2012年11月13日火曜日

従順の結果

従順の結果
2012年11月13日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

使徒行伝
5:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。

ローマ
5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

ピリピ
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

第二テサロニケ
1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。

今日の会、いつものように聖書の勉強会というよりも、主イエス様を紹介する会です。

イエス様とは、いったいどういうお方なのでしょうか。比類なきお方です。嘘を知らないお方です。何があっても百パーセント、信頼できるお方です。また、イエス様とは、人間一人ひとりを心から理解してるよりも、一人ひとりを愛していてくださるお方です。確かに、人間はみな悩んでいて、重荷を持っているものです。失望、また、絶望をしている者であり、どうしたらいいか解からないのが人間です。人間は、孤独であり、さまよう羊のようであると、聖書は言っています。


前に一人の先生、立派な人格者と出会った時、彼は、「成功したように見えるけど、実は私は、悩んでいます。迷える羊です」と、言われました。

この世界は、確かにひとつの大きな病院です。もちろん、それだけではなく、この世とは、ひとつの待合室です。人間は、死を待つか、主を待つかのどちらかです。もう、考えられないほど違います。

イエス様の弟子たちとは、いろいろなことを経験しました。すばらしい特権にあずかったのです。三年半、夜昼いっしょに過ごすことができたんです。彼らは、後で何と言ったかといいますと、「私たちは、主の栄光を見た」と、言えたのです。主の栄光とは、何でしょうかね。主の明らかになるご臨在です。

主の明らかにされる臨在を経験することこそが、我々にとっても、どうしても必要なのではないでしょうか。イスラエルの民は、よく主の栄光を拝するようになりました。聖書の初めの方ですけども、出エジプト記の四十章に、次のように書かれています。

出エジプト記
40:1 主はモーセに告げて仰せられた。

40:16 モーセはそのようにした。すべて主が彼に命じられたとおりを行なった。

結果は、三十四節です。

出エジプト記
40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

主の栄光が幕屋に満ちた。イスラエルの民のうち建てた主の幕屋に、どのように神の栄光が満ち満ちていたかを見ることができます。他の箇所にも同様な事柄が見うけられます。例えば、第一列王記八章、同じようなことばが出てきます。今度はモーセの建てた幕屋ではなくて、ソロモン王の建てた宮ですね。

第一列王記
8:11 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。

主の栄光とは、今、話したように結局、主の明らかにされた御臨在です。もう一箇所、エゼキエル書の四十四章、同じく書いています。

エゼキエル
44:4 彼は私を、北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、なんと、主の栄光が主の神殿に満ちていた。そこで、私はひれ伏した。

結局、拝した。イエス様の弟子たちも同じことを経験しました。

ヨハネ
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

こう、証しするようになりました。

初代教会の人々とは、もちろん、当時のローマ帝国に憎まれ、迫害されたのです。なぜならば、当時の兄弟姉妹は、妥協するよりも、死んだほうがましだと思ったんです。拝むべきなのは人間ではない。天と地を創造された支配者なる神だけだという態度をとったのです。

初めて、この態度をとった男とは、ステパノという男でした。ステパノも、かの心ない人々に迫害された時、彼に神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えたと、聖書は言っています。結局、ステパノも主の栄光を見たのです。希望を持って、死ぬことができたのです。そして、パウロは、テサロニケにいる人々に次のように書いたのです。

第一テサロニケ
2:12 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

すなわち、私たちは主なる神によって、御国とその栄光とに召されている者です。なぜ、主の栄光が、モーセの建てた幕屋に満ち満ちたのでしょうか。なぜ、弟子たちは、主イエス様のご栄光を拝することができ、ステパノも主の御栄光を見ることができたのでしょうか。

私たちに関しても聖書は、「私たちを御国と栄光とに召された」と言っているのですが、私たちにとっては、この栄光とはいったい何なのでしょうか。答えは、ヘブル書一章の三節なのではないでしょうか。

ヘブル
1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

イエス様は、神の栄光の輝きそのものであるとあります。ヘブル書を見ると、また、次のように書いてあります。すなわち、我々の主イエス様は、父なる神の栄光の輝きであるとあります。

ヘブル
1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

栄光とは何でしょうか。イエス様とは、神の栄光の輝き、そのものであると書いてあります。もう一箇所、ペテロですね。

第一ペテロ
4:14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

ここで聖霊は、栄光の霊であると書かれています。この今、読みました二つのみことばは、我々の疑問に答えるものなのではないでしょうか。私たちに現された主のご臨在こそ、主の栄光であるということです。

