2012年9月4日火曜日

主を恐れればオーケー

主を恐れればオーケー
2012年9月4日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

詩篇
33:8 全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。

33:18 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。

103:13 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。

128:1 幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。

128:4 見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。

今の詩篇の箇所を読んでもわかりますけども、聖書全体の言っていることとは、主を恐れる人々とは、祝福されます。主が祝福することができなければ、もうおしまいです。したがって、もっとも大切なのは、主を恐れることです。


前に、茨城県の水海道に住んでいた牧師だったんですけども、非常にすばらしい兄弟でした。彼は何があっても、人を褒めようとしなかった。けど、たまに言ったんです。『兄弟、向こうを見て。あの兄弟、向こうの姉妹は、主を恐れている。』これは、彼にとって、最高の褒め言葉だったのです。主を恐れればオーケー。主を恐れなければ、ちょっと、気の毒なのではないかと思います。

前に、ある京都に住んでいた家族から、また、電話があったんです。喜んでいる声でした。どういうことかなと思ったんです。母親は、何と言ったかと言いますと、『息子が、また、捕まえられた。デパートでまた、泥棒をした。今度、警察の問題になる。けど嬉しい。子供は、主を恐れるようになったから。』主を恐れることこそが、考えられないほど、大切です。

ある時ですね、岡本雅文兄弟のお父さんが、集会に来て、立派な人格者でした。彼は、いっぺんに、『これは本物です。主を信じます』と言った時、息子はもう、言葉がなく、『主を恐れている』としか、言えなくなってしまったんです。主を恐れることこそが大切です。

詩篇の作者は、『主を恐れることは、知恵の始めである』とありますね。百十一篇十節ですね。

詩篇
111:10 主を恐れることは、知恵の初め。

他のことばで言いますと、『主を恐れない人は、愚かな者です。助けられない。』本当の意味で、主を恐れた人々の証しに耳を貸しましょう。アブラハムという男は、『私は、ちり灰にすぎません』と、告白しました。主を恐れることの結果とはそれではないでしょうか。土台なるものとは、それです。『私は、ちり灰にすぎません。』

ヨブという男は、確かにいろいろなことを経験しました。いろいろなことで悩みました。け、ど彼は、『主はけしからん。どうして、なぜ、何のため』とは考えなかった。彼は、『私は、自らを恨み、ちり灰の中で悔い改めます。』

アサフという詩篇の作者も、『私は、愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった』と、言ったのです。主の神聖さの前に、人間はこの態度を取ることしかないのではないでしょうか。

イザヤという預言者は、もう立派な人格者でした。彼の告白とは、『災いなるかな、私は滅びるばかりだ。私は汚れた唇の者だ』と、叫んだのであります。

また、ペテロ、よく引用する箇所なんですけど、へんな祈りを捧げたんです。人間は、いかに愚かな者であるか、宗教の影響とは、いかにへんなものであるかを知る言葉です。『主よ、私から離れてください。』そこまでは解かる、けども続いて、この愚かなペテロは、『私は罪深い者だから。』だから離れて。主の考えは、ちょうど逆です。あなたがどうしようもない者だから、おいでよ。

ヨハネは、三年半、イエス様と一緒に生活して、考えられないほどすばらしいことを経験しました。他の弟子たちは皆、当時のローマ帝国のネロによって、告発され、殺されてしまったのです。ヨハネだけ、殺されないで残された。パトモス島に追放されてしまった。他の人とあまり、交わりがなかったようです。一人ぼっちになって、暇人になった。けど、どうしてこの暇が必要であったかと言いますと、ヨハネの黙示録を書くためです。今まで、考えられないほど多くの人々がヨハネ黙示録によって、励まされ、祝福されたのであります。初代教会の人々は、福音書よりも、使徒たちの手紙よりも、一生懸命、読んだのは、黙示録だそうですね。将来のことが書いてあるからです。

万物の創り主なる神を恐れる人こそ、幸いであり、幸せであり、また、幸福です。すべて、主を恐れる、主の道を歩む者は、へりくだって、心砕かれた人々です。そして、また、主の光によって、自分のみじめさ、自分の空しさ、罪深さを知るようになった人々が、祝福されます。そういう人々こそが探されています。イザヤは、同じことばを書いたのであります。

イザヤ
66:2 ――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

みことばにおののくこととは、結局、主を恐れることなのではないでしょうか。

イエス様も、聖書と同じように、『神のことば』と呼ばれたのです。

今の我々の目に見える世界にとって、大切な人々とは、みな解かるでしょう、できる人々、優秀な人々です。政治の問題になると、やはり、金を持つ人々です。権力を持つ人々が大切にされています。主は、そういう人々を、大切にする気持ちはないようです。主は、どういう人々を求めておられるかと言いますと、心砕かれた人々、みことばにおののく人々、主を恐れる人々です。

