2011年12月6日火曜日

主イエス様の証し[4]

主イエス様の証し[4]
2011年12月6日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

今日は、三回目ですけれども、「主イエス様の証し」というテーマでもって、一緒に考えたいと思います。イエス様の三種類の証しとは、どういうものかと言いますと、まず第一、自分自身についての証しであり、二番目、羊たちについての証しであり、そして、第三番目、父なる神についての証しです。


御自身についての証しとは、どういうものだったでしょうか。三種類の事実に分けることができるのではないかと思います。第一に、イエス様は、「わたしは、良い羊飼いである。雇い人ではないし、本物である。偽者ではない。」第二番目、「わたしは、門、そのものである。道、そのものである。道しるべではない。嘘つきでもないし、盗人でもありません。」そして、第三は、「わたしは、父の息子です。そして、わたしは、冒涜者ではない」と、イエス様は、はっきり証しすることができたのです。それを聞いた当時の多くの人々は、嬉しくなった。やっぱりそうか。旧約聖書で約束された救い主なのではないか。けども、自分のことばかり考えた人々、当時の宗教家たちは、聞く耳を持っていなかったのです。

イエス様の言明は、確かにすごい言明です。わたしだけが良い牧者であり、ただ、わたし一人のもとにのみ、本当の満足があります。わたしだけが、唯一の天に行く道です。わたしを通らなければ、誰も父のみもとに行くことができない。そして、第三番目、「わたしだけが、父と一つになっている者です。わたしは、とこしえなる神です。イエス様が、その言明によって、もちろん、真理を語っておられたということを、どうして解かることができるでしょうか。イエス様の復活こそが、その証拠になるものです。もちろん、今日(こんにち)、イエス様に頼って、イエス様に信頼して、赦されたという確信を持つようになった人々、ひとりひとりはその証明であります。

ですから、次のように言える人は幸いです。すなわち、『私は、イエス様が、良き牧者であることを知っている。けれども、それだけじゃない。この牧者なるイエス様は、私のものです。その主に私は信頼し、その主に従いたいのです。また、私は、イエス様が、唯一の門であることをも知っているよ。イエス様、お一人だけが、あらゆる問題の解決です。イエス様のみもとに来て、後悔した人は一人もいません。イエス様は、約束された救い主であることをも、知っている。イエス様はとこしえなる神です。というのは、イエス様は、私の罪を赦してくださり、私に永遠のいのちを与えてくださったからです。』

イエス様は、こういうふうに御自身について、言うことができた。ある人は、『本当かな、嘘だったのではないかな?』今、話したように、証拠となるものはイエス様の復活です。イエス様は、よみがえられました。それで、二、三人の弟子たちに現れただけではなくて、五百何十人の人々が、四十日間のあいだに、復活なさったイエス様に出会いました。

そして、イエス様は、御自分についてだけじゃなくて、御自身の羊たちについても、語っておられました。何を言われたかといいますと、『彼らは、わたしの声を聞き、その声を知り、そして、その声を聞き分けます。』羊は確かに、愚かな動物です。けども、羊飼いの声をちゃんと、解かっています。それだけではなく、『わたしの羊たちを、わたしはよく知っている。そして、また、わたしは彼らによってよく知られている。』もう一つ、『わたしの羊たちは、わたしに従います。』キリスト教に入るのではない。教会に行くのでもない。わたしに従います。大切なのは、人間の思っていること、考えていることではない。神のみことばである聖書は、何といっているか、それだけ。

もちろん、そもそも羊というものは、愚かな動物です。一匹の羊が、川の流れに入ってしまい、溺れてしまうと、その羊に続いている全体の群れは、同じことを行ない、同じ運命にあいます。羊飼いのない羊は、失われ、どうすることもできない状態におかれ、守ってくれる者もなく、完全に助けのない存在です。そして、生ける主なる神は、人間をそのような助けのない羊に、たとえておられます。旧約聖書の中で最も大切な書のひとつは、おそらくイザヤ書五十三章ではないでしょうか。

イザヤ
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

良き知らせ、福音そのものです。人間は、自分がなぜ生まれたのか、人生の意味は何か、死んだ後どうなるのかということを知りません。すなわち、人間は、愚かな羊と同じようなものです。羊は、どこまでも、羊であり、そして、また、羊に留まるのです。急に、猫になったり、犬になったりすることはあり得ません。人間は結局、どこまでも人間であり、守りなく、助けのない存在にすぎない。その状態に留まるのです。けれども、大切なのは、我々人間よりも、イエス様です。イエス様は、どうしようもない人間のことを考えておられ、心配してくださる。イエス様によって愛されていない人間はいない。一人も。

