2012年10月30日火曜日

真に主を喜ばせよう

真に主を喜ばせよう
2012年10月30日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第二コリント
5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

コロサイ
1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

今、最後にお読みになりました箇所は、私たち、家内と一緒に、一番、大切なことばです。結婚指輪の中にも刻まれていることばです。「主の御心にかなった生活をして、真に主を喜ばせよう」ということばです。初代教会の人々は、今、読まれたようにそういう気持ちでいっぱいでした。

第二コリント
5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。


主に喜ばれることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。言うまでもなく、主に喜ばれる前に、主を知ることが大切です。誰でも、ありのままの状態で、イエス様の御許に行くことができます。大切なこととは、とにかく、イエス様の御許に行くことです。つまり、イエス様を体験的に知ることです。もちろん、キリスト教を宗教の一種類として考えて、イエス様のところに行くのではなく、イエス様を救い主として知るために、イエス様の御許に行くことが必要です。

イエス様を受け入れた人は、もちろん、イエス様を持っています。そして、イエス様を持っている人は、永遠のいのちを持っています。永遠のいのちを持っている人は、もちろん、永遠に救われているものです。

悔い改めの用意のできている罪人として、イエス様の御許に来る人は――私たちは必ず確信できる――すなわち、イエス様は、受け入れてくださる。わたしのもとに来る者を、わたしは決して捨てません。『決して』は、『決して』です。そして、イエス様によって受け入れられた人は、罪を赦され、神の子とされます。もちろんこれは、知識の問題ではない。解かるものではない。けど、信じてもいい。聖書はそう言っているのです。我々の信仰の土台なるものは、みことばである聖書だけです。

どうして私たちは、今日のような集会をもつのでしょうか?『イエス様の御許に来なさい』という福音を宣べ伝えるため、また聞くためなのではないでしょうか。

ドイツに、次のような可愛い子供の歌があるのです。

イエスのみもとに来なさい。
イエスのみもとに来なさい。
イエスのみもとに来なさい。
今、ただちにイエスのみもとに来なさい。

みことばの呼びかけとは、そういうものなのです。イエス様は、自由にしてくださいます。イエス様は、罪の赦しを提供しておられます。イエス様は、生き生きとした、生きる希望を与えてくださるお方です。イエス様を通して、初めて、内容ある人生と、はっきりとした目的を持った、意味のある人生が確立されます。

イエス様の御許に来るということは、結局、救われることを意味しています。イエス様は、決して捨てないから。

私たちは、主イエスなき人生の無意味さを認識したのでしょうか。いかなる尽力も、いかなる努力も、主と人間のあいだの隔ての壁を取り除くことができないということを、認識したことがあるのでしょうか。自分が破産したことを宣告し、自分の債務をイエス様に告白したことがあるのでしょうか。イエス様の流された血によって、自分が贖われ、主なる神の子とされていることを確信できるのでしょうか。そして、もはや裁かれることがないことも確信できるのでしょうか。

この確信を持つ人々こそが幸せです。安心して、将来に向かうことができるのです。ですから、もっとも大切なことは、いったい何なのでしょうか。いちばん、大切なことが成されるということではないでしょうか。もちろん、私たちは皆、忙しい毎日を送っています。このこと、あのことが、どうしても行なわれなければならないということを、私たちは知っています。私たちは、なるほど、このこともあのことも、喜んでやりたいと思うのですが、しかし、どんなにがんばっても、時間と力には限りがあり、すべてのことをすることはできません。ですから、何がいちばん、大切なことなのか、問うことによって選択しなければならない。もっとも大切なことは、今、話したように、主に喜ばれることです。

キリスト者とそうでない人のあいだの区別は、いったい、何なのでしょうか。主のものとなった者は、必ず、主に喜ばれたいという願いを持っています。けど、救われていない人々は、主に対してメクラであり、主の声に対してツンボです。私たちは毎日、次のように問うべきなのではないでしょうか。『主よ、私は何をしたらいいのでしょうか。私の思いは、主に喜ばれるのでしょうか。』私の言動は、主に喜ばれるかを、新たに問うべきなのではないでしょうか。

主に喜ばれるということは、いちばん、大切です。この集会に対するイエス様の御心は、私たち全部がひとつの要求、ひとつの願い、ひとつの望み、ひとつの目的を持って、すなわち、主に喜ばれるという願いを持つ人となって、家へ帰ることです。ですから、イエス様は、主に喜ばれる者となるために、今日、ここまでお導きになったに違いない。

初めに、ひとつの鏡を見てみたいと思います。私たちはみな、毎朝、自分たちの顔を鏡に写します。けど、残念なことには、ただ髪の毛が乱れるかどうかを見るぐらいのものです。ただ表面的なものしか写していないわけです。けど、私たちは、人間の本当の姿を見ることができる鏡を使うべきではないでしょうか。その鏡とは、もちろん、聖書です。

自分がどんなふうに見えるかを知りたい者は、みな自分の姿を聖書の中に見いだすことができます。そこには、私たちの写真も含まれています。その写真は、主なる神、ご自身がお撮りになったのです。ですから、その写真は、全然、間違ったところのない正確無比なものです。自分の写真を見ようと思えば、みことばを読むべきなのではないでしょうか。

