2012年9月25日火曜日

備えあれば憂いなし

備えあれば憂いなし
2012年9月25日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

ピリピ
1:20 それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

今、読んできてくださった箇所とは、パウロの個人的な告白でもあり、彼の喜びの源でした。すなわち、いつになるかわからないけど、近いうちに殺されるかもしれない。ピリピ人への手紙は、刑務所で中で書かれた手紙です。ですから、出られるかどうか、殺されるかどうか、全くわからなかった。けど、彼は何の心配も、恐れもなかった。行く先は、決まっている。


このあいだの土曜日でしたか、御代田で八人の兄弟姉妹のための記念会、納骨式だったんです。いつも後で、残されている家族の中から、どなたか、証ししてくださいます。結論は、イエス様はすごい。イエス様は、変わらない喜びを、平安を与えるお方であるというものです。

あるドイツの出版社の息子は、テレビ局の人々に聞かれたことがあります。『ちょっと、失礼なんですけど、あなたにとって、もっとも大きなショックとは、何でしょうかね。ガンになったと宣告された時ですか。全財産を、急に失くすことでしょうか。あるいは、一生涯、車椅子の中で生活することなのでしょうか』と、聞かれたんです。息子の答えは、『もし、神様がおられれば、それこそ、考えられないほど恐ろしいことです』と。主がおられれば、もちろん、死は終わりではない。『そうすると、必ず死後、裁きを受けることになるからです』と。結局、天国か、地獄かのどちらかです。確かに、地獄、すなわち、永久的に光が見えないこと、平安なし、喜びなし、希望なしで存在することとは、考えられないほど苦しいことでしょう。

天国について、聖書は言っています。『もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。』確かに、夢の世界です。想像できない世界です。初代教会の人々とは、もちろん、迫害されていました。けど、殺されても、行き先は決まっている。天国だと確信したのです。結論は、今の時のいろいろな苦しみは、将来、私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものです。

『また、天国で会いましょう。』こういう生ける希望、また、確信を持たない人は、本当にかわいそう。行く先は、真っ暗闇であるからです。我々の目的とは、天国でなければ、すべてはおもしろくない。空しい。なぜならば、心を満たすものがないからです。イエス様は、確かに、天国の栄光についてよりも、地獄の恐ろしさについて話されました。

何十年前だったかわからないけど、名古屋集会の一人の兄弟、ミノル兄弟は、自分の葬儀のために、めったにないけど、小冊子を作ってしまったんです。そして、初めの文章は、『本日は、私、
ミノルの昇天式にお集まりくださいまして、本当にありがとうございます。』希望に満たされていたからです。

彼は、奥さんを亡くしました。それが、きっかけになったんです。奥さんは、三十九歳、末期のガンになって、ヤスノリ兄から聞いた話なんですが、一度、見舞いに行こうと思って、その日、もちろん、二人に初めて会いましたが、けど二人とも、その日、悔い改めて、イエス様を信じるようになってしまったんです。もう奇跡です。彼女は、三十九歳で天に召されました。別の時、また、行ったんですけど、見舞いに行った時、死にそうなジュンコ姉妹は、稔兄に何と言ったかと言いますと、『病気になったのは良かったね、お父さん。』稔兄の答えは、『あなたのおかげです。』その意味は、『もし、病気にならなかったら、救いを求めようとしなかったし、救い主に出会わなかったにちがいない。そうすると、真(まこと)の喜びなし、本当の平安なし、生ける希望なしで、存在しなければならなかったにちがいない。だから、病気になったのは良かった。永遠のものを得たからです』と。

このミノル兄弟は、奥様が召されてから一年後、記念会らしいものを持つようになりました。その時、彼の文章は、本当にすばらしい文章でした。『もし、聖書を知らなかったなら、苦しみや悲しみにさいなまれ、運命を呪ったことでしょう。イエス様を信じて順子は、死の恐怖から解放され、私も生き様が変わりました。今は再び、天国で順子と巡り会える喜びと、主の御心と愛に感謝の気持ちです』と言うことができたのです。

もう三十二年前ですか、家の娘、リンデも病気になり、末期のガンだったんです。医者は一度、手術したらと思って、開けるとすぐまた閉めたんです。もう終わり。もう、何をやってもダメ。けど、娘は別に、ショックを受けなかったんです。不思議でした。自分の健康や自分の幸せは、別に彼女にとって、問題ではなかったのです。『ただ、イエス様だけが、栄光をお受けになれば、私はありがたい、嬉しい』と。

