2012年10月9日火曜日

何でもできるイエス様

何でもできるイエス様
2012年10月9日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヘブル
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

今の箇所は、皆さんよく知っておられる箇所だと思いますが、私たちは誇りを持って、「我々の主はできる。完全に救うことができる。守ることができるし、導くことができるし、また、用いられるお方です。」詩篇の作者は次のように言ったのです。

詩篇
59:10 私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる。

将来、私たちは何を経験するようになるのかは、もちろん、今はわからない。喜びを与えるものなのか、悲しむ者になるのか、全くわからないけど、ひとつのことだけ、我々は知っている。すなわち、主ご自身がまず、私たちを迎えに来てくださるということです。


忘れないようにしましょう。主は今日、または、明日、もしかすると、明後日、我々を迎えに来てくださるかもしれない。急な山道を上る時、主は力をもって迎えにきてくださり、暗やみの道に行く時、主は光をもって迎えにきてくださり、辛い道を歩む時、主は慰めをもって迎えにきてくださり、寂しい道を歩く時、主は愛をもって迎えにきてくださり、危険の道を歩む時、主は勝利をもって迎えにきてくださいます。主は、完全に救うことがおできになるお方です。

イエス様を産んだマリヤという女性は、この救いにあずかるようになりました。聖書は言っています。

ルカ
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」

彼女は、他の言葉で言いますと、「私は幸せです。主なる神は、私の救い主である。」このことを彼女は、身を持って体験しました。すなわち、「主なる神は、遠く離れたところにおられるお方ではない。怒りに満ち満ちたお方でもない。一人子なるイエス様を私の救いのために、この世にお遣わしになったから、私は大いに喜び、主を称えます」と。私たちもマリヤと同じように、「主なる神は、我が救い主」と言うことができれば幸せです。

イエス様は、完全な救いをもたらすために、この地上においでになりました。救いとは何でしょうか。救いとは、決して、いわゆる人間の求めている幸せではありません。救いとは、本当の愛であり、絶えざる平安であり、父なる神の前に立つことができるための義です。

したがって、救いとは過去の克服です。主なる神は、人間のわがままを赦すお方です。イエス様は、債務と罪の支払いと赦しを提供しておられます。イエス様は、空しさからの解放を提供しておられます。イエス様は、人間一人ひとりの救い主となるために、約束された御子としてこの世に来られました。天の使いの福音とは何であったかと言いますと、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」

イエス様は証ししました。すなわち、「わたしが、失われた人を探して救うために来たのです。」イエス様の一人の弟子であるヨハネは、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と。また、弟子であるペテロも、「そして、神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを神とし、救い主としてご自分の右に挙げられた」と証ししたのであります。

そして、パウロも、同じことを強調しました。「キリスト・イエスは罪人を救うために、この世に来られたということはまことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」イエス様は、ただ一人の救い主です。イエス様が、罪の問題を全部、解決してくださったから、それゆえに、イエス様こそ、ただ一人の救い主であります。しかし、このイエス様は、いかにして、自分の救い主となることができるのでしょうか。

当時の羊飼いたちは、この世に現れた救い主を拝みました。信仰の証拠として。昔の博士たちは、イエス様を礼拝し、すべての支配権をイエス様に帰することができました。では私たちは、イエス様を救い主として、救い主とするために、いったい何をすべきなのでしょうか。私たちは、まずイエス様の御許に行き、すべてを幼子のように告白し、自分の過ちを悔い改めなければならない。

次のように祈ることが大切でしょう。「私は心から罪を悔い改めて、全く新しい人間となることが赦されますように。」それと同時に、さらに、私たちは心なる感謝を捧げることができるはずです。「私は、あなた様に心から感謝いたします。あなたが私の身代わりとなって、尊い代価を支払ってくださり、私の罪を赦し、贖うために死んでくださったことを、心から感謝いたします。私の罪と債務は、全部、赦され、支払われております。今や良心の呵責に責められることもなくなった。」

この確信が、我々の生活の土台となっていない場合には、我々にとって、すべてのすべて、一番大切なものが欠けています。

イエス様を本当に体験した人は、もはや、孤独な人ではなく、イエス様が私のために生きておられ、いつも共におられ、私のために全力をもって、すべてを成してくださるという、この確信を持つことができるのです。そして、イエス様の力は、無制限なのです。イエス様は、ご自分の生涯においても考えられない力を持っていました。自然、風、波などに対して、イエス様はご自分の絶対的な力をお示しになりました。

