2016年3月22日火曜日

求められている主のしもべ

求められている主のしもべ
2016年3月22日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マラキ
3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

ルカ
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

22:24 また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。
22:25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
22:26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。
22:27 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。
22:28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。
22:29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。
22:30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

今日は、主によって用いられる秘訣について、一緒に考えてみたいと思います。ドイツのアイドリンゲンの神学校の入り口に、ひとつの言葉がかかっています。どういう言葉かと言いますと、「仕えるために救われた。」救われるためにではなく、仕えるために救われたのです。

パウロは、テサロニケにいる信者たちに書いたのです。「あなたがたは、偶像を捨てて神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになった」と書いたのです。そして、また、書いたのです。「主イエスがすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえられた方のために生きるためである」と。仕えるために、主の僕になるために、救われたということです。

このあいだ、私たちは、主に仕える、主に奉仕する法則とは、いったい何でしょうかと考えてまいりました。奉仕の法則は、イエス様の死とよみがえりを、己(おのれ)のものとして受け止め、体験することです。この法則を自分のものにしていない限り、あらゆる奉仕は価値がなく、永遠の実を結ばない奉仕となってしまいます。

モーセという男は、確かに、主によって用いられました。彼は、かつて、生まれながらの教育、能力を、確かに多く、持っていました。彼は、熱心そのもので、一生懸命でした。勇気があり、すばらしい知識を持っていました。イザヤという預言者も、また、エレミヤという預言者も、良い教育を受け、社会的な地位、名声も持っていたと思われます。ご存知のようにパウロは、最高の学問を身に着けた男でした。けれども、主によって用いられる器となったのです。

もちろん、主は、人間、また、その人の生まれつきの力を用いようと、思っておられません。主は、まず、働き人を霊的な破産に導き、その人を通して、主ご自身が働きたく願っておられます。

イザヤは、主に向って叫んだでしょう。「ああ、私はもうだめだ。私は、汚れた者です」と、告白しました。汚れとは、自らの力と聖霊の力が、混じり合っている状態です。聖さとは、完全に聖霊の支配のもとに入ることです。私たちは自らの力では、どんな小さな奉仕もできないということを、悟らなければならない。御霊だけが、我々の内に働き、奉仕を成さしめ、目標を達成せしめるお方であることを、絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。自らの力で成す奉仕は、一時的なものであり、決して、主の目的を達成することができない――主の御心をよろこばせることができないということです。

主なる神の奉仕で、いちばん大切なのは、奉仕の力がどこから出ているか、その源は何であるかということです。私たちが何と、何をするか――そのような問題ではない。何の力でやるのかということが大切です。

私たちが何をやるか、目指す目標を考えると、目標を達成するためには、手段はあまり考えないかもしれない。『目的は手段を喜ばず』ということわざがありますけれども、その通りにやってしまいます。多くの主を信じる人々が、主のために働こうとしますが、自らの力でそれをするならば、主は決してよろこばない。有名なヨハネ伝15章5節に書かれています、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と、イエス様は言われたのです。

イエス様がそう言われたから、もちろん、その通りです。見たところ、このことばは間違いのようです。私たちは、自分で聖書を読み、自分で祈り、集会を持つことができるのではないでしょうか。このことばの意味するところは、もし、イエス様なしに、ことをするなら、その結果は、何の価値もなく、実が実らないということです。

イエス様が我々の内に働いて成さった奉仕でない奉仕は、やがて、木や藁のように焼けてしまうのです。主ご自身が、そうはっきり言われたのです。それを真面目に受け取らなければならないのではないでしょうか。私たちは、自ら何もやらない。自ら何かできるけど、もし、それが主をよろこばせることができないなら、やらない。そこまで私たちは、主により頼みたいものではないでしょうか。

主に対する全きより頼み、信仰、従順、へりくだり、忍耐――これらは、本を読んだり、説教を聞いても、自分のものにならない。これらは、ただ苦しみ、悩みによってのみ、自分のものになります。

