2012年4月17日火曜日

魂の救いの大切さ

魂の救いの大切さ
2012年4月17日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

イザヤ
6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

このあいだ、ある人に頼まれたことがあるんです。『あなたが何年か前に一度、頼まれて話した話をもう一回、聞かせて。』それは、いつだったかと言いますと、二十八年前。その時、いろいろな福音的な団体の責任者たちに頼まれたのです。結局、尋ねられたことは、『吉祥寺においては、何が他の教会と違っているの?』その答えを簡単にまとめたんです。次の五つの点を挙げることができたのです。


まず第一に、私たちは、一人の牧師を持っていませんが、多くの牧師たち、すなわち、多くの牧会する兄弟姉妹を持っている。誰も先生とは呼ばれず、私も、大学教授も、医者も、弁護士も、先生とは呼ばれません。すべての人が、兄弟姉妹と呼ばれています。何十年間、日本でラジオ牧師として活躍した羽鳥明兄弟は、ビリー・グラハムに頼まれて、ドイツまで行ったのです。そして、ベルリンでの最初の伝道者大会で、この羽鳥明先生は、次のように言いました。僕も彼のことをよく知っているし、彼の結婚式にも誘われたことがあります。彼は、その時、ベルリンで何と言ったかといいますと、『日本の伝道にとっての主な妨げは、牧師制度である』と。もちろん、彼は牧師たちが、正しくないと言おうとしたのではない。よく知られた万人祭司制と対立するワン・マン体制、すなわち、単独牧師制が、日本で非常に強く、牧師と平(ひら)信徒のあいだの違いが非常に大きいのである。

私たちは、吉祥寺で日曜日の奉仕をも行ない、実際に、牧会のご奉仕を行なう兄弟たちを十五人以上――二十八年前の話です――十五人以上、持っている。その兄弟たちは、公(おおやけ)に定められた長老ではありませんが、誰でも、悩みや問題がある時には、誰のところに行けばよいかを知っている。聖書の学びをする兄弟たちの数は、だいたい四十人だと言ったんです。二十八年前。今、二百何十人になったから、非常にありがたい。

第二に、私たちは会員制度をとっていません。洗礼を受けた人たちも、集会の会員ではありません。会員制度は、しばしば、変なものになってしまいます。霊的な交わりが、しばしば、組織的な関係になってしまうのです。私たちは、人々に対して、決して、次のようには言いません、『あなたがたは礼拝に来るべきである』と。喜んで、自発的に来なければ、どうせ心から礼拝することができないのではないでしょうか。けど、それだからこそ、皆、喜んで集会に来る。毎日曜日、約三百人の人が集ります。今は、五百人以上になっています。そして、婦人たちは、毎週、火曜日に集りますが、その数は百人から百五十人、これも、今はちょっと違う。

第三に、私たちは、月定(げってい)献金制度を持っていません。私たちは、新しく集会所を建てて、多額のお金を必要とした時でさえ、意識的に、献金した人の名前を書かないようにと注意しました。主に捧げられるものは、会計担当者も、他の人も、別に知る必要はありません。

第四に、私たちは、毎週、日曜日に、聖餐式を行なっています。それは、礼拝の中心です。私たちは、特別なプログラムを持たず、誰でも、自由に祈ることができますし、みことばを読むことも、それについて、何かを語ることも、全く自由です。中心は、イエス様であり、ゴルゴタの救いの御業であり、そのために、感謝と賛美が捧げられます。毎週、、日曜日、救いの確信を持っていない者は、礼拝にあずかれず、聖餐式にあずかれず、いかなる未信者も、献金することは許されていないということが、繰り返し、公に、述べ伝えられます。従って、礼拝とは、福音ではなく、説教ではなく、救い主に向かっての祈りと賛美であり、聖書の学びは、一時間後(あと)にもたれます。

