2012年11月20日火曜日

主の教育と導き

主の教育と導き
2012年11月20日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
6:45 それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。
6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
6:47 夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
6:48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。
6:49 しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
6:50 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
6:51 そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。
6:52 というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。

ヘブル書の十二章二節に、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」もっとも大切な呼びかけなのではないでしょうか。なぜならば、イエス様から目を離すと、誰でも落ち込みます。どうしたらいいか、解からなくなってしまうからです。


今、お読みになった箇所を見ると、イエス様は、弟子たちを教育しようと望んでおられました。イエス様の教育の目的、イエス様の導きの目的とは、いったい何だったでしょうか。二つのことが言えます。第一番目、主イエス様のご栄光を明らかにするためです。もうひとつ、イエス様の姿に変えられることです。

まず、第一に、イエス様ご自身です。イエス様は、ご自身を現したく思っておられます。私たちは、自分が本当に取るに足りない者であるということを、知っているのでしょうか。私たちは、自分の失われた状態、あるいは、絶対に良くならない自分中心の性質を、本当に、知っているのでしょうか。

すべてのことにおいてイエス様は、ご自身を明らかにしたい、啓示したく思っておられます。私たちがイエス様に出会って、イエス様を体験的に知るときに初めて、私たちの苦しみや悩み、あるいは、あらゆる問題が解決されるのです。

今日の箇所を見ると、イエス様が船に乗り込まれると、風がやんだと記されていますが、これは、あらゆる問題が解決されたことを意味します。イエス様は、私たちにご自身を、より多く啓示したく思っておられます。しかも、我々を通して、他の人々にご自身を現したく思っておられます。

弟子たちを導くために、弟子たちを教育する目的は、弟子たちがイエス様の権威をよりよく知ること、それを確信すること、イエス様に完全に拠り頼むようになることでした。弟子たちが、イエス様を徹頭徹尾、信頼することこそ、イエス様が求められた目的でした。弟子たちには、どれほど多くの不信仰があったことでしょうか。

信仰とは、イエス様に対する絶対的な信頼にほかならない。この信仰がないと、自分のことばかりを考えるようになるのです。不幸になろうとする者、主の力を知ろうと思わない人は、自分のことばかりを考えるのもいいでしょう。また、信仰とは、主の全能なることを確信することです。この確信がなければ、常に疑惑が起こってくるのです。疑いの結果は、信仰生活の麻痺、あるいは、硬直化、そして、喜びのない状態です。

信仰とは、目に見えないものに目を注ぐことです。これが欠けると、目に見えるものに対して、不安や心配を感じるようになります。そして、それによって、イエス様は、栄光を受けることができないのです。

主の導きの目的は、イエス様のご栄光を明らかにすることであり、そして、それと結びついて、イエス様は、彼らを連れて、そして、自分のご栄光を現そうと思っておられるのです。イエス様に似た者に造り変えられることも、主の目的です。私たちは、イエス様を見上げ、常に主を体験している時に、おのずから、そのような者に造り変えられていくのです。

パウロは、もちろん、それを考えながら、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのであります。

第二コリント
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。・・・・

導きとは、教育とは、自分自身の努力や試みによって起こるのではなく、ただ、主イエス様を見上げて歩む時にのみ、実現されます。本当の意味での教育者であるイエス様は、決して、命令なさるのではなく、ご自身がお手本となっておられます。私たちは、イエス様に似た者となりたいと思うならば、この世の見えるものに目を奪われることなく、見えないものに、目を注がなければなりません。

主イエス様の導きの手段とは、いったい何なのでしょうか。主の導き、また、教育の手段とは、イエス様ご自身であり、さらに言うならば、まず、模範的な祈り人、次に、自然を従わせる権威を持ったお方、そして、すばらしい慰め主です。

イエス様について考えると言えることは、イエス様は、まことに模範的な祈り人でした。イエス様は、ただ一人、山で祈られました。イエス様は、再三再四、退けられて、一人でお祈りしたのです。我々にとっても、イエス様と同じように、一人で静かに祈り、主との交わりを持つことがどうしても必要です。さもなければ、悪魔の虜になってしまうのです。

福音書の中で、次のような箇所がいっぱい出てきます。

マタイ
14:23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。

マルコ
6:31 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。

ルカ
9:10 ・・・・イエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。

イエス様は、弟子たちにも静かなところに行き、祈ることを勧めただけではなくて、命じられました。静かなときを持つということは、何もしないということではなく、主を深く思い、主に深い祈りを捧げて、交わりを持つことを意味します。

イエス様でさえも、祈りの生活の必要性を感じておられました。イエス様は、私たちよりも、はるかに忙しい方でしたが、それにもかかわらず、静かな時を持つために、その時間を作られました。イエス様は、朝早く、あるいは、夜に、また、真夜中でさえも、そのための時間をお作りになられたのです。

マルコ
1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
6:47 夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。

ルカ
5:16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

6:12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

これらの箇所は、イエス様の祈りの生活を一望、描き出されています。我々の祈りの生活は、いったいどうでしょうか。私たちも同じように、祈りの生活に励むようにと、主は命令しておられるのです。

