2012年10月16日火曜日

御心にかなうダビデ

御心にかなうダビデ
2012年10月16日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第二サムエル
12:13 ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
12:14 しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」
12:15 こうしてナタンは自分の家へ戻った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。
12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。
12:17 彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。
12:18 七日目に子どもは死んだが、ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。「王はあの子が生きている時、われわれが話しても、言うことを聞かなかった。どうしてあの子が死んだことを王に言えようか。王は何か悪い事をされるかもしれない。」と彼らが思ったからである。

12:19 しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」
12:20 するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。

歴代誌下の十六章九節、よく読まれる、多くの人々にとって、大切なことばです。

第二歴代誌
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

イエス様は弟子たちに(言いました。)

ヨハネ
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

また、ヨハネは証ししたのです。

第一ヨハネ
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

パウロは、ガラテヤ書に書いたのです。

ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

パウロは、イエス様によって捕らえられて、主に仕える奴隷となり、そして、イエス様の愛に圧倒された者として、彼は、イエス様を心から愛するようになりました。そして、彼は、心から主にある兄弟姉妹のために、次のように祈りました。家内と僕の結婚指輪に刻まれたことばです。『主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ』よう(口語訳)。

コロサイ
1:10 主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

同じことが、ダビデについても言えるのです。ダビデも御心にかなう人でした。

私たちは集りますとき、ひとつの願いを持つべきなのではないでしょうか。すなわち、私たちは主の御許に行って、主の交わりを得ようという願いを持たなければならないのです。けど、先ほど読みました歴代誌下の十六章九節に書いてありますように、主の側から我々を求めておられると、書いてあります。主の目はあまねく全地を行きめぐっています。全日本を行きめぐっています。また、私たちの上に行きめぐっており、分かれていない、分裂していない心、主に向かって一本になっている心の持ち主を探し求めておられます。

私たちは、もっと何か大きなことが起こり、私たちは、もっと上からの力によって喜ばされ、私たちの生涯を通して、大きな業が成されることを、期待しているかもしれないけど、主は我々の分かれていない単純な心、主に向かって単一な心を求めておられます。私たちは本当に、表面的な事柄、生まれつきの賜物や能力を見がちなものです。しかし、主はそうではない。人の心を見てくださるのです。

サムエルという預言者が、ダビデの家庭に行って、王を選ぶにあたり、十二人の兄弟のうち、上の兄を見て、「この人は実に立派な容貌、容姿を持っている。この人こそ、王となるべきだ」と、彼は間違いなく思ったでしょう。しかし、主は、サムエルの心に反し、その兄を選ぶことをしなかったのです。主は人の思いに反し、もっと小さな弟、いわば、子羊のようなダビデを選びました。どうしてでしょうか。

主は、ダビデの分裂していない心を見たからです。私たちも、ダビデのような心の持ち主であれば、本当に幸いなのではないでしょうか。

この有名な詩篇二十三篇を読むと、ダビデの心の様がよく分かり、ダビデの生涯の秘密がよく分かるような気がいたします。ダビデは、主は我が牧者なり、主は私の羊飼いであると歌いました。このことばを逆に申しますならば、「私は愚かな弱い子羊にすぎない」ということにならないでしょうか。

子羊は、外敵から自分を守ることのできない動物です。ダビデは、「私は、あたかも一匹の愚かな弱い子羊のような者です。ですから、私には、私を終日(ひねもす)、教え導き、守ってくれる羊飼いが、どうしても必要だ」と、言っています。私は、弱い子羊だから、偉大な牧者、主が必要なのですと言いました。ダビデは、ダビデの心は、謙虚で柔和でした。私たちはどうでしょう。「私たちは、小さな弱い子羊です。私たちを終日、教え導き、守ってくださる羊飼いが必要です」という状態でしょうか。

ダビデは、もちろん、決して、完全ではなかったのです。彼も、自分の弱さを感じ、完全に絶望してしまったことがありました。

第一サムエル
27:1 ダビデは心の中で言った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」

ダビデは、主からすばらしい経験を与えられた後に、このように自分勝手なことばを口にし、また、それを思っただけではなくて、行なってしまったのです。不信仰のあらわれ、そのものでした。これより以前、かつて、主は、ダビデを呼び、ダビデにやがて王となることを約束されました。けれども、ダビデは、何と言ったのでしょうか。「主は、今はもはや成すことができない。もうすでに遅すぎる。私が王となることは望みがない」と、言ったのです。

ダビデは、それまでの長い間、主はご自身のご計画を必ず、あまさず、成就されるということを確信しました。けど、今はどうでしょう。周りの情勢が、困難に見えます。絶望的に見えます。ダビデは、すべてがダメであると、望みを捨ててしまいました。実際には、この時、ダビデの敵であるサウル王の死は、間近かにせまり、ダビデが王となる日は目前に近づいていたのです。