第五に、あらゆる信者は、福音を述べ伝える者です。この点については、とくに詳しく、立ち入った説明をしたいと思うのですが、それというのも、多くの教会が、その点で、問題を持っているからです。けど、その前に、みことばを一箇所、黙示録五章から、見てみることにしたいと思います。

黙示録
5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

この大いなる群衆の中に、私たちも一緒にいることでしょう。この将来の希望は、現実となるでしょう。そして、大いなる数えきれないほどの群衆が、主なる神を礼拝し、賛美するでしょう。現在は、『恐れるな。小さな群れよ。あなたがたには、与えられるであろう』ということばが、当てはまるかもしれません。将来は、決して、小さな群れではなくなるでしょう。主なる神の目的は、小さな群れではなく、数えきれないほどの、真の礼拝者たちの群れです。

この一世紀における最大の出来事のひとつは、ウォッチマン・ニーという同労者によって、中国でなされた仕事なのではないでしょうか。それは、部外者から、『小さな群れ』、いわゆる、『リトル・フロック』と呼ばれましたけど、至るところに光を与え、いのちを運ぶ者として、光輝く教会が発生しました。いわゆる、小さな群れは、非常に大きなものとなったのです。悪魔は、総攻撃を開始しました。一万人の宣教師が、国外退去させられました。わずか一日で、四十九万人の信者が殺されました。信者の数は、その当時、中国全体でだいたい百万人くらいでした。けど、今日(こんにち)、おそらく、三千万人から四千万人の信者が、主に裏で、家庭集会で集っています。

成長は、主なる神の切なる願いであり、目標です。それですから、私たちの主は、一粒の麦として死んでくださいました。たくさんの実が発生すべきでしょう。大いなる獲物が、もたらされるべきです。少ないもので満足する者は、災いです。実を結ばなければ、未信者の無関心さとか、その地方のひどさなどが指摘されます。そして、また、謙遜深いように数は問題ではなく、質が問題であるということが言われるのを何度も耳にします。けれど、主が絶えず新しい人を導けなければ、質も、また、大したことがないと言えるでしょう。

いずれにしても、主のみことばである聖書は、私たちに数を挙げています。私たちの主は、決して、十二弟子だけで満足はされませんでした。それから、少しして、七十人の弟子たちをお遣わしになりましたし、五旬節には、百二十人の人を通して、同じ日に、三千人もの人が、自分はイエス様のものであると告白して、洗礼を受けたのであります。それから、すぐ後に、さらに五千人の人が、イエス様を信じ受け入れました。初代教会は、絶えず成長し、増え続ける教会だったのであります。

イエス様は、はっきり、弟子たちに言われたのです、『あなたがたは、地の果てまで、わたしの証人となる。』これは、主のご命令であり、主の約束であり、事実です。しかも、何十倍、六十倍、いや、百倍の実がもたらされるという目標を持っています。私たちの主は、もっと大いなることをなさりたいと願っておられるというビジョンを持つ必要があるのではないでしょうか。もし、私たちが、今までの状態に満足してしまうならば、主は悲しくなるに違いない。

まだ福音を聞いていない、この国に住んでいる多くの人々が、主のために福音を聞くということが、我々の切なる願いであり、また、祈りであるべきです。そのために大切な要素は、全国における諸集会の健全な成長であり、それに比べれば、いろいろな特別活動の特殊な働き、例えば、ラジオ伝道、学生伝道、文書伝道などは、そんなに大切であるとは思われません。けれど、誤解なさらないでください。一言、つけ加えさせていただきますと、今、挙げたような様々な個別活動を通して、福音に飢え乾いた心を起こされた人が、近くの教会に行き、そこで、つまずいてしまって、福音から離れてしまうという人の数は多いということです。