ルカ
8:25 イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

イエス様は、ただ単に自然を従わせる力を示されただけではなく、罪を赦す力をも公(おおやけ)に示されました。

マタイ
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。

9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。

イエス様は、それだけではなく、考えられない多くの奇跡を成してくださいました。

使徒行伝
10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。

この地上においてイエス様は、無制限な力について語られました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と、イエス様は言うことができたのです。

それだけではなく、イエス様は永遠のいのちを与える権威を持っていました。書いています、「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです」と、ヨハネ伝17章2節にあります。そして、また、さらにイエス様は、ご自分のいのちに対する権威をも持っておられました。

ヨハネ
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

我々と主イエス様との違いは、言葉に言い表すことができないほど大きなものです。イエス様の権威は無限であり、それに対して、真面目に考えれば、我々の権威などは、全く無力なものです。私たちは、来る日も来る日も、自分の力をはるかに超えたものを要求され、それが続くと、全く逃れ道のない状態に陥ってしまうのです。

その時、私たちは我々の救い主なるイエス様に次のように祈り、願い求めることができます。

「イエス様、あなたの恵みと権威をどうか豊かに示し、現してください。あなたなしにはもう、一歩も先へ進むことができないからです。」

イエス様は、そういう祈りを、もちろん聞いてくださるだけではなく、必要なものを必ず与えてくださるのです。ご自分の大いなる権威を現してくださいます。このようにすべてを主に委ねた者には、必ず、主が大いなる力と権威を現してくださいます。

また、イエス様は、私たちが日々、新たに主を救い主として体験し、主こそ完全に救うことのできるお方であることを、体験的に知ることを望んでおられます。イエス様は、我々に大いなる力を現すことができるためには、日々、主との交わりを持つことが、どうしても必要です。

しかし、残念なことに多くの信じる者は、自分のことだけを考え、いつも自分のことでいっぱいになってしまい、自己中心的な生活をすることによって、いつのまにか、主を忘れてしまっているのです。この事実を多くの信者は認めたがらないけど、その実際生活を見ると、その事がよくわかります。詩篇の作者は、この事実について、次のように書いたのです。

詩篇
106:21 彼らは自分たちの救い主である神を忘れた。

彼らは、すでに救われた者であったにもかかわらず、いつのまにか、自己決定と自己支配の生活に戻ってしまっていた。私たちが自分の力で主に仕えようとしたり、主に完全に拠り頼むことをしないならば、そのことが取りも直さず、自分の救い主を忘れていることに他ならない。私たちが救い主を忘れ、己が道を行く時に主は、いったいどのようなふるまいをなさるのでしょうか。

詩篇
106:44 それでも彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。

すなわち、いかなることがあっても、主イエスは、救うお方であり、ご自分に属する者をお見捨てになりません。パウロは、愛弟子であるテモテにその事実について書いたのです。いつも覚えるべきことばのひとつではないでしょうか。

第二テモテ
2:13 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。

ダビデ王も、この主を知るようになって、喜んで証しすることができたのです。

第二サムエル
22:2 彼はこう歌った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、
22:3 わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。

「私を救う私の救い主」という言葉は、決して理論ではなく、これを体験した者だけが発する歓呼の声です。この言葉を発したダビデと同じように、私たちも日々、私たちを助け救うことのおできになる救い主を体験し、歓呼の声を上げることができれば幸いです。

「褒め称えられるお方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる」と、ダビデは証しました。私たちが成すべきことは、だだ、主を呼び求めることだけです。

私たちは、本当に自分自身に絶望しない限り、心の底から主を呼び求めることをしないでしょう。私たちは、どうすることもできない性質を持っているということを、本当にわかったならば、自分の力で何かをしようとせずに、ただ主を呼び求めることしかできないでしょう。すなわち、祈る者は本当の意味での頼る者となります。全く別の者と変えられ、今まで知らなかったものを体験するようになります。詩篇の作者であるダビデは、また、告白しました。

