2016年3月15日火曜日

仕えるために救われた

仕えるために救われた
2016年3月15日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マラキ
3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

ルカ
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。

11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

22:24 また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。
22:25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
22:26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。
22:27 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。
22:28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。
22:29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。
22:30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

ドイツのアイドリンゲンの神学校の入り口を入りますと、額がかかっていて、その額には、何が書いてあるかと言いますと、「仕えるために救われた」というものがかかっています。私は、昔、七十年前でしょうか、そこへ行くたびごとに、いつも、感銘を覚えたのです。その額だけではなく、そこに住み、働いている人々の精神に接し、イエス様のかたちが、一人ひとりの内に形造られているから、本当にいつも、感銘を受けたのです。

パウロは、テサロニケの主にある兄弟姉妹に、「あなたがたは、偶像を捨てて、神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになった」と、書き送ることができたのです。御霊は、我々に対しても、もちろん、呼びかけています。

第ニコリント
5:15 キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

どうしたら、私たちは、まことの神に仕える者、主の僕となることができるのでしょうか。まことの奉仕の源は、どこにあるのでしょうか。

主に仕えるためには、従わなければならない法則があります。これから離れて、まことのご奉仕はあり得ないでしょう。主なる神は、みことばをもって、この法則を、我々に教えておられるのです。そして、この法則は、救われるために知らなければならない法則と同じくらい、奉仕になくてはならないものではないかと思います。

救いの条件は、イエス様の死と、イエス様のよみがえりであり、私たちはこれを、幼子のような心をもって受け入れ、これに感謝することです。

私たちはどのようにして、イエス様のものになったのでしょうか。聖書を読むことによってでしょうか。祈ることによってでしょうか。または、集会に出席し、良い人間になろうと努力することによってでしょうか。もちろん、そうではありません。イエス様が、我々の罪、咎のために死に、よみがえったことを知り、それを心の目で見た時、イエス様に感謝した時、救いの確信を自分のものにすることができたのです。

この救いの法則が少し違っても、救いはありません。イエス様の死と、イエス様のよみがえりが、救いの法則ですが、それでは、奉仕の法則とはいったい何でしょうか?奉仕の法則は、イエス様の死と主イエス様のよみがえりを己のものとして受け止め、体験することです。

この法則を自分のものとしていない限り、あらゆるご奉仕は、価値がなく、永遠の実を結ばない奉仕となってしまうでしょう。それでは、死とよみがえりを通って行くとは、いったい何を意味しているのでしょう。罪を犯した魂は、必ず死ぬべしと、みことばに書かれていますが、滅び行く我々を救うために、イエス様は死なれました。代わりに犠牲になられたのです。主イエス様は、我々の身代わりとなって、血潮を流してくださいました。

たとえ、人々が何と言おうと、私たちの心に疑いが起こっても、悪魔が訴えてきても、イエス様の血は、父なる神の御心をなだめ、満足させましたから、私たちは、主にあって喜ぶことができます。けれども、イエス様の死と、主イエス様のよみがえりは、さらに優った意味を持っています。

イエス様は我々の罪のためにだけではなく、罪の性質のためにも、亡くなってくださいました。我々の古き人は、イエス様と共に十字架につけられてしまいました。私たちは、自分の罪については死んだ者、主なる神についてはイエス様にありて生きた者と思い、主なる神に喜ばれるために、仕えてきました。そのうちに、戦いがやってきました。

ローマ書7章の戦いがやって来ました。私は聖い者でありたい、主に仕えたい、主に捧げたいと、一人ひとり心から願います。けれども、その努力も空しく、「ああ、我、悩める人なるかな!」と、叫ばざるを得ない。自らの様に気づきます。私たちは主に仕えることができないばかりか、自ら聖い生活を送ることすらできません。私たちは自らの力で、主に仕えることはできません。ローマ書7章は、私たちにそれをはっきり教えています。これを知るためには、大きな悩み、苦しみが必要です。まことの神の僕(しもべ)となるために、それがどうしても必要です。