夕べ、遅くまた、ある男から、電話があって、『私は、ちょうど十五分間ずつ、同じ気持ちになる。私はダメ、私はダメ、私はダメ。十五分ずつだよ。』十五秒づつと言ったんです。『どうしましょうか。』そしたら、あなたは、今から、十五秒ずつ、私は愛されている、私は愛されている、私は愛されていると考えて、感謝したらいいじゃないか。『あー、そうか。』終わり。おもしろい人間がいるね。けども、寂しかっただけでしょう。どうしたらいいか、解からなかっただけなんです。

イエス様は、今、話したように、御自身について、証ししました。『わたしは偽者ではない。本物です。雇い人ではなく唯一の良い牧者です。』それだけではなく、わたしは門であり、わたしのもとには安全がある。わたしは、天国に至る道です。』それからイエス様は、『わたしは、冒涜者ではなく、父なる神の息子です。』そういうふうにイエス様は、御自身について、御自身を信じる者について証ししてくださったのです。けれども、それだけではなく、三番目、イエス様は、父について証ししてくださいました。

ヨハネの福音書の中だけで、よく出てくる言葉は、八十何回、「父」ということばです。「神」ではなく、「父」ということばです。しかも、イエス様は、三種類に分けて、このことを語っておられます。すなわち、第一番目、わたしは、父を知っている。二番目、わたしの父は、わたしを愛している。三番目、わたしの父は、すべてにまさって偉大であるということです。

ヨハネ
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

聖書は、主なる神の定義を、何もしておりませんが、主なる神の本質とイエス様の性質については、たくさんの説明をしています。主なる神は、限りない力を持っておられます。もう、想像できません。主なる神の知恵は、考えられないものであり、当然です、完全なるものです。主なる神は、百パーセント、信頼でき、また、信頼に値するお方です。主なる神は、徹頭徹尾、神聖なお方です。この主なる神は、自然の中に、御自身を現しておられ、また、預言者たちに与えられたみことばを通して、御自身を明らかにしておられます。しかしながら、とりわけ、御子、すなわち、イエス様を通して、御自身を啓示しておられます。ただ、お一人の真(まこと)の神だけが存在しています。そして、聖書は、その他の多くの神々を偶像、あるいは、悪霊と呼んでいます。

人間は、誰でも、いわゆる神意識を持っています。聖書を知らなくても、人間は、誰でも、主なる神の偉大さについて、何かを感じています。多くの人間は、すべての被造物の背後に、創造主である神が存在していることを、理解できないけど、認めています。そして、いつの時代でも、救われたいと願った人が、実際に救われたというのが実情です。恵みを切に願い求める者には、恵みが与えられます。そして、恵みが与えられる者は、そのことを通して、主なる神を知るようになります。けれども、イエス様は、ここで、「わたしは、神を知っている」とは言わずに、「わたしは、父を知っている」と、言われました。「神はわたしの父である」と、イエス様は言われました。結果として、当時の宗教家たちは、イエス様を殺してしまったのです。

次に、第二の言明、すなわち、「わたしの父は、わたしを愛している」と、ヨハネ伝に書かれています。「わたしの父は、わたしを愛する。」

ヨハネ
10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。

別のことばで言い表すならば、主イエス様は、次のように言っておられます。すなわち、「わたしは、父の主要(な)関心です。父の愛は、わたしに集中されています。わたしは、父の喜びです。」今まで、誰一人、そのような言明を行なったことはありませんでした。当時の宗教家たちは、聖書学者たちは、それを聞いて怒り、悪霊に憑かれている、気が狂っていると言ったのです。

ヨハネ
10:20 彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」

イエス様を通して、そして、また、イエス様のために、全宇宙が創造された、ということは、いかにイエス様が、中心的に立っているのかを、我々に示しているのではないでしょうか。けど、ここでイエス様は、次のように語っておられます。「わたしが、わたしの命を捨てたから、父はわたしを愛しておられます」と。十字架の上で、全人類のために、贖いの死を遂げてくださり、そのために、呪われ、罪そのものとなってくださるという、イエス様の覚悟は、父なる神の愛が、イエス様に注がれる原因となっているのです。「私は愛されており、私は心配してもらっている」ということを、人間が知る時、この人は非常に元気になり、不安は消えてなくなり、喜びに満ち溢れます。そして、これこそ喜びの訪れ、すなわち、福音そのものです。

ですから、誰でも、次のことを知ることが許されています。すなわち、「私は愛されています。たとえ、人間には無視され、のけ者にされているとしても、生ける真(まこと)の神によって愛されている」と。そして、イエス様を自分の生涯の中に受け入れた者は、生ける主なる神が、ただ単に、「私の神」であるだけではなく、主イエス様を通して、「私の父」にも、なってくださったということを知ることが許されています。

