2012年4月3日火曜日

霊的覚醒の大切さ

霊的覚醒の大切さ
2012年4月3日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

詩篇
26:2 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

今朝のテーマは、『リバイバルの大切さ』であります。『リバイバル』という言葉は、日本語ではなく、英語の言葉です。すなわち、日本語に直すと、『霊的覚醒(かくせい)』、あるいは、『信仰の復興』、『信仰の復活』を意味するものです。眠ってしまった信じる者は、リバイバル、信仰の復興を必要とします。すなわち、主との生き生きとした交わりによって、新しくされ、新しく満たされることを必要とします。おそらく、今日、『私は新しく満たされなくてもけっこうです』と思う人は、おそらくないのではないでしょうか。新しく生かされることこそが、毎日、必要なのではないかと思います。


信じる者の集いは、いつも、喜びの集いであると言います。どうしてであるかと言いますと、悔い改められるからです。ドイツの宗教改革者であるルターは、次のように言いました。『悔い改めることとは、もっともすばらしい仕事である。』すばらしい特権、プレゼントでもあります。悔い改める兄弟姉妹は、皆の喜びの種であり、悔い改めたくない兄弟姉妹は、皆の悩みの種になります。

パウロは――彼の書いた手紙を読むと解かります――、未信者のために、そんなに苦労していなかったようです。どうせ、人を納得させようと思ってもできません。けども、もうすでに救われた人々のことで、彼は、考えられないほど悩んでいます。例えば、テサロニケにいる兄弟姉妹は、パウロの喜びの種だったのではないか。第一の手紙、一章の二節に、『私は、いつもあなたがたすべてのために神に感謝している』と言うことができたんです。あなたがたすべてのために、いつも、感謝する。

【参考】第一テサロニケ
1:2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
1:3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。

パウロの他の手紙を見ると 解かります。パウロは、正直に、『私は困っている。私は悩んでいる。苦しんでいる』と、正直に、言ったのであります。すなわち、救われた人々は、ある人々は、『イエス様だって、まだまだ、来ないでしょう。別に待たなくてもいいのではないの』と思い、他の人々は期待を持って、『今日かもしれない』と、思いながら生活しています。ある兄弟姉妹は、自分のために生活し、自分自身を実現しようと思っているし、他の兄弟姉妹は、イエス様のためにだけ生きたいと心から望んでいます。すなわち、イエス様に喜ばれたいと切に望んでいます。イエス様だけが盛んになり、『私は大切ではない、衰えるべきである』と。

ある兄弟姉妹は、中心になりたい、役割を演じたい。もし、そうでないと、ちょっとおもしろくない。不平不満を言います。他の兄弟姉妹は、イエス様にのみすべての栄光を帰していきたいと、心から望んでいます。ある兄弟姉妹は、つまずきを与え、分裂を起こすものであり、また、別の兄弟姉妹は、命がけで集会全体の一致が現れることを、心から望んでいます。一言で言いますと、ある兄弟姉妹は、知らないうちに暗闇の中にいるのであり、別の兄弟姉妹は、マルコ伝五章に出て来る女のように、イエスの前に出て、ひれ伏し、イエスに真実を余すところなく、打ち明ける兄弟姉妹です。

ダビデは叫んだでしょう。『主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください』と、祈りました。私たちが、心からなる願いを持って、自らの内を主の光によって照らし、試していただく必要があります。主の光に照らされると、もちろん、誰でもが小さくなります。顔を上げられなくなります。『どうしましょう』としか、考えられないでしょう。

光に照らされた時、初めて、パウロは、自分のやっていることは、とんでもないことであり、全く悪魔的であり、的はずれの行ないということが解かりました。自分にとって、考えられないショックでした。

主は、いつも同じように呼びかけておられます。『わたしのもとに来なさい。わたしは光です。唯一のまことの光です。』光のもとに来たくないことは、自分の罪を隠すことであり、正直になりたくないことです。すなわち、不幸への道、そのものです。けど、生まれつきの人間は、決して、光のもとへ行こうとしません。

前にある家族が来られ、そして、ご主人は挨拶として、なかなか良いことを言われました。『私は悔い改めるために来た。私は間違っていた。家族の者たちは、大いに悩んだ。』それを聞いて、一人の娘は、驚きと喜びのあまり、大きな声で泣いてしまいました。

今日のテーマは、今、話したように、『リバイバルの必要性。』すなわち、新しく生かされることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。