第一歴代誌
16:11 主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。

有名な、『山上の垂訓』の中にもこうあります。

マタイ
7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。

また、良く引用する箇所です。

ルカ
18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

イエス様は、弟子たちに、ひとつの終わりのことばとして言われました。

ヨハネ
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

すばらしい祈りへの呼びかけなのではないでしょうか。

第一テサロニケ
5:17 絶えず祈りなさい。

ヤコブ
5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。

これらのみことばから明らかなように、主は、私たちが絶えず祈り、求めることを要求しておられます。しかし、祈るためには、いくつかの条件があることを忘れてはなりません。第二歴代誌を見ると、条件とは何かが書かれています。

第二歴代誌
7:14 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

エレミヤ記にも似ている言葉があります。

エレミヤ
29:13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

こう、約束されています。

マルコ
11:24 ・・・祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

マルコ伝に約束されています。また、有名なヤコブ書に書かれています。

ヤコブ
5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

ヨハネもその第一の手紙の中で、似ている箇所を書いたのです。

第一ヨハネ
3:22 求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

今まで、主が祈り求めることを命じられたこと、次に、二番目、その祈りが満たされるための必要条件について、考えていきましたが、これから、三番目、祈りに対する主の答えについて、考えてみることにしましょう。

詩篇
91:15 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。

こう、主は約束しておられます。

イザヤ
58:9 ・・・あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。

65:24 彼らが呼ばないうちに、わたしは答える・・・・。

こう、約束されています。

ルカ
11:9 ・・・・求めなさい。そうすれば与えられます。

また、イエス様は、終わりのことばとして言われました。

ヨハネ
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

ここでもう一度、先ほどの箇所、すなわち、マルコ伝六章、四十六節から四十八節までのところに戻って、模範的な祈り人としてのイエス様について、さらにちょっと考えたいと思います。

マルコ
6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
6:47 夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
6:48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。

イエス様は祈られて、弟子たちが困っているのをご覧になりました。一般的に言って、イエス様の御前で、静かに祈る者は、ひとつの問題を見る場合にも、高い次元から見ることができ、普通の人よりも、はるかに多くのことを見通して、その問題に対する解決への導きをも、見い出すことができるのです。イエス様は、その時に、弟子たちの苦しんでいるのをご覧になりましたが、今日でも、我々の信仰生活のあらゆる事柄を見ておられます。

主は、見るお方です。全部、知っておられます。もうすでに、創世記、六章五節に次のように書かれています。

創世記
6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

『みな』・・・・『いつも』・・・・『だけ』とあります。このように主は、ノアの時代にも、人々の心をご覧になられました。主は、常に我々の考えや思い、また、動機などを見ておられます。いかなる罪をも、主の御前に隠すことはできません。

私たちの生活の中で、債務という問題はどうなっているのでしょうか。すべてを忘れようとする試みは、全く空しいものです。債務は、あくまでも債務であって、直ちに支払われない限り、いつも残るのです。債務を支払われた者だけが、罪を赦すことができます。

そして、そのことをイエス様が成してくださいました。このようにして、イエス様が十字架でご自分のいのちを、尊い代価として捧げてくださったゆえに、今日(こんにち)も、その福音を提供していてくださるのです。私たち一人ひとりも、このすばらしい救いを、自分のものにしたいとは思わないでしょうか。

出エジプト記
3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。

主は、モーセの時代においても、イスラエル人をしいたげているのをご覧になりました。しかし、イスラエル人をエジプトから救いだしてくださり、完全な救いを成してくださったのです。

イエス様を知らない者は、誰でも、悪魔、罪、この世の奴隷となっています。本当の解放は、ただイエス様だけが、実現してくださることがおできになります。我々の場合には、私たちを不自由にし、喜びを無くさせるような、我々を支配している事柄があるのでしょうか。イエス様は、それらのものをご覧になるだけでなく、実際に、それらのものから、我々を解放してくださいます。詩篇の作者であるダビデは、次のように告白、また、証しすることができました。

詩篇
34:16 主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。
34:17 彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

これこそダビデの証しであり、体験でした。ノアの時代やモーセの時代だけでなく、ダビデの時代にも、主は、すべてをご覧になり、あらゆる苦しみや悩みから、ご自分の民を救い出してくださいました。

第二歴代誌
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

したがって、我々の心が主と全くひとつになっているかどうかということが、いちばん大切なのではないでしょうか。

主の導き、教育の手段とは、今、話したように、まず第一に、イエス様ご自身であり、すなわち、模範的な祈り人であるイエス様であります。

次に、主の導きの手段の第二番目の答えは、自然を従わせる権威を持つお方であるイエス様、ご自身です。前に読みましたマルコ伝、六章四十八節の後半に、「主は湖の上を歩かれた」とあります。けど、今日、このみことばの終わりに疑問符を打ち、この事実を認めないばかりか、批判する動きさえ、強まっているのです。しかし、イエス様を本当に体験した者は、この事実を少しも疑わずに、全知全能なる主が、それをする力を持っておられることを確信しているのです。

