え」によって、人々は目覚めさせられました。私たちは、人間的な知恵による古い教えを持っているか、あるいは、イエス様の新しい教えを持っているかのどちらかです。権威をもっていない者は、いつも人間の知恵を必要とします。人間的な知恵は、人を目覚めさせることはできません。それは、覚せい剤ではなくて、睡眠剤のようなものなのではないでしょうか?イエス様は、

悪魔を攻撃するために、会堂に行かれました。この会堂には、悪霊につかれた者がいました、この人は悪魔の奴隷でした。悪霊につかれた人はいつも危険です。なぜなら、悪魔がその人を支配していて、その人から話をするからです。当時のカペナウムにそういう者がいました。

マルコ
1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
1:24 「・・・・私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

この汚れた霊につかれた人は、叫びました、「私はあなたがどなたか知っている。神の聖者です。神の聖なるお方です。結局、約束された救い主です。あなたは罪を犯さない方です。罪を犯す可能性を持たない方です。

悪霊たちがイエス様を見たとき、なんと言って叫んだのでしょう?ドイツ語の聖書では、悪霊たちがイエス様に、「止まって!」と叫んだと書いてあります。イエス様が集会所を訪れたのは、いつも悪魔に対する攻撃でした。ですから、悪霊たちは、「止まって!こっちへ来ないで!」と、イエス様に叫んだのです。

マルコ
1:24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。・・・・

ここでは、「私たち」という複数形を用いていますね。これは、その人に棲んでいた悪霊たちです。悪霊たちは、イエス様を知っていました。すなわち、悪霊たちは、イエス様が生きる真の神の御子であるということを知っていたのです。

マルコ
1:24 ・・・・私たちはあなたがどなたか知っています。神の聖者です。

イエス様の最大の敵である悪霊たちが、「あなたは神の聖者であり、罪を全く知らない方である」という告白をするとは、すごい告白なのではないでしょうか?イエス様こそ、約束された救い主であり、イエス様こそがまことの解放者であることの証明でもあります。

イエス様がカペナウムの会堂に現れたので、悪霊たちは、『止まって!入らないで!』と叫んだのです。イエス様はなぜ、カペナウムの会堂堂に行かれたのでしょうか?今、離したように、悪霊たちを攻撃するため、悪魔を滅ぼすため、また、人を救うためでした。言うまでもなく、悪魔が抵抗したので、イエス様と悪霊たちとのあいだに、闘いが生じたのです。誰が勝ったのでしょう?

マルコ
1:25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
1:26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」

これが私たちの主イエス様です。どんな悪魔もイエス様に逆らうことはできません。イエス様は勝利者であります。いつ、いかなるところでも勝利者です。イエス様は、神の聖者です。まったく聖い、透き通っておられるお方です。光そのものです。しかし、私たちは重荷を背負っている人間です。悩む者です。初代教会の兄弟姉妹もそうでした。けど、彼らは、いったい一体どういう態度をとったのでしょうかね?

使徒
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

言えることは初代教会の人々は、一生懸命にみことばを読む人々でした。すなわち、主は彼らに語りかけることができたのです。彼らは、お互いに密接な交わりをもっていました。彼らは、大きなよろこびをもってパン裂きをしていた、また、いっしょに食事をしたとあります。そして、彼らは祈りの人々でした。いつも、イエス様とのつながりをもっていたのです。彼らは毎日、集まりにまいりました。そして、彼らは日曜だけではなく、毎日、主をほめたたえる人々でした。主の答えは、47節にありますように、「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」とあります。

私たちは、家族の人々、親戚たち、知り合いの人々が次々、救われるように期待をもって祈るべきなのではないでしょうか?私たちが期待をもって信ずれぱ、信ずるほどイエス様は多くのことをなしてくださいます。私たちがイエス様にいくら信頼しても、しすぎるということはありません。

初代教会について言えることは、一日で三千人が救われ、信者になったこともあります。それから、短いあいだに五千人ほどの男が導かれ、救われたと使徒行伝に書かれています。

使徒
6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

聖書によりますと、五旬節の後、数週間のうちに、信ずる者の数は一万人以上になったのです。この救われた人々は毎日、集まりました。いつ、また、どれぐらいの長さかは分かりませんが、とにかく集まりました。未信者が集会にまいりますと、その人々は顔を伏せ、主を拝み、まことに生きる神があなたがたのうちにいますと、認めざるを得なくなったのです。

第一コリント
14:24 しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
14:25 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。

イエス様がカペナウムの会堂を訪れたのは、悪魔に対する攻撃でした。初代教会における集会を訪れることも、まったく同様に、悪魔に対する攻撃でした。初代教会の兄弟姉妹は悪魔を攻撃しました。悪魔のわざを減ぼすために集ったのです。また、備えられたたましいをイエス様のところに導くというただひとつの願いを持っていたのです。

イエス様が、また、初代教会の兄弟姉妹が、どういう心構えで集会に訪れたのかを見てきました。我々の場合はどうでしょうかね?私たちは熱心にみことばを慕うのでしょうか。『主よ、語ってください。しもべは聞いております』と、切に望んでいるのでしょうか?私たちは初代教会の人々のように、心からの親しい交わりを持っているでしょうか。パン裂きを行い、イエス様を思うとき、大きな喜びに満たされるのでしょうか。イエス様と交わりを持つ祈りの人なのでしょうか。私たちはできる限りしばしば、集会に集まるのでしょうか。毎日、初代教会の兄弟姉妹と同じように、感謝と賛美に満ちているのでしょうか。もし、私たちがこの質問に対して全部、合格するなら主は毎日、人々をお救いになるに違いない。

