2016年3月8日火曜日

掟の終わりであるキリスト

掟の終わりであるキリスト
2016年3月8日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ピリピ
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

今日の題名は、「掟の終わりである主イエス様」であります。ローマ書7章は、ローマ書6章14節の説明です。

ローマ
6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

掟からの解放が問題です。解放とは、より高いものに結びつけられることです。束縛とは、低いものに見つけられることです。イエス様は言われました。

ヨハネ
8:36 ですから、もし子が(・・・・もし、『わたし』である子が・・・・)あなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

本当の自由を与えるお方とは、もちろん、主イエス様しかない。

イエス様にしっかりと結びつけられることは、まことの自由を得たことを意味します。恵みは、主なる神が我々に御子イエス様を与えてくださり、まことの自由を与えてくださったことに現れています。これに対して掟は、私が主のために何かをやる。掟を自分の力で守ろうと試みる。そして、主を喜ばせようと努める・・・・この態度は掟にある態度です。けれども、この結果はどうでしょうかね。

主の御心を知り、これを行いたいと、心から願いますけど、いつも、失敗に終わってしまいます。ローマ書6章では、罪からの解放について書いてあります。そして、例えに、主人と奴隷が使われています。罪と罪人との関係は、主人と奴隷の関係であると、聖書は言っています。

ローマ書7章では、掟からの解放について語られています。そして、例に、夫と妻があげられています。そして、掟とこれを、少し考えてみましょう。ローマ書7章に、一人の婦人と二人の男が出てきますね。婦人は、今はあまり好きでもない男と結婚しています。もう一人の男の方を、よほど愛しています。けれども、残念ながら、婦人は一人の夫しか持つことができない。結婚している夫は、別に悪い人ではありません。ただ、あいだがうまくいかないだけなのです。夫はいつも、曖昧な態度が嫌いです。この妻は、何でも曖昧にしておきたいのです。

このように、二人のやり方が違いますから、幸福にうまく暮らすことができません。夫は、非常に厳しいのです。いつも妻に、こうしなさい、ああしなさいと、要求します。けれども、夫は、夫として当然のことを言っているだけであって、別に間違ったことを、妻に要求するわけではありません。悪いのは、妻が夫に聞き従い得ないことです。このようにして行くうちに、二人のあいだに食い違いが出てきます。妻は、自分の欠点をよく知っています。何とかして、夫に従おうとするのですができません。妻の言うこととやることは、原則として、いつも間違いばかりだからです。妻は絶望してしまい、他の夫を求めます。他の意中の男は、今の夫のように曖昧を嫌い、厳しい人ですけど、ただひとつ、大きな違いは、妻に命令することを自分から助けて、一緒にやってくれるということです。何とかして、この新しい人と結婚したいのですが、残念ながら、今の夫が生きているうちはできません。

パウロは、これをローマ書7章で、掟と人のあいだを表わす例話に用いているのです。第一の夫は、主の戒め、主の掟であり、妻は何とかして神の御心に叶おうと努めるが、けれどもできない。ため息をついている我々であり、第ニの夫は、掟を我々の内にあって行わしめてくださるイエス様を表わしています。

掟は我々に、いろいろなことを要求しますが、我々を助けてくれません。けれども、イエス様は掟より、以上のことを要求されるお方ですけれども、我々の内に住みたまい、ご自身で我々を助け、要求を行ってくださるお方です。だから、妻は、今の夫と離れ、ニ番目の夫と一緒になりたいと願うのです。妻の願いは、一日も早く、今の夫が死んでしまうことです。夫が死なないかぎり、その結婚は決して、あり得ない。妻は、夫がまだ元気で、いっこうに病気にならず、死にそうもないのを悲しく思います。イエス様は言われました。

マタイ
5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

これを見ると、掟である第一の夫は、決して死なない、永遠に生きていることがわかります。どうしても、私たちは掟を守らなければならないことがわかります。けれども、私たちは、どうしても第ニの夫である主イエス様と、ひとつになることはできないのでしょうか?

