2011年6月21日火曜日

主なる神の安息とキリストにある満足に関する確信

主なる神の安息とキリストにある満足に関する確信
2011年6月21日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エペソ
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

1:12 それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。


2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

ヨハネ
17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

今日のメッセージは最近、準備したものではない。五十五年前に、茨城県の那珂湊にいるあいだに準備したのですけど、準備しても使えなかった。テーマは、「主なる神の安息とキリストにある満足に関しての確信」であります。五つの点について分けて、一緒に考えたいと思います。第一番目、この確信に対する悪魔の攻撃。第二番目、神の安息は、御子の内にある。第三番目、主イエスの尊い血潮の価値。四番目、神の新しい創造。そして、五番目、教会とは何か。

まず、教会である聖なる神の宮とは、本当に、主にとってすべてなのではないかと思います。この教会、イエス様のからだなる教会、神の霊的な宮は、いろいろな面を持っています。そして私たちは、この聖なる神の宮をあらゆる面から見たいと思います。

一番、大切な方面というのは、昇天された、高く引き上げられた主イエス様です。この事実が、我々に影響を及ぼさなければなりません。すなわち、父なる神が天で行われたことは、我々の心の内にも起こるはずです。主なる神は、イエス様を高く引き上げ、すべての名にまさる名をイエス様に賜ったのです。それは、イエス様の御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものが、膝をかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためです。

父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座に着かせたのです。天の現実となったイエス様の支配は、我々の生活においても、現実とならなければなりません。そうしたら、初めて、私たちは主の満たしを経験するようになるし、霊なる神の住まいとして、ご自分の最高の権威と栄光を現すことができるのです。

五旬節に行った聖霊の満たしというのは、生きておられる主なる神の右の座に着かれていたイエス様が、高く引き上げられたことの結果でした。高く引き上げられたイエス様は、初代教会の生活の勝利と力の秘訣、そのものでした。イエス様が、神の御子として高く引き上げられたことは、初代教会の兄弟姉妹のメッセージそのものでした。五旬節のペテロの証しは、高められたイエス様でした。ステパノ、初めての殉教者であるステパノの証しも、高く引き上げられたイエス様であり、使徒たちの永続的な証しとメッセージは、高められたイエス様でした。

確かに、私たちは、イエス様の死の大切さを知っているでしょうし、イエス様が、代わりに死ななければ、もうお終いです。けれども、イエス様の死は大切であっても、もし、よみがえられなければ、高く引き上げられなかったならば、もう、お終いではないでしょうか。

もう一回、繰り返しますと、初代教会のあらゆることの始めは、高められたイエス様でした。初代教会の信者たちは、この事実を確信し、大喜びで証ししました。したがって、高められた主のご栄光をそんなに現しましたから、悪霊でさえも、非常に深い印象を与えたのです。私たちも同じく、この堅い確信を持っているのでしょうか。

この確信に対する悪魔の攻撃は、当然でしょう。悪魔は、ただひとつの目的を持っています。というのは、イエス様の絶対的な支配を妨害しようと努めています。悪魔は、この目的を達するために、嘘を持って、信者たちのイエス様に対する信用と確信を妨害しようと努力しています。『あなたがたは、神の支配の下にすべてを失うだろう。神の支配の下に、あなたがたはいつまでも、神に左右されて、有限な自由だけを持っているのではないか』と。何と多くの人々が、この悪魔の嘘に従うことによって、満たしと、イエス様に対する信用と確信を失ったでしょう。

前に話したのですけど、これは、もちろん嘘です。悪魔の嘘です。イエス様の絶対的な支配の下に従属しているのは、奴隷のみじめな生活ではなくて、勝利と栄光と満たしを意味しています。これは事実です。悪魔の働き、方法は、内面的な破壊を欲しいのです。すなわち、信者たちの高く引き上げられたイエス様に対する信頼を破壊しようと努めているのです。

イエス様に対する信頼とは、とっても大切な要素であります。この世の国々も、自分の政府に対する信頼を強めるように、もちろん、努力します。なぜなら、信用が敵に対する力を意味しているからです。確信している人々は、悪魔にとって、もっとも大きな問題であり、彼のためにもっとも不可能な一致を意味しているのです。

