2012年11月6日火曜日

もっとも大切なもの

もっとも大切なもの
2012年11月6日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

第二コリント
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

私と家内にとって、もっとも大切な聖書の箇所は、結婚指輪にも刻まれていることばです。

コロサイ(口語訳)
1:10 主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ(よう)。

信じる者にとっていちばん、大切なのは、それなのではないでしょうか。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのです。


第二コリント
5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

もちろん、主に喜ばれる前に、主を知ることが大切です。主を知らなければ、もちろん、主を喜ばせたい気持ちは、絶対に出てきません。そして、聖書の言わんとしていることは、誰でもありのままの状態で、イエス様の御許に行くことができる。大切なことは、とにかく、イエス様の御許に行くことです。つまり、イエス様を体験的に知ることです。

イエス様とは、自由にしてくださいます。イエス様は、罪の赦しを提供しておられます。イエス様は、生き生きとした希望を与えてくださいます。考えられないほどすばらしい宝物なのではないでしょうか。

もっとも大切なことは、今、話したように、主に喜ばれることです。キリスト者とそうでない人々とのあいだの区別は、いったい何でしょうか。イエス様を知るようになった人は、必ず、主に喜ばれたいという願いを持っています。いわゆる未信者は、主に対してメクラであり、主の声に対してツンボです。だから、主を喜ばせたい気持ちは一切、合切ない。

このあいだ、話したように、人間は三つの違った種類に分けることができます。どんな人間も、その内のひとつに属しています。その内のどれに属したいと思うのでしょうか。次の三つの種類があります。第一番目、生まれながらの人、二番目、肉のキリスト者、そして、三番目、霊によるキリスト者です。

生まれながらの人の写真を鑑賞してみましょうか。パウロは、コリント第一の手紙、二章十四節に書いたのです。パウロの証しでもあります。

第一コリント
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

生まれながらの人間は、イエス様を救い主として持っていませんし、もちろん、まだ、主として考えていません。だから、生まれながらの人は、自分自身の生き方をしていると、聖書は言っています。

それから、肉のキリスト者は、もちろん、救われています。なぜならば、その人は、救い主、イエス様を信じることにより、イエス様を意識して受け入れることによって、神の子となっているからです。肉のキリスト者は、心の中に聖霊を宿していますが、その人はいつも、御霊を悲しませています。肉のキリスト者は、再び生まれることによって、新しくされました。しかし、まだ、キリストにある小さな子供のような者です。

肉のキリスト者は、イエス様を救い主として認めています。しかし、まだ、自分のすべてをイエス様に捧げていません。すなわち、絶えず、「主よ、どうしましょうか。語ってください、しもべは聞いております。」そういう気持ちがまだ、ない。

肉のキリスト者は、自分がイエス様を必要とし、イエス様との交わりを持ちたいと思っておりますけど、イエス様は、その人の中には小さな場所しか持っていない。その人を支配することができません。また、肉のキリスト者は、悩みに満ちている状態にあります。肉のキリスト者には、二つの性質があります。すなわち、主の性質と自分の性質があります。ある時は、イエス様が支配者であり、また、ある時は、自己、悪魔、また、罪が支配者となります。

どうしたら、私たちは、愛そのものであられる方に、喜んでいただくことができるのでしょうか。主は、光そのものです。しかし、なんと多くの利己的な性質、偽善と二重人格が我々の内にあることでしょう。主は絶対、聖なるお方です。しかし、何と多くの嘘と不純が我々の内にあるでしょうか。主は愛、そのものです。しかし、何と多くの自己追求と自己中心が我々の内にあるのでしょうか。

この主は、いかに我々を気に入ってくださるのでしょうか。

人間の創造以前に、主なる神は、御心にかなう人間を欲しいと計画してくださいました。主ご自身が、ご自分の方から、我々と主とのあいだの裂け目を塞ぐ道を用意してくださいました。すなわち、御子イエス様が、我々の贖いの代価を支払ってくださいました。その代価は、イエス様が捧げてくださったいのちです。

生ける神が喜んでくださるのは、言うまでもなく、イエス様しかない。今、イエス様が受け入れてくださる方、イエス様の内にあり、イエス様の義によって御心にかなった人間とされています。しかし、それは、自分自身のすばらしさのゆえにではなく、ただイエス様の贖いのゆえに、そうされています。イエス様の内にある者、すなわち、イエス様と結びついている者の生涯は、必ず、変えられます。そこには、実を結ぶことが見られるのです。

自分の努力ではなく、我々の内におられるイエス様こそ、勝利と祝福と実を結ぶことの秘訣、そのものです。

主に喜ばれること、これこそ、もっとも大切なことです。それは実際には、いったい、何を意味しているのでしょうか。三つのことが言えます。

まず、第一に、主は、我々の愛を、心からの愛を望んでいます。主の望んでおられる愛は、裏表のない愛です。イエス様は、ペテロに三度、聞いたんです。すなわち、「あなたは、わたしを愛するの」と、お尋ねになりました。もちろん、主は、今日も我々に問うておられます。私たちは、本当に、イエス様を愛しているのでしょうか。

