2012年4月24日火曜日

家庭集会の大切さ(一)

家庭集会の大切さ(一)
2012年4月24日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

使徒
4:23 釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。
4:24 これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
4:25 あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。
4:26 地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』
4:27 事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、
4:28 あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。
4:29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
4:30 御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」
4:31 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。


先週、二十八年前の話について、話したんですけれど、その時、いろいろな福音的な団体の指導者たちに頼まれて、当時の御茶ノ水で、『どうして、吉祥寺で信者たちが増えるのか。どういうことですか?知らせてもらいたい。』そういう事だったんです。おもに、家庭集会についての話だったんです。もちろん、今日(こんにち)もそうでしょう。あちこちの集会へ行くと、家庭集会がなければ、なかなか成長しません。新しい人々は、なかなか来ない。ですから、いわゆる家庭集会の大切さについて、二十八年前に、話したんですけど、もちろん、今日でも、状態は別に変わっていない。やはり大切です。

この間、召しにふさわしく歩みたいという願いがなければ、結局、家庭集会をやりたいと思っても、あまり意味のないことです。うまく行かないし、祝福がないし、だから、家庭集会の大切さについて、ずっと考え、大切にしなくてはいけないのではないかと思います。いわゆる家庭集会を祝福できる前提とは何なのでしょうか。証し人として行こうという意欲を持つ必要がないのでしょうか。けれど、これは何を意味しているのでしょうか。四つのことが言えます。第一番目、愛すること。二番目、苦しむこと。三番目、走ること。そして、四番目、重荷を負うことです。

第一は、愛することです。すなわち、人間を愛することです。愛されたくない人は誰もいない。他の人から除け者にされ、今日(こんにち)、絶望的になっている人は、決して、幸せではない。今日、隣人愛について、いろいろ言われていますが、結局はみな、自分自身のことだけしか、考えていないのではないでしょうか。本当の悩みは、見過ごされてしまっていますので、過小評価されています。

人間は、静けさと愛とを、みな、切に求め、憧れています。人間は、憩いのない者です。人間は、認められたいと思う者です。けど、これらの背後には、永遠なるもの、本当の満足を与えてくれるお方、すなわち、イエス様に対する飢え渇きが隠されています。今日、必要とされている者は、もちろん、キリスト教の宣伝者でも、世界改革者でもない。ただ過ぎ行くもの、一時的なものだけを追い求めることは、空しいのです。もし、私たちが主を第一にし、イエス様を心から愛し、その動機が純粋であるならば、私たちの周囲の人々は、自発的にイエス様を信じ、イエス様に従う決心をするようになります。実は、このことが、今日(こんにち)、一番、必要とされていることなのではないでしょうか。我々の周りにいる人々は、私たちがその人たちを本当に心配し、本当に愛していること、私たちが助けてあげたいと思っていること、その人たちのために存在していること、その人たちのために、喜んで犠牲を払うために時間を持とうとしていることに気がついているでしょうか。愛すること。

第二番目、苦しむことです。苦しむとは、イエス様の苦しみにあずかることを言います。イエス様は、群衆を見た時、かわいそうと思われましたが、それは、羊飼いのない羊のように、弱り果てて、倒れている彼らをかわいそうと思われたと聖書は言っています。

証し人として行こうとする時、まず、正しく見ることが大切です。すなわち、私たちの周囲の人々を、イエス様の目でもって見ることが大切です。本当の悩みを知ること、また、見ることが大切です。ひとつの歌の中に、次のような一節があります。『今日、世界が必要としているものは、主イエスです。主お一人だけが世界を解放できる』という歌です。

イエス様の目でもって、多くの人々の現実の姿を見る者は、イエス様の嘆きと同じ気持ちを持ちます。そして、その人は、この世が欲しいものではなく、この世が必要としているものを与えるでしょう。今日は暇がないんですけれど、使徒行伝の三章に出てくるこじきは、確かに悩んでいたし、寂しかったでしょうし、お金や施し物を欲しがりました。なぜなら、そうした物で、この貧乏人は満足したからでしょう。けれど、そのこじきは、不幸にも、その期待を裏切られました。そのかわりに、彼はもっとすばらしい物をもらったんです。もちろん、一時的な過ぎ行く物ではなく、まったく新しいいのちを与えられました。すなわち、こじきは、自分が欲しかった物ではなくて、必要としていたものをもらいました。