初代教会を見ると、この当時の兄弟姉妹たちの際立っている特徴というのは、信用、確信でした。この兄弟姉妹たちは、質問、あるいは、疑問を持っていなかったのです。彼らの心を全うしているものでしたから、権威と力と喜びに満ちていた人々でした。この確信の土台は何だったのでしょうか。

聖霊が下り、彼らの心の内に高く引き上げられ、御座に着かれたイエス様について証ししましたことが、この確信の土台だったのです。「イエス・キリストは、神の右に上げられた」と、ペテロは五旬節の時、証ししました(使徒行伝2章33節)。

(参考)使徒行伝
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

使徒たちは、イエス様の上げられたことに対する義務を少しも持っていませんでした。イエス様の上げられたことは、私たちも経験しなければならない。これは我々の生活、証し、また、奉仕に対して、力強い要素を意味しているのです。私たちの生きている時代における悪魔の主な目的は、主に対する確信、イエス様の上げられた事実を、行動をもって覆すことです。主なる神の家である霊なる神の住まいの土台は、イエス様が上げられたことに対する確信です。

ソロモンという王様は、主の名のために家を建てたのです。なぜならば、主ご自身が、王様と王様の座を決めたからです。主なる神が、ダビデといっしょに契約を結びました。

第2サムエル
7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

この主のご計画は、ソロモンの生活で、満たされたのですけど、本当は、イエス様に(おいて)成就されたのです。

使徒行伝
2:34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

主なる神は、みことばを成就されました。イエス様は、王の王、主の主となったのです。そして、上げられたイエス様は、神の家の角石(すみいし)となって、私たちはそれぞれ、生ける石となって、霊の宮に築き上げられたのです。霊の神の住まいの要点というのは、イエス様の高く引き上げられたことの絶対的な確信です。

二番目、主の安息は御子、主イエス様の内にあるという点について、一緒に考えたいと思います。イエス様の高く引き上げられたことの絶対的な確信の源(みなもと)とは、心の安息です。ご存知のように、ソロモンは神から選ばれた者でした。そして、主なる神から選ばれた人である王様の名前は、偶然ではなかったのです。偶発事件ではありませんでした。ソロモンという名前の意味は、「安息」という意味を持っています。続いて、ステパノもソロモンについで、おもしろいことを言っています。

使徒行伝
7:47 けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。
7:48 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
7:49 『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。

けれども、ソロモンはもうひとつの名前を持っている男でした。彼の二番目の名前というのはエディデアであり、この意味は、「神の愛された者、神の心にかなう者」という意味です。イエス様は、同じく神の憩いの場所、安息の場所であり、神の愛された者、神の心にかなう者でした。これは何を意味しているのでしょうか。主なる神の家であり、主にある聖なる宮の源は憩いの場所、安息の場所であり、また、神の愛された者、神の心にかなう者であるのです。

有名な大切な箇所を見てみましょうか。

第一コリント
3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
3:17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

第一ペテロ
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

神の宮の目的は、イエス様の最高の権威と栄光を現すことです。私たちが主なる神の憩いの場所、安息の場所、また、主なる神の愛された者、主のみこころにかなう者でなければならないのです。そうしたら初めて、私たちは、聖なる神の住まいとして、ご自分の最後の権威と栄光を現すことができます。

第一の必要条件というのは、生ける石、生き生きとした石が必要です。たとえ、人がいわゆるキリスト教の教えを受け入れたとしても、その人は生ける石とは限りません。また、たとえ、人が教会に来て、集会に出席しても、その人が生ける石とは限りません。けど、人がいったん、よみがえりの力を経験し、角石であるイエス様との生き生きとした交わりを持っている人は、生ける石となったのです。もう一回、読みます。

第一ペテロ
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

角の頭石(かしらいし)と、築き上げられた生ける石の性質は同じです。イエス様と我々、信者は統一を持っているのです。けども、この霊なる神の住まいの本質とは何でしょうか。神の安息の源であるイエス様において、神の満たされた御満足です。主なる神は、御子主イエス様によって、絶対的に満足されました。イエス様は、父なる神の安息です。イエス様の高く引き上げられることは、この事実に対する主なる神の印象です。

三番目、主イエス様の尊い血潮の価値について、ちょっと考えたいと思います。父なる神が、イエス様によって、絶対的に満足されたことの理由は、イエス様の流された血潮です。

