2014年8月17日日曜日

心の底から弟子となしたまえ

心の底から弟子となしたまえ
2014年8月17日、御代田福音集会
ゴットホルド・ベック

マタイ
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

マタイ
26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

ルカ
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」


ヨハネ
13:37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」

ひとつの前によく歌われた歌があります。内容は、『弟子となしたまえ、わが主よ、わが主よ、弟子となしたまえ。心の底より、弟子となしたまえ。』これが、歌だけではなく、私たちの心構え、心からの祈りであれば、本当に幸せなのではないでしょうか。

マルコ
1:16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

マルコ
2:13 イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
2:14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
2:15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

マルコ
3:13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。
3:14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせるためです。

福音書を見るとわかります。イエス様の呼びかけとは、いつも2種類の呼びかけでした。ひとつの呼びかけとは、神の子となるための呼びかけでした。結局、救われるための呼びかけです。もうひとつは、イエス様の弟子になるようにとの呼びかけですです。マルコ伝全体が言わんとしていることは、イエス様を大いなる僕(しもべ)として特徴づけることです。

これに対して、マタイ伝ではイエス様は王様としてのイエス様、ルカ伝では人間としてのイエス様、また、ヨハネ伝では神の御子として、イエス様を特徴づけています。けれど、マルコ伝においては、初めに述べたとおり、神の僕としてのイエス様が、同労者を、弟子たちを探し求めておられることが描かれています。

イエス様の同労者であり、また、弟子とは、イエス様と共に奉仕する備えのできている人々のことを言います。そして、このマルコ伝では、イエス様が弟子たちに呼びかけて言われることが、はっきりと描き出されています。すべての中心人物は言うまでもなく我々の主イエス様、御自身です。

そこで、ここではいくつかの問いについて、ちょっと考えてみたいと思います。まず、呼びかけておられる方とはどなたでしょうか?まさしく、イエス様ご自身です。そこに示されている動詞を見れば分かるように、イエス様は常にまず初めに行動なさり、率先して行動を起こされる方であることが解かります。

マルコ
3:13 イエスはご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられた

また、今、読みました。1章16節、19節、24節、何回も何回も、『イエスはご覧になった、』『イエスはご覧になった』と何回も、書き記されています。それから、1章の17節、20節、24節、同じ言葉が何回も出てきます。すなわち、『イエスがお呼びになった』、『イエスがお呼びになった』と。

イエス様は、ザアカイ、また、サウロの名前をお呼びになったように、弟子たちに対しても、決まった名前をお呼びになられました。このことは、非常に大切な意味を持っているのではないでしょうか。なぜなら、イエス様は、人間、個人個人を考えてくださり、個人個人を導こうと望んでおられます。

また、人間がイエス様を選んだのではなく、イエス様が人間をお選びになって、その中に入って、かかわりを持ってくださったからです。今日でも、人間の力によっては、また、人間の決定によっては、救われることはできません。イエス様が我々の心の目を開いてくださり、自分の本当の姿と、イエス様によって完成された救いとを明らかに示してくださるのです。イエス様の呼びかけとは、皆さん暗記しているこの箇所でしょう。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

『教会に行きなさい』ではない。『キリスト教に入れ』ではない。わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。イエス様は、昨日も今日も、何時までも変わらないお方ですが、この約束もまた、今日も当てはまる言葉です。罪人のために、助けを求めている人のために、絶望している人々のためにイエス様はおられます。悔い改めと信仰をとおして、イエス様の現実の救いが明らかになるのです。けれども、悔い改めと信仰は、決して、人間からやって来るものではなく、まさに上から与えられる賜物です。

それですから、信者とはこの贈り物を喜んで受け取った人々であると言えます。今日、来られた一人ひとりも、もう既にお受けになったのでしょうか?それともまだ、お受けになっていらっしゃらないのでしょうか?我々の人生にとっていったい、何が必要なのでしょうか。一番大切なことは、神の子供となることです。すなわち、救われることです。そのためにいったい何が必要なのでしょうか。

まず第1に、自分の救われなければならないという必要を知ることです。第2に人間的な努力はまったく空しいと認めることです。すなわち、自分も他人も決して自分自身を救うことができないということです。すべて人間的な努力は見込みなく、望みなきものです。聖書が言っている救いとは、罪の問題の解決です。

