2011年6月7日火曜日

永遠のいのち(吉祥寺学び会)

永遠のいのち
2011年6月7日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

創世記
3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

ローマ
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

5:18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

今朝の題名は、今、読んだ箇所を考えると分かります。すなわち、『永遠のいのち』であります。永遠のいのちは、聖書の中に含まれている、もっとも、大切な真理です。どうしてでしょうか。三つの答えがあると思います。

第一番目、永遠のいのちを持っていない人は、誰も、天国に行くことができないからです。天国には、主なる神のいのちがあるだけです。その他のいのちは、天国にはありません。この永遠のいのち、すなわち、主なる神のいのちを持っている人だけが天国へ行きます。そうでない人は、天国へ入れません。ですから、永遠のいのちは、聖書の中で一番、大切な事柄です。

どんな人間も、永遠のいのちを持たなければなりません。ですから、これは、欠くことのできないものです。神のみことばである聖書によると、すべての人間は、死んでいるんですって。霊的に死んでいます。エペソ書を見ると分かります。パウロが、エペソにいる、主の恵みによって救われた兄弟姉妹に書いたことばです。

エペソ
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

ローマ
6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

永遠のいのちとは、手柄ではない。努力した報いでもない。ここで賜物、贈り物、プレゼントであるとあります。

人間は三つの要素からなっています。それは、精神と魂と肉体です。創造主が、人間をそのようにお造りになったからです。けれども、主なる神が、エデンの園に人間を置き、その園を耕し、守らせられた時、主なる神は、人間に善悪を知る木を注意なさったのです。すなわち、主なる神は、人間に、創世記2章17節に書いてありますけど・・・、

創世記
2:17 善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。

こういうふうに注意されました。けれども、人間は、主なる神の言うことを聞かないで、それを取って食べました。その第一の人が罪を犯した時、その人の何が死んだのでしょうか。取って食べると必ず死ぬと言われたでしょう。何が死んだのでしょうか?体ですか。そうではない。アダムの体は、以前と全く同じように生きていました。それとも、その人、アダムの魂が死んだのでしょうか。魂が死んだのでしょうか。アダムの理解力が、死んだのでしょうか。または、感情が死んだのでしょうか。いいえ、絶対にそうではない。その第一の人、アダムは、まだ、考えることもできたし、感ずることもできたし、計画することもできたのです。そうすると、何が死んだのでしょうか。

精神が死んだのです。アダムは、自分の精神によって、主なる神との交わりを持っていたのです。罪を犯す日まで、主との交わりを持っていたのです。けれども、罪を犯したその時、主なる神とのつながりが切れたのです。交わりがなくなったのです。ですから、人間の精神は、生き返らなければならないのです。生まれながらの人間の体は生きています。魂も生きています。けれども、精神は死んでいます。そして、その精神を、新しいいのちに、新しくされなければなりません。生まれながらの人間は、主なる神によって、永遠のいのちを、精神にもらわなければなりません。さもないと、永遠に死ななければなりません。永遠のいのちが、なぜ、聖書の中で、大切な真理であるかと言いますと、どんな人も、永遠のいのちを持たなければ、永遠に死んでしまうという点にあります。

第二番目の理由は、永遠のいのちは、イエス様がこの新しいいのちを与えるために、この世に来なければならなかったから大切です。イエス様の証しのひとつとは、ヨハネ伝十章十節です。

ヨハネ
10:10 わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

永遠のいのちを与えるために、イエス様は天から来られました。イエス様は、人間が永遠のいのちを持つために、死ぬことのないために、すべての人間のために犠牲になり、代わりに、罪滅ぼしのために死なれたのです。もし、主が来られなかったら、どうでしょう。恐ろしい死を来たらす死を取り去ってくださらなかったらどうでしょう。永遠のいのちを、罪人にくださらなかったら、すべての人間は、死と名づけられる恐ろしい状態に、永遠に留まらなければならなかったでしょう。

人間の種類は二つです。人間は、魂と体が生きていますから、生きているように見える。けれども、主なる神が人間を眺めた場合、人間をただ二つの種類、すなわち、生きている者と、死んでいる者の二つに分けて見ます。私たちは、この瞬間に、この二つの種類のうちのどちらかに属しているわけです。主なる神から見れば、私たちは、生きているか、死んでいるかのどちらかなのです。