私たちが、イエス様の血潮の最も尊い価値を、もっともっと、よく悟らなければなりません。私たちは、最後の時期に生きています。この最後の時期のもっとも大切な要素は、イエス様の流された血です。血潮は、心の安息の要素であり、心の安息というのは、勝利の源です。従って、悪魔は、いつまでも、信者たちの霊的なものに対する心の安息を強奪しようと努めます。

私たちの主なる神からの引き受け、平和、安息、主との交わりは今、現在、絶対的な事実であるということを絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。一方では、私たちは、いつも大きな喜びをもって主の御前に出ることができ、主との平和と安息は自分のものだから、主との交わりを持つことができるのです。他方は、主が、私たちはご自分の御姿に似た者となるように、努力しておられます。私たちは突然、聖霊の働きによって、自分の生活の罪の深さを見るわけです。その時、私たちの主との交わりは、今まででさえも、現在、絶対的な事実であることを、忘れてはいけません。しかし、多くの信者は悪魔の告訴によって、そして、自分はダメだ、あんまり役に立たない者だ、罪にまみれた存在だと感じることを覚えて、主との交わりは、必ず失われたと思い込んでしまうのです。彼らは、自分は神の愛された者ではないと想像することによって、心の安息が失われてしまいます。

あなたは、主イエス様を受け入れた瞬間をよく覚えているかもしれない。その時、あなたは主なる神との平和を持っていました。罪の赦しを確信ながら、大きな喜びを持って、主に感謝したのです。この状態は、二、三ヶ月、続いたかもしれない。突然、霊的な進歩と満たしの問題が起こった時、あなたは根本的な確信と喜びを失ったのです。もうダメだ。失敗した、役に立たないと言う人がたくさんいます。それは、悪魔の働きです。私たちは、それに注意しなければならない。はっきりとした態度をとらなければいけません。

私たちは、とても悪い存在であり、自分の内に書くことのできない罪の深さがあり、自分の絶望を解かったから、もうダメだということを認めたら幸いですけど、これは、主との問題です。義とされたことの確信と、聖化の問題は、一緒にしないように。パウロは、もちろん、イエス様に出会った。ずっとイエス様に仕えた男として告白しました。よく知られている箇所です。

ローマ
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

この事実を、私たちも認めなければ、経験しなければならないことです。けど、主との交わりは、いつも、現在的、絶対的な事実であることを覚えるべきです。なぜなら、この最後の時の悪魔の目的というのは、告訴によって、訴えによって、教会の力を滅ぼそうと努めているのであるからです。

黙示録
12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った(・・・悪魔に打ち勝った・・・)。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

十節を見ると、『悪魔は兄弟らを訴えるものです』とあります。兄弟たちを訴える者の目的は、告訴によって彼らを滅ぼそうと努力しています。けれども、悪魔の告訴に対する兄弟たちの答えは、小羊の血です。これは何を意味しているのでしょうか。イエス様の血潮とは、父なる神のご満足ばかりでなく、我々の安全を意味しているのです。

黙示録
12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

イエス様の血潮は、父なる神のご満足であり、我々の安息でもあります。もし、これを覚えると、悪魔は我々を投げ落とすことはできないのです。血は、救いのために必要なものだけではなく、最後の勝利のために、とても大切なものです。

イエス様の血潮は、父なる神のご満足の土台であり、血潮によってだけ、主イエス様は、高く引き上げられたのです。我々の権威、確信、信頼、力の源(みなもと)は、尊い血潮です。私たちが新しく、権威、確信、信頼、力を求めると、尊い血潮を感謝してください。教会であり、霊なる神の住まいの土台は、イエス様が上げられたことの確信です。そして、血潮なくしては、確信があり得ません。初代教会の著しい進歩について、使徒行伝に書いてあります。

使徒行伝
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

初代教会の突出している特徴は、絶対的な確信でした。兄弟姉妹は、心の奥底から思っていて、イエス様の上げられたことに対して、疑問を少しも持っていなかったのです。霊なる神の宮の目的は、イエス様の権威、また、栄光を現すことです。教会である霊の家は、主なる神のご満足のためなのです。霊なる神の住まいの目的は、エペソ書一章十二節にあるように、「神の栄光をほめたたえる」となるためです。