罪のゆえに主なる神の怒りのもとにある人間は、主との平和を持ち、債務が支払われ、罪が赦され、永遠のいのちを持つと聖書は言っているのです。けれど、これは人間や宗教によってではなく、イエス様によってのみ与えられます。なぜならば、イエス様は人間の過ち、わがままに対する聖なる神の裁きの的になられ、ご自身の聖い尊い血潮によって債務を支払い、罪を赦してくださったのです。

この真理の事実を心で受け入れた信じる者は、神との平和、罪の赦し、永遠のいのちを持つことができるのです。すべての人間は、自分の力で罪の問題を解決することはできません。どうしてもイエス様が必要であると告白する状態に至らなければならない。

『主よ。私は今、私はどうしようもない者として、あなた様の御許にまいります。あなたが私のわがまま、過ち、罪の問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを心から感謝いたします。』このようにイエス様に向かって言うことができる人は、幸いです。

もう一回、まとめましょう。創造主なる神の子供となるためには、2つのことが必要です。第1は、主なる神の言われることを認めることです。これこそ、考えられないほど大切です。第2に、イエス様を受け入れることです。

けども、主なる神は何と言っておられるのでしょうか。主は、絶対に癒されない罪の病い、それは全く改善の望みがないと言っておられます。けども、イエス様は、我々の身代わりになってくださった。そして、イエス様が成してくださったことは本当に充分です。それから、もちろん、提供されているものを受け入れることです。

聖書の一番、最後の黙示録22章17節後半を見ると次のように書かれています。「いのちの水がほしい者は、値なしにそれを受けるがよい。」ここでいのちの水とは、もちろん、イエス様による救いの贈り物に他なりません。ここで、『ほしい者は受けるがよい』と記されていますが、欲しがっているかどうかが問題です。欲すれば、受けるにちがいない。欲しいと思わなければ、気の毒、将来は真っ暗闇です。

イエス様は、永遠のいのちを与えるために、決して強制するようなことはなさいません。欲しい者は受けると約束されています。受ける者は持つのです。すなわち、その人は神との平和を得、罪の赦しを得、主なる神の子供とされた喜びを持って、永遠のいのちを持つことができます。イエス様の呼びかけとは、いったい、どういうものなのでしょうか。神の子供となる、すなわち、救われるだけの呼びかけだけではない。

すなわち、弟子となるように。「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしてあげよう」とイエス様は呼んでくださったのであります。このイエス様の呼びかけとは、いったい、どういうことを意味しているのでしょうか。私たちは救われるために、救われているのではない。仕えるために、用いられるために救われたのです。

救われていることは、まだ、救われていない人々をも救いたいという思いを持つことです。まだ、救われていない人々を救いたいという切なる思いが欠けている場合には、その人の信仰は疑わしいものではないでしょうか。

イエス様は、救いを受け入れるように、重荷をおろしてあげようと、呼びかけた後で、ご自分に仕えるようにとも、呼びかけたのであります。けれども、イエス様に仕えるとは、いったい、何を意味しているのでしょうか。それは、あれこれ行なうということではなく、イエス様に従って行くことを意味しているのです。それではいったい、イエス様に従って行くとは、いったいどういうことでしょうか。イエス様について行くとは、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることを意味します。

マタイ
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

いのちを救おうと思う者はそれを失うと記されています。ギリシャ語のテキストによると、「いのち」とは書いてないんです。「魂」と書いてあるんです。自分の魂を救おうと思うということは、自分勝手な道を歩んで行くことを意味します。

いわゆる魂の働きとは、なんでしょうか?まず第1に、考えること、第2に、感じること、そして、第3に、欲することです。したがって、自分自身を否定するということは、自分の考えや、自分の感情や、自分の意思に支配させないことを意味しています。それに対して、魂を失うということは、自分自身の意思を心の座から下ろし、イエス様をそこに置いて、第一の座につけることです。

これがなければ、決してイエス様に従って行くことはできません。イエス様について行くこととは、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることだけではなく、自分自身を憎むことを意味しているのです。ルカ伝を見ると次のように書かれています。非常に厳しい言葉です。

ルカ
14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

自分を憎むこととは、自分自身に対して、信用をおかないということがどうしても必要です。自信に満ちた態度がダメにならないと、イエス様に従うこともできません。イエス様なしには、一歩も進むことができないというふうにならなければなりません。イエス様、御自身、何を告白して、証ししたのでしょうか?