前に出たスイスの神学校の時、リバイバルが起こるようにと、ひたすら、祈り求める祈りのグループがありました。このグループは祈りを始める前に、必ずいつも一つの歌を歌いました。意味は、『主よ、力を送りたまえ。海の大波のようにリバイバルを送りたまえ。そして、我が内を目覚めさせたまえ。』

我が内を・・・。リバイバルはまず、個人的に我々の内に起こらなければなりませんが、私たち一人ひとりには、その備えがあるのでしょうか。多くの場合、どのような時にリバイバルが起きてきたかというと、そこには、隠れた祈りの闘志がいることがわかります。『イエス様よ、どうか、リバイバルを起こしてください。さもなければ、私に死を来たららせたまえ』と、祈る人がリバイバルの陰に必ずいたのです。イエス様は、今日(こんにち)、この我々のあいだに、祈りの闘志を求めておられるのではないでしょうか。破れのはざまに立ち、戦って、人々を執り成す人々を求めています。

主は、かつては、エゼキエルの時代に、次のように言われました。

エゼキエル
22:30 わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。

私たちは、主の御心のとおりに破れ口に立つ者となっているのでしょうか。それとも、主が尋ねたけど、得られなかった人々のうちの一人なのでしょうか。私たちは、リバイバルがどうしても必要であるということを、深く感じとっているのでしょうか。私たちの側に、何か重大な欠陥のあることを感じているのでしょうか。

多くの信者のリバイバルに対する態度は、リバイバルのために祈り求めても、主の時が来なければ、何も起こらない、だから、その時が来るまで仕方が無くて、待たなければならないと考え、真剣な態度で、主に臨みません。

イエス様は、信じる者の渇ききったような、また、惨めなさまを見て、喜ばれるのでしょうか。もし、私たちが、リバイバルのために主の備えられた条件を満たすならば、その瞬間に、リバイバルは起こり、広まるのです。リバイバルとは、新しく目覚めさせられたいのちを言います。ここで大切なのは、新しく目覚めさせることができる、新しいいのちを持っているのは、本当の信者だけだということです。未信者の人々のリバイバルはあり得ません。未信者の人々は、まず、新たに生まれなければならない。眠ってしまった信じる者こそ、リバイバルが必要です。

今日(こんにち)、眠った信者は、実にたくさんいるのではないでしょうか。けど、眠りから覚めなければならない時期が来ています。けど、目覚めるためには、まず、自らが眠りこけ、霊的に死んでいる様(さま)を認め、告白する必要があります。臨在の主イエス様が、このリバイバルの必要性を悟らしめてくださったら、本当に幸いだと思います。けど、どうしたら、かかる待望のリバイバルが起きるのでしょうか。答えは二つです。第一番目、私たちが、主に試されることによってです。もう一つ、私たちが、主を試すことによってです。この両方の働きが必要です。

まず、私たちは、主に試されることがどうしても必要です。もし、イエス様が、我々を試すことができたら、それは、良いしるしです。私たちが、自らの内をどんなに試しても、尋ねても、何の役にもたちません。私たちにとって大切なのは、イエス様に我々の内を試されることです。ダビデの心の態度は、結局、我々にも、どうしても必要でしょう。今、兄弟の読んだ箇所をもう一回、読みましょうか。

詩篇
26:2 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

主の御心にかなうダビデの心からの叫びでした。

詩篇
139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

こういう祈りを捧げる者は、大いに祝福されます。似ている箇所は、いっぱいあります。

詩篇
25:4 主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。
25:5 あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。

また、詩篇、百四十三篇の八節、また、十節にも、同じ内容のある祈りが書かれています。

詩篇
143:8 朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

143:10 あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。


こういうふうにダビデは、心から祈りました。主の霊が、我々の心を目覚めさせるために、私たちの心が、まず、耕されなければならない。我々の心は、どうして新しく耕された土地となることができるのでしょうか。私たちが、心からなる願いを持って、自らの内を、主の光によって照らし、試していただく時、私たちの心は、耕されてくるのです。我々の祈りに応えて、主は、我々のわがまま、過ちを明るみに出してくださいます。漠然とした罪の悔い改めは、そんなに価値あるものではないでしょう。私たちは、ひとつひとつの罪を犯したから、ひとひとつひとつ教えられ、それを悔い改めなければならないのではないでしょうか。

今、話したように、私たちが主に試されることが、どうしても必要です。それによって、罪が明るみに出されます。信じる者の犯す罪は、二種類ではないでしょうか。ひとつは、いわゆる、怠慢の罪です。もうひとつは、欲望と呼ばれる罪です。