今日のテーマは、「神の安息とキリストにある満足に関しての確信」です。その確信に対する悪魔の攻撃、神の安息は、御子の内にある主イエス様の尊い血潮の価値について今、考えました。

四番目は、主なる神の新しい創造について、ちょっと考えたいと思います。はじめに、主なる神は創造を、もちろん、完全なものとしてお創りになりました。創世記を読むと解かります。

創世記
1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

けれども、悪魔の働きによって、全部、ダメになって、混沌だけが残ったのです。混沌たる創造から、主なる神は、一つの国民、すなわち、イスラエルを取り出されたのです。そして、イスラエルについて、主は、「イスラエルはわたしの栄光である」と言われました。何ということばでしょうね、「イスラエルはわたしの栄光です。」ソロモン王の政府の始めにそうだったんです。イスラエルは神の栄光でした。けども、もう一回、全部ダメになって、混沌と罪だけが残ったのです。この混沌たる、言い表すことのできない絶望的な状態に対する主なる神の答えは、イエス様でした。御子イエス様について、父なる神は言われました。

マタイ
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

イエス様は、父なる神の絶対的なご満足であったことは明らかです。同じく教会であるイエス様のからだも、父なる神の絶対的なご満足であるべきです。

第二テサロニケ
1:10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。

よく知られているエペソ書の五章27節、教会とは、『栄光の教会』と呼ばれています。

エペソ
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

これは、霊なる神の住まいの目的であり、主なる神の絶対的なご満足であるべきです。混沌たる罪にまみれた人類に対する主の最後の答えというのは、教会であり、霊なる神の住まいであり、新しい創造です。

最後の質問とは、教会とは何かということです。また、言い換えると、主なる神の住まいとは何かという点について、ちょっとだけ考えてみたいと思います。この答えは、非常に簡単です。教会とは、イエス様です。けど、イエス様だけではなく、あなたの内に住んでいる、私の内に住んでいる、イエス様です。コロサイ書一章二十七節、非常によく知られている言葉です。

コロサイ
1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

教会である霊なる神の住まいとは、イエス様ご自身であり、また、イエス様に結びついている兄弟姉妹の分かれていない統一です。これが教会です。教会とは、百万の教派、グループ、交わりに分かれているキリストではありません。あなたと私は教会であり、教会とは、我々の内に住んでおられるイエス様です。教会とは、霊なる神の住まいとは、イエス様です。そして、私たちの内にイエス様がなければ、決して教会ではありません。これを覚えるべきです。これは悪魔に対する大きな力を意味しています。

ですから、悪魔の務めとは、信じる者のあいだで疑いを招くことです。今日は、全世界のどこででも、知らない人の話を聞くと、「これは本当か、間違ったところがあるのではないか」という質問を設ける人々が非常に多い。これによって悪魔は勝利を得ます。「私たちこそ、純福音を持っている」と言える人々は、信じる者のあいだ、しばしば、悪魔の道具として、いがみ、疑い、不信仰を引き起こします。この働きによって、教会の内面的な力は失われてしまいます。

悪魔は、もう一つの方法によって勝利を得ます。分かれていない統一とは、言い表すことのできない価値であり、勝利と進歩の秘密です。したがって、主から独立している他の考え、他の声、他の意思は、悪魔が分離させようと努めています。教会は、どうして、そんなに少ししか前進しないのでしょうか。教会は、どうして、そんなに弱くなっているのでしょうか。これは、悪魔の隠れた仕事です。けど、私たち、教会として、「この悪魔の力に打ち勝つ」と、聖書ははっきりと言っています。

ですから、私たちは今から、他の信者たちに対する不信用を捨てましょう。もし、兄弟姉妹が間違ったところを持っていても、兄弟姉妹の内にいるイエス様を見、このために感謝すべきなのではないでしょうか。そうしたら、初めて教会は、栄光とされた教会になることができるのです。初代教会の特質とは、強い統一でした。初代教会の兄弟姉妹は、同じことについて話し、同じ考えを持っていましたし、心を全うしている人であったことが明らかです。そして、悪魔の軍勢は、何と多く敗北したでしょう。けれども、悪魔がすぐ、ひがみ、疑い、不信用によって、教会の力を弱くしました。そして、しばしば、信者たちの勝利の生活もダメになってしまったのであります。大切なのは、兄弟姉妹の内にいるイエス様を認めることなのではないでしょうか。

