2012年9月18日火曜日

恵みに富みたもう陶器師なる神(二)

恵みに富みたもう陶器師なる神(二)
2012年9月18日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エレミヤ
18:1 主からエレミヤにあったみことばは、こうである。
18:2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」
18:3 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。
18:4 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。
18:5 それから、私に次のような主のことばがあった。
18:6 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ。――見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。

エレミヤ
29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

今日、もう一回、前に始まったテーマ、すなわち、『恵みに富みたもう陶器師なる神』について、一緒に考えたいと思います。

最後に読みました箇所とは、エレミヤの宣べ伝えたすばらしいメッセージでしたね。

エレミヤ
29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。


『私はよく知っている』と言える人はいないでしょう。主は、よく知っている。

エレミヤ
29:11 ・・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

聖書がどうして与えられているかと言いますと、そのためではないかな。どうしようもない、何もわからない人間に、将来と希望を与えるために、聖書は書かれています。

三つの点について、考えるべきでしょう。まず、神の永遠に変わらざる恵みの計画。二番目、この神の恵みの計画が実現するための条件。三番目、再創造か、または、破壊かのどちらかです。

神の永遠に変わらざる恵みの計画とは、今、読みました四節ですね。

エレミヤ
18:4 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。

粘土で器を作ることが書いてありますが、この粘土は、もちろん、私たち人間を象徴するものです。ですから、主の御心にかなった、主の良しとされる器ができなければいけないということです。粘土は、陶器師が満足するように形作られなければ、全く役に立たないのです。粘土である私たちが、神の御子、主イエス様と同じ姿に変えられなければ、陶器師である父なる神は満足なさいません。パウロも、ローマ書の中で、この主の持っておられる目的について書いたのです。

ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

主なる神は、あなたの内にも私の内にも、ひとつの目的を持って、すなわち、私たちが、御子、主イエス様の似姿に変えられるようにとの目的を持って、働いておられます。

このエレミヤ書、十八章四節を読むと、三つの器のことが書いてありますね。一番目、仕損じた器。二番目、他の器。三番目、意のままに作った良い器のことについて書いてあります。。

仕損じた器。四節、『陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし』と、書いてありますが、この一言だけを取り出して考えると、それは、大変です。望みのない絶望状態になってしまいます。『私の人生は、だいなしになってしまった。私の生活は、壊れた器のように、失敗の生活だ。私にはもう望みがない。』そのような状態を表しているのが、この仕損じた器なのではないでしょうか。

それから、他の器ですね。四節、『陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた』とあります。主なる神は、他の器を作ったと書いてありますが、私たちは、それを読んで、主なる神は、御自信のみ心をなされるために、他の器のお作りになった。あの人、向こうの人をお立てになった。私は、主の御心の外にある。そうでなくても、主のもっとも良き心は、私に向いていないで、あの人、向こう人に向いているのだと考えてしまうかもしれない。もちろん、この考え方も良くない。

三番目、意のままに作った良い器について書いてありますね。陶器師自信の気に入った他の器に作り替えた。主は、最善をなさる方ですから、主が意のままに作られた器は――当然です――良い器にすぎない。主なる神は、仕損じた粘土を、もう一度、こねて、意のままに、御心を行なう器をお作りになることができるお方です。

第二コリント
5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。(・・・原語を見ると罪のかたまり、そのものとされた・・・)それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

イエス様は、罪のかたまりとされたと、書いてありますが、エレミヤ書の先ほどの例話にあてはめるならば、イエス様は仕損じた器となって、陶器師によって、新しい器とされるために、手の内につぶされ、こねられ、死んでしまったことを意味します。けど、イエス様は死ぬだけではなく、復活なさいました。勝利者として、永遠に支配なさるお方として、よみがえられました。

新しい性質が、すなわち、イエス様のいのちが、だんだん、私たちの心の内を占領していなければ、ダメです。すなわち、イエス様の御姿と同じ姿に変えられていくことが、何にもまして、大切です。パウロは、ガラテヤ書の2章20節で言ったのですね。