奉仕の法則は、イエス様の死とよみがえりを自分のものとして受け止め、体験することです。また、奉仕の力は、決して、決して、生まれながらの能力、力ではなく、主の御心にかなう奉仕の力は、我々の内に住みたもう御霊の力だけです。

奉仕の目的とは、何であるべきなのでしょうか。すべての奉仕の目的は、もちろん、イエス様でなければならない。次のように書かれています、「地には、あなたの他に慕うものはない」と、ダビデは告白したのであります。我々の取るべき態度も、そういうものでなければならないのではないでしょうか。私たちは、魂を救うために、御国を建てるために働くだけでなく、第一の目的は、イエス様によろこばれる生活をするということです。

イエス様のために働くということと、イエス様のために生きることのあいだには、大きな差があります。イエス様の他に、何ものも必要としない――それが、我々の心の態度でなければなりません。それに加えて、私たちは御霊の力と、我々自らの力のあいだの区別を、はっきりとする必要があります。

聖霊の力は、主の力、天的な力、霊的な力であり、まことの神の僕(しもべ)は、この力に導かれていなければならないということです。これに対して、自らの力は、人間的、世的、肉的であり、多くのいわゆる神の僕たちは、この力に動かされて、奉仕しているのではないでしょうか。

多くの人々が、どうすれば、聖霊に導かれているか、いないかの区別をすることができるか尋ねます。これらの人々は、自らの内を顧み、自らを分析し、自らの虜(とりこ)になってしまいます。自らの内を見つめる時、そこには、欺き、絶望、それから、不安定、疑いしかない。自らをどんなに試しても、自らを知ることができません。

けれども、自らを試す型は必要です。多くの場合、主のために奉仕をしていると言いながら、実は、主の妨げをしている場合が多いからです。けれども、どうしたら、私たちは自らを知ることができるのでしょうか。これには、三つの答えがあります。

第一番目、主のことばです。詩篇の作者であるダビデは、次のように告白したのであります。

詩篇
36:9 いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

私たちは、主の光の中を歩む時、自らを知り、さらに、自らを知るにしたがって、より良く主を知っていくことができるのです。私たちが暗い部屋を掃除する時、大切なのは光です。光がない時に、掃除しても、部屋の中を乱すだけでしょう。顔が汚いか、きれいかを知るために、どうすればよいでしょうか。手で顔を撫でるのでしょうか。そうではない。鏡を見ます。どんなに顔を撫でても、きれいか、汚いか、わからないので、失望し、疑い、不安になってしまいます。けれども鏡を見ると、すべてがはっきり見えることができ、私たちの不安は解消してしまうのです。

ダビデは自らを試してもらいたいと、切に願ったのです。もし、神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは、互いに交わりを保ち、御子イエスの血は、すべての罪から私たちを聖めてくださるのです。

ダビデは、「神よ、どうか私を探って、私の心を知り、私を試みて、私の諸々の思いを知ってください」と、心から祈ったのであります。主にすがらせていただいて、初めて善悪を知り、主ご自身をより良く知ることができます。実際に、その光は、どのようにして来るのでしょうか。主の光は、多くの場合、みことばを通して与えられます。詩篇の119篇を見ると、ダビデは次のように告白しています。

詩篇
119:130 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

みことばの光によって、私たちは、それまで知らなかった過ちを教えられます。そして、それまで、盲(めしい)であったことを知ります。みことばは、光をもたらします。そして、光があるならば、私たちは、見ることができます。

へブルの4章12節、何回も引用された箇所ですけど、このみことばが現実となります。

へブル
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

みことばは、すべてのことを明るみに出します。どうしたら私たちは、自らを知ることができるのでしょうか。みことばによってです。

ニ番目、他の信者の言葉により、光を与える場合もあります。人によって、接する時に、この人のそばに、イエス様が近くおられると感じさせる人がいます。このような人々と交わる時、新しい力が与えられます。その時、疑いと失望は去り、よろこびと自由をもって、主に仕えることができるようになるのです。私たちは、すべてがイエス様のご臨在を現すことのできる者でありたいものです。