人間は、三つの違った種類に分けることができるでしょう。どんな人間もその内のひとつに属しています。その内のどれに属したいと思っておられるでしょうか。次の三つの種類があります。第一番目、いわゆる、生まれながらの人。二番目、肉のキリスト者。三番目、霊によるキリスト者です。

まず、少しだけ、生まれながらの人の写真を鑑賞してみましょう。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に、次のように書き記したのであります。

第一コリント
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

ここに、もっとも大切な問いがあります。すなわち、生まれながらの人の主に対する立場、そして、主に対する関係、および、主に対する状態は、どうなっているのかという問いです。

まず、立場について考えてみましょうか。主に対する生まれながらの人間の立場について、聖書は何と言っているのでしょうか。生まれながらの人は、主なる神を拝まないし、また、主に感謝しない。主を恐れない。神の敵である。主を理解しない。神を知らない。イエス様の福音に従わない。真理を信じない。真理に逆らう。神を愛さないということが聖書によると、明らかです。

次に、生まれながらの人間と主なる神の関係について、鏡である聖書は何と言っているのでしょうか。すなわち、生まれながらの人間は、主によって、もうすでに裁かれている。主の怒りのもとにいる。神の前に罪がある。この世の中で、望みのない、神のない者であり、神から遠ざかっている。神のいのちから遠く離れている。未来において、神のない者です。

これらのことが、聖書によって、明らかになります。さて、神に対する生まれながらの人の状態はいったい、どういうものなのでしょうか。生まれながらの人間は、イエス様を救い主として持っていませんし、また、主として考えていません。したがって、生まれながらの人は、自分自身の生き方をしているのです。

生まれながらの人間の性質は、罪に汚れています。ですから、その人の行なうことも罪にまみれています。生まれながらの人間は、主なる神に対して死んでおり、自分と悪魔に対しては生きています。生まれながらの人は、悪魔の力の中にいるのであり、罪の奴隷です。生まれながらの人間は、救いと希望から見失われています。この悲しい状態は、悪魔が、生まれ変わっていない人の思いをくらまし、したがって、この人が自分の危険を知らないというところにあります。ですから、この生まれながらの人は、主なる神を認め、主を愛し、掴み、求めようとしません。

私たちは今、生まれながらの人の立場と関係と状態を見てまいりました。その中に、自分の姿を認めたでしょうか。私たちは、今までに、先ほど述べたような状態を認めたことがあるでしょうか。今までに、求めたことがなかったなら、それは、悪魔が自分の目をくらませていたからです。私たちが、そのような状態のもとにいるのでしたら、永遠のいのちを持っておらず、神の怒りのもとにいるのです。

私たちは、写真を見ることが好きなのでしょうか。次のようなことが言えるでしょう。すなわち、あなたは、写真を写してもらい、よく写っていたなら、あなたはすぐに、この写真を欲しいでしょう。一緒に写っている他の人々が、よく撮れていようがいまいが、おかまいなしに注文するでしょう。けれど、他の人々がよく写っていて、自分だけが悪く写っているならば、「もうけっこうです、見たくない。」

私たちは、今日、自分の写真を聖書を通して見ることができます。写真屋さんは、もちろん、主ご自身です。主は、聖書の中に、自分の姿をはっきりと写し描いています。私たちは、自分の姿を見て、「いやだ!」と思うのでしょうか。それとも、「これは、確かに私の姿です」と、素直に認めたことがあるのでしょうか。そして、今日から、今から、新しい生活を始めようと思うのでしょうか。

次に、第二の写真を鑑賞しましょうか。この人間は、至るところにおります。この集会にもいるでしょう。ですから、この写真を、よく見ていただきたいと思います。それは、肉のキリスト者の写真です。パウロは、コリント第一の手紙の中で、次のように書き記したのであります。

第一コリント
3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
3:4 ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。

肉のキリスト者は、もちろん、救われています。なぜなら、その人は、救い主としてのイエス様を信じることにより、イエス様を意識して、受け入れることによって、神の子となっているのですから。肉のキリスト者は、心の中に聖霊を宿しておりますが、その人は、いつも御霊を悲しませています。

肉のキリスト者は、再び生まれることによって、新しくされました。しかし、まだ、キリストにある小さな子供のような者です。肉のキリスト者は、イエス様を救い主とし認めています。しかし、まだ、自分のすべてをイエス様に捧げていません。肉のキリスト者は、自分がイエス様を必要とし、イエス様との交わりを持ちたく思っております。しかし、イエス様は、その人の中に、小さな場所しか持っておらず、その人を支配することができません。

肉のキリスト者は、悩みに満ちた状態にあります。肉のキリスト者には、二つの性質があります。すなわち、神の性質と肉の性質があります。ある時は、イエス様が支配者であり、また、ある時は、自己、悪魔、または、罪が支配者となります。私たちは、主の鏡を、聖書を通して見ることができます。私たちはその中に、自分を見たことがあるのでしょうか。私たちは、今までと同じように、自己決定と自己支配とを、これからも続けていきたいのでしょうか。それとも、献身と本当の自由との新しい人生を始めたいのでしょうか。