2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。(・・・もう私はアウトです・・・)もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

もっとも大切な証しのひとつなのではないでしょうか。主なる神の御心にかなった器に、私たちがなるためには、すなわち、御子イエス様と同じ姿に変えられるためには、三つの条件がありますね。前に話したように、第一番目、粘土が陶器師に従うこと。二番目、ろくろが必要なこと。そして、三番目、陶器師の性質が問題である。この三つの条件が満たされないとまずいのです。

粘土が陶器師に従うこと。粘土は、もちろん、陶器師に選ばれます。粘土が、瀬戸物作りを選ぶのではない。陶器師は、粘土がそれ自身、あまり価値のないものであることを、もちろん、解かっているのです。主なる神は、役に立たない私たちを、あまり深く見つめません。将来のことを、知っておられるからです。結局、主は、私たちのあわれな様(さま)をご承知の上で、私たちを選んでくださいました。主に従えば従うほど、私たちは、自分自身にがっかりして、失望します。自らの内に、何の良きものもないことを認めざるをえない。けど、幸いにも、主なる神は、私たちがそのようにあわれな者であることを承知の上で、選んでくださいましたが、主は我々に対して失望されるということがありません。

主の御心にかなった器に、私たちがなるために、すなわち、御子イエス様と同じ姿に変えられるために条件がある。今、話したように粘土が陶器師に従うこと。二番目、ろくろが必要なこと。我々の生活において、ろくろに相当するものはいったい、どういうものなのでしょうか。それは、私たちが、毎日毎日、そこで過ごさなければならない環境です。

私たちは、聖書の話を聞くことによって、いわゆる霊的な教訓を受けるかもしれない。また、みことばを読み、祈りの内に、イエス様との親しい交わりを持つことができます。けど、実際に、イエス様と同じ姿に変えられていくのは、日ごとの生活における困難や苦しみを通して初めてできます。粘土は、ろくろの上にちゃんと乗っていなければ、もちろん、良いかたちになりません。聖書を学ぶことによって、私たちは、主の御心を、よりよく知ることができる。けども、主の御姿に変えられるためには、日ごとの経験というろくろの上に乗らなければダメなんです。ろくろは、もちろん、止まらないで、しょっちゅう動いています。もし、ろくろがいつも動いていなければ、どんなに巧みの陶器師も、器を作ることができません。陶器師が、時には、あんまり強くこねるので、粘土はろくろの上から逃げようと思う時があるでしょう。

エレミヤは、陶器師の家に行ったのです。そして、わかったんです。すなわち、粘土をこねる人とろくろを回す人が、同じ人だった。ですから、私たちがろくろの上から逃げようとすることは、主の御手から、逃げようとすることに他ならない。

主は、我々の生活に、隅々までも、自らお導きになっておられます。私たちを押しつけ、苦しめるのは、ろくろではなく、陶器師、すなわち、主の御手であるということを忘れないようにいたしましょう。もちろん、困難とか苦しみは、主なる神が御子のかたちに、私たちを形造られる手段にすぎません。また、いろいろなろくろがありますが、私たちは、主の御心をうかがわずに、勝手に環境を変えないようにすべきなのではないでしょうか。

この陶器師は、もちろん、前に話したように、主ご自身です。『どんなに仕損じた器となっていても良くしたもう。』これが聖書の神です。主なる神は、私たちの信じている主は、何ものによっても、動かすことのできないご計画を持っておられる主です。主は、終わりまで成し遂げることのできないようなことを始められません。そのために、主は、知恵、忍耐、恵み、愛、力をお持ちになっておられます。我々の主は、失望することを知らない望みの神です。

このエレミヤ書のおもなメッセージとは、『主はできる。』今、いっしょに考えたのは、新しく作られた器は、再創造された器であり、めちゃめちゃに壊れてしまった器です。新しく作られた器は、すなわち、再創造されたものである。