周りの人々を配慮する者は、苦しみ始めます。エルサレムを思って泣いたイエス様の苦しみを理解することができます。エルサレムの町、そして、人々が本当の平和のために必要なものを欲しいと思わず、反対に、拒んだゆえに、イエス様は苦しみました。悔い改めて、救いに至る機会を提供されているにもかかわらず、意識的に、あるいは、無意識的に、再三にわたって、拒み続けてきた人々のゆえに、主は苦しまれました。

御心にかなう教会とは、いったい、どういう教会なのでしょうか。それは、正しい教えを持ったり、この世の不信仰を裁いたりすることによってではなく、それらの下に身をかがめ、本当に苦しんでいることによって、見分けられます。主なる神の霊は、深い同情の霊です。共に苦しまなければ、決して、傷は癒されません。共に苦しむことのできない者は、決して、主の愛を伝える者とはなりません。私たちは、私たちの主の救ってくださる血潮の証し人でありたいと願うならば、私たち自身が悔い改めなければならない。

そして、第三に、走ることが挙げられます。まず、最初に、主の御許(みもと)に走ること、それから、苦しんでいる人々のところに走ることが必要です。人間は、永遠に滅びるという知識は、私たちを目覚めさせ、魂の救いのための運動へとかり立てます。私たちが、その人たちのために祈っていること、また、苦しんでいることを、彼らが気づく時、彼らは、もはや無関心に留まることができません。彼らの足元の土台が、取り退けられてしまいます。その結果、彼らは、イエス様の御手の中に落ち着くまでは、長い間、精神的な動揺を続けなければなりません。私たちは、人々のところに走っていく前に、そして、また、家庭集会を始めようとする前に、まず、イエス様のところに走るべきです。なぜなら、魂を獲得することは、人間の行ないの結果ではなく、主お一人の御業(みわざ)だからです。

けれど、もし、私たちが主の御許に走り、祈るならば、主は、大いなる力を現してくださいます。恐れず、大胆に、主の証しをすることができるように祈るべきです。イエス様を十字架につけた世の中で、イエス様を証しすることは、決して、簡単ではありません。それは、初代教会の信者たちにとっても、決して、簡単なことではなかったのです。ですから、彼らは祈りました。

使徒
4:29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。

大切な、もちろん、聞きとどけられた祈りでした。この祈りは、本当に答えられたのですね。

使徒
4:31 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

聖霊に満たされた結果とは、みことばを大胆に語られたことだったのです。

主に備えられた人々のところに導かれるよう、祈るべきです。私たちは、誰にでも福音を述べ伝えるというよりは、むしろ、その備えをしているということが、大切なのではないでしょうか。『主よ、私は何をすべきか、あなたが何を望んでおられるかを知りたいから、お導きになってください。』この態度をとることこそが大切です。ピリポという伝道者は、この心の備えができていました。ですから、主は、導くことができ、用いることがおできになったのです。

適切な時に、適切な言葉を語ることができるように、祈るべきなのではないでしょうか。主お一人だけが、いかなる場合において、何が必要であるかをご存知です。

魂の救いのために祈ることは、悪魔に対する宣戦を布告、戦いの宣言であるということを覚えるべきなのではないでしょうか。私たちは、全く特定の魂、すなわち、一人ひとりの名前と結びついた魂のために、祈らなければなりません。つまり、ひとつひとつの祈りの対象が、主にもたらされなければなりません。時と場所を決めた祈りも大切でしょう。答えが与えられるまで、祈り続けるべきです。疑わずに、信仰を持って祈りなさいとヤコブ書に書かれています。

【参考】ヤコブ
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

主から、大いなることを期待しない者は、結局、主を侮(あなど)る者です。主は、ご自分のことばを必ず守られます。期待されていない者でも、主から期待しなさい。祈りは、人々を救う場合の主のもっとも力強い道具です。

四番目、重荷を負うことですね。失われている人を愛し、苦しみ、走る者は、周囲のまだ信仰を持っていない人々に対して、重荷を負うことになります。この重荷は、もっとも重い重荷です。