ドイツで、一人の方が尋ねたんです。質問しました。『あの子が、そんなに喜んで死ぬことができたのは、いったいどういうこと。彼女がそんなにも、この世から離れ、目に見えるものに関心を持たないで、目に見えないものに関心を持ったのは、いったいどういうこと?』リンデは書いたんです。『人格者とは、死を直視することのできる人です。』

ある人は、死後の問題は、死んだ時に、初めてわかるものだ。この世で生きているあいだは、そんな問題に煩わされない方がいいと、確かに考えています。けど、そのような考え方について、私たちは、いったい、どのように思うのでしょうか。確かに、死についての人間の考え方は、いろいろ違います。一般に、死について、何か話そうとすると、だいたいの人々は、いやな顔をして、拒む人が少なくない。

太陽の王様と呼ばれた、有名なフランスのルイ十四世は、葬式の列が通るのを見た時、すぐ、命令したんです。『カーテンを閉めろ!』結局、死について考えたくなかった。彼は、自分が望むものは、もちろん、全部、持っていたんです。名誉も地位も財産も、あらゆる物を手に入れた有名な王様でした。けど、彼が一番、嫌ったもものは、死だったんです。ドイツの偉大なる詩人だったでしょう。ゲーテ、ヴォルフガング・ゲーテという男は、やっぱり、死について考えたくなかった。死を嫌ったため、非常に親しい人の葬式でさえも、出席しなかったんです。

多くの人々は、いろいろのことについて、計画的に考え、その計画に従って、行動しようとしますけど、死に対しても、同じように考えようとすると、メチャクチャになってしまいます。何の計画も立てられなくなってしまいます。そして、生きている限りは、できるだけ楽しみたいという強い願いを捨てきることができない。しかし、悪魔は、そのような人々にささやきかけ、死のことについて、深刻に考えることを止めさせたり、あるいは、目をくらませて、享楽的な生活へと誘惑したり、絶えず、悪のわなに引き込もうとするのです。

しかし、実際問題として事実は、上に述べたことは違った結果を示しています。

前の警察の報告だったんですけど、毎日、この国で一時間ごとに、少なくても、二十四人の人々が交通事故で死んでしまう。おそらく、それは二十数年前の報告だったんですけど、今は増えているのではないでしょうか。第一と第二世界大戦の二度にわたる世界戦争では、八千万人の人々が殺されてしまいました。この国で、毎年、少なくても、三万五千人以上の社会人が命を捨てて死にます。残された家族の悩み、また、苦しみとは、いかなるものなのでしょうか。

死とは、否定することのできない事実です。死について、真剣に考えようとしない者は、愚かであると言わざるを得ません。たとえば、ボルネオというところで、珍しい儀式ですかね、習慣があります。どういうものであるかと言いますと、それは、結婚式の時に、新郎と新婦のあいだに死んだ人の頭蓋骨を置くという風習です。その意味するところは、人生で最も幸福な時、死を忘れないようにということであると言われています。

冷静な人は誰でも、死がすべての終わりを意味するのではないということを認めざるを得ません。主なる神によって造られた人間の人生の目的が、死によって、ピリオドを打たれるとは、どうしても考えられないからです。

働いている人は必ず、何らかの目的を持っていることは間違いない。もし大工さんが、無計画に、目的もなく、家を建てるようなことがあったとしたなら、それこそ、全く意味のないことです。仕立て屋さんが、布を裁断して洋服を作る場合、必ず、はっきりとした目的を持っていることは言うまでもない。意味がなく、目的がなく、計画がなければ、誰も働くことができません。

従って、全能なる主が、人間を創造された時に、はっきりとしたひとつの目的を持っておられたことは明らかです。主なる神は、決して、人間の死、人間の滅びを望んでおられません。主は、人間が生きることを望んでおられます。従って、私たちは、死ぬことについて考える時には、死、そのものだけを思い出すのではなく、死後に来るものに注意を向けなければならないのではないでしょうか。

いろいろな点について、ちょっと考えたいと思います。

第一番目、我々の数十年間の人生というものは、それですべてが満たされるためには、あんまりにも短かすぎるということです。現在、私たちの世界では、一番、長生きしたとしても、せいぜい百二十歳ぐらいが限界です。けど、百歳まで生き長らえた人の数は、そんなに多くないのではないでしょうか。私たちは、この問題について、真剣に、真面目に考えるならば、聖書の言っていることが正しいと認めなければなりません。すなわち、『あなたがたは、しばらくのあいだ、あらわれて、たちまち消えていく霧にすぎない』と、聖書は言っています。

