2014年8月23日土曜日

失望させられない秘訣

失望させられない秘訣
2014年8月24日、御代田福音集会
ゴットホルド・ベック

ローマ
10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

今、読んできた下さった箇所の中の11節は、皆さん、何回もお読みになったし、確信するようになったんじゃないでしょうか。『聖書はこう言っています。』大切なのは、聖書がなんと言っているかということです。人間がなんと言っているか、教会、集会が何と言っているかは関係がない。


聖書はなんと言っているか。人間はいろいろな問題を持っているけど、そのとき考えるべきなのは、それなのです。聖書はなんと言っているか。彼に信頼する者は、失望させられることがない。

これは動かすことができない事実です。信じても、信じなくても、主は忠実なるお方です。応えてくださるお方です。これももちろんローマ書を書いたパウロの告白でもあり、パウロの証しです。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』

ちょっと、三つの点に分けていっしょに考えてみたいと思います。第一番目、祝福された人生の土台は何でしょうかね。第二番目、祝福された人生の確信とはいったい何なのでしょうか。そして第三番目、祝福された人生の必要条件とは何なのでしょうか。

まず第一番目。祝福された人生の土台とはいったい何なのでしょう。この土台とは言うまでもなく、みことばです。みことばだけです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

けど、聖書とはいったい何なのでしょうか。ドイツの宗教改革者であるマルティン・ルターは、『聖書は古いものでなければ、新しいものでもない。聖書は永遠のものである。』と言ったのです。イギリスの物理学者、また数学者であるニュートンは、なんと言ったかといいますと、『いかなる世界歴史におけるよりも聖書の中にはより確かな真理が存在する。』と確信をもって言ったのです。

ドイツの詩人であり、政治家でもあったヴォルフガング・ゲーテと言う男は、『私が獄に繋がれ、ただ一冊の本を持ち込むことが許されるとしたら、私は間違いなく聖書を選ぶ』と言ったのです。フランスの総理大臣であるナポレオンは、『聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力ももつ生き物である。』と言ったのです。

そしてまた、インドの総理であるガンジーは、『私の生涯に最も深い影響を与えた書物は、聖書である』と告白したのです。アメリカの政治家であったリンカーンは、『聖書は神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて、聖書の中に生まれている。』と言ったのです。

イスラエルのダビデは王様として言ったのです。聖書は私の足のともしび、私の道の光です、と証ししました。そして、パウロは、聖書はあなたに知恵を与え、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです、書き記したのであります。人間はだれでも心のよりどころ、心の平安、また、喜び、人生の内容、また、目的、そして、生き生きと希望を持つ必要があります。

ただ、こういうものは、ただ聖書を通してのみ、与えられます。どうしてでしょう?なぜならば、主のみことばである聖書は、改心の種である、とあります。ヤコブ書1章の18節を見ると、ヤコブは次のように書いたのです。一文章だけです。

ヤコブ
1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。

すばらしい証しです。ペテロも同じことを書いたのです。

ペテロ第一の手紙
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

すばらしい証しです。そして、イエスさまご自身はみ言葉についてなんと言ったでしょうか?ヨハネ伝5章39節を見ると次のように書かれています。

ヨハネ
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

まことの救いにあずかった人々は、主のみことばである聖書を通して救いに導かれた。また、神との平和、絶えざる喜び、そして永遠のいのちを持つようになりました。だからこそ聖書は彼らの祝福された人生の土台です。聖書はこう言っています。彼に信頼する者は、失望させられることがない。聖書は何と言ってるか。これこそが大切です。すなわち、人間の考えてること、人間の思ってること、感じてることは、決して大切ではない。

聖書は何と言ってるか。それこそが重要です。どうしてであるかと言いますと事実だけが大切であるからです。そして聖書は事実だけを宣べ伝えてる書物でです。ほかの言葉で言いますと、私たちが聖書を判断するのではなく、聖書がわれわれを判断すべきです。聖書は、主ご自身が語られたことをそのまま私たちに伝えています。聖書に書かれてるのはしたがって、事実のみです。それを人間が認めようが、認めまいが、事実は事実です。

今まで、祝福された人生の土台とは一体何なのでしょうか、これについて考えてまいりましたが、今度は、第二番目、祝福された人生の確信とは、一体何なのでしょうか。これについて考えましょう。

確信の土台、また、源は、主なる神のみことばである聖書だけです。聖書は宗教、または、哲学と関係のないものであり、すなわち、人間の作ったものではない。主なる神の啓示そのものです。主なる神が語られたことは、主なる神の啓示です。すなわち、それは上から与えられたものです。

動かせない確信をもっていたパウロはこの秘訣について次のように語っています。よく知られてる箇所けど、大切な箇所です。

ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

1:15 けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、
1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、
1:17 先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。

パウロはこう言ったのです。私たちはいつも覚えるべきことは、すなわち人間の考えてることは全然、大切ではない。主が何を語っているか。これこそが重要です。主なる神は、真理であられるから、主なる神のみことばも永遠なる真理そのものです。

ちっぽけな人間は、聖書に記されている事実を理解することができるか、できないかは決して問題ではない。事実は事実です。信じても信じなくても、認めても認めなくても。ローマ書10章11節とは本当にすばらしい箇所ですね。

ローマ
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

彼とは言うまでもなく、生きるまことの唯一の神ご自身です。すなわち主イエスさまを通して、自分自身を明らかにされた万物の造り主、また、万物の支配者です。

主なる神が自分自身を、イエス・キリストを通して明らかにされたのですから、イエスさまはよく神のことばと呼ばれています。ちょっと一箇所見てみましょうか。

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

ここまで読むと、言葉とは何でしょうか?この方とは誰なんでしょうか?ちょっと、はっきりしない。けど14節見ると分かりますね。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