男の方よりも、ご婦人の方が、このことについて、たくさんのことを知っています。イエス様を信じている多くの奥さんたちは、まだ、イエス様を信じていない主人をもち、共に生活をする時、全く孤独な拒絶された状態に置かれますが、それに対して、集会全体は、どれほどの重荷を持っているのでしょうか。本当の交わりは、共に苦しみ、共に重荷を負う備えがいつもできている状態であります。ガラテヤ書六章二節には、『互いに重荷を負い合いなさい』と、提案されているのではなく、命令されています。

【参考】ガラテヤ
6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

実際は、どのような状態になっているのでしょうか。

この集会の一人の兄弟は、いわゆる統一教会という異端に、以前は関係を持っていましたけど、その後、彼は、集会に導かれるようになり、イエス様を知ることによって、解放され救われました。それから、彼は何年ものあいだ、集会で忠実なご奉仕をし、会社の中でも、聖書の集いを初めました。けど、彼は、その後、横道にそれてしまいました。彼は、ある哲学者、ユダヤ人だったんですけれど、マルティン・ブーバーという人によって、惑わされてしまいました。けど、その時、集会の中では、こうした一人の兄弟の変化に対して、無関心ではなかったんです。毎朝、六時から七時までのあいだ、五人の兄弟が、我々の住まいに来て、集会に来なくなってしまった兄弟のために共に祈り合いました。一年半のあいだ、毎日、兄弟たちは祈り続けました。共に重荷を担いました。彼は、自分のために、一年半も祈ってもらったということを聞いた時に、もう泣きだしてしまいました。我々のすばらしい主は、彼を回復してくださったのです。彼は、再び用いられるようになり、四国に転勤した時、自分の家庭を解放して、家庭集会を始めました。最初の四ヶ月の間に七人の方が導かれ、イエス様を信じるようになりました。

ここで申し上げたいことは、主のために、他人の重荷を負う者は、必ず報いられるということです。

今まで、ふさわしい歩みと、共なる生活という二つの点について考えました。召しにふさわしく歩むこと、また、信者の一致が明らかになることでは、未信者たちも驚き、導かれるようになります。『見よ。彼らはなんと、お互いに愛しあっていることか。何とお互いに重荷を負い合っているのか』と。これこそ。私たちが、主のために導きたいと思っている、この世の前における信じるにあたいする証しです。

もうひとつ、その幾人かの者でも獲得したいと思うことです。幾人かの者でも、獲得しましょう。聖書のどこにも、すべての人が救われるとは、約束されていません。けれど、動かすことのできない確かなことは、すべての人が救われることを、主は望んでおられるということです。ある人は、一人の人をイエス様のために獲得するために、千人以上の平信徒と六人の牧師が必要であると計算しました。どういうふうに計算したか・・・もちろん、間違っています。けど、簡単ではない。人間はすぐ、壁にぶつかって、どうしたらいいか、全く解からなくなってしまいます。

私たちの集会では、一ヶ月に一人も主に導かれなければ、『いったい、どうしたのでしょう。主はなぜ、祝福してくださらないのでしょうか。何が、主の御手を束縛しているのでしょうか』と、お互いに語り合うようになるべきなのではないでしょうか。けど、今日(こんにち)、多くの場合は、夜通し働いても何も獲れなかったという状態に置かれている教会が多いのではないでしょうか。主の目標と信者の持つべき目標は、失われた魂がイエス様を通して、いのち、また、豊かなるいのちを見いだすことであります。

イエス様は、救いの御業(みわざ)を成しておられました。そこで、今、私たちに与えられている使命は、イエス様の犠牲による贖(あがな)いを述べ伝えることです。今日、多くの教会の特徴は、次のようなものです。すなわち、人々は討論し、組織作りをし、委員会を作り、あれこれを試み、新しい宣伝方法を考えたり、マス・メディアに入り込もうと努力したり、大会を開いたり、セミナーを計画したり、そして、主が、それらの活動を祝福してくださるようにと祈ったりしています。けど、しばしば、単純に主の前に静まり、主にみことばを語っていただく、主のご計画を尋ね求めることの方がはるかに賢いのではないでしょうか。大きなことをして、人々をあっと言わせる気持ちは、人間の本性の中に根ざしています。人は、大勢の群衆を見ても、その一人ひとりを忘れがちです。けど、今日、もっとも大切なことは、一人ひとりに対する集中力です。なぜでしょうか。一人ひとりを集中的に導かなければ、誰も救われませんし、そこから信仰の成長もなければ、他の人を助けることもできなくなるからです。その目的を達成するために、前に話したように、やはり家庭集会は、大いに役に立つものです。