主を愛するということは、ただ、イエス様を信じるということだけではない。それ以上のものです。イエス様を愛する者は、イエス様がどういうことを喜んでくださるかをわきまえています。覚えていただきたいこととは、何か、ある律法が我々を導くのではなく、主に対する愛が我々を導くべきです。毎日、「主よ、私は何をしたらいいの?あなたは何を望んでおられるのでしょうか」と、尋ねるべきです。そうすれば、主なる神の祝福が豊かに、一人ひとりの上に注がれます。

第二に、主は、我々の喜んで行なう奉仕を望んでおられます。主に喜ばれる奉仕とは、自分自身を無にした奉仕であり、主のために喜んで犠牲を払う備え、そして、また、自分自身を捧げ、自分を否定する備えのできた奉仕です。すなわち、自我の死、自分自身の願いを捨てること、自分自身の利益を捨てることです。

今まで、私たちは、二心のない愛と喜んで行なう奉仕を通して、主が喜んでくださることを見てまいりました。しかし、第三に、正直な態度を通しても、主が喜んでくださると、聖書は言っています。失敗することは、別にたいへんなことではありません。しかし、曖昧にすること、隠すこと、陰で画策することは悪い。主の働きの妨げとなります。

ただ人前だけ上手につくろい、人間を喜ばせようとする人は、物事を曖昧にしたり、隠したりします。しかし、主なる神の前に、光のうちに歩む者は、もはや、隠したり、曖昧にしたりすることはできなくなる。主に喜ばれる生涯、これこそ、我々の人生の内容であるべきです。その秘訣は、我々の内にイエス様がおられるということです。私たちは、いつも失敗ばかりする者です。しかし、イエス様は何事でもおできになるお方です。主に拠り頼み、徹頭徹尾、主に信頼する者は、勝利から勝利に至ります。

私たちが、何のために生きたいと思うかについては、三つの可能性が考えられます。第一の可能性は、自分自身を喜ばせる生き方です。第二の可能性は、他の人々だけを喜ばせる生き方です。そして、第三の可能性は、主のみを喜ばせる生き方であります。

多くの人々の特徴は、自分、自分だけのことを考えるということではないでしょうか。それだから、全部、うまくいきません。結婚生活も家庭生活も社会生活も、あまり、うまく行かなくなる。だから、至るところ、恐ろしいほどの競争があり、妬みもあり、憎しみも存在する。

イエス様について、驚くべき文章が書かれています。「キリストは、自分自身を喜ばせようとはなさいませんでした」とあります。自分自身を喜ばせるとは、いったい、どういうことでしょうか。それは、自己満足です。人は、簡単な楽な道を望みます。人は、問題に入りたくない。そして、自分の利益を追求する者です。イエス様は、本当に、自分自身を喜ばせなかったただ一人のお方です。イエス様は、「わたしは、心からへりくだった者です。わたしは自分の意思を追求しないで、わたしを遣わしたお方の御心だけを求める」と、心から言えたのです。

我々の最大の敵は、自分なのではないでしょうか。自分の考えによって導かれる者は、かわいそう。災いです。主を喜ばせるものは、我々のうちに何ひとつありません。だから、イエス様は、ただ単に、我々の債務を贖うために死んでくださっただけではなくて、我々の、いわゆる、古き人と共に死んでくださったのです。古き人、すなわち、自分自身の自我は、イエス様のために、全く役に立たないものです。それは、死に値するものでした。

もし、私たちが、自分自身の利益を考え、自分が中心になりたいと思う時、もはや、主の喜びは、我々の上にはもうありません。ただ悪魔だけが、そのことを喜ぶのです。なぜ、そんなに実りが少ないのでしょうか。なぜ、御霊をそんなにしばしば、悲しませるのでしょうか。なぜなら、私たちが、自分自身を喜ばせているからでしょう。なぜなら、私たちが、何かの役割を演じたいと思っているからでしょう。なぜなら、私たちが、自分自身に同情するからなのではないでしょうか。

キリストは、自分自身を喜ばせませんでした。主は、自分自身を忘れ、誤解されたり、そしられたりすることをよしとされました。そればかりではなく、イエス様は、人間の罪に対する聖なる神の怒りの裁きを、ご自身の上に引き受けることをよしとしてくださったのです。イエス様は、のけ者にされ、呪われることをよしとされました。「我が神、我が神、どうして、あなたはわたしをお見捨てになったのですか」というイエス様の叫びは、我々に、この心の態度と、イエス様ご自身を明け渡してくださった状態を示しているのではないでしょうか。自分自身の名誉欲を満たしたいと思う者、自分の利益を追求する者は災いです。

次に、第二番目の可能性、すなわち、人間だけを喜ばせる生き方をしたいと願うことは、大部分の人々の特徴なのではないでしょうか。人間だけを喜ばせようとする者は、言うまでもなく、人間の奴隷です。その人は、内面的に不自由であり、たいへん、神経を使ったりするのです。その人は、必ず不幸になり、失望します。人間は失望しますが、生ける神は、決して、失望させません。