来るべきメサイアの支配と権威は、すでに旧約聖書で預言されています。何を書いているかと言いますと、イザヤ書の中でいちばん、将来の主の支配なさることの結果について、多くのことを書いてあります。一箇所だけ、見てみましょうか。

イザヤ
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

マタイ伝の中で、人々は驚いてこう言った、「風や湖までも言う事を聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と。イエス様が、『力ある神』と名づけられていることからしても、イエス様が、自然現象をも支配し、湖をも静め、歩かれたことは決して、不思議なことではない。いわば当然のことだったと言えます。けど、風や湖までも静めるなどということは、イエス様にとって、それほど大したことではありませんでした。なぜならば、イエス様ははるかに大きな御業をなされたからです。すなわち、罪を赦し、ご自分の力でよみがえり、永遠のいのちをお与えになられたからです。

マタイ
9:2 人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。

9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。

ヨハネ
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。

ヨハネ
17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。

イエス様は、十字架の死と復活の後で、弟子たちにこう言われました。

マタイ
28:18 わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

パウロもエペソにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。

エペソ
1:22 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

ペテロも同じ事実について書いたのです。

第一ペテロ
3:22 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。

イエス様は、すべての力と権威を持っておられますが、私たちの中では、イエス様の存在はどのようになっているのでしょうか。

イエス様は、我々にとって見知らぬ人なのでしょうか。もしそうならば、私たちには、神なく、望みなく、永遠の滅びに至る道が横たわっているだけです。それとも、イエス様は、我々の救い主となっているのでしょうか。救い主になっておられるならば、私たちは、父なる神との平和を持ち、罪を赦されて、永遠のいのちを持っているのです。けれども、イエス様は、主となることを望んでおられます。我々の生活の中に、イエス様が中心となっておられる時にのみ、私たちは、主と共に遺産を受け継ぐ者となることができ、ことばに言いつくせないほどの栄光にあずかることができるのです。すなわち、イエス様と共に、御座につくという特権にあずかることができるのです。

今まで、二つのことについて考えましたね。まず、第一に、イエス様ご自身であり、すなわち、模範的な祈り人であるイエス様。次に、二番目、自然を従わせる権威を持つお方であるイエス様でした。

最後に、三番目、すばらしい慰め主であるイエス様について、ちょっと考えたいと思います。

マルコ
6:50 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

このみことばは、簡単な気休めではなく、このみことばの背後には、全能なる主が立っておられます。私たちは本当に主に、より頼んでいるのでしょうか。我々の目に見える、あらゆる恐れや不安、心配事などから、目を転じて、ただ主だけを見上げましょう。私たちは、自分自身を見たり、他人を見たり、自分の感情、考え、意思などを大切にすることなく、絶えず、みことばを第一としなければならないのではないでしょうか。

イザヤ書の中に、すばらしい約束のことばがいっぱいあります。四十三章の一節、私もこのことばによって、救われ、確信を持つようになったのです。

イザヤ
43:1 恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

41:13 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。

なぜ、イエス様は、このような約束のことばを言われたのでしょうか。答えは、ヨハネ伝、十六章の三十三節なのではないかと思います。

ヨハネ
16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

主の教育、主の導きの手段とはいったい何なのでしょうか。

今、話したように、ひとつ目はイエス様ご自身です。二番目、患難なのではないでしょうか。しかも、それは、最大の苦しみです。マルコ伝の六章四十五節を見ると、イエス様が弟子たちを強いて、船に乗り込ませたことが解かる。すなわち、イエス様に従う時には、必ず、患難がやってくるということです。

【参考】マルコ
6:45 それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。

しかし、このような患難を通して、イエス様は、ひとつの決まった目的を達成しようとしておられます。

教育というものは、一朝一夕にして、でき上がるものではなく、長い時間をかけて、少しずつ、でき上がっていくものです。ここでも、弟子たちの場合に、イエス様の教訓を完全に学ぶことができなかったため、長いあいだ、いろいろなことで悩むようになりました。

マルコ伝四章の三十五節から四十一節を見ると、その以前にも弟子たちが、激しい波風を見て、あわてふためき、弟子たちに向かってイエス様が、「信仰がないのは、どうしたことです」と、言われたことが、書き記されています。

【参考】マルコ
4:35 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。
4:36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

マルコ伝、六章の場合にも、事情は非常によく似ています。なぜならば、この場合には、風が吹き、波が立っていたからです。そして、この時も、弟子たちは、不安と恐れでいっぱいでした。しかし、この場合には、イエス様が遠く離れたところにおられたため、前の場合よりも、さらに悩みが大きかったことが解かります。イエス様が弟子たちのところにやって来られた時は、すでに明け方の三時か、四時頃だったと記されています。しかし、弟子たちは、非常に長い間、困り果てていたことが解かります。

すべての望みが消え果てたときこそ、主が登場なさるときです。そのとき、初めて、イエス様は、私たちに救いの御手を差し伸べてくださるのではないでしょうか。

おわり

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