私たちは、ただひとつのことをやらなければなりません。というのは、主と共に前進しなければならない。そうしたら初めて、エペソ書のようになります。エペソ書3章の21節、教会について考えると、これは最も大切な箇所のひとつなのではないでしょうか。

エペソ
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

教会とは、あなたの内にいるイエス様であり、栄光の望みです。私たちは本当に、イエス様を受け入れた人に会えば、すぐに、「ああ、これは私の兄弟姉妹である」と、解かります。そして、私たちが一緒に過ごす時間は、本当に祝福された時でしょう。けれども、私たちが教理について相談し始めると、すぐに、『ああ、私たちは賛成しない』と告白しなければならないのではないでしょうか。もし、間違ったところ、間違った教理を持っていても、兄弟姉妹の内にいるイエス様を見、このために感謝すべきなのではないでしょうか。霊なる神の住まいとは、イエス様ご自身です。そして、私たちは、イエス様のほかに、何者をも支配者としてはならない。これを絶えず、覚えるべきなのではないでしょうか。

次に教会とは、兄弟姉妹の内にいるイエス様であるということも、絶えず覚えるべきです。そうしたら、初めて、私たちは、主の恵みを褒めたたえる者となる。色々な教理について、私たちの考えが良いかどうか解からない。もし、ちょっと間違っても、イエス様はそれを赦してくださいます。けれども、ただひとつのことをはっきりと解かっています。と言いますのは、我々は罪にまみれた失敗した存在として、イエス様の尊い血潮によって、主の大いなる恵みを経験した者であったことを解かっています。六十六年前、イエス様を受け入れた者として、今日も同じく、尊い血潮を褒め称えます。主なる神の大いなる恵みを感謝いたします。そうすると、主に、教会によって、栄光が世々限りなくあります。

私たちは今日、主の大いなる恵みを新しく、ひたすらに、感謝しようと思いませんか。血潮によって洗われた主の恵みを感謝することによってだけ、主なる神に栄光が与えられるのです。自分の力で、自分の思うとおりに、主に奉仕することは、決して主に栄光を与えません。

次に主なる神が、私たちへの大いなる恵みを感謝することによってばかりでなく、私たちは、主と同じ姿に変えられることによっても、主が栄光を与えられるのです。パウロは、次のように書いたのです。コリントにいる兄弟姉妹は、大変な状態だったんですけど、それにしても、パウロは彼らに言ったのです。

第二コリント
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

主のご栄光と、主と同じ姿に変えられることは、結びついています。私たちは、主と同じ姿に変えられることによって、神に栄光を与えられるのです。私たちは、主に似た者とならなければならない。そうしたら、初めて、主に栄光が与えられるのです。

次に、私たちが実を結ぶことによって、主に栄光が与えられるのです。

ヨハネ
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

この「実」というのは、イエス様のご性質であり、霊、御霊の実であるのです。有名なガラテヤ書、五章二十二、二十三節を見ると書かれています。

ガラテヤ
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。

それによって、私たちの父は栄光をお受けになるのです。私たちの奉仕、私たちの毎日の生活によって、父なる神は栄光をお受けになるのでしょうか。自分の力で結んだ実は問題ではなく、問題は御霊の実です。

最後に、聖徒たちの忍耐によって、主なる神は栄光をお受けになると、聖書は言っています。この事実を覚えるべきなのではないでしょうか。聖徒たちの忍耐によって、父なる神は栄光をお受けになるのです。色々な困難、苦しみ、問題が起こると、私たちは何もすることができない。これを経験したのでしょうか。けど、このような状態で耐え忍ぶ者によって、神は栄光をお受けになるのです。

第一ペテロ
2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。

耐え忍ぶことによって、忍耐によって、父なる神は栄光をお受けになるのです。何と多くの未信者は、信者の忍耐と耐え忍ぶことによって、深い印象を与えられたでしょう。また、何と多くの信者は、聖徒たち、兄弟姉妹の忍耐を見て、強められたでしょう。私たちが耐え忍んでいるとすれば、これこそ、主なる神に喜ばれることです。父なる神に、教会により、また、イエス様によって、栄光が世々限りなくあるように。そして、主なる神は、聖なる神の宮である我々によって、栄光をお受けになるように。


おわり

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