奉仕をするためにいちばん大切な準備は何でしょうか。聖霊を注がれ、聖霊に満たされることです。けれども、聖霊はいつ、お出でになったのでしょうか。イエス様が死んで、よみがえり、父なる神の右に座したもうてから、聖霊が下りました。聖霊はかつて、一度、全教会に降り注がれました。しかし、私たちが、これを個人的に受けるには、イエス様の死と主イエス様のよみがえりを、個人的に体験しなければなりません。

旧約の時代に、もうすでに、死とよみがえりを体験した主に仕える僕たちがおりました。

出エジプト記
4:10 モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

モーセは、正直に言ったのであります。他の主に仕える人々も、結局、同じようなことを告白せざるを得なかったのです。

イザヤ
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。」

士師記の中にも、似ていることが書かれています。

士師記
6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」

6:34 主の霊がギデオンをおおった

聖霊がギデオンを着たとあります。これは、私たちが着物を着たら、着物は外に見えます。それと同じように、ギデオンが着物のように外になり、聖霊が、ギデオンの中に宿ったのです。エレミヤも同じようなことを経験しました。

エレミヤ
1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
1:7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。」

アモスも、同じみことばを聞くようになりました。

アモス
7:14 アモスはアマツヤに答えて言った。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。
7:15 ところが、主は群れを追っていた私をとり、主は私に仰せられた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ。』と。」

これらの旧約聖書の主のしもべたちは、主のご奉仕が自らの力ではできるものではありません、主なる神ご自身の力なくしてできないことを悟らせられたのです。奉仕は、主自ら、やりたく願っておられます。私たちの生まれながらの才能、賜物は、死とよみがえりを通らなければ、決して、主のために役に立ちません。生まれながらの賜物、教育、教養、これらのものをもって奉仕しても、もし、死とよみがえりを通っていなければ、永遠の実になる奉仕はできません。

モーセはかつて、生まれながらの教育、能力を多く持っていました。彼は、熱心であり、勇気があり、すばらしい知識を持っていた男でした。イザヤもエレミヤも、良い教育を受け、社会的な地位、名声も持っていたと思われます。新約聖書に来て、パウロは、最高の学問を身に着けた人でした。モーセやギデオンは、これに対して、あまり教育を受けていない平民でした。また、イエス様の弟子たちは、一般の教育を受けた貧しい人たちでした。社会的地位も、そんなに高くありませんでした。無学なただの人でした。けれども、主に仕えたこれらの人たちは、一人余さず、同じ体験を持っていたのです。

すなわち、死とよみがえりを体験しました。主なる神は、人間やその人の生まれつきの力を用いようと思っておられません。主はまず、働き人を霊的な破産に導き、その人を通して、主ご自身が働きたく願っておられます。イエス様がその模範を示してくださいました。

イエス様の公のご奉仕は、いつ始まったのでしょうか。イエス様の洗礼の後でした。洗礼は、死とよみがえりを教えております。イエス様が洗礼をお受けになると、天より聖霊が鳩のように下り、イエス様は、聖霊の力に満たされ、それから、まことの御奉仕が始まったのです。

私たちはどのようにして、主に仕えようとしているのでしょうか。イエス様は、弟子たちに、「だから上から力を授けられるまでは、あなたがたは都に留まっていなさい」と言われました。「ただ聖霊が、あなた方に下る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人になります。」と。

【参考】ルカ
24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。

【参考】使徒
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

ただ聖霊によってのみ、まことの主の仕え人となることができます。聖霊は、いつ、我々を用いられるのでしょうか。死とよみがえりの体験の後に用いられます。いわゆる奉仕の法則は――今、話したように――イエス様の死とよみがえりを己のものとして受け止め、体験することです。この法則を、自分のものとしていない限り、あらゆる奉仕は、価値がなく、永遠の実を結ばないものとなってしまいます。