前に話したことがあるんですけど、村上まこと兄弟の弁護士事務所に貼られたポスターを見た時、ちょっと驚いたんです。なかなか、いいポスターだったんです。何を書いたかといいますと、『人間は、騙されやすい。』だから、弁護士の仕事がある。人間は、騙されやすい。主は、騙されません。砕かれている心を持たない人は、祝福され得ません。みことばにおののかない人は、祝福され得ない。主を恐れない人は、何があっても、主の祝福にあずかることができません。

ひとつの問いがでてきますね。すなわち、万物の創り主なる神を恐れるとは、何でしょうかね。条件とは、何でしょうか。

まず、当然ですけど、主を知ること。主を個人的に、知ることです。主を知ることこそが、もっとも大切です。主のあらゆる導きの目的とは、主を知ること、主をよりよく、知ることなのではないでしょうか。けども、そのために、人間は、いろいろなことで悩みます。そのために、主は、いろいろおもしろくない困難や問題を与えてくださいます。主を知るために、私たちは、まず、自分が主から離れている者であること、自分は、我がままであること、すなわち、罪の中に失われている者であることを認めなければなりません。

主の判断は、確かにおもしろくないけど、本当なんです。『全ての人は、罪を犯したため、主の栄光を受けられなくなっている。』『義人はいない、ひとりもいない。』それから、自分は、自分で自分を救うことができないことも、認めなければなりません。いわゆる良い働き、また、いわゆる人間の考えている良い生活をすることによっては、決して、主を知ることはできません。救われ得ない。ただ、一人のお方だけが、我々を、どうしようもない人間を救うことができるのです。すなわち、人間の代わりに、救いの代価を払ってくださったイエス様です。ペテロ第一の手紙を見ると、全部ひと言葉でまとめられています。

第1ペテロ
3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

イエス様の御許に導かれた人々こそが、主ご自身を知り、救いにあずかった者です。そういう人々だけが、主を恐れることができ、それによって、人間を恐れる恐れから解放されます。人間は、主を恐れるか、人間を恐れるかのどちらかです。主を恐れることによって、自由になります。人間を恐れることによって、みじめになります。

主を知ることは、罪より救われ、地獄より救われ、天国が保障されていることを意味しているのであります。

信じるようになった人々はみな、自分の心の中に持っておられた満たされない心に気づかれ、自分は、主なる神から離れた者であり、そして、主からの罰を受けなければならないということに気づかれました。その時に、イエス様の十字架の福音について聞かれ、私の受けるべき刑罰を受けいれて、死なれたイエス様を信じ、『誰でも重荷を負っているものは、わたしのもとに来なさい。わたしは、あなたがたを休ませてあげよう』というイエス様のみことばを聞いて、このイエス様の招きに従ったのです。

主を知ることは、自分の我がままは、赦されている。私は、義とされている。私は、主なる神との平和を持っている。イエス様は、私の救い主です。私は、霊的な死から、永遠のいのちに移された。私は、永遠のいのちを持っているという事実を確信することです。

主を知ること、主を恐れることこそが、考えられないほど大切です。けども、主を知るようになった人々とは、ひとつの切なる願いを持っています。すなわち、主を喜ばせたい。どういうふうに感謝したら、いいか解からない。

私たちは、覚えている人々はいっぱいいますけど、昔、よくこの武蔵野文化会館を借りて、音楽会をやったんです。本当は嘘です。音楽は餌(えさ)だけでした。けど、ただの音楽会だったら、人が来るんです。けども、その時、特定の人々に話してもらったんです。音楽があって、証しがあって、音楽があって、証しがあって・・・。ある人々は、いわゆる先生たちだけの番になった。日曜学校の先生、小学校の先生、中学校の先生、高校の先生、大学の先生たちが、次々とイエス様を紹介しました。別の時、看護婦さんたち、お医者さんたちばかり、証ししました。後で、特別だったかな、ガンになった人々だけ、証ししたんです。ガンにかかりそうな人々ではない。もうなった。その時、みなさん、ご存知ですけど、一瀬かおる姉妹のお姉さんも証ししました。末期のガンだった。歳は三十二歳、もちろん、結婚して子供も二人いて、彼女は、みなの前で、本当に喜んだ顔でイエス様を紹介しました。

すぐ後で、廊下で会ったんです。みなの前に、本当に喜んだ顔で、廊下で会った時、ぺっちゃんこでした。『何があったの?』と聞くと、『いや、イエス様が、私の証しを聞いた時、喜んだでしょうか?』そういう心配だった。いやあ、こういう心配があれば、ありがたいのではないでしょうか。結局、救われたのはありがたいけど、イエス様を喜ばせたい、そういう気持ちでいっぱいだったのです。