ちょっと、七つの例話を通して、主が、どのようにして訓練し、罪に陥り、失敗に満ちた者を回復されたか、考えてみましょう。主なる神の再創造は、すなわち、作り替えの御業は、間に合わせの取り繕いや回復とは違い、全く新しく、創造され作り替えられる御業です。再創造は、死と暗黒、自分自身に対する絶望の後にやってきます。

まず、第一番目、アダムとアベルを見てみましょうか。初めての人アダムが罪を犯してしまい、そのために、全部の被造物が呪われてしまいました。全人類も、主の呪いのもとに陥ってしまいました。これに対し、偉大なる陶器師は何をなされたのでしょうか。『しかたがない。もうできない』と言って、もうあきらめたのでしょうか。いえ、聖書の神は、そのようなことはなさいません。主は、あわれな様になった粘土に、もう一度、御手を触れ、お働きになりました。

アダムの子供の一人、アベルは、『主の目にかなう者となった』と、聖書は言っています。彼は、その父アダムの罪の性質を受け継いでいましたが、偉大なる陶器師なる主の御手により、新しく造られ、神は良しと言われるまでに良き者となりました。イエス様は、アベルという男を義人と言われたのです。マタイ伝、二十三章三十五節です。『義人アベル』とイエス様は言いました。

【参考】マタイ
23:35 それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。

二番目、アブラハムを観察してみましょうか。聖書では、偉大な信仰の人は、弱さや欠点を、決して隠していません。アブラハムは、実にあわれな粘土であったことが、聖書を読んでいくとよく解かります。アブラハムは、偽って、自分の妻を妹であると言いました。アブラハムは、主を信頼しないで、自分の息子を欲しさに、妾を求めました。その結果は、どうだったでしょう。主なる神は、アブラハムに対してその後、十三年間、一言も、みことばをおかけにならなかったのです。

アブラハムの内には、何か良いものがあったのでしょうか。いいえ、アブラハム自信は、他の人間と同じ、あわれな、とりえのない粘土でした。しかし、偉大なる陶器師は、アブラハムを見捨てることをされませんでした。この仕損じた器、アブラハムは、後に、『信仰の父』と言われるまでになりました。全能なる主は、アブラハムを、『わが友』と呼び、『わたしのすることをアブラハムに隠してよいだろうか』とまで言われました。

創世記
18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」

アブラハムは、陶器師の心にかなった、主と同じ御姿に変えられた人になりました。

三番目、ヤコブの場合を考えてみましょう。ヤコブもやはり、普通の粘土でしかありませんでした。彼は、姦策により、長子の権利を、その兄、エソウから奪い取りました。ヤコブは、それだけではなく、嘘をついて、長子の祝福を受けました。また、主に頼らないで、自分勝手に妻を探してめとりました。彼は、また、ラバンという人の富をだまし取ってしまいました。これがヤコブでした。本当に彼は、あわれな粘土でした。けど、彼はろくろの上に乗り、陶器師の手によって、陶器師の心にかなう器に作り替えられました。主なる神の御印象は、ヤコブの上に降り注がれ、主なる神の誇りは、この新しく創造された器の上にあり、ヤコブはどうでしょう――主なる神の御名の後ろに、その名を連ねるようになりました。神は、『ヤコブの神』と呼ばれることを認められました。

四番目、エリヤという預言者です。ヤコブ書の五章十七節には、『エリヤは、私たちと同じ人間であった』とあります。意味は、エリヤも、同じ材料、同じ粘土でできていたということです。エリヤは、みことばによると、全く絶望して、えにしだの木の下に座りこんでしまったことが書かれています。それから、だたひとつの願いを持っていました。『死にたい、死にたい。』彼の特徴は、その信仰に勇気があり、また、従順だったということですけど、このエリヤは、やはり、始めは粘土にすぎなかったのです。しかし、主の御手に用いて、初めて御心にかなう器となりました。彼は、死を見ないで、生きたまま、天に召されていきました。また、変貌山で、モーセとともに、イエス様に会ったことも、私たちがよく知っているところです。エリヤは、主の御姿に変えられた人になりました。