したがって、両方のことを考える必要があるのですが、その場合、健全な教会の成長の方が重要性が大きいと言えましょう。実際問題、初代教会は、もちろん、ラジオ伝道、テレビ伝道、学生伝道などをしなくても、非常に早く、しかし、大きく成長していました。どうしても必要で大切なことは、主を信じる者の心からの一致です。心をひとつにすることです。現在のように混乱したバラバラな分裂状態が一般的となっている時代においては、心からの一致、協力ということは、何というすばらしいことでしょうか。もうじとつの箇所を、励ましのことばとして、お読みいたしたいと思います。

イザヤ
45:1 主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。
45:2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
45:3 わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。

主の大いなる奇跡的な働きによって、人間の心の戸が開かれます。そして、私たちの信仰に応じて、人々の心は開かれ、信仰に導かれるようになります。

ご存知のように現代は、孤独、一人ぼっち、単独の時代です。何年か前にドイツのある町の一人の兄弟と一緒に、一組の老夫婦を訪問しましたが、この夫婦は健康上の理由で、もはや、集会に行くことができないでいます。私たちが訪問すると、その老夫婦は、『私たちは、全く無視されて、忘れられてしまったのではないかと思いました』と、言ったのであります。

福音書の中で、一人の非常に困った男について書かれています。彼は三十八年の間、ベテスダの湖のほとりで、病を患っていました。病人は、イエス様に言いました。『私を助けてくれる人は、一人もいません。私のことを配慮して、心配してくれる人はいません。本当に、誰一人いない。』すでに、三千年前に詩篇の作者、ダビデは書きしるしました。百四十二篇、『誰一人、私のたましいを配慮してくれない。』

現代の大きな病は孤独です。人間は、人間を一人ぼっちにさせてしまいます。人間は、自分のことばかりを考えます。『私は弟の番人なのでしょうか』というカインのような態度が、今日(こんにち)、当たり前のことになってしまっています。前に申しあげましたように、キリスト者にとって、もっとも大切なことは、一人ひとりが強い責任感を持って、伝道の業(わざ)に励むことです。しかも、家庭を通しての伝道が、とくに大切な意味を持っていることに注意いたしましょう。

伝道活動における家庭集会の大切さは考えられないほど大きい。もちろん、言うまでもなく、家庭集会は、目的のための手段にすぎません。人に福音を述べ伝えるための手段としての家庭集会でありますから、伝道活動の方が、もちろん、家庭集会よりも、ずっと大切なことは明らかです。イエス様のために、魂を獲得するのです。これこそが目的であり、ただひとつの目標です。

ここで、二つの問題について考えてみたいのですが、この問いに対しては、あらゆる時代のあらゆる信者が同じ答えを出しています。第一の問いは、あなたの人生の最も大切な経験は何かということです。その答えは、イエス様との出会い以外のなにものでもない。二番目の問いは、人間に与えられうる最も大切な助けは何かという問いです。その答えは、また再び、同じようにイエス様を知ることができるように人間を助けることです。

そこで、三つの問いについて、ちょっと考えたいと思います。その三つの問いというのは、ある程度まで、家庭集会の前提条件となるものです。第一点は、召しにふさわしく歩もうとする意欲。二番目、証し人としていこうとする意欲。第三に、幾人かでも、獲得しようとする意欲です。

それでは、まず、第一点からちょっと見てみましょうか。召しにふさわしく、価値ある歩みが、ここでは大切です。魂を獲得することは、あらゆる信者にとっても、主の使命です。あらゆるキリスト者は、このもっとも大切なご奉仕のために、召し出されています。あらゆるキリスト者は、このもっとも大切な奉仕をする恵みを与えられています。けど、イエス様のために魂を獲得したいという、このうえもない情熱を、本当に知っているでしょうか。多くの信者たちは、自分の仲間や、近所の人の魂の救いに対して、全然、責任を感じていません。エゼキエル書――よく知られている箇所ですけど――三章十八節にあるように、『わたしは彼の血の責任をあなたに問う。』ということばは、我々に、たいへんな責任を、驚くほど冷静に、また、挑戦的に示しています。