怠慢の罪とは、いったい何でしょうか。答えは、ヤコブ書、四章の十七節です。非常に大切なことばであります。

ヤコブ
4:17 なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。

(一番目)たとえば、感謝をしないことは、ひとつの罪です。イエス様は、私たちがまだ、罪人だった時、私たちの罪のために、いのちを捨ててくださいました。私たちは、この主に対して、心からなる感謝を捧げているのでしょうか。感謝しないことは罪であり、感謝をしない生活は、天の窓を閉じてしまいます。よく知られている箇所です。

詩篇
50:23 感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。

このことばを逆に考えるなら、『感謝のいけにえをささげない者は、わたしを侮り、自分の行ないを慎まない者には、神の救いが示されない』という意味になり、主イエスに感謝のいけにえを捧げない者には、リバイバルが起こらないことを教えています。私たちは、イエス様に感謝しない罪を言い表し、主にお詫びしたい者になればありがたい。主は、我々が心をもって、唇をもって、感謝のいけにえをささげることを待っておられます。どうして、感謝をささげることができるのでしょうか。主の恵みによって、救いにあずかることができたから、家族の救いも約束されているからです。主は、告白された罪を永久的に赦し、また、心に思い出さないからです。

(二番目)次、主に対する愛の欠乏も、もちろん、罪です。イエス様は、私たちが、心を尽くし、精神を尽くして、ご自分を愛することを願って、待ち望んでおられます。単一な心をもって、主を愛することを願っておられます。聖書の中に、『主は、ねたむ神である』と、書かれています。妻が夫を、夫が妻を、半分だけしか愛さなかったなら、他の人を愛したら、ねたむでしょう。もし、私たちが、心を尽くして、主を愛さなければ、主は悲しまれます。私たちは、イエス様の血潮によって贖われた者であり、私たちのすべては主のものです。我々の愛も、ひたすらに、主に注がなければなりません。私たちは、仕事や両親、また、自らの思いに忠実であり、主よりも、これらにより忠実に歩んでいるのでしょうか。黙示録の二章、四節、厳しいことばがあります。一番、肉的な教会であるエペソにいる兄弟姉妹に、主は言わざるを得なかったのです。

エペソ
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

主に対する愛の欠乏は、何と大きな罪でしょう。イエス様に対する愛の欠乏を、主に言い表しましょう。そうしなければ、霊的に前進することはできません。いかに愛されているか、毎日、覚えるべきです。ダビデは、心から言えたのです。詩篇十八篇の一節、二節、すばらしい証しであり、告白です。

詩篇
18:1 彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。
18:2 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

ダビデは、こういうふうに言えたからこそ、御心にかなう人と呼ばれるようになりました。

三番目、聖書を読まない怠慢も罪です。私たちは、日々、また、何週間も喜びを持たないで、聖書を読むような時がないでしょうか。もし、私たちが飢え渇きをもって聖書に接しなければ、また、みことばを深く味わわなければ、霊的に一歩も前進しないからといって、不思議はありません。この罪を言い表すならば、主は、私たちに、みことばに対する飢え渇きを与えてくださり、主は、新しく御声をもって、私たちに語りかけてくださるのです。

申命記
17:19 自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。

ヨシュア

1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。

詩篇の作者であるダビデも、一番、長い詩篇なんですけど、百十九篇の中で、次のように言ったのです。

詩篇
119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

みことばとは、ダビデにとってすべてでした。

詩篇
119:97 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

119:140 あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。


エレミヤも、二千六百年前に、このみことばのすばらしさを、大切さを、味わい知るようになりましたから、次のように言ったのです。

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。

食べることとは、自分のものにすることです。解かることではない。書かれてるからありがたい。エレミヤは、みことばを食べた結果、『あなたのみことばは私にとって』楽しみとなり、心の喜びとなりました。我々の信仰生活は、みことばを食べる計りにしたがって、程度にしたがって、成長してまいります。

第四番目、不信仰の罪も、怠慢の罪です。聖書は、信仰なくして行なうことは、すべて罪であると教えています。信仰は、主イエス様との結びつきです。主との結びつきがなければ、私たちは罪の中に生きています。主だけを大切にしないことは、すなわち、悪魔を喜ばせることです。この地上のこと、目に見えるものを大切にすることは、イエス様を結局、のけものにすることを意味します。信じることは、主に留まることを意味しています。

ヨハネ
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

聖書の中に、たくさんの約束のことばがありますが、これを信じないことは罪です。たとえば、『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます』という、みことばがありますけど、これを、本当に、信じているのでしょうか。私たちは、この約束を百パーセント、しっかりと信じて、日々、感謝して、歩むことが許されています。不信仰とは、たいへんな罪です。

マルコ
6:1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
6:2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
6:5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