詩篇
85:4 われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。

それは信じる者にとって、全く、恐ろしい状態でありましょう。信じる者として、自分は救われていると信じて疑わない者であっても、主と私たちの直接の交わりではなく、その間に何ものか妨げるものが存在していると感じる例が少なくないのです。けれど、主は、常に我々を待っていてくださいます。私たちが心から悔い改めれば、罪を全部、赦す備えをしておられるのです。主は、新しい喜びを与え、新しい力を授けてくださいます。

詩篇
85:6 あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。

大いなる救い主は、新たなる始まりを差し上げたいと願っておられます。主は、完全に救うことができるお方です。我々も新たなる出発をしようではないでしょうか。完全な救いをいただこうではないでしょうか。

私たちがどうしようもない者であるがゆえに、聖なる主の前に畏れかしこんだことがあったのでしょうか。「私は災いなる者、汚れた者、無関心な者、支配欲の満ちた者、臆病者、妬み深い者、愛のない者です。」このように叫んだことがあるのでしょうか。主の前には、すべてが明らかにされ、主は、何から何まですべてお見通しであり、すべての思いが主には知られているのです。

けれど、この聖なる神こそ、あなたの救い主です。イエス様は、私たちを贖って、罪を赦してくださり、そのために、ご自分のいのちを与えてくださいました。旧約聖書の福音書であるイザヤ書の中で、次のように書かれています。

イザヤ
43:3 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。

43:11 わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。

今日、主は、一人ひとりに目を留められ、このみことばのように呼びかけておられます。

イザヤ
43:1 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

イエス様は、裁かれたり、宣告をなさったり、罰したりするのではなく、助け、救うお方として、近くにおられます。私たちもこの救い主なる主イエス様に、無条件に絶対的に残すところなく明け渡そうではないでしょうか。

イエス様は、ご自分の権威と栄光を我々の生活の中に、私たちの生活を通して現したいと思っておられます。「あなたの御心がなりますように。私はあなたの導きに全てをゆだねる決心ができています。」このような心がまえが、いつもできている者は本当に幸いです。「主よ、私はただあなただけにより頼みます。」このように日々、新たに言うことのできる人は幸いです。

強い比類ない救い主は、もちろん、どこでも臨在しておられます。イエス様は、完全に救うことのできるお方です。私たちの前に、まだ我々の周囲にあって、我々を取り巻いている物事が、私たちを不安に陥れるようなことが少なくない。しかし、イエス様は、我々の前に、隣に、後ろに立っておられます。私たちは決して、一人ぼっちではありません。主は、我々の近くにおられます。それですから、私たちは前進することができ、全部ゆだねることができるのです。イエス様のご臨在は、力、勇気、喜びを与えてくれるのであります。

ゼパニヤ書の中で、皆さん知っていることばですけど、すばらしいことばがあります。

ゼパニヤ
3:17 あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

私たちも、この作者と同じような状態にあるのでしょうか。それとも、そうでないため、主が悲しい目で見ておられるのでしょうか。

最後に、主が完全に救うことがおできになるということを、五つの証しを通して見てみましょう。

まず第一に、ダニエルの三人の友だちが、火の燃える炉の中に投げ込まれる前にした証しです。

ダニエル
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。

この三人は、ただ、自分の仕えている主の誉れだけを見て、自分たちの身の上に何が起ころうがかまいませんでした。私たちも、自分の名誉を無にして、ただ、主の誉れだけを大切にするならば、主の救う力を日々新たに体験することができます。

第二の証しは、アブラハムの証しです。

ローマ
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

アブラハムも栄光を主なる神に帰したため、主には成就する力があることを確信し、体験することができました。

第三は、パウロの証しです。彼も、主なる神の大いなる力を体験したがゆえに、次のように、書き記すことができました。

第二コリント
9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

同じくパウロは、また、エペソ書の中で、次のように告白したというよりも、祈ったんです。

エペソ
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

それから、愛弟子であるテモテに、パウロはまた書いたのです。

第二テモテ
1:12 その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。(主はできる)

第四は、ヘブル書の著者であります。この作者は、我らのイエス様を大いなる大祭司として、常に生き、とりなしていてくださるお方として、心から褒め称えています。彼の証しは、前に、司会者がお読みになった箇所ですね。

ヘブル
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

ヘブル
2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

第五は、ユダの証しです。ユダは、我々を守ることのできるお方として、また、主イエス様の姿に似た者として、我々を造り変えることができる方として、イエス様を証ししています。

ユダ
1:24 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、
1:25 すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