主なる神を恐れることのない人間は、心の支えを知らないし、自分のことばかりを考え、そして、他の人を顧みることをしないで、どうしようもない、もはや、おさえることのできない者となってしまいます。自分のことばかりを考え、自分のために生きる者、自分を喜ばせる人は、本当に不幸です。しかし、ただ人間だけを喜ばせようとする者も、また、不幸です。なぜならば、それは、誰にも成功しないからであり、すべての人間を喜ばせることは、全く不可能なことだからです。

第三の可能性について、みてみましょうか。私たちは、自分自身を否定し、人間だけを喜ばせる生き方をしようともせず、ただ、主お一人だけを喜ばせる生き方をしたいという可能性をも持っています。それを、一人の詩人は、次のように表現したのです。すなわち、「人間が私を非難したり、褒めたり、大切にしたり、誤解してもかまいません。主よ、あなたに喜んでいただけることこそ、私にとっては、すべてのすべてです」と。

この切なる願いを持つ者は、本当に幸いです。主なる神に喜ばれることを求める者は、人間の判断から解放されます。神に喜ばれることを求める者が、隣人に対して取る行動は、正しいものとなります。主に喜ばれることを求める者は、自分自身のために生きるのではなくて、他の人のために生きたいと思うようになります。

アベルの兄カインという男は、次のように言いました、『私は弟の番人でなければならないの?』この態度を、私たちは、今日も至るところで見いだすことができるのではないでしょうか。私たちは、我々の周りの多くの魂のために、責任を持っています。私たちは、ただ救われて、清められるためだけに、この地上にいるのではなく、主の器となるために、用いられるために救われました。

我々を通して、主は、ご自身を啓示なさりたいと思っておられます。私たちを通して、主は、ご栄光を現したいと願っておられます。ただ、イエス様だけが、栄光をお受けになってくださり、我々の周囲の人々が救われるならば、私たち自身のこと、もうどうなろうとかまいません・・・という心がまえを、私たちは持っているのでしょうか。

最後に、主に喜ばれる三人の人を、ちょっと、見て終わりたいと思います。それは、まず最初に、多く赦され、したがって、二番目に、イエス様を非常に愛し、三番目に、イエス様に喜ばれる人々です。

一番目の実例は、ダビデ、王様です。私たちは、ダビデを知っています。ダビデは、ある忠実な兵隊を殺し、その妻を取って自分の妻とし、そうして、主を軽んじたのです。このダビデ王は、自分の罪を悔い、後悔して、主を賛美する者と変えられました。私たちが、詩篇を読むと、それを見ることができます。例えば、詩篇の二十一篇、一節、二節、を見ると、次のような箇所が書き記されています。ダビデの告白です。

詩篇
21:1 主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。
21:2 あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。

この大きな罪人は、後に、神の心にかなう人と、となえられるようになりました。ダビデは後に、神に喜ばれる人間となったのです。

二番目の実例は、すべての人から大きな罪人と呼ばれていた、ある女がいました。今日は、時間のことで読まないけど、ルカ伝、七章三十六節から四十節まで、あの女について書かれています。この女は、イエス様の御許にやってまいりました。そして、イエス様の御許で、この女が罪を悔いて、激しく泣き、涙をもって、イエス様の足をぬらし、それを自分の髪の毛でふきました。この行ないによって、彼女はいかにイエス様を愛していたかがわかります。

ルカ【参考】
7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。

イエス様は、それを非常にお喜びになり、救い主の大きな愛をもって、「汝の罪、赦されたり」と、仰ったのです。「あなたの罪は赦された。」イエス様は、このことばを、もうすでに、我々一人ひとりにも仰ったのでしょうか。私たちは、もうすでに、罪の赦しを受け取ったのでしょうか。これは、他のものすべてにまさって、もっとも大切な事柄です。

三番目の実例は、また、別の女です。

ルカ
8:1 その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供をした。
8:2 また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、
8:3 ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった。

私たちは、このマグダラと呼ばれるマリヤについて、ちょっと三枚の写真を撮って、見てみましょうか。第一の写真は、この女が七つの悪霊の奴隷となっている姿が見られます。第二の写真は、この女がイエス様の御許に行き、解放された姿が見られます。最後の第三番目の写真は、彼女が、イエス様に従って行く姿が見られます。この婦人について、聖書は、『自分の財産をもって仕えていた』と言っています。この女は、非常に多くを赦され、したがって、イエス様をたいへん、愛し、イエス様は、彼女を非常に喜ばれたのです。

イエス様は、我々を喜んでおられるのでしょうか。私たちは、イエス様を他の何ものにも勝って、愛しているのでしょうか。

イエス様は、私と本当に、心からの交わりを持ちたく、待ち焦がれておられます。イエス様を心から愛している人々は、今日、非常にまれなのではないでしょうか。私たちは、自分のイエス様に愛させようとしませんでしょうか。私たちの我々に対する願いは、私たちが、この集会の終わりに、心からの体験として、次のように言うことができれば幸いと思います。もう一箇所、読んで終わります。

雅歌
7:10 私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。

私たちが、心より、このように叫ぶことができれば、本当に幸いと思います。

おわり

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