イエス様は、少数の病人に手をおいて癒されただけ・・・それでも、すごいんじゃないの?けど、イエス様は少数の人々だけではなくて、その時、集った病人、皆を癒したかった。けど、何でもできるお方ができなかった。無力になった、イエス様は。どうして?彼らの不信仰のゆえです。

五番目、祈りを怠る罪についても、考えるべきではないでしょうか。本当に祈りは、どういう祈りなのでしょうか。本当の祈りは、御霊が、我々を通して祈る祈りです。私たちは、誰に祈るのでしょうか。遠く離れた神に祈るのでしょうか。もし、遠くの神に祈る場合、昔のバアルの預言者たちがやったように、大声で叫ばなければならないでしょう。私たちは、全宇宙を支配しておられる主ではあるが、我々の内に住んでおられる主に祈るのです。それでは、どのように祈ったらよいのでしょうか。思いを込め、主の応えを信じて祈ることが大切です。イスラエルの民たちは、みことばを読み、祈る時には、主の名前を口にしなかったんです。主なる神を恐れていたからです。私たちが祈る時、イスラエルの民と同じような恐れをもって、主の御前に出るのでしょうか。未信者に対してパウロは、ローマ書、三章の十八節に次のように書いたのであります、『神に対する恐れがない。』けど、このことばは、多くの信者に当てはまることばではないでしょうか。

イザヤ
66:2 わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

私たちはいったい、主のみことばにおののく者でしょうか。主を恐れる恐れを知っている者でしょうか。

六番目、集会に集わない怠慢も罪です。集会は、もちろん、宗教的なクラブではありません。仲良しクラブでもありません。引き上げられた主イエス様は、かしらであり、そして、この主の御名によって集まる兄弟姉妹は、かしらなるイエス様のからだです。集会は、神の家であり、真理の柱、また、土台であると聖書は言っています。山上の垂訓の真ん中で、次のように書かれています。

マタイ
6:33 神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば(・・・そうしなければ、もちろん、ダメ・・・)、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

すべてが与えられれば、すごいのではないでしょうか。まず第一に、神の義を求めず、神の国を求めることをしないで、いろいろな雑事や仕事のために集会に出ない信者は、もちろん、どこでもいます。もちろん、やむを得ない場合もありますけど、この点についても、ダビデのように、『主よ、私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください』と、主に申し上げたいものです。

ヘブル
10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

七番目。親戚、肉親、友人たちに対する愛の欠乏も罪です。私たちがたずさわっている仕事を、家族の救いより大切に思っている人がいるでしょうか。これとこれは、私たちの義務として与えられた仕事であると考えますが、主が私たち、信じる者に与えてくださった義務は、あんまり考えないでといった場合があります。我々の家族は、まだ、御救いにあずかっていないのに、永遠の滅びに歩んでいるのに、私たちは無関心でいることができるのでしょうか。我々の家族のために、真剣に祈ることをしないで、空しくすごした日々を思い出さないでしょうか。このことについても、罪は山と積まれているのではないでしょうか。

八番目、他の多くの滅び行く魂たちを愛さないことも罪です。私たちは、心から自分の周りにある滅び行く魂たちを愛しているのでしょうか。彼らのために、私たちは、あらゆる犠牲を払っているのでしょうか。私たちが、犠牲を払っているのかいないかによって、私たちの滅びゆく魂を愛しているか、いないかが分かります。主がこの罪を赦し、我々の心に、救霊に対する熱情を与えてくださったら幸いです。

九番目、主にある兄弟姉妹のために、目を覚ましていないことも罪です。

ヘブル
4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

私たちは、主にある兄弟姉妹に、心を用いているのでしょうか。これは、我々の務めです。兄弟姉妹が霊的に前進するように、一人ひとりと交わりを持ち、心を用いているのでしょうか。我々の愛する兄弟姉妹、また、求道者の方々の名前を書き留め、日々、ともに祈りましょう。

最後に、十番目になりますけど、己を捨て、主に従わないことも罪です。犠牲を払うことなしに霊的な成長は、あり得ません。死なしに、永遠に留まる、永遠に残る実を結ぶことはできません。主の御名のために、私たちは、辱(はずかし)めを受け、そしりを受ける備えがあるのでしょうか。

最後に、もう一回、ヤコブ書、四章十七節を読んで終わります。

ヤコブ
4:17 なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。

主ご自身が、これらの怠慢な罪をご自身の光によって、教えてくださるなら本当に幸いだと思います。これらを認め、改める時、間違いなく、豊かなリバイバルが起こるのです。

おわり

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