五番目、ダビデであります。ダビデはもちろん、選ばれた民に属しているし、主を疑わずに信じました。その信仰生活の始めの半分を、主の導きのままに、過ごしてまいりました。しかし、彼の生活にも、破綻がやってきました。ダビデは姦淫の罪を犯し、同時に、殺人の罪まで犯してしまいました。もし、私たちが、自らの心をよく知っていなければ、あんなにすばらしい信者でさえも、あのような罪を犯すのだろうかと疑問に思うでしょう。これに対して、主なる神は、『ダビデはもう望みがない、あきらめて捨てよう』と、言われたのでしょうか。いいえ、それは聖書の神ではありません。大いなる陶器師は、この損なわれた器を御手の内に治め、ろくろの上にお乗せになりました。それは、まことに苦痛に満ちた事柄だったでしょう。ダビデは、詩篇五十一篇に、魂の底から出てくる叫び声をあげました。

詩篇
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

しかし、後にダビデは、『わたしはエッサイの子ダビデを見つけた。彼はわたしの心にかなった人だ』(使徒13:22)と言われるまでになりました。人を称えるに、これよりもすばらしい言葉があるでしょうか。

六番目、ペテロであります。ペテロも同じく、みじめな材料でできた者でした。彼の生活のうちには、同じく失敗もあったでしょうか。ペテロは、やはり、役に立たない粘土のようなものだったのでしょうか。ペテロは、力を込めて、『たとえあなたと一緒に死なねばならなくても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』と、自信に満ちて、イエス様に誓いました。けど、すぐ後で、ペテロは、『イエス様のことは何も知らない』と言って、イエス様を否んでしまった。

ペテロは、私たちと同じ人間でした。この仕損じた器は、どうなったでしょう。偉大なる陶器師の手に陥り、その心にかなう器に作り替えられました。もし、私たちが、あの五旬節の時、行なったペテロの説教を読み、裁判官の前で、ペテロが、いかに大胆に主イエス様を証ししたかを考え、また、ペテロの書簡を見る時、ペテロがどんなに主の御心にかなった、すばらしい器に作り変えられたかわかります。ペテロは、主の恵みにより、御子、主イエス様と同じ御姿に変えられた人でした。

最後に、マルコ伝の著者、マルコを見てみましょうか。このマルコという男は、エルサレムのクリスチャン・ホームに育ちました。イエス様は、この若いマルコの家にしばしば、出入りされておられました。ですから、マルコは幼い時に、イエス様をその目で見、主の御心をその耳で聞くことのできた、本当に幸せな男でした。ある時、このマルコは、自ら奉仕に立とうと決心し、パウロとバルナバの大伝道旅行に加わりました。彼は各地で、主の御業を見、目の当たりに見て、旅を続けましたが、その旅はあまり、おもしろくなかった。決して、楽なものではなかったんです。ある時、彼は苦しさに耐えかねて、パウロとバルナバから離れてしまった。エルサレムに、逃げ帰って、来てまいりました。このような行動について、ルカ伝、九章六十二節を見ると、次のように書かれています。

ルカ
9:62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

失われるのではない。けど、用いられえない。マルコは、うしろを見ただけではなく、逃げました。ろくろから降りてしまいました。けど、その後で、マルコはいったいどんな具合に考えたことでしょうか。『私は裏切った。私は本当に、ダメな者です。私のためにパウロとバルナバは、争いを起こしてしまいました。私のために、パウロとバルナバは、共に働くことができなくなってしまった。』非常に、自らを責めたに違いない。

主なる神であられる陶器師は、この仕損じた器をも見捨てないで、御手の内に取り上げました。偉大なる陶器師は、この器を全く新しく作り替えられました。そして、後に、マルコを役に立たない者としていたパウロは、マルコを連れて、『一緒に来なさい。彼は私の務めのために役に立つから』と、テモテに書き送っているほどに、マルコが神の人となりました。主はそれに加えて、四福音書のひとつ、マルコ伝を書くために、マルコをお用いになりました。このマルコ伝により、どんなに多くの人々が救われて、主の御許(みもと)に立ち返り、また、どんなに多くのキリスト者がマルコ伝によって、祝福されたことでしょう。マルコは、陶器師の心にかなう器となったのです。

