2012年10月23日火曜日

勝利か敗北か

勝利か敗北か
2012年10月23日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

士師記
2:1 さて、主の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。
2:2 あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。
2:3 それゆえわたしは言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。』」


2:12 彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。
2:13 彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、
2:14 主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。
2:15 彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。
2:16 そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。
2:17 ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかった。
2:18 主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。
2:19 しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。
2:20 それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、
2:21 わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。
2:22 彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」

3:5 イスラエル人は、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の間に住んで、
3:6 彼らの娘たちを自分たちの妻にめとり、また自分たちの娘を彼らの息子たちに与え、彼らの神々に仕えた。

3:9 イスラエル人が主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。

18:9 そこで、彼らは言った。「さあ、彼らのところへ攻め上ろう。私たちはその土地を見たが、実に、すばらしい。あなたがたはためらっている。ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。」

今、読んでくださった箇所の内容は、「前向き生活をしましょう。」主は、生きておられます。主は、ご自分の約束を、必ず実現しておられます。イスラエルの人々は、みことばに頼った時、目に見える現実をある意味で無視した時、結局、『主はすごい、主に頼ると、絶対に後悔しない』とわかったのです。申命記の一章二十一節に、同じことばが出てきます。

申命記
1:21 見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている(・・・もう、渡されています、だから・・・)。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。

イエス様は、次のように言われました・・・祈りの中で。

ヨハネ
17:4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。

けれど、私たちは過去を振り返って、このように言うことができる人は、おそらく、一人もいないのでしょう。どうしてもやりたいと思っていたこと、どうしてもしなければならなかったことが、何と多くあることでしょうか。また、どうしても訪問したいと思っていた人々、見舞いに行かなければならなかった人々のところに行くことができなかったことも少なくない。また、どうしても主の御許に導きたいと思っていながら、できなかった人々が大勢いるのではないでしょうか。

我々の家族や親戚、友人たちの間で、依然として悪魔の手に渡されている人々が何と大勢いるでしょうか。このように考えてくると、未解決、未完成に終わってしまったことが、次から次へと思い出されてくるでしょう。これと同じように、旧約聖書におけるイスラエルの民も、神の前に悔い改めなければならなかったことが数多くあったんです。

士師記という本は、非常に考えるべきものです。なぜならば、士師記の時代について考えると、認めざるを得ません。士師記は聖書の中でも、とくに、ちょっとひどい書物です。その時代には、未解決な課題が多く残されてしまい、それが、ひとつの大きな悲劇を呼び起こしていたのです。

士師記の前にあるヨシュア記においては、イスラエルの民が――主の民が――神によって約束された土地へ導かれたことが書き記されています。ヨシュアの時代には、初めから勝利が続き、その後も、勝利から勝利へと、勝利を続けた時代であったことが解かります。その時の主の、神の目的は、カナン、すなわち、約束された土地を全部、イスラエルのために占領し、すべての異邦人、悔い改めたくない人々を殺害することでした。けど、ヨシュア記の終わりの章を見ると、神の民が激しく戦いを続けることを止めたんです。その土地に定住してしまったことがわかります。

このように主なる神の命令に従わなかったために、異邦人たちは、約束された地から消滅してしまうことなく、その地に留まったので、結果として、主のご目的が達成されないことになってしまいました。

イスラエルの民は、主によって選ばれた民であり、したがって、主の民と言って差し支えないものでした。彼らは、「その土地を全部占領するように」という主の召しを、正しく知ることができたはずです。主は何を考えているか、何を望んでいるか、もちろん、はっきり解かったはずです。彼らは、神のご目的は何であるかということを知っていました。

そして、初めは彼らも、主のご目的を達成することが、ただ一つの課題であるということを、正しく知っていました。したがって、初めは大喜びで、主に従って、戦いを続けましたが、それが完成する直前になって突然、その戦いを止めてしまったのです。

この悲劇について、士師記は細かく書き記されています。そして、このことはただ単に、その当時にあっただけではなくて、今日も、我々、イエス様を信じる者に対して、全く同じことが当てはまるということを忘れてはなりません。すなわち、初めは、主との出会いによって大きな喜びがもたらされ、すばらしい証しと栄光に満ちており、主がすべてを備えていてくださるがゆえに、もっともっと前進しなければならないということを知っていたはずです。

信じる者は、主が共にいて、あらゆる約束を成就してくださることをも知っているはずです。『主の約束を信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる』というみことばは、信者一人ひとりに、大きな喜びと望みとを与えてくださるのです。このみことばは、多くの信者によって受け入れられ、そのために、信じる兄弟姉妹によって受け入れられ、そのために、信者たちは、家族のために熱心な祈りが捧げられたことです。