「止まって!」と、悪霊どもは叫びました。このように今日も叫んでいます。私たちも、悪魔に攻撃されている者です。朝、目を覚ましたらまず、主イエス様を考えてください。あなたを愛した主の大きな愛を考え、イエス様が今日も自分のうちに住んでいることを感謝しなさい。一日中、私たちがどこにいても、悪魔は私たちを攻撃しています。集会に集うときも、悪魔は攻撃しています。悪魔が自分を攻撃しないのならば、鉄砲の無駄玉のように、あなたは何にも役に立ちません。もし、悪魔があなたに何もしないのなら、あなたは悪魔を危険とはせず、イエス様も必要とはしないでしょう。

悪魔は攻撃してます。攻撃されていることは、いつもどこでも覚えるべきなのではないでしょうか?私たちは、どういう心構えで集会に集うのでしょうか?飢え渇きをもっているでしょうか?詩篇の作者であるダビデのように来られるでしょうか。すなわち、『神よ、鹿が谷川を慕いあえぐように、私のたましいはあなたを慕いあえぐ(詩篇42:1)』と言うような要求をもっているでしょうか。

私たちは、悪魔を攻撃するために集うべき者なのでしょうか?集会に集うとき、話しをしている兄弟のために祈っているでしょうか。しばしば、非常に話しにくいことがあるものです。どうしてでしょう?なぜなら、悪魔は寝ないで、いつも攻撃しているからです。話しをしている兄弟は、人間のことばではなく、御霊がイエス様を証しすることができるように、そのために祈っているのでしょうか。聖霊だけがイエス様を知っておられます。ですから、聖霊だけが、イエス様を証しすることができます。

それから、集会に集うとき、来られたすべての人々のために祈っているでしょうか。これはたいへん、必要なことです。集会のあいだ、ひとりひとりのために祈ってください。また、ひとりひとりのために何を祈ったらよいか、イエス様に尋ねてください。もし、未信者がいたら、その人々が、主のところへ導かれるように、心から祈ってください。

言うまでもなく、自分自身のためにも祈るべきです。何があっても、イエス様をよりよく知りたいという願いを持つことこそが大切です。「主よ、語ってください。しもべは聞いております。私をあなたのかたちに変えてください」と、祈るべきです。

どういう心構えで集会に集うのでしょうか?もし、主を知らない人々がいるとすれば、悪魔の奴隷がそこにいるのだ、ということを覚えるべきです。しかし、主を信じるものは皆、イエス様に大いに愛されている者です。悪魔の奴隷と、イエス様に愛されている者が、一緒にいるわけです。そこには、議論が起こるに違いない。

あらゆる、どんな集会も、私たちが考えている以上に大切です。集会に来て、自分は熱心な者だと考えるとイエス様の妨げになります。「イエス様をもっと知りたい、イエス様に会いたい」という期待をもって来るべきです。集会に来て、自分は何の価値もない者だと考えるならば、それも主の妨げとなるでしょう。

イエス様は、あなたと話したく思っておらます。イエス様は他の人のたましいを救うために、あなたをお用いたいと望んでおられます。すなわち、全能の主があなたを必要としています。救いを滅びゆく人々に伝えるために、主はあなたの口を必要としています。霊的に死んでいる人々を集会に招くために、イエス様はあなたの足を必要としているのです。イエス様とあなたが、共に働くことが要求されています。それは、あなたを必要としています。

もし、私たちが日曜学校を持つならば、悪魔に対する攻撃でもあります。悪魔はできるだけ、子どもたちを引きとめようとしています。礼拝のときも同じです。悪魔は我々に、仕事の方が大切だといいます。けど、イエス様は、日曜に我々を特別に祝福したいと望んでおられます。初代教会の兄弟姉妹は毎日、集まりました。

集会には、いつも悪魔の攻撃があります。悪魔は、絶望的に抵抗して、人々のたましいをイエス様にあげようはしません。私たちは集会に行くたびに、ひとつの願い、すなわち、「主イエス様のためにたましいを救う」という願いに満たされていなければなりません。

イエス様は悪魔と結びついた者を、「神の子」とするために、あなたを必要としておられます。覚えるべきなのは、主は何でもできるお方です。しかし、このお方は、私たちのような者を必要としています。しかし、このお方は、私たちに必要な力を必ず与えてくださいます。

マタイ
10:1 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。

10:8 病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

『ただで受けた』とは、力を受けたことを言っているのです。弟子たちは、力を受けました。私たちも、力を受けたのでしょうか?もし、受けたなら、そのカを用いることができます。何でもおできになるお方が、ひとりひとりを必要としています。イエス様はひとりひとりに、超自然の力を提供しておられるお方です。

イエス様がカペナウムの集会を訪れたのは、悪魔に対する攻撃だったのです。初代教会の兄弟姉妹の集まりは、いつも悪魔に対する攻撃でした。我々の集まりはどうなのでしょうか?私たちは、悪魔を攻撃するのでしょうか。私たちを通して、人々をイエス様のところに導かれるのでしょうか・・・・ということについて、真剣に考えるべきなのではないでしょうか?

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