三番目、光のうちに歩むことが必要です。

第一ヨハネ
1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

ここでは、主が光であり、主の光の中を歩まなければならない――主の御側(みそば)近くに絶えずとどまり続けなさいと書かれています。光は、その性質として、受け入れるところにはどこへでも入ってきます。私たちは、心を開き、主の光を受け入れるなら、疑いと恐れが消えてしまいます。これが、光であられるごとく、光のうちを歩むということは、地上でもっとも尊い価値ある歩みです。光のうちを歩む人たちは、自らの内に善悪を認めず、主の御心をわきまえ知っている人々です。

詩篇
43:3 どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。

私たちの心の態度がは、に、この詩篇の作者であるダビデのようでありたいものです。『主よ、私は、自らを改める備えがあります。どうか私の過ちを、誤りを示してください』と。神が、光あれと言われるなら、今にでも、直ちに光が差し込み、自分は恐れとおののきなく、主に仕えることができます。光とは何でしょうか。答えは、エペソ書5章でしょう。

エペソ
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
5:14 明らかにされたものはみな、光だからです。

イエス様が光であられるように、私たちも光のうちに歩む時に、初めて、主の御心を知り、主の御心にかなう奉仕をすることができます。けれども、私たちの仕える目的は何でしょうか。私たちは、イエス様だけを求めているのでしょうか。上のものだけを求めているのでしょうか。

マタイ
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

私たちの心と宝は、天にあるのでしょうか。ダビデのように、「地にいては、なんじの他、慕うものはない」ということができるのでしょうか。我々の心の眼(まなこ)は、イエス様にだけ向けられているのでしょうか。

ソロモン王は書いたのです。

雅歌
1:15 ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。

鳩は、ただひとつのものしか、見ることができないそうです。ここで、主はご自分のものたちに向かって――教会に向かって、主の花嫁に向かって――「あなたは、なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ」と、御声をかけておられます。

歴代誌下の16章9節、私にとっても、もっとも大切な旧約聖書のことばのひとつです。

第ニ歴代誌
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

私たちの心の目が向けられているところに、我々の心も宝もあるのです。「主よ、私自身は、自分のために何も求めません。私の願い、私の望み、すべてあなたにあります」と、言いたいものです。

マタイ
6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

イエス様は、そうはっきりと言われたのです。私たちは、主に仕えているのでしょうか。それとも、この目に見える世界に仕えているのでしょうか。私たちは、上のものを求めているのでしょうか、それとも、地のものを求めているのでしょうか。この両方に、兼ね仕えることはできません。この二つを混ぜ合わせることは、主によろこばれないことです。

旧約聖書を見ると、ロトという男は、主によろこばれない道を選んだのです。彼は、確かに、主を信じる者でしたけど、この世のものを求め、具合の良い生活を求め、自らの道を選んだのです。善悪をわきまえずして、彼は、ソドムに行き、この世と妥協し、罪を犯し、不安の中に陥りました。これに対し、アブラハムは、ただ上だけを見て、主だけを目指して歩んだ男です。その結果、彼は贅沢はしませんでしたが、心では王者の生活をし、主の豊かな祝福の内を歩みました。

創世記の18章17節に、不思議な言葉が書いてあります。全能なる全知なる神が、ちっぽけな人間に言ったのです。

創世記
18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」

主は、アブラハムに光を与え、ご自分の計画をすべてお示しになったのです。

ロトとアブラハムを、比較して見てみたいね。我々は、どちらに似ているのでしょうか?私たちは、主の御心をわきまえ、進んでいるのでしょうか。ダビデのように言いたいものです。「私は、自ら求めるものは、何もない。地上で私の慕うものは、ただあなただけです。自らは何も欲しません。ただ主よ、あなただけが外に現れてくださるように!」主が光であられるごとく、我々も光の内を歩み、永遠に朽ちない実を結んで行くことができたら、本当に感謝と思います。

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