やがて、ダビデは王となるのですけど、ちょうどその寸前、今の時は、悪魔が働き、闇のときであり、絶望に引き込もうとする時期です。そして、ダビデは絶望しました。しかし、ダビデの歌った歌である詩篇を読んでまいりますと、このダビデは、もっとも深いどん底の苦しみにあっても、また、非常な絶望に陥ったときも、前途が真っ暗なときも、逃れ道が見えず、ひたすらにダビデは祈っただけではなくて、感謝しただけではなくて、礼拝しました。

「私は、いくら弱くても、あたかも、一匹の愚かな弱い子羊であっても、主は、私の羊飼いである。もう心配しません」と、ダビデは、王様として告白しました。すなわち、「私はまことに弱い、守りのない者です。悩む者です。貧しい者です。」だから、ダビデは、主が必要であり、主を選んだのです。そして、だからこそ逆に、主はダビデを選ばれたのではないでしょうか。私たちも、そのような心を持っているのでしょうか。

もしそうなら、主が、ダビデを選び、油を注がれたように、私たちをも選び、油注ぐでしょう。その油とは、旧約聖書において、いつも御霊を象徴しています。御霊に満たされることこそが、もっとも大切であり、実を結ぶことの秘訣、そのものです。ダビデは、へりくだった柔和の心の持ち主でした。だから、主に選ばれ、絶えざる喜びに満たされたのです。

ある人は、「主よ、お願い。私を聖霊で満たしてください。祝福してください」と祈り、断食し、夜通し祈りますけど、その結果はどうでしょう。何も起こりません。それは、その人の心の状態がいけないからです。けど、主は、砕かれた、謙遜な、柔和な心の持ち主を求めておられます。

私たちは、主の御心にかなっているのでしょうか。謙遜な柔和な心を持っているのでしょうか。ダビデの書いた詩篇の五十一篇を見ると、心を全うした人は、決して、完全な人ではなく、罪を犯さない人でもないことがわかります。しかし、ダビデは、へりくだった心を持っていたのです。また、ダビデは、悔い改める備えのできた心を、常に持っていました。

ダビデの前の王である、ダビデを責めたサウルという王は、罪を犯した時、その罪を隠そうと努力し、その罪があらわにされた時も、それを全部、言い表すことをいたしませんでした。ダビデの心は、それに反し、常に悔い改める備えのできた心を持っていました。主が、ダビデに、「お前は罪を犯した。お前はその人である」と、言った時、ダビデは、それに対して、直ちに答えたのです。「はい、私は罪を犯しました。私がその男です」と答えました。我々は、サウルのような者でしょうか、あるいは、ダビデのような者でしょうか。

ダビデの子供であるソロモン王は、すばらしい福音を宣べ伝えたのです。皆も、暗記しているすばらしい言葉です。

箴言
28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

もちろん、ソロモン王だけではなく、ダビデも心から言えたのです。「私は、あわれみを受けた。」人間にとって、もっとも大切なのは、それなのではないでしょうか。私たちは、誇り高ぶり、己(おのれ)に満足しているのでしょうか。それとも、「主よ、あわれんでください。私の自己中心的な心を赦してください」と叫び、求めるのでしょうか。

ダビデは、柔和にして謙遜な心の持ち主でした。ですから、主は、彼を選び、彼に油注がれたのです。ダビデは告白しました、「私の杯はあふれています。」すなわち、私の喜びは満たされています。ダビデの祈りは、次のようなものでした。「私は、あなたを必要としている。どうか、私を導いてください。私は弱い、どうしようもない者ですから」と、言い得るような心を持っていないならば、すべてが無駄であると言わなければならない。

今、いっしょに考えたように、ダビデはまず、へりくだった心を持っていたのであり、二番目、悔い改める備えのできた心を持っていたのです。

そして、第三番目、彼は清い心のために祈りました。詩篇、五十一篇の十節ですね。ダビデは、こう祈りました。

詩篇
51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

正しい心の状態を保ちたいと願う心が、ダビデの心でした。

詩篇
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

ダビデは、砕かれた心をもって、己の罪を告白しましたが、我々はどうでしょうか。悔い、砕かれた魂を、主は喜んでくださいます。いつも覚えるべきことは、私たちの願いや、私たちの平安や、私たちの満足が問題なのではなく、私たちが主の御心の真ん中を歩んでいるかどうかということです。ダビデは、主の御心にかなった人でした。ですから、ダビデは、油注がれ、喜びに満たされました。

詩篇
51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

有りうることだと、彼は、わかりました。

罪を犯すことにより、主の臨在は、ダビデを去ってしまいました。罪を犯す前のダビデは、親しく、主の御声を聞き、細やかに主の導きを知り得たのに、今はもう、すべてがダメになりました。