ローマ書7書1節から3節までを見ると、初めの夫が死んだら、第ニの夫と結ばれてもよいと書かれていますが、7章4節には、夫の死ではなく、妻の死、すなわち、私たちが死ぬことが書かれています。掟は永遠に留まります。けれども、もし、私が掟に対して死ぬなら、掟から自由の身となることができるのです。どんな掟も、死んだらその人の身に、掟としての力を及ぼすことができません。

【参考】ローマ
7:1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。――
7:2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
7:3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。

第ニ次世界大戦の時、ドイツの空軍大臣であるヘルマン・ゲーリングという男は、終戦後、死刑を宣告されましたが、執行される前に、彼は毒を飲んで死んでしまったのです。彼が死んだ時、死刑という判決は、自然に消えてしまったのです。同じように、主の戒めから解放されるには、私たちが死ななければなりません。もし、私たちが死ねば、第一の夫がどんなに命令しても、私たちには何のかかわりもありません。

ここで問題なのは、それでは、どうして死ぬことができるのかということです。死に方が、ローマ書6章4節に書かれていますね。

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

コリント第一の手紙、よく引用される大切な箇所です。

第一コリント
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。

神は、我々をキリストのうちに置きたまいました。ですから、イエス様が亡くなった時、私たちもともに死んだのです。それとともにイエス様が、よみがえられた時、私たちは、イエス様にあったがゆえに、ともによみがえらされたのです。

ローマ
7:4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。

死によって、妻は第一の夫から解放され、第ニの夫と結婚することができます。

ローマ書7章4節に、「あなたがたが他の人のものとなるように」と書かれています。この「他のもの」は、すなわち、イエス様は、自分が命令したことを、自ら成し遂げる力を持つお方です。第ニの夫と結婚した結果はどうでしょうか。それまで、ため息をつき、悩んでいた妻が、豊かに主なる神のために、実を結ぶようになると、この7章4節に書かれていますね。妻の内に宿ったイエス様のよみがえりの力、よみがえりのいのちは、主なる神の実を結ぶ力です。

もう妻は、動揺して、掟を守り、神に仕え、神を喜ばせようとする必要はない。内に宿りたもうイエス様ご自身が、すべてのことを成さしめてくださるのです。そして、主の成さることは、いつも父なる神に喜ばれます。

第ニコリント
11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。

乙女が結婚すると、何が起こるでしょう?普通、夫の名前を名乗ります。それだけではなく、夫の持ち物も、自分のものとなります。しかし、私たちがキリストのものになると、同じことが起こります。私たちはキリストの名を名乗り、イエス様の持てるすべてのものを、自分のものとするようになるのです。もし、主の持ちたもうすべてのものを持っているという確信に立つなら、主のご命令に従うことは、簡単なことです。

第一ヨハネ
5:3 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。

自分を見限ることの祝福について、考えてみたいと思います。霊的破産をもたらす祝福についてです。

ある兄弟が、勝利の生活を願い、非常に悩み、他の兄弟に、どうして自分はこんなに弱いのだろうと、どんなに努めても勝利の生活に達することができないと、話したのです。それで、相手の兄弟が言いました。「君が、主の御心にかなう生活をしたいと願っていることは、確かにありがたい。幸いです。そして、努力してもできないということを知るようになったことも、なおさら良いことでしょう。けれども、君は、弱い、弱いと言うのは、まだ弱りきっていない。もし、本当に、徹底的に弱くなりきるならば、少しも試みないはずです。もし、弱くなりきったら、君の成すことは、初めから終わりまで、主が成してくださるだろう」と。

私たちもみな、自分は何もできない、全く弱い存在です。『主よ、どうか私たちのためにすべてを成してください』という点にまで、来なければなりません。水に溺れる人を助ける時、溺れている人が自分で暴れる元気があるうちは、助けることができないでしょう。自分で動く力のある人を助けに行くと、助けに行った方も、しがみつかれて、一緒に溺れてしまうでしょう。けれども、弱りきった時、全くもがく力がなくなった時、簡単に助けることができます。同じように、主は我々が、あの夫を愛そうと尽くした妻のように、全く自ら努力することを止め、霊的に破産するのを待っておられるのです。