限りない知恵と忍耐を持っておられる陶器師なる主が、ろくろの上に乗っている粘土のような私たちを、その御手にしっかりと握っていることは、何というすばらしいことでありましょうか。アベル、アブラハム、ヤコブ、エリヤ、ダビデ、ペテロ、マルコは、新しく作られた器、再創造された器となりました。陶器師なる神は言われます。『わたしがあなたがたを、御子、主イエスのかたちに変えることができないだろうか。』新しく作られた器、すなわち、再創造された器について考えると、やはり、主は望みの神であると考えることができ、礼拝することができる。

最後に、めちゃめちゃに壊れてしまった器についても、ちょっと、考えたいと思います。

ここまでは、陶器師によって新しく作り替えられた七つの器を考えてきましたが、今度は、陶器師の手から漏れて、めちゃめちゃに壊れてしまった四つの器を、見てみたいと思います。ここで、もう止めて暗い面をのぞき見ないでおいた方がよいような気もしますけど、聖書は、神のみことばですから、明るい面だけを述べていません。神の御手から漏れ、仕損じた器で、遂に回復せずに終わってしまった器もあります。その中に、アベルの兄弟カイン、ヤコブの兄エサウ、ダビデの敵、サウル、それから、イエス様の弟子の群れからイスカリオテのユダ、この四人がいます。

なぜ、神のみことばである聖書は、ダメになってしまった器について、書いているのでしょうか。それはまず、なぜ回復されなかったかという理由を、私たちに教えるため、また、反対の場合、なぜ回復されたか、比較するために書かれているのでしょう。二番目、私たちが回復に向かうか、滅びに向かうか、ふたつのひとつを選び取る決心をするために書かれています。

さて、始めにカインの場合を考えてみましょうか。

第一ヨハネ
3:12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。

カインは、宗教的な男でした。彼は、主の存在を、もちろん、信じていましたし、主にささげ物もしていました。しかし、彼は、もしささげ物をしなければ、神は喜ばない、御利益(ごりやく)がない、そのような動機から、ささげ物をしていました。喜んで、自発的に主に捧げることをしなかったのです。

しかし、どうしてカインは、回復しないで、滅んでしまったのでしょうか。彼は、罪の自覚が全くなかったんです。彼は、自分自身を知らなかったし、知ろうともしなかったんです。彼は、自らを正しいとし、自らに満足していました。ですから、カインは、自分の身代わりとなってくださる救い主を必要としなかったのです。彼が、アベルを殺す前に、誰かが彼のところへ行き、『あなたは人殺しと同じ罪人だよ』と、言ったとしても、カインは、うなづかなかったでしょう。

彼には罪の自覚がなかった。主なる神は、このような人々をどうすることもできません。アブラハム、ヤコブ、エリヤ、ダビデ、ペテロ、マルコ、これらの人たちは、自分のどうすることもできない罪の性質、仕損じてしまった生活をよく認めましたから、どうしても、救い主を必要としたのです。カインの場合は、それとは全く反対でした。どんなに優れた陶器師も、このような粘土を扱うことはできません。もし、ダビデのように人を殺し、ダビデのように、『私は自分の咎を知っています。私の罪はいつも私の前にある。私はあなたに向かい、ただ、あなたに罪を犯し、あなたの前に、とんでもない態度をとってしまった。悪いことを行なった』と、叫ぶことができるならば、まだ望みがあります。『おまえはわたしの心にかなった人である』と、主に声をかけられる望みがあります。

二番目、エサウ。エサウという男は、霊的なことを尊ばない、典型的な人物でした。

創世記
25:31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。
25:32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。
25:33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
25:34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

もっと詳しい箇所は、ヘブル人への手紙の十二章でしょう。

ヘブル
12:15 そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、
12:16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。
12:17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