私たちは、百年前にどこにいたでしょう。そして、百年後には、いったいどこにいるのでしょうか。私たちの全人生が、あまりにも短すぎるために、死後の世界があるのではないかという考えが、自ずから出てくることも、当然と言えるでしょう。この問いに対して、もちろん、聖書だけが、はっきり、別の世界があると言っています。なぜならば、人間の人生は、あんまりにも短すぎて、そこには本当の意味がなく、死んでから初めて、本当の世界が始まるからです。

それから、第二番目、主なる神ご自身が、人の心に永遠を思う思いをさずけられたと、聖書は言っています。人間は、主なる神のかたちに似せて造られました。そして、主なる神が、その人間に永遠とは何か、完全とは何か、理解する力をお与えになりました。人間は、決して、過ぎ行くはかないものや、不完全なものによっては、心が満たされません。人間は、心から愛し、心から愛されることを望んでいます。それですから、この世の人間的な愛に、何回も失望するのです。

芸術家は、情熱を持って、完全なものを作ろうとしますけど、しばしば、自分の作ったものを破壊してしまう。どうしてであるかと言いますと、自分の作ったものといえども、決して、完全なものではないからです。青年は、将来に対して無限の希望を持ち、それが、永遠に続くかのように思うでしょう。けれども、それに対して、老人は、それほど、夢多き将来を考えることがありません。若者にとって、一年といえども、非常に充実した意味のある長い一年のように思います。しかし、老人は、過ぎ行く一年が、非常に短く、はかないものであるということを、体験から知っているのです。

人間の欲望は、新しいものが、次から次へと与えられても、決して、満足していないのです。それは、悲劇であると言わざるを得ない。次から次へと目まぐるしく移り変わる新しい流行を、必死に思い求めても、そのことが幸せをもたらすとは言えない。

実業家は、日夜、金儲けのために努力します。独裁者は、自分の国を支配するに留まらず、やがては、世界を支配しようと無限に欲望を高めています。いわゆる仕事の鬼は、仕事だけを大切にして、他のことは何も考えないように、一生懸命に苦労しますが、結局、何のために生きているのか解からなくなってしまう。息が詰まってしまうのです。確かに、人間的に見ると、仕事が成功し、金持ちになり、病気もせず、非常に幸福そうに見える人であっても、常に満たされない思いが心にあるため、主なる神の目から見ると、決して、幸福ではありません。

主なる神の御心は、我々人間が永遠のいのちを持つことに他ならない。それですから、主なる神以外に、我々の心を満たしてくださる方はこの世にいないのです。

ヨハネによる福音書の四章を見ると、五人の夫を持つ姦淫の女の方が描かれています。疑いもなく、彼女は、幸福になりたいという願いを持っていました。しかし、彼女の切なる思いは、決して、満たされなかったのです。けれど、イエス様は彼女に、『しかし、わたしが与える水を飲む者は、誰でも決して渇くことがない。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』彼女は、イエス様に、『先生、私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』

有名なアウグスティンという男は、昔、『私たちが、主なる神のもとで憩うまでは平安がない』と、告白したのであります。

もう一つの点、すなわち、もしも死後の世界がなかったならば、この世は、全く意味のないことでしょう。永遠なるものから初めて、我々の人生が意味あるものとなるのです。もしも、すべてが死でもって終わるとすれば、生きている時のあらゆる努力は、いかなる価値を持っているのでしょうか。

世界一の有名な王様とは、間違いなく、ソロモンという王でした。彼は、『この世のものは全部、空しい、空の空である』と、告白したのです。けれど、彼は、もちろん、ご存知のように、名誉を持っていましたし、知恵も財産も欲しいものは、全部持っていたんです。しかし彼は、すべては大したものではない、空しいと、告白せざるを得なかったのです。この世で、永久に価値を持続するものは何一つない。私たちが生きている時に持っているものは、すべて、死と同時に、私たちから離れてしまいます。

唯物主義者は、次のように言うでしょう、『私たちは、飲み食いしようではないか。明日もわからぬ命なのだから。』けど、この哲学は、憤慨と絶望の表現であると言えましょう。なぜならば、若くて金もあり、時間も充分にある者が飲み食いすることは、難しくないかもしれませんが、歳とって、金もなくなった時には、ただ病と死だけが、待つようなことになるでしょう。

