2012年9月11日火曜日

恵みに富みたもう陶器師なる神(一)

恵みに富みたもう陶器師なる神(一)
2012年9月11日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エレミヤ
18:1 主からエレミヤにあったみことばは、こうである。
18:2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」
18:3 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。
18:4 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。
18:5 それから、私に次のような主のことばがあった。
18:6 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ。――見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」

29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。


ローマ
9:19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」
9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。
9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
9:22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

昨日、一昨日でしたか、ここで、同じ箇所について考えました。テーマは、『恵みに富たもう陶器師なる神。』主が、エレミヤを通して、主の言わんとしていることを明らかにしました。二十九章の十一節、多くの人々の大好きなことばのひとつなのではないでしょうか。主は、何を考えているのか、主はどうしてこれとこれを許すのか・・・と考えるとき、答えは、この十一節ではないでしょうか。

エレミヤ
29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

すばらしい主の呼びかけなのではないでしょうか。二つの点について、ちょっと一緒に考えたいと思います。第一番目、主なる神の永遠に変わらない恵みの計画についてです。二番目、この神の恵みの計画が実現するための条件とは、いったい、何なのでしょうか。

まず、神の永遠に変わらない恵みの計画について考えたいと思います。読みました四節です。

エレミヤ
18:4 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。

『粘土で器を作る』と書いてありますが、この粘土は、我々人間を象徴しています。だから、主の御心にかなった、主の御心に良しとされる器ができなければいけないということを、ここで言っているわけです。粘土は、陶器師が満足するように、かたち作らなければ、役に立たないものになってしまいます。粘土である私たちが、御子、イエス様と同じ御姿に変えられなければ、陶器師である父なる神は、満足なさいません。

この主の目的について、有名なローマ書、八章二十九節も言っています。

ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

主なる神は、私たちの内にも、ひとつの目的を持って、すなわち、私たちが、御子、主イエス様の御姿に変えられるようにとの目的を持って、働いておられます。

エレミヤ書、十八章四節を見ると、三つの器のことがわかります。それは、第一番目、仕損じた器、二番目、他の器、三番目、意のままに作った良い器の三つです。

まず、仕損じた器について、ちょっと一緒に考えたいと思います。『陶器師は、粘土で製作中の器を自分の手で壊し』と、書いてありますが、この一言だけを取り出して考えると、それは望みのない絶望状態になってしまいます。私の生活は、台無しになってしまっている。私の生活は、壊れた器のように失敗の生活だ。私にはもう、望みがない。そのような状態を表しているのが、この仕損じた器です。そのような状態を表しているのが、やはり、大変です。過去の生活を振り返ってみると、きっと、そこには喜びがなく、後悔に満ちて、また、良心が責められるようなことが、たくさん、思い出されるのではないでしょうか。

二番目、他の器ともありますね。『他の器を作り変えた』と、あります。主なる神は、他の器を作ったと、書いているけど、私たちは、これを読んで、主は、ご自身の御心を成されるために、他の器を作った。あの人、この人をお立てになった、私は、主の御心の外にある、そうでなくても、主のもっとも良き心は、私に向いていないで、あの人、この人に向いているのだと、考えてしまうかもしれない。もちろん、それは、良くない考え方です。間違っています。

三番目、『意のままに作った良い器』と、書いてあります。陶器師自身の気に入った他の器に作り変えた。主は、最善をなさる方ですから、主なる神が、意のままに作られた器は、良い器に違いない。主なる神は、仕損じた粘土を、もう一度こねて、意のままに、御心にかなう器をお作りになることができるお方です。同じ粘土で良い器を作ることができる主が、私たちに、『良い、お前は心にかなう者だ』と、仰ってくださるならば、望みに満ち、さらに前進することができるはずです。私たちが、どんな質の粘土でも、どんなに仕損じた粘土でも、主の恵みが、さらに勝って、勝利をとってくださいます。主の愛は、すべての問題の上に、勝利をとってくださいます。

そして、最後の結論として、主なる神は、『良し』と言われるのです。

主が、最初の人、アダムをお造りになった時、『非常に良い』と言われました。『まあまあ』なのではない、非常に良い、もちろん、完全なる神は、不完全な人間を造ることができないからです。けど、この最初の人アダムは、また、それに続く子孫は、わがまま、罪によって、もう回復の望みがないと思われるほどまでに、仕損じてしまいました。仕損じた器となってしまいました。パウロは、ローマ書の中で、次のように書いたのであります。

ローマ
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

けど、主なる神のご計画は、永遠に変わらないご計画ですから、たとえ、罪が入ってきても、動かされることはありません。主なる神は、罪に汚れた古い人類を改善しようとはされずに、新しい器を作り変えようとされました。その新しい器とは、もちろん、イエス様です。イエス様、ご自身です。新しい創造の頭(かしら)であるイエス様です。