さて、三番目の写真をみましょうか。それは、霊によるキリスト者の写真です。

霊によるキリスト者は、生まれながらの人間とは、全く反対の人間です。霊によるキリスト者は、主を知っており、主なる神に感謝し、神にすべてを尋ね、主を愛し、信じ、神を恐れ、神を褒め称え、真理に従い、主を理解し、真理を信じ、神の福音に従い、神の友であると、聖書は言っています。

霊によるキリスト者は、自分の罪を認めました。霊によるキリスト者は、十字架にかかったイエス様を、救い主として信頼しております。霊によるキリスト者は、イエス様を救い主として受け入れています。救い主としてのイエス様に、自分のすべてを捧げ、イエス様を主として崇めています。また、イエス様をいのちとして受け入れています。霊によるキリスト者は、イエス様を心から愛していますし、また、イエス様に仕えます。イエス様を崇拝しています。そして、イエス様を褒め称えます。しかし、これらのことは、決して、人間的な努力ではなくて、御霊の働きの結果です。御霊の働きによって、人間は救い主として、イエス様を尋ね求め、受け入れます。御霊の働きによって、人間は、イエス様を愛し、イエス様とイエス様のいのちで己(おのれ)を満たすのです。

これが、霊によるキリスト者の写真です。私たちは、主なる神の鏡である聖書を見ることができます。その中に、自分を写してみたことがあるのでしょうか。その中に、自分の写真を見つけたのでしょうか。私たちは、生まれながらの人間でしょうか?肉のキリスト者でしょうか?それとも、霊によるキリスト者なのでしょうか。

ただひとつ、このことだけははっきりしています。生まれながらの人間の罪と傲慢は、主なる神にとって、もっとも嫌われるものとです。肉によるキリスト者は、主なる神に、好ましく思われません。霊によるキリスト者だけが、主なる神に喜ばれます。イエス様は、この瞬間に、私たちをどのように考えておられるのでしょうか。私たちの心の状態を見て、悲しむでしょうか?それとも、お喜びになるのでしょうか。イエス様は、私たちを好ましく思うのでしょうか。

私たちは、ここにいる一人ひとりの方が、主に好ましく思われたいという密かな願いを持っておられることを知っています。しかし、どうしたらイエス様に好ましく思われるのでしょうか。それを、イエス様のために、たくさん働くことによったり、または、証しをすることによったり、また、祈りや説教によっては、達することはできません。いったい、私たちは、どうやって、光そのもの、少しも暗いところをご存知ないお方に、喜んでいただけるのでしょうか。いったい、どうして私たちは、絶対的な聖さと神聖さ、そのものであられる主に、喜ばれることができるのでしょうか。どうして私たちは、愛そのものであられる方に、喜んでいただくことができるのでしょうか。

主なる神は、光そのものです。しかし、何と多くの律法的な性質、偽善と二重人格が、我々の内にあることでしょう。主は、絶対的に聖なるお方です。しかし、何と多くの嘘と不純が、私たちの内にあるのでしょうか。主は、愛そのものです。しかし、何と多くの自己追求と自分中心が我々の内にあることでしょうか。

この主なる神は、いかに、我々を気に入ってくださるのでしょうか。人間の創造以前に、主は御心にかなう人間を欲しいと計画してくださいました。主ご自身が、ご自分のほうから、私たちと父なる神とのあいだの裂け目を塞ぐ道を、用意してくださいました。すなわち、御子、主イエス様が、我々の贖(あがな)いの代価を支払ってくださいました。その代価は、御子であるイエス様が捧げてくださったいのちです。

父なる神は、どうすれば、人間を喜ぶことがおできになるのでしょうか。それは、決して神に喜ばれる生涯を送ろうと、私たち人間が、自分の力で努力することではなく、御子イエス様が、我々の代わりに死んでくださり、そして、我々のために生きていてくださるのです。

新たに信仰に導かれた方々に対して、私たちは、しばしば、次のように申しあげます。「今からクリスチャンらしい生活をしようと、努力することは止めてください。どうせ、できないからです。」多くの方は、驚いたように、我々を見つめます。と言うのは、彼らは、そのことが要求されるであろうと思っているからです。しかし、イエス様のものになったとしても、イエス様を喜ばせようとする自分の努力は、すべて、敗北から敗北へという結果に至るだけです。

生けるまことの神が喜んでくださるのは、ただ、イエス様です。今、イエス様が、受け入れてくださった方、イエス様の内にあり、イエス様の義によって、御心にかなった人間とされます。しかし、それは、自分自身のすばらしさのゆえではなく、ただ、イエス様の贖いのゆえに、そうされているのです。

イエス様の内にある者、すなわち、イエス様と結びついている者の生涯は、間違いなく、知らないうちに変えられます。そこには、実を結ぶことが見られるのです。自分の努力ではなく、我々の内におられるイエス様、これこそ、勝利と祝福と実を結ぶことの秘訣です。

おわり

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