イスラエルの国では、長男がその家族の長(おさ)となり、主なる神に仕えるように定められていました。その家族の祭司として立てられましたから、長男は、霊的なことをいつも、執り行うことになっていました。長男は、家族の祭司として、家族を主なる神のご臨在に導く責任がありました。しかし、この創世記二十五章にエサウは、『長子の特権を軽んじ、長子の権利を軽蔑した』と、書いてあります。どんなに偉大な巧みの陶器師でも、このような人物を取り扱うことはできません。

三番目、サウルという王様です。彼の場合はどうだったでしょうか。彼は、ダビデの敵でした。彼には、主に信頼する信仰とへりくだりが欠けていました。主なる神は、預言者サムエルを通し、彼に語られましたが、彼はそれに従おうとしなかったのです。彼は、主に信頼しなかったのです。このような粘土を陶器師は、思いのままに扱うことができません。彼の最後は自殺でした。主なる神が、我々を御心のままに形造るには、我々の信仰と従順と信頼が必要です。

最後に、四番目、ユダについて考えましょうか。ユダは、神の御子である主イエス様と共に、三年半いるという、すばらしい特権を、本当は認めなかったのです。もし、今、私たちがイエス様と共に生活し、主と交わりができるとするなら、それこそすばらしい特権と言わなければならないのではないでしょうか。ユダは、イエス様との交わりに召されたのに、ただの銀三十枚ですべてを失いました。ユダは、主イエス様との交わりを持つことができるというすばらしい特権に気がつかなかったんです。

第一コリント
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

私たち一人ひとりは、イエス様に召されて、御子イエス様との交わりにあずかる、すばらしい特権を与えられているとは、まず、いつも、覚えるべきではないでしょうか。主なる神、偉大なる陶器師が、あわれな粘土である我々を御子の形に造り変えられるには、私たちが、この驚くべき特権を深く知ることが、極めて大切です。私たちは、この特権を用いて、もっともっとイエス様との交わりを深めたいものなのではないでしょうか。

ユダは、この特権を軽んじました。彼の最後を見てください、彼は自殺しました。私たちも、もしイエス様との本当に親しい交わりを持っていないなら、それは、霊的な自殺をしているということであり、主は、我々の内に、御子の姿を形造ることができません。

偉大なる陶器師であられる主は、我々の真ん中に臨在しておられます。そして、主は、私たち一人ひとりをご存知です。主は、私たちがどんな材料でできているか、もちろん、解かっています。それにもかかわらず、主は、我々に対して、決して、失望されない方です。主は決して、絶望されません。あきらめません。主なる神は、限りない忍耐と愛を持って、ご自身の御心にかなった器に、作り替えようとして、私たちを御手の内に、納めておられます。私たちは、この永遠に変わらない神の恵みの御心のことを、心の目で、はっきりと知っているでしょうか。

私たちは、陶器師のあらゆるろくろの上に乗っている従順な粘土になっているのでしょうか。それはきっと、苦しいことでしょう。しかし、パウロは言いました。

ローマ
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

私たちは、人に喜ばれても、喜ばれなくても、人に認められても、誤解されても、もし、私たちが主の御心にかなう器でさえあれば、それでよいのです。主なる神の永遠に変わらざる恵みの計画とはいったいどういうものでしょうか。関係している箇所を読みます。

彼は必ず栄え、私は衰える。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みです。ああ、私の幼子たちよ。あなたがたのうちにキリストのかたちができるまでは、私はもはやあなたがたのために、産みの苦しみをする。しかし、私たちはこの宝を(・・・すなわち主イエス様を・・・)、土の器の中に持っている。いつも主の死をこの身におっている。それはまたイエスのいのちがこの身に現れるためです。なぜなら、このしばらくの軽い艱難は働いて、永遠の重い栄光をあふれるばかりに、私たちに得させるからです。私たちは見えるものではなく、見えないものに目をそそぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。神は、あらかじめ知っている者たちをさらに御子の形に似た者としようとして、あらかじめ定めてくださった。陶器師は、粘土で製作中の器を自分の手で壊し、再びそれを陶器師自信の気に入った他の器に作り変えた・・・とあります。

おわり

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