すなわち、『わたしは、自分の力だけではどうすることもできない。』イエス様の思いだけを大切にしないと、妨げになります。だけど、自分自身を信用しないどころか、自分自身を憎まなければ、わたしに従うことができないとイエス様は言われるのです。いったい、どうして聖書は憎むというような、非常に厳しい言葉を使っているのでしょうか。パウロの答えは明確でしょう。

ローマ
7:18 私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。

イザヤも、違う言葉を使ったのですが、同じ事実について書いたのです。よく知られている箇所です。

イザヤ
55:8 「わたしの思いは、あなたがた(すなわち信じる者)の思いと異なり、わたしの道は、あなたがた(信じる者)の道と異なるからだ。――主の御告げ。――
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

まったく違う。ちょっと違うだけではない。ペテロのことをちょっと最後に考えてみたいと思います。マタイ伝16章で、イエス様はペテロにたいへんな言葉を使ったのです。『下がれ、サタン』と言われたのです。

マタイ
16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

イエス様は振り向いて、『ペテロよ、ありがとう』とは言わなかった。

マタイ
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ペテロはイエス様を信じていたにもかかわらず、イエス様から十字架を取り除こうとした時に、イエス様は「サタンよ、引き下がれ」と言われたのです。なぜそんなことになったのでしょうか。その時までペテロは、3年間、イエス様に従っていたんですけど、本当の意味での弟子にはなっていなかったからです。ペテロの目的と動機は決して悪くなかったんです。

けれど、ペテロが人間的に考えて、人間的に行動したゆえにイエス様は、「サタンよ」と厳しいことばを発せられたのです。すべてのことにおいて、「私の思いではなく、主の御旨が行なわれますように」という思いをもって行動しなければならない。自分の思いを捨て、主の御心だけを大切にすることがどうしても必要です。マタイ伝26章、39節と42節には同じ言葉が書かれています。イエス様の殺される前の心からの叫びです。『わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』『どうぞみこころのとおりをなさってください。』

イエス様に従うこととは、毎日、自分の意思と思いとを主に明け渡すことを意味します。さらにここで、自分自身を憎むということだけでなく、自分の家族をも憎まなければならないと記されていることを考えるべきです。

マタイ
10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

イエス様は、こうはっきり言われたのです。ここで自分の家族を憎むということは、本当に自分の家族を無視して、全く顧みないことを意味しているのでしょうか。あたりまえのことですが、私たちが一つの問題について考えるとき、聖書の中の一箇所だけを取って、『ああだ、こうだ』と言う考え方をすることは根本的に間違っています。

何があっても、聖書全体が何と言っているのかと思うべきなのではないでしょうか。言うまでもなく、主は、人間一人ひとりの救いよりも、全家族の救いを心から願っておられます。そうすると家族を憎むとは、いったいどういうことでしょうか。答えは、テモテ第1の手紙、5章8節なのではないかと思います。

第1テモテ
5:8 もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

パウロは愛弟子であるテモテにこういうふうに書いたのです。自分の家族を憎むとは一体、なんでしょうか?決して、自分の家族を無視すること、省みないことを意味しているのではありません。当たり前のことですが、私たちはひとつの問題について考えると、今、話したように、聖書から適当な一箇所を選んで、『こう書いてあるじゃないの』と言う態度を取ることは非常に危ないことです。

何があっても、聖書全体はなんと言ってるのでしょうか、と考えるべきです。言うまでもなく、主は人間一人ひとりの救いよりも家族、全家族の救いを心から願っておられます。そうすると家族を憎むとは、何を意味しているのでしょうか?

このテモテ第1の手紙5章8節の言葉は確かに大切な、いつも考えるべき言葉です。このことばと前のことばとは、一見したところ、全く正反対のことを言っているかのように見えるのです。聖書は、はっきりと私たちが家族を大切にし、尊敬しなければならないと言っています。

けど、それと同時に、私たちは人間に対してよりも、主に対して、より忠実に従うべきであると聖書は、言っているのです。主、また、主のみことばを第一の座につける者は、必ず家族を大切にします。そして、家族を第一の座につける者は、主を否定するようになります。

家族が救われることを望む者は、家族を捨てるべきであると聖書は言っています。意味は、曖昧な態度と妥協によっては救いは成就しません。もしあなたが、家族の救いを、親戚の救いを、知り合いの人々の救いを真剣に望むなら、100%、主の側に立たなければなりません。すなわち、イエス様に従うということは、自分自身、および、家族を否定し、憎み、イエス様を第一にすることになります。妥協のない態度をとると、主は、あふれるばかりの祝福を与えてくださり、家族も間違いなく約束どおりに導かれ、救われます。


おわり

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