この方について、おもにパウロはいろいろなことを書き記したのです。上からの光に照らされたからでしょう。もう一箇所読みます。

コロサイ
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

私たちひとりひとりも主イエスさまによって造られたのです。それだけではなくて、私たちは、ひとりひとりは、イエスさまのために造られました。主の死に贖われた者となるためだけではなく、主の友となるためだけではなく、主の花嫁となるためと聖書は言っています。

これこそが考えられないすばらしい事実であり、また、考えられない特権であり、幸せです。私たちは近いうちに、イエスさまとひとつになり、イエスさまの花嫁としていつまでも主といっしょになるのです。パウロはまた、次のように書いたのであります。

ピリピ
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

ヘブル
9:26 しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

救いを得させる信仰の土台なるものとは、ローマ書4章25節に書き記されている事実です。

ローマ
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

信ずる者はみな喜びをもって告白することができます。すなわち、

ローマ
5:1 信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

私たちは、神のみことばを持ってるのであり、主なる神の約束こそが最大の宝物です。神のみことばは、改心の種であり、真理そのものであり、また、足のともしび、道の光です。聖書に宣べ伝えてあるもっとも大切な事実は三つでしょうね。

第一番目、イエスさまは、私たちの罪のために死に渡された事実です。二番目、イエスさまは、私たちが義と認められるために、復活なさった事実です。第三番目、イエスさまは再び来られるという事実です。わたしがまた来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます、とイエスさまは約束してくださいました。

何十年も前だったんですけど、ドイツの総理大臣の親戚であるヴァイツゼッカー博士という教授はあるとき、学生たちに言ったんです。いったい、確かなことは何でしょうかねと、尋ねました。それに対して学生たちは、ひとりひとり、思い思いのこと言いましたけど、いつまでたっても埒があかない状態だったので、ひとりの学生が立って、教授に言いました。「先生は、一体何だと考えておられるのですか?」すると、ヴァイツゼッカー教授は、イエスさまは信じるものを迎えに来るために再び来られる、と言いました。

イエス様は目標に導いてくださいます。イエスさまは自分の約束を守ってくださいます。イエスさまはみことばを必ず守られるお方です。したがって、100パーセント信頼できるお方です。何があっても主は忠実です。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」私は決して決してして失望させられることがない、と信じ、確信している人は、幸せです。

今まで二つの点について考えましたね。第一番目、祝福された人生の土台とは一体、何なのでしょうか。第二番目。祝福された人生の確信とは一体、何なのでしょうか。最後に、第三番目の点は、祝福された人生の必要条件とは一体、何なのでしょうか。

決して失望させられないための条件とは、信頼することです。継続的に信頼し続けることです。すなわち、意識的に主により頼むことであり、我々の全信頼は、イエスさまに集中されなければなりません。条件とは、人生の終わりに至るまで、意識的な信頼の態度が続けられなければなりません。

三つの実例についてちょっと考えたいと思います。

第一番目は、アブラハムのように主を愛することです。アブラハムは自分にみことばを与えてくださった主を信じたのです。彼は心から信頼しました。死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる主なる神に信じた、と聖書は言っています。アブラハムは主の全知全能を深く確信しておりました。われわれ人間には、まったく望みがないように思われる場合であっても、主に信頼するならば、不可能が可能となります。

アブラハムは望み得ないときに、望みを抱いて、信じました。意識的に目に見えるものから目をそらし、目に見えない主にだけ、目をそそぐことをしていたのです。これこそまことの信頼です。信頼とは、自分や他人から目をそらし、主が必ず約束をお守りになることを確信することです。

主には約束されたことを成就する力があることをアブラハムは信じた、と聖書は言っています。主なる神が約束されたことを成就する力を持っておられるゆえ、約束を守られるということを、知ってる者は本当に幸いです。なぜならば、決して、失望させられることがないからです。

第二番目の実例は、モーセです。モーセは、王子であったがゆえに、すべてが自分の思いどおりにできたわけです。望むものはすべて自分のものとなりましたけど、彼はそのように恵まれた自分の境遇を投げ捨てました。

モーセは、世界一の愚か者だったのではないでしょうか。なぜそのような愚かなことをしてしまったのでしょうか。答えはヘブル書の11章です。非常によく知られている有名な箇所です。結局、信仰とはなんであるか、信頼するとかにが起こるのか書かれています。

ヘブル
11:24 信仰によって、・・・

あるいは信頼によって、

11:24 ・・・モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

どうしようか、と必ず考えたのです。そして、彼は苦しむことを選んだ。どうして?

11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。

モーセは、この世の富や教養ととこしえの報いとを比較して、その結果、そのような決断を行なったのです。モーセはこの世の色々な楽しみの結果が死であること、そして、死後には裁きが下って、永遠の滅びに行くべきことをよく知っていました。

彼の経験は、主に信頼する者は、失望させられることがない、というものでした。モーセが信頼したからこそ、イスラエルの民は救われたのです。聖書はこう言ってます。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」信仰の父と呼ばれたアブラハムは、この事実を経験したのだけではなく、今、話したように神の友と呼ばれたモーセも、同じ事実を経験しました。

第三番目の実例は、昔のダニエルの友だちです。ダニエルの三人の友だちも、主に信頼する者は、決して失望させられないと言うことを経験したのです。あの三人の友達の特徴は、幼子のような信頼、また、妥協なき信頼でした。それゆえに彼らは、火の中に投げ込まれてしまいました。ちょっと見てみましょうか。

ダニエル
3:15 もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」
3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

この三人の確信は、主に信頼する者は、失望させられることがない、というものでした。私たちも何があっても、眼に見える現実を見ないで、主をだけを仰ぎ見ると、必ず、主は生きておられると、新しく経験することができるのではないかと思います。

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