私たちはしばしば、自分には、主に仕える力があると考えます。そのような時、全然、十字架の意味を知っていないことになります。十字架が、私たちに対する神の判決です。私たちには、十字架の刑がいちばん、適当なものです。主に喜ばれたいと願って、自らの努力して、主に喜ばれたいと思っても結局、無理。(ローマ書)7章の14節、『自分は肉につける者である。』

【参考】ローマ(口語訳)
7:14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。

ローマ
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

パウロは、こう正直に書き記したのですね。

ローマ
8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。

そう、はっきり書いてあります。ローマ書7、章1節から3節までの「妻」、そして、15節から19節までのパウロは、主を喜ばせたいと願ってやったのですが、反対のことしかできませんでした。このようなことを私たちも、もうすでに、経験済みでしょうか。

【参考】ローマ
7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
7:17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

私たちは、主を喜ばせたいと願っていますが、実際には、己(おのれ)、または、人を喜ばせるためにやってしまいます。祈ろうとすれば眠くなり、聖書を読もうとすれば、気が進まないといった状態なのではないでしょうか。

パウロがローマ書を書いた、この時代の殺人の罪に対する刑罰は、死ぬまで、死人の体を自分の身に背負って歩むという、恐ろしい刑罰でした。パウロは、自分自身、ちょうどこの恐ろしい刑罰を受けた者のようだと、ここで言っています。死人が自分の体から離れず、自分はどのようにしても、解放されそうもない。あわれな自らの姿を嘆いています。パウロはまた、7章24節に、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫んでいます。

【参考】ローマ
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

この主に向っての叫びは、神の喜びたもう叫びです。これは、人の成しうるもっとも霊的な叫びです。これは、人が全く自らを見限った時、霊的に破産した時、初めて、魂の底から出てくる叫びです。

私たちは、すでに自分自身に絶望したことがあるでしょうか。それとも、祈ることにより、みことばを学ぶことにより、より良いクリスチャンになろうと努めているのでしょうか。パウロは、いろいろなことが我々を救うとは言っていません。ただ、イエス様だけが救い得るお方であると言っています。

パウロは、前には、自分でことを解決しようと努めましたが、最後に、それができないことを知り、自らの努力を止めた、そのとたん、主の祝福が注がれました。パウロは、その時、25節で、喜びの声を上げています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と言っています。

【参考】ローマ
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

私たちは、どのようにして罪の赦しをいただいたのでしょうか。祈りによってでしょうか。みことばを学ぶことによってでしょうか。捧げることによってでしょうか。そうではありません。十字架を仰ぎ、主イエス様がそこで、私たちのために何をしてくださったかを知ったからです。

それでは、私たちは、どうしたら掟から解放され、主に喜ばれる生活をすることができるのでしょうか?あれをやり、これをやりし、また、あれを止め、これを止めることによってではなく、内住の主イエス様を心から信じ、感謝し、イエス様にすべてを成していただくことによって、全き解放と、主に喜ばれる歩みを成すことができます。

罪の赦しは、イエス様が成さったことを単純に信じ、感謝することによっていただけますが、掟からの解放は、イエス様が今、私の内に成してくださることを単純に信じ、感謝することによっていただくことができるのです。

ドイツの歌で、次のような歌があります。

かつて、私は聖き生活を送ることができないと思った。
なぜなら、自分の力で聖くなろうと努めていたから。
しかし、今は、主が私に聖さを与えてくださった。
主ご自身、私のうちに、全てをなさってくださる。

かつて、私は自分で親切になり、愛にあふれ、
柔和であろうと努めた。
しかし、今は、イエス様が私のうちに住みたまい、
私をご自分の御姿に変えられようとしておられる。

かつては、時々刻々、勝利の生活を送るとは夢にも思わなかった。
しかし、今は、主自ら、我がうちに住みたまい、
私の歩みを勝利に保たれることを知った。

かつて、私は主のうちにとどまり、主に喜ばれようと必死に努めた。
しかし、今は、私は主ご自身、私のうちにみわざを成すままにしている。
このようにして、私は主にあり、主は私のうちにいたもう。

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