このことは、私たちに、何を物語っているのでしょうか。それは主なる神は、我々の仕損じた器のような性質には、決して満足されないということを、意味しているのです。罪に汚れ、仕損じてしまった器を、取り繕ってよくするということは、決してできません。だだ、新しい器に置き換えられることによってのみ、良い器となります。この事実についてパウロは、コリント第二の手紙の中で、次のように書いたのです。この節は、本当は毎日、覚えるべき節ではないでしょうか。

第二コリント
5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

イエス様は、罪とされた。『罪の塊とされた』と書いてありますが、エレミヤ書の先ほどの例話に当てはめるならば、イエス様は、仕損じた器となって、陶器師によって、新しい器とされるために、手の内でつぶされ、こねられ、死んでしまったことを意味します。けど、イエス様は、死ぬとともに、全く新しい全人類とともに、よみがえられました。

エレミヤ
18:5 それから、私に次のような主のことばがあった。
18:6 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。」

この主の問いに対する答えは、もうすでに、イエス様が新しい器として与えられたことにより、我々のものとなっているのです。これこそ、我々にとって、何と喜ばしい訪れなのではないでしょうか。

主なる神の御心にかなった器に、私たちがなるために、すなわち、御子イエス様と同じ御姿に変えられるためには、三つの条件があります。第一番目、粘土が陶器師に従うこと。二番目、いわゆる、ろくろが必要なこと。三番目、陶器師の性質が問題である。この三つの条件が満たされないと、まずいんです。これをひとつずつ、ちょっと考えてみましょうか。

第一番目、粘土が陶器師に従うことです。粘土は、瀬戸物作りに選ばれます。粘土が、瀬戸物作りを選ぶのではありません。陶器師は、粘土がそれ自身、あまり価値のないものであることを、承知の上で選び出します。主は、役に立たない我々をあんまり深く見つめません。役に立たないだめな私たちを、恵みの器に作り変えようとされています。

主は、私たちの哀れなさまをご承知の上で、私たちを選んでくださいました。主に従えば従うほど、私たちは、自分自身に失望します。自らの内に、何の良きものもないことがわかるから。しかし、幸いにも、主なる神は、私たちがそのようにあわれな者であることを承知の上、選んでくださいましたから、主は、我々に対して、失望されるということはあり得ません。主によって、選ばれた者と考えると、希望が湧いてきます。

けど、粘土が堅すぎて、陶器師の手に負えないことがありうるのです。主の御心にかなった歩みをするということは、決して、簡単なことではありません。預言者エレミヤでさえも、主の御心に従っていくことには、しばしば、悩むようになりまして、苦しみました。主に、訴えていました。

今度は、反対に粘土が柔らかすぎて、陶器師の手に負えない場合もあります。陶器師が、せっかく器のかたちを作っても、作ると間もなく粘土が柔らかすぎて、かたちがくずれてしまいます。神の子とせられた兄弟姉妹の中で、多くの人が、移り気の持ち主であり、また、むら気で臆病です。多くの人々が、風の中の花のように、いつも、ふわふわしていて、自分に一番、抵抗の少ない道を選んで歩もうとします。私たちは、なるほど実は、弱いあわれな粘土です。しかし、私たちが、御子、イエス様の御姿に変えられていくには、どうしても、従うことが必要です。私たちは、主に従順でしょうか。従順に従っていることによって、主は、我々をいつも、御心のままに、お取り扱いになっているでしょうか。私たちは、聞く耳を持っているのでしょうか。

主の御心にかなった器に私たちがなるためには、すなわち、御子イエス様と同じ姿に変えられるためには、条件があります。今、話したように、粘土が陶器師に従うことです。

二番目、ろくろが必要なことです。我々の生活において、ろくろに相当するものは、いったい何でしょうか。それは、私たちが、毎日、そこで過ごさなければならない環境です。私たちは、聖書のはなしを聞くことによって、霊的な教訓を受けます。また、みことばを読み、一人のうちに、主と親しい交わりを持つことができます。けど、実際に、主と同じ姿に変えられて行くのは、日ごとの生活における困難や苦しみを通して、初めて、できるのではないでしょうか。粘土はろくろの上に、ちゃんと乗っていなければ、もちろん、決して、いいかたちになりません。

聖書を学ぶことにより、私たちは、主から幻を与えられ、啓示を受け、主の御心を知ることができますけど、イエス様と同じ御姿に変えられるには、日ごとの経験というろくろの上に乗らなければだめです。