前にも言いましたように、家庭集会は、福音を述べ伝える手段であるべきです。目標は、常に人々が主の御許(みもと)に来ることです。人々が主の御許に来るべきであるならば、まだ主を知らない人々が、その場にいなければ、おかしいことになります。したがって、家庭集会の前提は、私たちの場合、未信者が必ずいるということです。未信者が一人も来なければ、家庭集会は止めたほうがいいのではないでしょうか。というのは、信者だけが集まると、一種の分派作りになってしまい、他の信者の悪口を言うようになりがちだからです。未信者がいれば、そのような子供っぽいことをする暇はぜんぜんないからです。なぜなら、私たち一人ひとりの心からの願いは、まだ救われていない人々が、悪魔の力から、すばらしい主の光の中に移されることだからです。

主が導かれると、おもに家庭集会によるのではないでしょうか。けれど、それにもかかわらず、私たちは、『家庭集会というものは、こうあるべきだ』という集いではない。というのは、真似事は何の価値もないからです。家庭集会の場合、大切なのは、真似することが大切な処方箋よりは、むしろ、創案、すなわち、基本構想なのではないでしょうか。主が、次のようなことばで弟子たちにお与えになった創案、基本構想が大切です。有名なマタイ伝、二十八章ですね。

マタイ
8:19 あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

すなわち、ただ単に救いを得るだけではなく、主の弟子として用いられ、主に従う者となるようにと主は言われます。同じ創案をパウロは、テモテに与えました。

第二テモテ
2:2 ・・・私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

この時代のための主の基本構想が、ここに記されていますが、この創案は、今日(こんにち)にも、当てはまります。すなわち、一人ひとりのために労するということです。

家庭集会とは、教会を建てるひとつひとつの細胞のようなものです。ただ単に、信者の家族が家庭を提供することだけではなく、多くの信者のご婦人たちも、また、主に用いられるようにと、家庭を提供しています。それは、今までにないほど、力と時間とお金を犠牲にすることを要求します。一言で言えば、犠牲なしには成り立たないということです。

集会は、なぜ、絶えず増大していくのでしょうか。おもに、大勢のルデアがいるからなのではないでしょうか。使徒行伝の十六章の中で、このルデアという婦人について、書いてあります。

使徒
16:15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。

ある時、私たちは、家庭を利用せざるを得ない状態に置かれました。それまでの集会場が、小さくなってしまったのです。新しく建てるためには、古い家を壊さなければならなかったのです。五ヶ月の間、私たちは、自分の集会場を持ちませんでした。もちろん、日曜日に、集会は公(おおやけ)の場所を借りて行なうことができましたが、それ以外の平日における集りについては、どうすることもできなくなりました。その時、私たちのルデアが、すなわち、救われた姉妹たちが申し出てくれました。住まいを提供してくださいましたので、いろいろな方の家庭で集会を持ちました。このルデアの一人は、どうしても、自分の家で家庭集会をやってもらいたい。これは、彼女の夫にとって、決定的な転換点となりました。一ヶ月に平均、何十万円相当のお酒を飲み、麻薬も飲み、しばしば、どこかの外国に雲隠れしてしまった。けれど、主は、彼に働いてくださいました。彼は、集会の中で、責任を持つ兄弟の一人となったのです。自分の家で経験した自由な交わりが、三人のお友だちをも、イエス様に導いてくれたのです。この家庭は、主を愛し、日曜日の午前中、長いあいだ、中高生の集いの場になりました。両親の寝室、子供部屋、台所もすべて、各クラスの部屋に使われるようになったのです。たいへんだったけれど、主は祝福してくださいました。