イエス様を喜ばせたいという切なることを望むことこそが、大切なのではないでしょうか。主を喜ばせようとする。確かに、自分の努力は大したものではない。敗北から敗北へという結果に至るだけです。

父なる神が、喜んでくださるのは、本当はイエス様しかない。したがって、大切なのは、このイエス様と結びついていることです。結びついていれば、生涯は変えられます。そこには、実を結ぶことが得られます。自分の努力ではなく、内におられるイエス様こそが、勝利と祝福と実を結ぶことの秘訣です。

ご存知のように、いろいろな生き方があります。たとえば、自分自身を喜ばせる生き方です。初めから終わりまで、自分、自分、自分のことを考えること。あるいは、他の人を喜ばせる生き方です。それも、ちょっと大変です。できないから。もうひとつの生き方とは、主をイエス様を、代わりに死なれたイエス様を、喜ばせる生き方です。

なんと多くの人々の特徴は、自分、自分だけを考えることです。だからこそ、何をやっても、うまく行きません。結果は、恐ろしいほどの競争、妬み、憎しみです。イエス様は、自分自身を喜ばせようとはなさらなかったただお一人です。だから、私たちは、いくら考えてもイエス様のことを、本当の意味でわかりません。イエス様は、自分は別に、無視されても、捨てられても、罪の塊にされてもけっこうです。『わたしの思いではなく、御心だけ。』この態度を取ったのは、イエス様だけです。自分自身を喜ばせようとしなかったのです。

自分自身を喜ばせるとは、いったい、どういうことでしょうか。それは、自己満足です。なぜ、実りが少ないのでしょうか。なぜならば、自分を喜ばせているから。何かの役割を演じたいから。自分自身に同情するからなのではないでしょうか。人間を喜ばせようとする人は、知らないうちに人間の虜(とりこ)、奴隷になります。内面的に、不自由になり、たいへん神経を使ったりします。それによって、不幸になり、失望します。一言でいいますと、主を喜ばせることとは大切です。どういう人々が、主を喜ばせることができるかと言いますと、主を恐れる人々だけでしょう。

一人の詩人は言いました。歌ったのです。『人間が、私を批判したり、褒めたり、大切にしたり、誤解してもかまいません。主よ。あなたに喜んでいただけることこそ、私にとって、すべてのすべてです。』この態度をとる者は、人間の判断から解放され、隣人に対する行動は、正しいものとなり、自分自身のために生きるのではなく、他の人々のために、生きたいと思うようになります。

主に喜ばれたいという切なる願いの結果とは、どういうことでしょうか。主を恐れるとは、いったい、何を意味するのでしょうか。そのための条件とは、何でしょうか。今、話したように、主を個人的に、体験的に知ることです。それから、主を喜ばせたいと、切に望むことです。

もうひとつ、主にすべてを捧げることです。すべてを捧げること、もっとも良いものを捧げることが、主を恐れる結果であると、聖書は言っています。もう一箇所、読んで終わりましょうか。創世記二十二章、旧約聖書の中で最も大切な書のひとつではないでしょうか。

創世記
22:2 神は仰せられた(・・・アブラハムに・・・)。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。

22:12 ・・・今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。

主が、アブラハムに、『あなたの愛する一人子であるイサクをいけにえとして捧げなさい』と、言われた時、アブラハムは、『主よ、無理。どうして、何故、なんのため息子を殺さなくではいけないの?もし、息子が殺されれば、あなたの約束は反故(ほご)になり、何の価値もなくなるではないか』と、アブラハムは、断じて言わなかったのです。どうしてでしょうか。彼は、はっきり解かったから、すなわち、主は、すべての礼拝者を、本当の礼拝者を、心からなる礼拝者を求めておられるとわかったからです。

礼拝することとは、捧げることです。そして、捧げることとは、主を恐れる結果であると、今の十二節に書きしるされています。主の祝福を受ける人々とは、主を恐れる人々です。だから、詩篇の作者は『幸いなことよ。すべて主を恐れる者は。』

何十年前だったでしょうか。ある姉妹は、本気になって、祈ったんです。何を祈ったかと言いますと、もちろん、ご自分の主人の救いのために祈った時、『イエス様、もし、それを通して主人が救われたら、お願い、私に癌(がん)を与えてください。』本気で、そう祈ったんです。彼女は、別にガンにならなかったけど、ご主人は、倒れて、ちょっと死にそうになったけども、まだ、生きています。けども、結局、彼女の祈りは、本気の祈りでした。私は別に・・・。

本気で祈ると、主は、必ず応えてくださいます。主を恐れることこそが、考えられないほど大切です。

おわり

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