私たちは、道を歩いている人を見て、「この人は、確かに生きている」と、言います。私たちは、それを見て、その人の体が生きていることを考えるでしょう。その人は、肉体的ないのちを持っています。けれども、その人の精神は、死んでいるかもしれない。もし、死んでいるならば、まだ、生まれ変わっていないならば、主なる神の目から見ると、その人は死んでいるのです。次に、ある事務所で熱心に働いている商人を見てみましょうか。私たちは、「この人こそ、確かに生きている」と言います。けれども、私たちは、ただその人の魂のいのちが働いていることだけを考えているのではないでしょうか。すなわち、その商人は、考えることができ、感ずることができ、欲することもできます。だから、生きていると私たちは判断します。けれども、主なる神の判断は、まったく違います。

主イエス様に出会っていない人間、イエス様との交わりを持たない人間は、死んでいると主は言われます。私たちは、限りあるいのちについて話しますが、主なる神は、永遠のいのちについて話されます。

私たちは、今度、イエス様を信じていて死んだ人の葬式に参加します。そして、その人の屍(しかばね)を見て、そのとき、私たちは、「この人は死んでいる」と、言うかもしれない。私たちは、その人の肉体の死を考えているのです。その人は、もはや考えることも、動くこともできない。けれども、主なる神は、「この人は生きている」と、言われるかもしれない。主なる神の言われることがわかりましたね。その亡くなった信者の精神は、生きたのです。永遠のいのちを受け、生まれ変わっていたのです。ですから、たとえ、肉体は死んだとしても、実際には、生きているのです。なぜなら、その人は、罪や死によって犯されることのないいのちを持っていたのだから。そのいのちこそは、もちろん、イエス様にあるいのちです。

どうして、永遠のいのちは大切かといいますと、三番目の理由は、永遠のいのちは、人間の永遠の運命を、決定するから、もっとも大切な真理です。有名なヨハネ伝三章をみてみましょうか。聖書の中で一番、大切、有名になった言葉です。

ヨハネ
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。・・

あなたを、私を、愛された。

3:16 ・・・それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

永遠のいのちを持っている者は、決して滅びません。反対に言えば、永遠のいのちを持っていなければ、人間は、滅びなければならないのです。けれども、滅びるということばは、何を意味しているのでしょうかね。私は、それを知りません。けれども、滅びるとは、いのちの反対であり、また、それは、非常に恐ろしいことであるということだけ、知っております。主なる神は、永遠のいのちを知らない、永遠のいのちをいらないと言う人間の裁きを表すために、このことばを遣わされたのでしょう。

ヨハネ
3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

一方にはいのち、他方には神の怒りがあるのです。主なる神の怒りとは、何を意味しているのでしょうか。私は、それを知らない。けれども、ここに書いてあります。また、私たちは、この言葉をうそだと言うことはできません。もし、私たちが、永遠のいのちを受けたくなければ、主なる神の怒りを受けるのです。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

イエス様の言われたことばです。イエス様御自身が真理そのものであるから、この御言葉も真理です。信じても、信じなくても。

このみことばにも、二つの面、二つの道、すなわち、いのちと、滅亡を見ることができるのです。私たちが、永遠のいのちを受け取りますと、死に打ち勝ったことになります。死とは、なんでしょう。滅亡とは、なんでしょう。主なる神が、それをご存知です。私たちは、それを知ろうとは思いません。私は、自分が永遠のいのちに向かって進んでいるのだと言うことが分かっているから、それで十分です。永遠のいのちを持っていないと言うことは、死、滅亡を意味しているのです。同じく、ヨハネ伝10章28節、イエス様は次のように言われました。

ヨハネ
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

いのちの贈り物を拒めば、滅亡するだけです。私たちは、どちらかに決めなければならない。結局、人間は自分の将来を決めます。人間は、自分の運命を決定する権利を、主から与えられています。どうでしょうか?私たちは、この永遠のいのちを持っているのでしょうか。それとも、まだ、持っていないのでしょうか。これに対する答えによって、私たちは幸福にもなり、不幸にもなるのです。もし、永遠のいのちを持っていなければ、将来は、確かに真っ暗闇です。永遠のいのちを持っていれば、将来は、他に比べることのできないような栄光に満ちたものであると、イエス様は、はっきり言われました。

あるインドで働いた女宣教師の夢を紹介します。彼女は、次のように、見た夢について語りました。

『青草の生えている牧場(まきば)に座っていました。足元には、果てしのない深い広い穴が大きく口を開けていました。私は、下を見おろしましたが、その穴の底は見ることができなかったのです。そこには、雲のような暗いものが、また、荒れ狂う竜巻のようなものだけが見えたのです。』