ろくろは、止まらないで、しょっちゅう動いています。もし、ろくろが、いつも動いていなければ、どんなに巧みな陶器師も器を作ることができません。陶器師が、時には、あんまり強くこねるので、粘土が、ろくろの上から逃げようと思う時があるかもしれない。エレミヤは、陶器師の家に行ったとき、粘土をこねる人と、ろくろを回す人が、同じ人であることを見ました。だから、私たちがろくろの上から逃げようとすることは、主の御手から逃げようとすることです。主は、我々の生活の隅々までも、自ら、お導きになっておられます。私たちを押しつけ、苦しめるのは、ろくろではなく陶器師、すなわち、主の御手であるということを忘れないようにいたしましょう。もちろん、困難とか、苦しみは、主が御子のかたちに私たちを形作る手段にすぎません。

また、いろいろなろくろがありますが、私たちは、主の御心をうかがわずに、勝手に、環境を変えないようにいたしましょう。主なる神が、最善の時、最良の方法をもって、我々を導いてくださいます。ヘブル書の中で、次のような大切な箇所があります。

ヘブル
12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

主の御心にかなった器に私たちがなるためには、すなわち、御子イエス様と同じ御姿に変えられるためには、条件があります。今、話したように、第一番目、粘土が陶器師に従うこと、二番目、ろくろが必要なこと。そして、三番目、陶器師の性質、そのものが問題であります。

この陶器師は、誰でしょうか。人間ではありません。もし、人間なら、仕損じた器を、どこかに捨ててしまうでしょう。この陶器師は、主なる神、ご自身です。もし、人間なら、仕損じた器を元のようにしようなどと考えません。このようなだめになった粘土では、私の思うような器は作れないと言って、あきらめてしまうことでしょう。けど、聖書で言っているまことの主なる神は、そのようなお方ではありません。この主に私たちが、今日、新しくお会いすることができるように願っています。この主にお会いになるならば、恵みと知恵の勝利の微笑みを浮かべた主の御顔を仰ぎ見ることができるはずです。

どんなに仕損じた器になったとしても、良くしたもう・・・これこそが、聖書の神です。主なる神は、私たちの信じている主は、何ものによっても動かすことのできないご計画を持っておられます。主は、終わりまで成し遂げることのできないようなことを始められません。そのために、主は、知恵、忍耐、恵み、愛、力をお持ちになっておられます。我々の主は、失望することを知らない。望みの神です。この主の御手の内に、私たちは、粘土として握られているのです。

主は、粘土である私たちを満足のいく壷に、すなわち、イエス様と同じ姿に変えられるように、作り変えるためにお選びになりました。主の御心は、全部、この目的に傾いておられます。主は、私たちが、その他のどんなものになっても、満足されません。少しぐらい欠けたところのある器は、仕損じた器とは、言えないでしょう。ちょっと、そこに違うものをくっつけたり、色を塗ったりして、きれいにすることができます。人間は、そうするでしょう。しかし、主は、主の場合は、そうはしません。主は御心にかなう、イエス様と同じ姿に変えられる以上、決して満足されません。どんなに繕っても、色を塗っても満足されません。

エレミヤ
18:6 イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ。――見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。

わたしも、陶器師がするように、あなたがたを、御子、主イエスのかたちに変えることができないだろうか。

エレミヤ
32:27 見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、主である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。

こういうふうに、主は尋ねておられますが、実際は、どうでしょうか。

信仰のない者だけが、主の力を疑うでしょう。エレミヤが、主のみことばを伝えようとして出かけていったところの人々は、主の民に一同、属する人々であり、信者でした。けども、不信仰な者だったのです。彼らは、何と言ったでしょうか。

エレミヤ
18:12 しかし、彼らは言う。『だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行なうのだから。』

言い換えるならば、彼らは、『神よ、私たちの今のままの状態で我慢してもらいたい』と言って、粘土として、思いのままのかたちに作られることを、拒んだわけです。自らの生まれながらの性質、また、生まれながらの能力を使って、主に仕えようとする人々とは、彼らと同じことをしていることになります。

主は、私たちが、どんなに信心深くても、良い性質を持っていても、それが、生まれつきのままであるならば、肉的であるなら、決して、お用いになることができません。

私たちの仕損じたあわれな性質が、主イエス様にあって、新しくされるためには、必要なのは何でしょうか。言うまでもなく、十字架です。限りない愛と忍耐を持っておられる陶器師なる主は、ろくろの上に乗っている粘土のような私たちを、その御手に、しっかりと握っています。主の御手は、我々の生活の根まで、しっかりと握り、そこまで主は干渉してきますから、時折、痛いこともあるでしょう。どんなにその生活が苦しくても、バプテスマのヨハネのように言うことができれば、すなわち、『彼は、主は必ず栄え、私は必ず衰える』という心を、主の御前に、絶えず持ち続けるべきなのではないでしょうか。

詩篇
81:10 あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

主は満たしたい。けども、当時のイスラエルの民は、ありがたいと思わなかった。『いやです!』という態度をとった。

詩篇
81:10 あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
81:11 しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。
81:12 それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。
81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。

おわり

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