しかし、時が経つにつれて、祈りによる戦いが少しずつ衰えていき、ついには、祈ることさえも全くしなくなる例が少なくないのではないでしょうか。このようにして、救われた者が、信仰による前進を止めてしまい、そこで留まってしまうならば、霊的に、成長もそこから先に行くことができなくなってしまうことは明らかです。

これらの信者は、もはや何のために自分が救い出されたのかが解からなくなってしまい、与えられた目的と使命が曖昧になってしまうために、証しをしたり、霊的に成長したりする力さえもなくなってしまうのです。そのような状態になると、自ずから光輝いていた顔から喜びが消えてしまい、その人に起こった変化がにじみ出てくるようになるものです。

かつてはイエス様が、主の主、すべてのすべてであったにもかかわらず、今は、まったく変わってしまったということは、何と悲しむべきことでしょう。しばしば、それは、知らず知らずのうちになってしまうため、多くの人々は無意識のうちに主の愛から離れてしまい、自分に何が起こりつつあるかということさえも、正しく理解することができないで、したがって、心から罪を悔い改めたこともしないのです。しかし、何かが起こりつつあることに気をつけなければなりません。その当時と今とは、何が変わってしまったのでしょう。非常に多くの信者が、このような状態に陥りつつあるのではないでしょうか。

そこで、私たちは、士師記を読む時には、絶えず、次のような問題意識を持つようになります。すなわち、何故、神の民であるイスラエルの民が主を信じる者であるにもかかわらず、信仰的に前進することをせず、そこで留まってしまったのでしょうか。

第一の答えは、次のものです。彼らは、戦いに倦み疲れ、主の御心が解からなくなってしまって、したがって、戦う力が、もちろん、無くなりましたということです。約束の地を占領するためには、多くの戦いが必要でした。彼らの戦いは、休みなく、絶えず続けていかなければならない激しい長期戦でした。我々、信じる者の生涯も、戦いの生涯でなければなりません。パウロは、次のように言ったのであります。

ガラテヤ
6:9 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

また、有名なよみがえりの書であるコリント第一の手紙、十五章五十八節を見ると、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹を励ましたのです。

第一コリント
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

その当時のコリントでは、絶望的雰囲気がみなぎっていたため、戦力を恐れて主のわざを励むことを止めてしまう人々が少なくなかったため、パウロはこのような言葉を言わざるを得なかったのです。

ヘブル
6:10 神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。

イエス様の弟子たちも、激しい戦いの中に投げ込まれたのでした。そのために、イエス様は弟子たちに、次のように言われたのです。

ヨハネ
14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

主も、ヨシュア記で次のように言われたのであります。すばらしい言葉です。

ヨシュア
1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。

このような約束のみことばを、私たちも、自分のために書かれた・・・と思い、自分のものにすることができます。イエス様は、マタイ伝二十四章十三節で次のように言われました。

マタイ
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

主の民は、士師記の時代に、倦み疲れてしまい、もはや、主の命令どおり戦いを続けることを止めました。私たちも、同じような状態に陥る危険性にさらされているのではないでしょうか。我々、信じる者の戦いは、目に見えるものに対する戦いではない。目に見えないものに対する戦い、すなわち、霊的な戦いであることを忘れてはなりません。もっとも大切な戦いは、心の内で行なわれるものです。パウロでさえもある程度、この戦いから解放されることを望んだようです。

ピリピ
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

パウロは、このような激しい霊的な戦いから解放され、この世を去って、キリストとともにいることを切に望みました。この世においては、主に救われた者は、欲すると欲せざるとを問わず、皆、この戦いの中に投げ込まれています。我々、信じる者といえども、イスラエルの民と同じように、戦いを止め、安易な妥協に陥ってしまう危険性に取り囲まれています。

その当時、初めは、イスラエルの民も勝利の連続を勝ち誇ることができました。しかし、やがて、その戦いが果てしなく続くことがわかった時、倦み疲れ、がっかりしてしまい、そのために、戦い続ける勇気を失ってしまいました。ご存知のように、士師記の『士師』とは、敵に対する裁き人という意味であり、イスラエルの民にとっては、救い主に他ならなかったのです。したがって、主なる神の民が、主の御前に罪を犯した時、彼らが、心から罪を悔い改めるように勧めたのです。悔い改めた時、その時は、必ず主が士師、すなわち、救い主をお与えになり、民を解放してくださいました。

彼らがいかにダメになったとしても、主は、見捨てることをしないで、常に彼らのために、救いの道を備えてくださったのです。したがって、士師記に描かれているイスラエルの民の歩みは、我々、信じる者の信仰生活を反映しているものと言えます。すなわち、ある時には、勝利の歌を賛美し、また、ある日には、みじめな敗北感に打ちひしがれるといった具合です。