死後の問題を、本当に解決することができないなら、まさに、自殺をするか、気ちがいになるか、いずれにしろ、悲惨な道だけしか残されていません。けども、自殺は、決して、この問題を正しく解決するものではなく、それから、逃避することを意味する他、何ものでもない。

また、四番目かな。この世の正義と言えども、決して、我々を心の底から満たしてくれるものはありません。なぜならば、正義と言えども。この世においては、我々の完全な正義に対する熱望を満たしてくれないからです。この世における多くの不義は、必ずしも正しく裁かれているとは限りません。また。反対に、この世で正しく生きている人々が、それ相当の報酬を与えられているかというと、必ずしも、そうとは限りません。むしろ、真理のために迫害されたり、殺されたりした人さえいるのです。もしも、死によって、すべての終止符を打つならば、人生は全く意味のないことです。

確かに、死んでわかることとは、誰にとっても、等しく悲しいことでしょう。けど、それにもかかわらず、死んでから、再び愛する者と会うことができるという確信を持つことができるということは、深く、考えさせられることなのではないでしょうか。愛する者との死の別れは、一時的なものにすぎない。必ず再会できるという確信を持つことは、イエス様を信じる者にとって、最後の慰め、また、喜びでもあります。もちろん、その時に、顔と顔を合わせて、あいまみえることができ、イエス様に似た者となることこそ、主のご計画に他なりません。

ただ単に、人間が永遠の存在として造られ、完全なものを追い求めて行くために造られただけではなく、主ご自身のために造られたのだということを忘れてはなりません。すなわち、初めての人間であるアダムの罪により、主なる神から離れてしまった人間は、どうしても、神との生き生きとした交わりを回復しなければ、本当の意味で生きていくことができません。

救われた者が、永遠にイエス様との交わりの中で、時を過ごすことができるという確信を持つことができるとは、何というすばらしいことでしょう。あらゆる宗教は、あの世のことについて、はっきりしたことを言わない。単なる想像に基づいて、抽象的なことを言っているにすぎない。けど、聖書は、信じる者にとっても、未信者にとっても、死後の世界があることをはっきりと言っています。

聖書によると、アブラハム、イサク、ヤコブが、すなわち、四千年前に生きた人々が、今もなお、生き続けていると、聖書は、はっきり言っています。死んだ。けど、生きていると、イエス様は言いました。これこそ、考えられないことですけど、そうです。

救いを得る道とは、もちろん、簡単です。へりくだれば、オーケー。『あわれんでください。お赦しになってください。』この態度をとる者は、経験します。すなわち、主は、決して、捨てません。

救われている人々、また、救われていない人々も、死後も、生き続けるゆえに、終わりはない。主なる神によって、救われた人々は、永遠のいのちを持ち続けることは明らかです。つまり、死後、救われた人々は、永遠のいのちをもって、主なる神と共にいるようになり、『けっこうです。頭を下げたくない。悔い改めたくない』人々は、苦しみと、苦悩の中に滅びなければならないと、聖書は言っています。

これらのことをわかり易く要約すると、次のように言えるのではないでしょうか。

すなわち、まず第一、人間は生まれた時、魂が与えられ、そのために、永遠に存在する権利を与えられます。

第二に、そのような人間が、罪を悔い改めて、救い主を信じ、受け入れれば、信仰によって、新しく生まれ変わるときに、永遠のいのちを与えられます。

第三に、そのような人は、復活の時に、不滅のからだを与えられます。確かに、未信者と言えども、永遠に存在するわけですけど、新しく生まれ変わらないかぎり、本当のいのちを、すなわち、永遠のいのちを持つことができません。本当のいのちは、イエス様との交わりの中にあって、はじめて存在するのです。有名なヨハネ伝、十七章三節を見るとイエス様は、次のように言われました。

ヨハネ(口語訳)
17:3 永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることです。

主を知ることとは、永遠のいのちを持つことです。もう一箇所、今度は、ヨハネ第一の手紙、五章二十節、非常に短い大切な箇所です。エホバの証人たちは、必死になって、この節を絶対に引用しません。何を書いているかと言いますと、イエス・キリストは真実な神であり、永遠のいのちである。

【参考】第一ヨハネ
5:20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

まことの神を信じない未信者は、この世でも、本当のいのちを持っていない。ただ、存在しているだけ。すなわち、主なる神との平和を知らないから、本当の意味で満たされていません。