イエス様は、神の栄光の輝きとして、天より我々の住むこの地上においでになりました。弟子たちは、これを見て、「私たちは神の栄光を見た」と、喜んで告白したのです。イエス様の上には、主なる神の聖い霊が限りなく注がれていました。なぜでしょうか?イエス様は、父なる神の御心にかなったお方でした。イエス様が、我々の内にその御形(みかたち)を形造ってくださる、その計りに従って、その度合いに応じて、私たちは、主の栄光を見ることができるのです。主の栄光を拝することこそが、主の願っておられることです。

ちょっとだけ、三つの点に分けて、考えてみましょうか。第一番目、主に従う重要性、大切さ。二番目、従順と不従順の結果とはいったい、何なのでしょうか。三番目、全き信仰の要求についても、聖書ははっきり、言っているのです。

まず、主に従う大切さについて、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。いったい、どうして主に従うことは、そんなに大切なのでしょうか。

イエス様が、ご自分のご臨在を現したい、ご自信のご栄光を明らかにしようと望んでおられるからです。父なる神の御栄光は、従順によって現れます。イエス様に従うなら、主の栄光を見ることができます。イエス様が語るたびごとに私たちが従うなら、主の御臨在を経験することができるようになり、主の御栄光を見ることができます。

日常生活において、主は、我々に、「これはいかん。あれはいけない。こうすべきだ」と、ささやいてくださいます。このどんなに小さなささやきにでも、私たちが、従順に聞き従うなら、主はご自信の栄光を現してくださいます。この栄光は、私たちをして、「主我と共にいる」という確信に導き入れ、この確信が限りない平安と深い喜びに私たちを憩わせます。

イエス様に従順に従うなら、このイエス様のご臨在とご栄光を経験することができます。この事実を、五つの実例でもって見てみましょうか。第一番目、モーセ。二番目、イエス様の弟子たち。三番目、マルタ。四番目、アナニヤ。そして、五番目、ペテロについて、ちょっと簡単に考えてみます。

まず、モーセは、実に、主に従順でした。聖書を読んでいくとモーセは、主が命じられたとおりにした、主が命じられたとおりにしたと、何回も書き記されています。ちょっと、出エジプト記から二、三箇所だけ見てみましょうか。

出エジプト記
40:19 幕屋の上に天幕を広げ、その上に天幕のおおいを掛けた。主がモーセに命じられたとおりである。

40:21 箱を幕屋の中に入れ、仕切りのために垂れ幕を掛け、あかしの箱の前を仕切った。主がモーセに命じられたとおりである。

40:23 その上にパンを一列に並べて、主の前に供えた。主がモーセに命じられたとおりである。

40:25 そうして彼は主の前にともしび皿を上げた。主がモーセに命じられたとおりである。

40:27 その上でかおりの高い香をたいた。主がモーセに命じられたとおりである。

40:29 全焼のいけにえの祭壇を、会見の天幕である幕屋の入口に置き、その上に全焼のいけにえと穀物のささげ物とをささげた。主がモーセに命じられたとおりである。

40:32 会見の天幕にはいるとき、または、祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。主がモーセに命じられたとおりである。

そして、その従順の結果について、三十四節に書かれています。

出エジプト記
40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

次に弟子たちについて、ちょっと考えたいと思うんです。イエス様の弟子たちは、さまざまな敗北の内から、また、さまざまな経験をとおして、「私たちは主の栄光を見た」と、証しすることができたんです。

しかし、この弟子たちの場合にも、主に対する従順の結果、主の栄光を見たということが見られます。すなわち、私たちと同じように、あの弟子たちも、初めからすぐに、主に従順に従いませんでした。ヨハネ伝の十一章を見ると、次のように書かれています。

ヨハネ
11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」

「危ないよ!」ここを読むと、弟子たちのイエス様に対する態度が、どんなであったか解かるような気がいたします。弟子たちは、前にユダヤで迫害されたことを思い出し、「イエス様、イエス様、あの迫害をお忘れになったのですか。これから行ったら、また、とんでもないことになるに違いない」と言って、しり込みしたわけです。

けれども、弟子たちは最後には、イエス様に従って、ユダヤにまいりました。この従順の結果は、何だったでしょうかね。迫害だったでしょうか。そうではない。主に従順に従った結果、驚くべき主の御栄光を拝することができたのです。すなわち、死人のラザロが、死よりよみがえらされた奇跡を見ることができたのです。

三番目の実例は、マルタという女性です。

ヨハネ
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

主は、命令してくださいました。「墓の石を取りのけなさい。」これに対して、マルタはすぐに従いませんでした。「主よ。もう臭くなっています。死んでから、私の弟のラザロは四日も経っているから。」とんでもない。もうダメです。そういう気持ちでした。

けれど、最後に、イエス様のみことばに従い、墓の石を取りのぞいた時、死人のラザロは生きかえり、墓から出てきました。驚くべき主のご栄光を拝することができたのです。もし、不従順のために、墓の石が取り除かれないで、そのままにされていたなら、主の栄光を、決して、見ることができなかったでしょう。