すばらしい恵みについて考えると、もう疲れませんし、感謝するばかりです。けれども、そのために、永遠の世界に入っていってからも、いつまでも礼拝せざるを得なくなる。どうして愛されたのか、いくら考えても解かりません。私たちも、また、愛されている。けれども、それは、私たちが主に愛されるに値するからなのではない。イエス様のゆえにこそ、私たちは愛されているのです。

さらに、第三のイエス様の言明は、「わたしの父は、すべてにまさって偉大です。」大切なイエス様の証しですね。「わたしの父は、すべてにまさってます。」これは、他の点に手短に分けてみましょう。

第一に、「父が罪や債務より偉大である」ということです。罪と債務は、人間の上に、非常に重くのしかかり、あらゆる安らぎを奪い取ってしまうことがありますけど、主は、次のように言っておられます。旧約聖書の福音書であるイザヤ書を見ると、次のように書かれています。

イザヤ
1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

すばらしい主の呼びかけ、約束であります。父が、罪の債務より、偉大であるということ。

二番目、父は、人間のあらゆるたくらみより、はるかに大いなるお方です。人間は、力を持つことができるでしょうが、けど、父は、はるかに偉大なお方です。このことを、旧約聖書のヨセフという男も、また、経験しました。彼は、次のように告白したのであります。

使徒行伝
7:9 族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、
7:10 あらゆる患難から彼を救い出し(た。)

『しかし、神は』と、ありますね。『神は彼とともにおられた。』同じことが、創世記にも書いてあります。

創世記
39:3 彼(ヨセフ)の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。

39:23 監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。

刑務所の中で、ヨセフは不平、不満を言わず、主の御手によって守られた者として、安心して、前向き生活をすることができたのです。救いとは、一時的な問題の解決ではありません。永遠なるものです。すなわち、主が、共におられることです。ヨセフの救いは、何だったのでしょうか。主との交わりです。ヨセフは、主に信頼し、主の導きは完全で、最善の導きであると確信したのであります。ヨセフは、すべてを主の御手から受け取ったのです。だから、復讐の気持ちもなかったし、なぜならば、『裁き主は、決して、自分ではなく、主ご自身である』と、認識したのであります。ヨセフをエジプトの奴隷として売ってしまった兄弟たちが現れた時、彼は、次のように言えたのです。

創世記
50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

人間は計るけど、主は導く。

出エジプト記
33:14 すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」

すばらしい。勇気を与えることばです。イエス様は、「わたしの父は、すべてにまさっている」と、言われました。すなわち、「わたしの父は、罪や債務より偉大である。」

二番目、人間のあらゆるたくらみより、はるかに大いなるお方である。

三番目、父は、すべての病いに、まさったお方です。何十年前に、私はスイスで、一人のご婦人を知るようになりました。彼女は、神経に異常をきたし、体が動かなくなってしまった。恐ろしい、想像できない病気にかかってしまいました。彼女の夫は、彼女を捨てて、他の女性と一緒に生活していました。けれども、彼女はイエス様を喜んでいました。結局、『イエス様を知るようになったから、うれしい。イエス様は支配しておられる。だから、この導きも理解できませんけど、間違いなく完全です』と、言えたのです。

四番目、父は、常生活における、あらゆる問題にまさったお方です。日々の生活は、一人の人間の上に、何と神経破壊的に、また、抑圧的にのしかかっているのでしょうか。けど、父は力づけ、活力を与え、勇気づけてくださることがおできになります。よく読む箇所ですけど、ヘブル人への手紙の十二章の中で、なぜ、どうして、こういう愚かな質問に対する答えが出て来るのではないかなと思います。

ヘブル
12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を(・・・嫌いになった者ではない・・・)を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

主の命令は、「主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。」私たちは、いったいどうして、弱り果てて、精神的に疲れてしまうのでしょうか。私たちは、懲らしめの証拠について、また、懲らしめてくださるお方について、それから、懲らしめの目的について、考えていないのではないでしょうか。

懲らしめられることは、何を証明しているのでしょうか。愛されていることです。主は愛されている者だけ、心配されている者だけを、懲らしめられるのです。懲らしめられることとは、のけ者にされている、罰せられていることではなくて、大いに愛されている事実の証明そのものです。私たちはいったい、どうして、心配するようになるか、疲れてしまうのかと言いますと、懲らしめられていることこそが、愛されている証拠であることを忘れているからです。懲らしめられるお方を忘れてしまうからです。他人のせいだ、環境のせいだと思えば、間違いなく、不幸になり、用いられなくなります。懲らしめを与えるお方とは、私たちを心から愛していてくださるお方、主御自身です。