詩篇
51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

この節によると、主の親しき臨在を失っただけではなく、同時に、もうひとつの大切なものを失ったことがわかる。それは何かと言いますと、救いの喜びです。どうでしょうか。私たちは皆、主のあふれ流れ出る喜びにあずかっているのでしょうか。主の喜びは、我々のものとなっているのでしょうか。「私には主の喜びが必要だ。」これはダビデの心の状態でした。私たちも共々に、主の溢れいずる喜びにあずかっていたいものなのではないでしょうか。

ダビデは自分の心の状態だけを気にして、主に祈り、求めました。主の御心にかなった男であるダビデ王は、自分の賜物、説教、唄について何も語っていない。それはダビデが、もし心の状態が悪いなら、それらのものは何の役にも立たないことを、よく知っていたからです。

また、ダビデは、知っていました。すなわち、もし自分と主とが、正しい関係になるならば、罪人のあいだに何か起こるということを、ダビデは知っていたのです。

詩篇
51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

もし、私たちが、柔和にして心低き者でないなら、罪人に罪を指摘することはできません。ですから、大切なのは、私たちが、立派になることではなくて、主をよりよく知ることであり、そして、主の御姿に似せられた者となることです。

ダビデは、主の救いにあずかり、主にあって大いに喜ぶことができた人でした。そして、その信仰生活の初めの半分を、主の導きのままに過ごしてまいりました。しかし、彼の生活にも破綻がやってきました。彼は、姦淫の罪を犯し、同時に、殺人の罪まで犯してしまいした。もし、私たちが、自らの心をよく知っていなければ、あんなにすばらしい信者でさえ、あのような罪を犯すのだろうかと、疑問に思うことでしょう。

これに対して、主は、「ダビデはもう望みがない、諦めて捨てよう」と、言われたのでしょうか。決してそうではない。

詩篇
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

ダビデはこう祈って、叫んだのです。これは、ダビデ王の心の底からの叫び声でした。そして、後に、主の大いなる恵みと愛によって、ダビデは、主イエス様と同じ姿に変えられて行ったのです。

詩篇を読むと、それがよく解かります。主ご自身が言われました。すなわち、「わたしは、エッサイの子ダビデを見つけた。彼は、わたしの心にかなった人だ」と。人を讃えるに、これよりもすばらしいことばがあるでしょうか。

前に申しましたように、ダビデは、心から主を礼拝する礼拝者になりました。しかし、礼拝とは何でしょうか。すなわち、すべてのことを、主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己を委ねることです。私たちは、しばしば祈るでしょう。「主よ、御心をこのようにして。主よ、この重荷を私から取り去ってください。主よ、この環境を変えてください」と祈り、叫び求めます。

祈りは、我々の願いの言いあらわしにすぎません。崇拝、まことの礼拝は、己のすべてを、何もかも主にお委ねすることです。もちろん、主の道はいつも、我々の願いとは同じとは限りません。ダビデの場合は、そうでした。

主の御心にかなったダビデに――前に読んだ箇所を見てもわかります――「あなたに生まれる子は必ず死ぬ」という、恐るべきことばがのぞみました。ダビデは、自分の子を愛し、主に請い求め、断食し、地に伏して、ひたすらに祈り求めました。しかし、その子は死んだと聖書は言っています。

多くの人々は、かかる立場に置かれるとき、「どうして、なぜ、なんのため」と言うでしょう。しかし、ダビデは着物を替えて、主の家に入って拝した、礼拝したと書いてあります。ダビデは、礼拝しました。礼拝は、主の道に全く心からなる賛意を表することです。己がすべてを主の御心に委ねることです。初めに読みました箇所をもう一回、読みます。

第二歴代誌
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

すなわち、万軍の主は今日も、一生懸命、探しておられます。なぜなら、主は奇跡を行なう力を現したいのですから。けど、主に向かって心を全うしている人がなければ、高く引き上げられた主は、ご自分の全能を現すことができません。私たちは、主の力を妨げることを全部、捨てようと思わないでしょうか。私たちは、見えるもの、感じるものによりますか。あるいは、信仰によって前進するのでしょうか。

主は、霊的に死んでしまった者を、今日も生き返らせることができるのです。これを、固く信じているのでしょうか。それとも、不信仰、不従順によって、主の力を妨げるのでしょうか。神の御心にかなったダビデの告白とは、すばらしい告白です。それを最後に読んで終わります。詩篇の十八篇、すばらしい証しであります。もちろん、ダビデは、そういうふうに歌っただけではなく、心から確信したのです。

詩篇
18:1 彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。

心から愛している

18:2 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

おわり

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