私たちは、同じようなことを経験しなかったのでしょうか。ある時は泣き、ある時は笑い、ある時は悲しむといった具合に喜怒哀楽の時であったと言えます。けど、悲しみのどん底に落ち込んだときも、かたくなな心、思い上がった心が打ち砕かれるならば、その瞬間に、主が慰めと励ましとを与えてくださり、救いの道を備えてくださることを確信し、そのために感謝することができます。

私たちの問いとは、次のようなものでしょう。なぜ主の民であるイスラエルが救われた者であるにもかかわらず、信仰的に前進することをせず、そこで止まってしまったのでしょうか。第一の答えは、彼らは、戦いに倦み疲れ、主の御心が解からなくなり、したがって、戦う力がなくなってしまったということです。第二の答えは、なぜ、イスラエルの民は、信仰的に前進せず、ストップして、約束の地をすべて占領する戦いを続けなかったのでしょうか。二番目の理由は、彼ら、が上に召してくださる主の賞与を得ようと努めなかったことが挙げられます。パウロは、ピリピ人への手紙を見ると、この主の賞与を得る必要性について書いたのです。

ピリピ
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです

彼らは、目の前のことだけしか見なかったため、神のご目的を忘れてしまったのです。彼らは、目に見えない世界、霊的な世界を見ようとしなかったのです。パウロは、また次のように書きました。勝利を得る秘訣でしょう。

第2コリント
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

イスラエルの民は、永遠なるものを見ずに、目の前のものに心を奪われたため、道を誤ってしまいました。彼らは、全部、占領せずに途中で倦み疲れてしまったため、本当の使命と目的を忘れました。初めは、主の命令どおり、勝利の戦いを続けたことは正しかったけれども、途中で、戦いを止めたことによって、悪魔の勝利が入り込んでしまったのです。信じる者は、もしも、信仰的な前進を続けないとき、主の目的を忘れてしまい、逆に、与えられた使命と目的を忘れてしまうときには、信仰の成長と前進が止まってしまいます。

途中で落ち着いてしまうということ、すなわち、そのところに定住してしまうということは、何を意味しているのでしょうかね。それは、とりもなおさず、戦いの霊と勇気を失うことに他ならない。とりわけ、兄弟姉妹のため、未信者のためにとりなしの祈りをすることが、信仰の戦いには、大切なことです。

士師記を見るとわかるように、主の民の敵であるペリシテ人は、イスラエルの民から武器を略奪するという戦略を使いました。そのため、イスラエルの民は、大いに悩み、戦いの霊を失ってしまいました。ペリシテ人の戦略のために、神の民は武器を使って、戦うことができなくなってしまいました。

我々の敵は、目に見えるペリシテ人ではなく、目に見えない敵、すなわち、悪魔であることを忘れてはなりません。悪魔は、ペリシテ人と同じように、私たちから信仰の武器を奪い取ろうとしています。悪魔は、私たちが神の武具を身に堅め、祈りの戦いをすることができないようにと一生懸命になっています。我々の祈りの生活は、いったいどういうものでしょうか。

かつては失われた魂のために、一生懸命、祈ったことがありましたが、今はどうでしょうか?共に祈る大切さを本当に知っているのでしょうか。祈りの時は、とりもなおさず、霊的な戦いの時に他なりません。私たちは、祈りの時に多くの祈りを主に捧げます。しかし、一番、大切なことは、霊的な戦いで悪魔に打ち勝ち、勝利の戦いを最後まで続けることができるようにと祈ることです。

そのように私たちが、真剣に祈っている未信者の中には、何ヶ月か、何年間、経っても、依然として、罪を悔い改めて、主を信じない人は大勢いることを知っています。戦いのために召し出されている人とは、まさにそのような人々です。もう少し、解かりやすく言うと、霊的な戦いを続けるために、我々に与えられている人々こそ、今、述べた方々であるということです。ここで大切なことは、私たちがイスラエルの民のように、戦いに倦み疲れることなく、目に見えるものによらないで、目に見えない霊的な世界で、その人々のために祈り続けなければなりません。

祈りの中で、戦いの霊が消えうせてしまった信者には、もはや、戦う力がなく、したがって、このような喜びもありません。これこそ、狡猾な悪魔の策略です。しかし、戦う霊を失った者は、決して、主のご目的を達することができません。

最後に、第三の答えとは何でしょうか。すなわち、なぜイスラエルの民が、約束の地を全部占領しなかったのでしょうか。この世の霊が入り込んだからです。居心地の良い楽な生活をしよう、楽しくやろうという霊が、それに他なりません。