前に話した、有名なヴォルフガング・ゲーテという男は、彼の全生涯において、二十四時間、本当の幸福だったことはなかったと言ったのです。なぜ、人間はそのような満たされない状態にあるのでしょうか。その原因は、まさに、人間の心に、本当の平和と平安がないということです。人間は、死後、裁きを受けるため、人間は平安がないと、聖書は言っています。

イエス様は、主なる神との贖いをしてくださいました。イエス様は、主なる神に対する敵対関係を無にしてくださったのです。我々人間は、主なる神から離れている、罪、あるいは、債務は、イエス様の尊い犠牲によって完全に取り去っていただいたのです。まことの平和は、イエス様を信じることによって与えられるものです。イエス様を信じる者は、主なる神との平和、また、贖いを持っているし、安心して、すべてを任すことができるのです。

有名な音楽家であるバッハという男は、多くの名作を残しました。その中でも、はっきりと歌っているように、心から死を待ち望んでいる、つまり、生きているこの世よりも、死んだ後に来る世界のすばらしさを、信仰の目で見ることができた彼は、死を賛美せざるを得なかったのです。

信者といえども、罪人である以上、本来は未信者と同じように、黄泉の国へ行かなければならない運命に定められていましたが、ひとり子なる主イエス様の十字架によって、罪が贖われ、罪から解放されたために、永遠のいのちを持つことができたのです。そのために信じる者は、もはや、死を恐れる必要はない。前に読んだ箇所を、もう一回読んで終わりましょうか。

ローマ
8:1 ・・・キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

その意味で、死は信じる者にとって、信仰により、イエス様に近づくための橋渡しの役割を果たすと言えましょう。したがって、信じる者は、死を恐れる必要を全然、持たないわけです。だから、パウロは、前に読んでもらいましたピリピ書、一章二十節から言うことができたね。もう一回、読みましょうか。

ピリピ
1:20 ・・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

主の恵みによって救われた人々にとって、死ぬことは、イエス様と共になることを意味しますから、益です。パウロは、死ぬことと生きることと、どちらが良いか考えた時に、死ぬことを選んだんです。けど、パウロは、多くの人々のために、奉仕をしなければならない必要を感じたため、さらに生き続けることを決心しました。その問題がなく、パウロ一人だけのことであったならば、おそらく、死ぬことを選び、死ぬことを喜んだに違いない。

軽井沢に小さい外人墓地があります。次のような聖句の箇所が刻まれた墓があります。これを見た時、本当にうれしかった。何を書いているかと言いますと、『この世を去って、キリストと共にいる方が、はるかにすばらしい。』誰の墓かわかりません。けども、こういう考え方を持つこととは、すごいのではないでしょうか。イエス様を信じる者にとっては、信じない人々、すべてが抱くような、死の恐ろしさが全然ありません。

昔の話なんですけど、ドイツのヒトラーという男は、ユダヤ人をみな殺すことを思っただけではなくて、皆に約束したんです。成功しなかったんですけど、六百万人の人々が、殺されるように彼は命令しました。その当時、オランダでテン・ブームという家族がおりました。この家族は、多くのユダヤ人を匿いました。彼らによって、多くの人が殺されないで、逃げることができたんです。けど、ある時、ドイツの秘密警察であるゲシュタポが、それを見つけ出しました。全員を強制収用所に送ってしまったんです。一人を除いて皆、殺されてしまいました。

けれども、その時、彼女の父親は、家を去るにあたって、大喜びで集った人々に言いました。『一番すばらしいことが、これから始まる。』この言葉の意味は、彼らの出発が恐ろしい死の旅ではなく、イエス様と共になるための最後の喜びと感謝の旅に出かけるという意味です。

将来、与えられる栄光を見て、イエス様のものとなった人々は、いかなる艱難の時も、イエス様を喜ぶことができるのです。なぜならば、将来に対して、何の不安も持っていないから。私たちは、将来のことをもちろん、知ることはできません。けど、いのちの君であるイエス様を知っているのです。したがって、将来に対するすべての問題が答えらているのではないでしょうか。

イエス様ご自身が、我々の将来です。あらゆる不安と心配は、イエス様によって、慰められるのです。イエス様は、ご自分を信頼する者を、必ず目的まで導かれるのであります。それですから、私たちは、喜ぶことができ、誇ることができ、感謝することができるのです。ダビデのごとく、詩篇の二十三篇の中で次のように書かれています。これを読んで終わります。

詩篇
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

この態度をとる者は、本当に幸せです。

おわり

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