使徒
5:42 (・・・人々は毎日・・・)毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。

すなわち、初代教会の人たちは、宮、すなわち、会堂だけではなく、家々でも、集会をしていました。これこそ信者たちの万人祭司制です。主は、小さい集いのことを、次のようなことばで言い表しておられました。『二人、三人、わたしの名によって集る所に、わたしもその人たちの真ん中にいる』と。信者たちが迫害されたすべての時代の為政者、権力者たちは、信者たちが家々で集ることを非常にいやがりました。なぜならば、主の御名によって、信者たちが二人、三人、集っている場合、為政者たちは、信者たちの集りの実態を、全体国家の統制力によって調べることができないからです。あらゆる偽りの宣伝や迫害にもかかわらず、使徒たちの交わり、すなわち、家々で集る人たちの集いは、さらに存続しています。

【参考】マタイ
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

家庭集会は、自分勝手に、集りの中心になりたいから・・・というような不純な動機で始まることは、許されません。そうではなくて、集会全体が祝福され、接触を持つため、しかも、新しく信仰に導かれた人、信仰の歩みを始めた人に、霊の糧を与え、真心により、暖かさが得られるために、奉仕しなければならないのです。多くの場合、家庭集会を通して、信仰に導かれ、そこで、求めている人たちは主の救いの力のすばらしさを経験します。また、家庭集会は、しばしば信者たちにとって、霊的な成長の場でもあります。家庭集会は、暖かい個人的な雰囲気を提供すべきです。多くの未信者は、個人の住まいに招待され、自由な会話の機会を与えられ、お茶とお菓子を通しての交わりが、多くのことを橋渡ししてくれます。

重要なことは、一人ひとりを大切にすることであって、ショックを与えるようなことは、慎まなければなりません。

そのことを明らかにするために、ひとつの例を挙げて、ご説明します。かつて、だいぶ前のことになりますが、家庭の中がめちゃくちゃになってしまった家族がありました。その家族を、お宅に訪ねられた時、私たちは、最初に、聖歌を賛美したり、祈ったり、聖書を開くこともしないで、短い映画をお見せし、その後で、自由な話し合いをいたしました。その結果、そのお嫁さんが、イエス様を受け入れるようになり、主に仕える生活を続けられるようになりました。

家庭集会は、大切なことの解説、私たちが持っている知識を、人々に公にすることではない。何らかの印象を与えることです。すなわち、人々は、私たちが、しっかりとした土台の上に立って、精神的な支えと本当の平安を持っていると感じることが大切です。たいていの人々は、集会場に、また、教会に来る心の備えを持っていません。ですから、私たちはそれらの人々のところへ行かなければならないし、個人的な伝道、個人的な話し合いが、もっとも有効な伝道方法です。ペテロは書いたのです。

第一ペテロ
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

住まいも、また、ひとつの賜物であり、それを通して、有効な奉仕がなされます。聖書に出て来る多くの表現は、未信者にとって、なじみの薄いものであり、そのため、正しく理解されなかったり、全く誤解されたりすることが少なくないでしょう。それに対して、小さなサークルで、その問題が解消され、個人個人、親しみ深い言葉で、聖書の真理を解き明かしてあげることができます。真(まこと)の愛は、いろいろな方法を作り出してくれます。失われた魂のためにイエス様の愛を持って、苦労することが大切です。

個人の住まいの気持ち良い雰囲気は、緊張感を和らげ、個人的な接触を作り出してくれます。家庭集会をとおして、まず、主に結びつけられ、それから、集会、信者の群れである教会に繋がるようになります。家庭集会は、極めて聖書的です。最後に、二、三箇所を読んで終わります。

使徒
2:46 そして毎日(・・・毎月、一回ではなく、毎日・・・)、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

彼らは毎日、集っただけではなくて、毎日、救われた人々も仲間に加えられた。五章の四十二節、そして、ここにも、『毎日』という言葉が出てきますね。

使徒
5:42 そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。

12:12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。

会堂ではなく、マリアの家でした。

使徒
20:8 私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。

20:20 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え(た。)

28:30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

似ている箇所は、いっぱいあります。ローマ書、十六章、ここでも、『その家の教会』という表現が出てきます

ローマ
16:3 キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。
16:4 この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。
16:5 またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。

『彼らの家の教会』という表現、コリント第一の手紙にも、同じ表現が出てきます。

第一コリント
16:19 アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。

コロサイ
4:15 どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。

ピレモン
1:2 姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。

結局、家庭教会は、大いに用いられたのであります。主は働いておられ、導こうと望んでおられるから、本当に感謝します。

おわり

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