それでは、そうした無関心さの原因はいったい何でしょうかね。第一は、認識不足。第二は、配慮不足。第三は、想像力不足です。

人間は、失われた者であり、悔い改めたくない魂は、すべて滅びに至るという認識に不足していることは、多くの信じる者の特徴ではないでしょうか。

それから、次に、失われた者の運命に対する配慮不足が挙げられます。イエス様は、一人ひとりに配慮してくださり、涙を禁じることができませんでした。なぜなら、主は、救われていない人の危険と滅びを、ご覧になったからです。救世軍のブース将軍は、ある時、救世軍の一人から、『仕事があまりにも大変だ。全然、成長がない』という知らせを受け取りました。すると、将軍は、『涙をもって、やってみてください』と、答えました。その人は、言われた通り、涙をもって、仕事に励みました。その結果は、すばらしいものとなりました。主は、祝福することができ、多くの人々を獲得することがおできになったのです。

そして、最後にひとつの魂の価値についても、想像力の不足が挙げられます。イエス様は、人間の魂を非常に価値のあるものとして、尊重なさいましたので、魂を滅びから救うために、主は喜んで、天の栄光を捨てて、この地上の貧しさ、悩み、恥、死の苦しみを受けてくださいました。ひとつの魂の価値が、それほど、高価なものであるならば、その救いのためには、どれほどの距離も遠すぎることはなく、誰一人の重荷も煩わしくなく、いかなる配慮も大きすぎず、いかなる仕事もむずかしすぎることはありません。

イギリス人だったのですけど、ダビデ・レイナードという人は、非常に用いられました。彼は告白したことがあります。『私は主の栄光のためであれば、ダメになってもかまいません。どこで、どのように住んでいても、どのような困難を経験しようとも、それは、キリストのために魂を獲得するためであるならば、どうでもいいことです。』こうした態度の結果は、当時のインドにおけるすばらしいリバイバル、霊的覚醒(かくせい)が起こったのです。そして、召しにふさわしく歩むことのできる人は、ひとつの魂のはかり知れないほどの価値を知っている人だけです。

主によって非常に用いられた伝道者、ムーディーという男は、そのような人の一人でした。彼は、魂の価値について、次のように告白しています。『私は確信する。すなわち、一人の天使が、この地上から天国へ飛んで帰り、そこで、次のように語り告げるとします。すなわち、地上には、貧しくて、ボロきれをまとった若者がいるのですが、彼には、父親も母親もなく、誰ひとり、彼のことを心にかけれくれず、永遠のいのちに至る道を示してくれません。そして、主なる神が、天使たちに向かって、「あなたがたの中で、誰が五十年間、罪にまみれている地上に飛んでいき、この一人の若者をイエス様のみもとに導く備えがあるか」と、尋ねる時、天国にいるすべての天使は喜んで行くことでしょう。いと高き方のご臨在していらっしゃるところにいる、天使の頭(かしら)であるガブリエルでさえ、この大いなる幸いにあずかるために、「私の崇高なすばらしい自由を捨てることをお許しください」と、言うでしょう。』

一人の魂を、悪魔の支配している王国から、天のすばらしい光へ導く器として、神の御手の中にいることほど、大いなる栄光はありません。我々の必要としているものは、失われた魂のための燃える心です。

スポルジョンというイギリス人は、次のように、証ししています。『私は、生まれて初めて、一人の人間の失われた魂を、主の御許(みもと)に導くということを経験した日ほど、あふるるばかりの、言葉に言い表せない幸福感を経験したことはありません。若い母親は、最初の子供が生まれた時ほど、嬉しい時はないでしょう。しかし、主イエス様のために、ひとつの失われた魂を獲得することは、それらに勝る喜びなのです。ですから、私は一人の失われた魂を獲得することが、もっともすばらしいことだと確信するのです』と。