『また、死んだ人を包んだ蓑に似たような、大きなうつろで、測り知れない深い穴がありました。私はこの穴を見たとき、目がくらんで、後ろに思わず飛びのきました。長い列を作って、青草の上を、あちらこちら歩いている人々がいました。その人たちは、皆、その穴に向かって歩いていました。』

『それに、小さな子供を腕に抱いて、もう一人の子供を連れていた母親を見ました。その三人は、穴の淵に向かって、近づいて行くではありませんか。私は、その母親がメクラだと言うことが分かりました。母親は、また一歩前に進もうとしましたが、足は、穴のところを、踏んだのです。子供たちと一緒に、落ち込んでしまいました。落ちるときの叫び声は、なんと言う声だったでしょう。』

『いろいろなところから、たくさんの人々がやってきました。みんな、メクラでした。完全にメクラでした。皆が、穴に向かって歩いて行きました。彼らは、突然、落ち込んで恐ろしい叫び声をあげました。また、他の人たちは黙ったまま、深みに足を踏み入れ、声もなく、落ち込んでいきました。』

ここまで述べましたのが、その宣教師の夢です。

前に言いましたように、主なる神の目から見ると、人間は、二つの種類に分けられます。それは、精神的に死んでいる者と、精神的に生きている者のふたつです。この二つの種類の区別は、どこにあるのでしょうか。精神的に死んでいる人々は、自分が死んでいると言うことを知らないのであり、精神的に生きている人々は、自分が永遠のいのちを持っていることを知っているのです。そこに違いがあります。

私たちの周りにいる多くの人々は、精神的に死んでいます。その方々は、自分たちもメクラであり、穴、すなわち、地獄に向かって歩いていることを知りません。今、生きている人間は、みな、永遠の地獄で、すなわち、主なる神から遠ざかって、永遠の死の中に生きるか、または、主なる神の家、すなわち、栄光と永遠のいのちに生きるか、どちらかです。人間は、この世に生きていますが、その短い年月の間にその人間の精神が、また、その肉体に宿っているあいだに、永遠の死か、または、永遠のいのちが決定されるのです。

もしかすると、今日も、まだ救われていない、永遠のいのちを持っていない方々がおられるかもしれません。その方々は、心の中で、どうしたら永遠のいのちに至ることができるかと思案していることでしょう。ただ、一人の生きておられる主なる神だけが、その道を指し示そうとしておられます。神のみことばである聖書は、主なる神は、もう既に与えられたと言っています。私たちは、救いを買うことも、働いて儲けることもできません。救いは、自由な贈り物であり、この救いは、贈り物としてもらわなければならない。そうでなければ、救いを我々のものとすることはできません。ローマ書の中でも、『永遠のいのち』と書いてあります。

ローマ
6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ヨハネ
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

このことばは、なんと、はっきりとしていることでしょう。なんと、力強いことでしょう。永遠のいのちは、贈り物です。永遠のいのちは、贈り物であるから、働きや人間の手柄によっては、自分のものにすることはできません。絶対に、できません。主なる神は、私たちに永遠のいのちを与えられました。このいのちは、神のひとり子、すなわち、イエス様のうちにあると、聖書は言っています。

第一ヨハネ
5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせる(・・・確信させる・・・)ためです。

今まで、ひとつの点について考えて参りましたね。すなわち、聖書の中に含まれているもっとも大切な真理、すなわち、永遠のいのちについてでした。

今から、主なる神の道、すなわち、イエス様と一緒になることについて、少し、考えて終わりたいと思います。永遠のいのちは、私たちと主イエス様のあいだの問題です。すなわち、永遠のいのちとは、イエス様との一致です。聖書によると、永遠のいのちは、イエス様のうちにあると、はっきり言っています。ですから、もし、私たちが永遠のいのちを持ちたいのなら、イエス様が、我々の心に入らなければなりません。イエス様ご自身が、いのちそのものです。もし、私たちがイエス様を受け入れようとしたくなければ、私たちは何も持っていない。しかし、イエス様を受け入れることによって、私たちは満たされ、結局、すべてを持つ者となります。

ヨハネ伝17章の3節を見ると、イエス様は、次のように証ししました。このヨハネ伝17章を今日、全部は読まないけれど、宿題としてあげましょうか。うちへ帰って、17章を全部、読んでください。イエス様の祈りです。イエス様の告白です。イエス様の証しです。けれども、3節だけ、読みます。