奉仕のための必要な力とは何でしょうか。自分の力で主に仕える、まことの奉仕ができるかどうかということについて、考えてみましょうか。私たちは、自分で主のために何かすることができるか、生まれながらのものをもって主に仕える時、主はそれを用いるかどうか、この問題を解決することは本当に大切です。もちろん、私たちの生まれながらの悪い性質は、主の御奉仕に役に立ちませんけど、我々の良い意思は、奉仕に役に立つでしょうか。役に立たないでしょうか。良き理性、良き信念、これらは、奉仕に役に立つのでしょうか。

信者になる前に、非常に、たとえば、歴史や科学に堪能な人が回心し、信者になります。すると、その人の目指す目的は、確かに変わります。けれども、その人は前に歴史や科学を学んだのと同じ力で、エペソ書やコリント第一の手紙を学ぼうとします。今、ここに、宣伝会社のアナウンサーが信者となったとします。すると、人々は、この人をすぐに説教家にしようと願うでしょう。このアナウンサーにとって、目指す目的は確かに変わりましたけれども、働く力は、元の古いものです。

すべて、主に仕える者は、みな、モーセ、イザヤ、エレミヤ、ギデオンのごとく、生まれながらの古き性質は、主の働きのために何の役にも立たないことを、知らなければなりません。イザヤは、主に向って、「ああ、私はもうだめだ。私は汚れた者です」と、叫びました。汚れとは、自らの力と聖霊の力が、混じりあっている状態です。聖さとは、完全に聖霊の支配のもとに入ることです。

私たちは、「我々は汚れた者です。主よ、私から離れてください」と、言わないではおられない状態ではないでしょうか。私たちは、イザヤが、「災いなるかな」と、自らの状態を見て、叫ぶべきなのでしょうか。そこまで、進んでいるのでしょうか。イエス様ご自身、「わたしは、自分からは何事もすることができない。子は父のなさることを見て、そのこと以外に自分からは何事もすることができない」と、イエス様は告白してくださいました。

【参考】ヨハネ
5:19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」

5:30 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

イエス様は、もちろん、罪のないお方だったにもかかわらず、自ら語り、自ら成すことをいたしませんでした。罪のないイエス様でさえ、神のしもべとなるためには、主に全くより頼むことを知らなくてはならなかったのです。

私たちは、自らの力ではなく、主に頼ることこそが要求されています。自らの力では、どんな小さなご奉仕もできないということを悟らなければなりません。御霊だけが、我々の内に働き、奉仕を成さしめ、目標を達成せしめるお方であることを知りましょう。自らの力で成す奉仕は、一時的なものであり、決して、主の目的を達成することができません。また、主のみ心をよろこばせることができません。

士師記
7:2 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」

コリント第一の手紙にも、パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。

第一コリント
1:31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。」

すべての栄、すべての栄光が主に帰せられることが問題です。

救いの時に、主は、我々のためにすべてを成してくださいました。人の功(いさおし)は、何もそこにあずかって、力なかったはずです。私たちは、贈り物として、永遠のいのちをいただきました。もし、救われるために、自分で何かをやろうとするなら、それは、すべて妨げとなったことでしょう。奉仕の場合も、全く同じです。主は、ご自分の働きに、人の力を求めておられません。主は、み霊によりて、人の心に住み、その力によって、自ら働こうと思っておられます。そうすることにより、すべての栄光を、ご自分に帰そうとなさっておられますけども、御霊が我々の内に働く奉仕は、私たちが死を通らなければなりません。もし、あれほど頭の良い才能のある人がクリスチャンになったならば、どんなにすばらしい奉仕をすることができると、もちろん、人間は考えます。それは当たりません。

どんなに、あるキリスト者が人触りが良く、すばらしい判断力を持ち、頭が良くても、それが生まれながらのものであるならば、益になりません。イエス様は、ヨハネ伝、3章の6節に、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」と、言われたのであります。