イスラエルの民は、自分たちだけが、激しい戦いを永遠に続けなければならないとは、どういうことなのか、他の民はもっと楽な生活をしているのに、自分たちだけが、なぜこんなに苦しい生活をしなければならないのでしょうかと、彼らはつぶやいたのです。信じる者が、楽な生活をしたいと思う時には、必ず、悪魔が心の中に入り込んで支配してしまうのです。

イスラエルの民が、敵と戦うことを止めた時に、この世的には、お互いに非常に親しくなることができました。この世と戦わない信者は、悪魔の誘惑に陥る危険性を持っています。

敵と戦わなくなってしまった信者は、もはや主の僕(しもべ)ではありません。敵と戦う備えのない者は、安易な妥協に陥ってしまいます。この世と適当にうまくやって行こうと思ったり、居心地の良い楽な生活をしようとしたりする者は、備えられた主の遺産を受け継ぐことができません。イスラエルの民が戦い続けることを止めた時に、彼らは異邦人である敵と親しくなり、お互いに結婚しあうことが平気になってしまい、主の前に罪を犯したのです。

悪魔は、このように堕落した時に、イスラエルの民に対すると同じように、我々に対しても、今からこそ、誘惑しようと、すきをうかがっているのです。今まで話してきたようなこと、すなわち、イスラエルの民の失敗と、我々信じる者の欠点だけで、今日の話を終えなければならないとしたら、ちょっと悲観的なことしか言えないことになってしまう。

士師記は、主なる神が信じる者を、決して捨てないとはっきり言っています。我々信じる者が、主の前に心から罪を悔い改めるならば、主は我々を愛し、生き生きとした交わりを回復してくださるのです。ですから、士師記の中に、デボラやギデオン、あるいは、サムソンなどの悔い改めを読んで、主に感謝できるのです。これらの人々を通して、主は、イスラエルの民を救いの道に至らせてくださいました。

多くの人は、サムソンが女の奴隷になったため、優れた者ではなかったと考えるでしょう。けど、はたして、私たちはサムソンよりも、はるかに優れた者なのでしょうか。過ぎ去った一年間に、私たちを通して、何人の人を救うことができたのでしょうか。主は、サムソンを通して、イスラエルの民をすべて救いの道に至らせ、解放なさったのです。

過去を振り返った時、私たちは、果てしなく続く戦いに倦み疲れ、祈ることを止めたり、あるいは、イスラエルの民と同じように、楽な生活をしようと思ったりしたことがあるかもしれない。ギデオン、デボラ、サムソンという多くの人々は、主の器として、イスラエルの民に用いられました。

しかし、その当時、すばらしい人、すなわち、ルツという信仰者を見いだすことができます。彼女は、士師記の時代に生きた人でした。彼女は、初めは、イスラエルの民ではなく、異邦人に属する者でした。このルツは、主と出合ってから、主を大事にするようになりました。彼女は、決して楽な生活を望まないで、ただ主のそばにいることだけを請い、願ったのです。彼女は、明日のことを思い煩わないで、すべてを主の御手に委ねたのです。

ある日、彼女は落穂を拾うために出かけました。しかし、そこで麦だけではなく、一人の男と出会うことができました。ルツは彼と結婚するようになりましたが、信仰を通して、主の僕となり、イエス様の子孫に加えられるという光栄にあずかることができたのです。主にすべてを委ね、明け渡す冒険をすることができた者だけが、ルツのように祝福された生涯を送ることができます。

私たちの前には、戦いが横たわっています。私たちも戦いに倦み疲れることがあるでしょう。私たちも、時には落胆したり、失望したりすることがあるでしょう。私たちも、イスラエルの民と同じように、成すべきことが完成する前に、どこかに定住してしまうかもしれない。このような可能性は、信じる者、一人ひとりの生活の中に含まれており、そのような状態に留まってしまうことは悲劇であると言えましょう。

主は決して、我々を捨てるようなことをなさらないで、絶望的になることはないということを忘れてはなりません。私たちが、砕かれた心を持って、主のもとに立ち返るならば、主は必ず、力と喜びを与えてくださいます。主は、私たちが戦いを最後まで続け、約束の地を完全に占領することを可能にしてくださる唯一のお方です。主は、ヨシュアに対すると同じように、我々にも呼びかけておられます。ヨシュア記の一章の二節、『立って、行け。』

ヨシュア
1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしが・・・あなたがたに与えている。

1:5 ・・・わたしは、・・・あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

1:9 ・・・強くあれ。雄々しくあれ。

もう一回、士師記の十八章九節を読んで終わります。

士師記
18:9 そこで、彼らは言った。「さあ、彼らのところへ攻め上ろう。私たちはその土地を見たが、実に、すばらしい。あなたがたはためらっている。ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。」

おわり

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