血潮を流して、ご自分をお捧げになった、命をとおして、この計り知れない愛を明らかにしてくださったイエス様こそ、導いてくださり、懲らしめていてくださるお方です。私たちは、なぜ、すぐに召された気持ちになったり、あきらめたり、がっかりしたりするのでしょうか。懲らしめの目的を忘れているから。主は、人間一人ひとりの最善だけしか、考えられないお方です。すべての背後に、主は導いてくださるのであり、そして、すべては、間違いなく、益となるのです。私たちは、主の栄光にあずかる者となり、いつまでも、栄光の主と共に過ごすようになります。

五番目、父は、あらゆる試みや攻撃にまさっています。悪魔は、あらゆる手段を使って、我々をだめにしようと思っています。けど、主に、より頼む者は、ヨセフと同じような態度を取る力を得るようになります。もちろん、初代教会の兄弟姉妹も、いろいろな辛いことを経験しました。主に信頼すればうまく行くのではない。コリント第二の手紙、非常にすばらしい証しです。パウロは、自分の苦しみについて、あまり書いていない。けど、このコリント第二の手紙の中で、急に、別に隠さなくてもいいと思うようになり、証ししました。

第二コリント
1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。

もう、おしまいと思ったんですね。祈った結果として、彼は、急に解かった。「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」まだ、なっていなかった。なった、なったと思っていたのですけど、本当は違ったんです。

第二コリント
1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

本当にすばらしい証しです。四章を見ても、初代教会の人々とは、どうして前向き生活をすることができたのかを書きしるされています。

第二コリント
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

父とは、どういうお方でしょうか。イエス様の六番目の答えは、「父が死よりも偉大なお方です」と。父なる神は、死のかなたにおられ、あらゆる死の恐怖を取り去ってくださいます。イエス様を通して、父を知るようになった者は、慰められ、希望に満ちて、安らかに、死に立ち向かうことができます。

最後に、第七番目のイエス様の父に対する証しは、「父が、わたしの理性にまさっているお方です。」ペテロは、このことを経験し、また、次のように証ししたのであります。

使徒行伝
11:17 こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。

この主について、また、次のように書かれています。皆、暗記していることばです。後ろの壁に書かれていることばです。トヨコ姉妹が書いたことばです。一度もらったんです。個人のために。そして、御代田の家に置いたんですけど、だんだん良心の呵責があって、自分のものにするのは、けしからん。やっぱり、みんなのための宝物だと思いました。読みましょう。

イザヤ
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

父なる神は、奇蹟を行なうお方です。自分の苦しみとすべての重荷を、父なる神の御手に委ねる者は、奇蹟を経験することが許されています。主イエス様を、自分の人生に受け入れた者は、次のことを知ることができます、「私は、父なる神の子であり、私の父なる神に、どんなことでも言うことが許されている。私は、信頼することができる。父は、必ず助けてくださる。」だから、イエス様は、初めに読みましたヨハネ伝、十章の中で、言われました。

ヨハネ
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

この主のみことばほど、信じる者の永遠の安全を、はっきりと証ししているものはないでしょう。

聖書が、『永遠のいのち』という場合、それは決して滅びることがなく、とこしえに続くことを意味しているのであります。イエス様を信じる者は、永遠に失われることがありません。だれも、わたしの手から彼らを奪うことができない。わたしの父は、すべてにまさっています。私たちは、私たちの父の御手の内にいると、イエス様は、約束しておられます。救われた者は、父の御手のうちに、そして、また、イエス様の御手のうちに守られています。これは、永遠の安全を意味しています。それですから、パウロは次のように証しすることができた。

ローマ
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

最後にひとつ、中国で起こった出来事について話したいのです。共産主義者たちは、何十年前かにウォッチマン・ニーという男を、彼の信仰のゆえに、刑務所に二十年間、投獄しました。彼は、文字通り、骨と皮ばかりに痩せてしまいました。しかも、共産主義者たちは、このウォッチマン・ニーと同じ運命にあずからなければならないという恐怖を、イエス様を信じる者たちが持って、恐れることを期待しながら、恐ろしい見せしめとして、町中、彼を引きずり回しました。けれども、結果は共産主義者たちが考えたことと、ちょうど正反対の結果になりました。信じる者は、ウォッチマン・ニーの光輝く顔を見て、主の栄光を仰ぎ見ることができ、どんなことがあっても、主のためにだけ、生きなければならないと、堅く決心したのでした。

父は、すべてにまさって偉大なるお方です。ですから、私たちは、もはや心配したり、恐れたりする必要がない。我々の信頼を通して、主は、栄光を現してくださいます。主に仕えることが許されているということ、そして、また、全能なる主を、父と呼ぶことが許されているということは、何と言うすばらしい特権でありましょうか。


おわり

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