続いて、一人の無神論者の言明について見てみましょう。

『もしも、私が、宗教家であるならば、この人生における私の信仰の認識と実行が、死後のいのちの運命に根本的な影響を及ぼすということを、本当に真実をもって、全く確信して、徹底的に信じるでしょう。宗教は、私にとって、すべて、文字通り、すべてを意味するでしょう。この世の喜びを、私は無価値なクズとして、わきに押しやってしまうでしょう。この地上の追求は、私の目には愚かなことであり、この世的な考えと感情は、全く無価値なものです。私の最初の思いは、朝、目覚めても宗教であり、同じように、夜、眠りにつく時にも、宗教でありましょう。私は、目に見えるもの、この世の宝のためよりも、朽ちることのない天の宝のために働くでしょう。私にとって、決定的に大切なことは、死後の世界でしょう。天国のために、ただひとつの魂を獲得することは、私にとって、何十年の苦しみの生涯に値します。この世の誇りも、計算も、私から、この目標を奪い去らないでしょう。この世の名誉は、私が福音を述べ伝えることに対する、いかなる妨げともならないでしょう。私は、目に見えないお方、すなわち、主なる神と語り、私の感情は、新たに燃えはじめることでしょう。喜怒哀楽に満ちたこの地上は、一瞬たりとも、私の思いを支配しないでしょう。これら、すべては永遠のほんの小さな一断片にすぎず、いかなる言葉も、その小ささを書くことができないほど、小さいものでしょう。私は永遠の世界だけを大切にし、私の周りにいる失われた魂のことだけを考えるようになるでしょう。なぜなら、その魂はまもなく永遠の滅びに至るか、永遠の幸せに至るかのどちらかだからです。この地上のことだけに思いをはせ、一時的な幸せを追求し、朽ちゆく財産を得ようとする、そのような愚かな者たちのために、私は苦労するでしょう。それから、私は、時が良くても、悪くても、次のことを述べ伝えることでしょう、「たとえ全世界をもうけても、魂を失うならそれは何の徳になるでしょうか」と。』

今まで、私は、無神論者の考えていることを通して、いくつかの文章を紹介しましたが、その場合、『もし、万が一、自分が宗教家だったならば』、すなわち、別の言葉で言うと、『もし、万が一、神がいらっしゃるならば』という条件付きの文章であることに注意してください。言うまでもなく、無神論者は、神の存在を否定しているわけですから、そういう条件を、実際には、全く認めていないわけですが、そういう無神論者でさえ、万が一という条件をつけて考えることは可能です。そうだとしますと、そういう無神論者の言った言葉は、すなわち、条件つきの文章は、主イエス様の人生観と、まったく同じことになることが分かります。そして、私たちも同じ心がまえを持つべきです。

何年か前に、イギリスで起こった事実を申しあげますと、チャールス・ピースというたいへんな極悪人の一人が、裁判官の前に連れられてきた時のことをお話しましょう。彼は略奪者、偽金作り、二人の人を殺した殺人犯として、死刑の判決を下されました。彼が処刑台のところに連れられてきた時、一人の牧師が、彼の隣に行き、イエス様の救いの力について語りました。すると、この惨めな極悪人は、牧者の方を向いて尋ねました。『あなたは、そのことを本当に信じているの?もしも、私がそのことを信じたならば、そのことが真理であることを人々に伝えるために、ガラスの破片の上に、イギリス中、這って歩いてもいいでしょう。』

前に申しあげました救世軍のブース将軍は、訓練のもっとも大切な事柄のひとつとして、信者一人ひとりを、一日、二十四時間、地獄へやれれば、やりたいと言いました。それというのも、信者が悔い改めたくない魂の結末という、恐ろしい現実の姿を見れば、その状態をまだ知らない人々に、真剣になって警告し、福音を述べ伝えるからです。主が我々をあらゆる眠気や無関心さから、引き出してくださいますように。

おわり

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