四番目の実例は、アナニヤについてです。

使徒行伝
9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。
9:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。

9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」

主がアナニヤに現れ、「アナニヤよ、サウルのところに行きなさい」と、言われました。その時、アナニヤは、すぐに主に従うことをしなかったのです。どう言ったかといいますと、「主よ、とんでもない話!あなたが行けといわれているサウルは、我々を迫害する指導者ではないの。恐ろしくて行くことはできません。」けど、彼も最後に従いました。その時、アナニヤは、やはり、従順の結果として、主のご栄光を拝するようになったのです。もし、その時、アナニヤが、主に従わなかったなら、サウロは――後のパウロは――どうなったでしょうか。あの偉大な使徒、パウロは生まれなかったに違いない。

五番目の実例は、ペテロです。

使徒行伝
10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。
10:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」

主が、ペテロに、「これらの獣をほふって食べなさい」と言われた時、ペテロはやはり、従順ではなかったのです。「主よ、聖書に、あなたのみことばの中に、清くないものは食べてはならないと書いてあるではないの!とんでもない話、食べるわけにはまいりません。」ペテロは、その時、ユダヤ人と同じく、異邦の民も、神の祝福にあずかることができるのであるということを信じませんでした。信じたくなかったのです。けど、最後にペテロは、主に従い、異邦人であるコルネリオのところに行った時、主のご栄光を目の当たり拝することができました。すなわち、コルネリオ、および、その家族、また、親族一同、そこに居合わせた者、全部が救われ、聖霊に満たされたとあります。

正しい結論は、主に従いましょう。みことばに従いましょう。なぜなら、モーセや弟子たちやマルタやアナニヤ、また、ペテロのように、主のご栄光を見ることができる、主のご臨在を味わい知ることができるのであるからです。

今まで、私たちは、主に従う重要性、大切さについて、ちょっと考えました。

次に、従順と不従順の結果とは、いったい、どういうものなのでしょうか。

私たちの従順の結果、また、不従順の結果は、いったいどういうものなのでしょうか。私たちが、従うか、従わないかの決定は、本当にどうでもいいことではない。大切です。すなわち、主の御栄光を拝するか、または、主の備えられている栄光を取り逃がしてしまうかの、どちらかです。

もしモーセが、主に従わなかったなら、主なる神の御栄光は、幕屋に満ちなかったでしょう。もし弟子たちが、イエス様に従ってユダヤに行かなかったら、やはり、主のご栄光、また、主のご臨在を拝することができなかったでしょう。もしアナニヤの従順なくして、パウロは、いったい、どうなったのでしょうか。もしペテロが、主に従っていなかったら、ペテロ自信も、コルネリオも、決して、主の御栄(みさかえ)を配することができなかったはずです。

我々の決定によって、私たちは、主のご栄光を見ることができますし、また、天の窓を閉ざしてしまうこともできるのです。マルタのように、「主よ、ラザロが四日間、墓の中にいて腐っているのをお忘れになったのですか」と言って、石を取りのけることをしなかったならば、どうでしょう?ラザロは、よみがえらなかったばかりでなく、主のご栄光を拝することもできなかったでしょう。

もし主が、私たちに、「あの兄弟、この姉妹を訪問しなさい」と語った時、「主よ、あの兄弟は意識して、罪を犯し、この姉妹は、自分の仕事を偶像にしている。集会に来ていない。とんでもない話!何をやってもダメ」と言うなら、同じように私たちは、自分自身、信仰を進めることもできないし、また、主のご栄光を拝することができないのです。

離れているその兄弟姉妹も、やはり、主の豊かな祝福とご栄光に接することができないでしょう。私たちは、どんな道を選ぶのでしょうか。主のささやきに対して、不従順で主の栄光を拝する道を、自ら閉ざしているのか、それとも、日々、主に従い、従順をもって、主のご栄光を拝することができるのでしょうか。

もうひとつの点について、ちょっと考えたいと思います。すなわち、全き信仰の要求。すなわち、主の栄光を拝するには、全き信仰が要求されています。

イエス様は、マルタに、「もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見るとわたしは言ったではないか」と、言われました。ここでは、『従うなら』と、言われていないのです。もし、『信じるなら』と言われています。けど、従順と信仰は、ほとんど同じものです。それをヘブル書の二つの箇所を通して、見ることができるのではないかと思います。

ヘブル
3:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

4:6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのです。

ここでは、イスラエルの民がエジプトの国から救い出されて、四十年間、荒野でさまよったのは、不信仰と不従順のゆえでだったと、この二つの箇所を通して知ることができます。原語で見ると、この『不信仰』と『不従順』は、同じことばです。イスラエルの民は、主がエジプトの国より、緑多き、カナンの国に導き入れてくださるという約束を、不信仰のゆえに従わなかったのです。すなわち、不従順のその根が、不信仰です。