すべての御霊のご支配のもとにない、生まれながらの者は、肉であり、人に栄光を帰するものです。

主なる神の奉仕で、いちばん大切なのは、奉仕の力がどこから出てくるか、その源が大切です。私たちが何と何をするか、そんなに問題ではない。何の力で奉仕を成すのか、問題です。私たちは何をやるか、目指す目標を考えますが、目標を達成するための手段をあまり考えません。『目的は手段を選ばず』ということわざがありますが、この通りにやってしまいます。多くの主の恵みによって救われた人々が、主のために奉仕しますけど、自らの力でそれをするならば、主はよろこばれません。ヨハネ伝15章の5節、『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない』と、イエス様は言われました。

ここに、甲、乙、二人のキリスト者がいます。甲は、非常によく話をすることのできる兄弟ですけれども、いざ実際的な仕事をさせると、何にもできない。これに対し、乙は、口下手ですが、実際的なことになると、何でもできる兄弟です。二人がどこかの修養会に招かれ、話すように言われたとします。甲は、うまく話せます。ですから、もちろん、祈るでしょうけど、乙ほど熱心には祈らない。乙は、自分が口下手であり、話せないことをよく知っていますから、「主よ、もしあなたが助けてくださらなければ、私はもうだめです」と、もっともっと、熱心に祈るでしょう。今度は、逆に、二人とも、実際的な働きを頼まれたとします。するとどうでしょう?今度は、乙は、自分の得意とするところですから、それほど主のみ前に訴えません。けれども、今度は、甲は、自分の無力を覚え、ひたすらに叫ぶでしょう。心から祈るでしょう。これを考える時に、甲、乙、二人とも、主のみ前に全く奉仕をなしていないことが、よく分かります。

ある時は、自分の力でやり、ある時は、主の力により頼んでいます。生まれながらの能力、力は、死に渡されなければならない。そして、いかなる場合にも、全く主により頼まなければいけません。イエス様は、ヨハネ伝15章5節で「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言っておられます。

本当にそうでしょうか。見たところ、このみことばは間違いのようです。私たちは、自分で聖書を読み、祈り、集会を持つことができるのではないでしょうか。このことばの意味するところは、もし、イエス様なしにことをするなら、その結果は、何の価値もなく、実が残らないということです。主が我々の内に働いて成さった奉仕でないご奉仕は、やがて、木や藁(わら)のように焼けて、無くなってしまいます。

イエス様ご自身が、そう言われたのです。それを、真面目に受け取らなければなりません。私たちは、自ら、何もやらない。自ら、何かできるけど、もし、それが主をよろこばせることができないなら、やらない。そこまで、私たちは、主により頼みたいものです。

私たちは、どんな、いろいろな賜物を持っているとしても、主に、全くより頼みたいものです。主の役に立つ、まことのしもべとなりたいものです。主のみ心に叶う奉仕の力は、我々の内に住みたもう御霊の力だけです。これを学ぶために、私たちは悩み、苦しみを通らなければなりません。

モーセは、四十年のあいだ、荒野で羊を飼っていました。働き盛りの力に満ちたモーセには、それは、まことに物足りない仕事だったに違いない。モーセは、荒野に逃げる前に、イスラエルの民を救おうとしましたが、その目的は良かったけど、方法が間違っていました。モーセが荒野で学んだことは、自らの力は、主の奉仕のためには、何の役にも立たないということでした。イザヤも、主にお会いした時、自らの無力さを、深く悟りました。エレミヤも同じです。パウロも、ダマスコの途上、主の光に目が眩んだ時、そして、主のご支配に入った時、自らの学問や力、才能が全く無力なものと悟りました。

主に対する全くより頼む信仰、従順、へりくだり、忍耐、これらは、本を読んだり、説教を聞いても、自分のものにはなりません。これらは、ただ苦しみ、悩みによってのみ、自分のものとなることができます。

奉仕の法則は、イエス様の死とよみがえりを、己のものとして受け止め、体験することです。奉仕の力は、決して、生まれながらの能力、力ではなく、主の御心にかなう奉仕の力は、我々の内に住みたもう御霊の力だけであります。

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