モーセはどうして、主の栄光を拝することができたのでしょうか?それは、主が、モーセに示した、そのとおりに幕屋を作ったからです。マルタは、なぜ主のご栄光を拝することができたのでしょうか。彼女は、信じて、従って、墓の石を取りのけさせたからです。もしあの墓の石を取りのぞかなかったら、死に打ち勝つ主のよみがえりの力は現されなかったでしょう。

前に挙げました人々は、主に従いたくなくて、従わなかったのではありません。ユダヤへ行って栄光を拝した弟子たちは、行く前にあれほどまでに迫害されたユダヤへ、なぜ再び、主は行きたいのか、全く理解できなかったのです。マルタは、腐って匂いのする、四日間も墓の中に入っている死人が、よみがえるなどということは、マルタにとって、とうてい理解できないことでした。また、あのアナニヤは、荒れ狂ってイエス様を信じる者を迫害しているサウロが、祈りの人となるとは、夢にも思っていなかったのです。また、ペテロは、「汚れたものを食べなさい」という主のことばを、理解することができませんでした。

理解できない、考えられない、想像することもできないということは、やはり、不信仰のゆえですが、その不信仰は、不従順となるに及んで、その頂点に達します。その時の結果は、天の窓が閉ざされ、主のご栄光を拝することができなくなってしまったのです。けど、モーセ、弟子たち、また、アナニヤ、ペテロが、各々(おのおの)、主の御栄(みさかえ)を拝するようになったんです。いったいどうしてでしょうか。彼らは、主に従順に従ったからです。解かっても解からなくても関係ない。従うと結果は、必ず主の栄光を拝することです。

ソロモンという王様は、次のように説明したのです。また、命令したのです。皆、暗記している言葉だと思います。

箴言
3:5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

こう、提案されているというよりも、命令されています。心を尽くして、主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。理性とは、概念を作る能力、結論を引き出す能力、判断を下す能力であり、しかも、それこそまさに、人間に与えられているものです。けれども、それにもかかわらず、人間とは何と多くの見当違いや、計算違い、あるいは、意味のないことをして、頭を抱え込むことでしょうか。この理由から、主はもちろん、我々に対しても、心を尽くして主に拠り頼め。意味は、『主にのみ拠り頼め。自分の悟りに頼るな』と、言っておられます。

主の望んでおられる信仰とは、いったい、どういうものでしょうか。信仰とは、主なる神に対する絶対的な信頼です。これに対し、人間の理性は、自分の体や自分の命を心配しますが、その結果は、不信仰に終わります。主の望む信仰とは、全知全能なる主のすべてを確信することです。これに対して、人間の理性は、主なる神の全知全能なることを疑います。これもまた、不信仰の現れです。

信仰とは、目に見えないお方を見る。これに対して、人間の理性は心配そうに、目に見えるものを見るのです。これもまた、不信仰の現れに他なりません。それゆえ、イエス様を信じるということは、徹頭徹尾、自らをイエス様にゆだねることです。信仰とは、主なる神のみことばに対して、全く従順であることを意味します。だから書かれていますね。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」理解することができず、馬鹿らしく見え、不可能に見えても、主のささやく声に従いましょう。そうするなら、主のご栄光により、不可能に見えたことが現実に可能となってきます。

エレミヤ
32:6 そのとき、エレミヤは言った。「私に次のような主のことばがあった。
32:7 見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、『アナトテにある私の畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから。』と言おう。
32:8 すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、それが主のことばであると知った。
32:9 そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った。

主なる神が、預言者エレミヤに、「アナトテにある畑を買いなさい」と言われた時、エレミヤは、「とんでもない。アナトテは恐るべき敵の住んでいるカルデヤ人の地ではないか」と、彼は言いませんでした。敵のものとなった土地のために、金を払うのは人間的に考えればおかしい。ばからしいことですけど、エレミヤはアナトテの畑を買いました。なぜならば、主はこの土地は、近いうちにまたイスラエルのものとなると約束していてくださったからです。

本当に覚えるべきなのは、信仰生活における従順の結果は、驚くべき豊かな主の祝福です。私たちは、自分の考えに従うことなく、ただみことばに直ちに従っていく信仰生活を送るべきなのではないでしょうか。

エレミヤ
32:17 ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。

32:27 見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、主である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。

我々の主イエスにとっては、不可能なことは何ひとつありません。「行ってアナトテにある畑を買いなさい。」主のことばを信じ、主に不可能なことはないことを信じ、従順に従うなら、必ず驚くべき主のご栄光を拝することができるのです。主がみことばを持って、我々に語ってくださったら、どんなに不可能に見えても、すべてを成してくださる主の力を信じ、目に見えるところ、不可能なことをやめましょう。その時、主の豊かな栄光と祝福を経験し、見ることができるに違いない。

おわり

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