ヨハネ
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

イエス様との出会いによって、人間は永遠のいのちを持つようになる。同じくヨハネ伝、5章39節は、イエス様が、当時のいわゆる宗教家たちに対して言われた言葉です。

ヨハネ
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

これは悲劇的です。けど、どうしたら、イエス様は、いのちそのものであられるイエス様は、我々の心に入ることができるのでしょうか。ただ、生まれることによってのみ、それができるのです。ですから、イエス様は、同じくヨハネ伝の3章3節で言われました。

ヨハネ
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

もちろん、救われ得ない。生まれることなしに、いのちはありません。普通の体のいのちは、この世に生まれることによって得られます。それと同じように、霊的ないのちも、永遠のいのちも、そのようにして生まれます。誰でも、新しく生まれなければならないとあるとおりです。永遠のいのちであるイエス様が、我々の心に入って来なければならないのであり、イエス様が入るとき、私たちは、いのちを、すなわち、永遠のいのちを持つのです。パウロは、「キリストが私のうちに生きている」と言うことができたのです。

私たちは永遠のいのちを持ってるのでしょうか。今、この瞬間に、キリストは、我々のうちに生きていると言うことができるのでしょうか。私たちがいかに信心深い生活をしていても、また、いかに良い生活をしていても、そのようなことは重要ではありません。永遠のいのちを持っているか、いないかということです。もし、私たちがイエス様を持っていれば、私たちは、いのちを持っており、イエス様を持っていなければ、永遠のいのちを持っていないのです。もし、私たちが生まれ変わっているならば、イエス様を持っており、生まれ変わっていないならば、イエス様を持っていない。

永遠のいのちを得るために、イエス様のみもとに行こうではないでしょうか。イエス様は、『私のもとに来る者を私は決して捨てません』と、約束しておられます。

今まで、聖書の中に含まれている、もっとも大切な真理、すなわち、永遠のいのちについて、それから、主なる神の道、すなわち、イエス様と一緒になることについて考えたのですけど、最後に、主なる神の与えようとしているのは、ひとつの教えではなく、いのちであるということについて、考えてみたいと思います。

まことの救いは、死んだ、冷たい、かたちだけの信仰ではありません。また、決まった形式でも、儀式でもありません。また、律法の本でもありませんし、たくさんの戒めでもないのです。まことの救いは、人の心の中に住む、主なる神のいのち、そのものです。そのいのちは、もちろん、イエス様です。イエス様ご自身です。このいのちは、生きていて、実際にある、真の個人的な経験です。主なる神のいのちは、人間の心を通って流れているのであり、人間は主なる神のものとなっているわけです。

まことの救いはいのちそのものです。イエス様はそれを教えるために来られました。イエス様は、御自分のいのちを与えるために死なれたのです。いのちは、死から出るということを、考えていただきたいと思います。イエス様は、『わたしは、いのちを得させるためにきた』と、言われました。この事実が、聖書の中心、そのものです。たくさんの掟、また、戒めは重要ではありません。人間は新しいいのち、永遠のいのちを必要とするのです。このいのちがなければ、他のものはみな、全く役に立たないものになってしまいます。

ヨハネ
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

個人的に、イエス様を体験的に知ることです。私たちはイエス様を知っているのでしょうか。イエス様は、この瞬間に、我々の心にいるのでしょうか?私たちは、主のいのちを持っているのでしょうか。今日、このいのちを自分のものにしたいのでしょうか?これが一番、大切なことです。なぜならば、もし、永遠のいのちを持っていないならば、滅びなければならないからです。真(まこと)の救いは、もちろん、外側の形式や儀式を大切にしません。心の問題です。だから、ヨハネは次のように書いたのです。『この方を受け入れた人々・・・、』聖書の教えを学んだ人々ではない。

ヨハネ
1:12 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

イエス様を受け入れることは、したがって、大切です。ですから、私たちは、まじめにお願いします。どうか、この良き訪れを信じ、イエス様のために、自分の心の扉を開き、イエス様を心に入れてください。イエス様は、入ることを待っています。イエス様は、我々の心に入ることを、心から願っています。黙示録3章20節に、そう書いてありますから。

黙示録
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら・・・

あけたくなければ、もちろんダメ。

3:20 ・・・あけるならわたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

親しい交わりを持つようになるとあります。私たちは、イエス様に反対することができますか。私たちは、まだ、イエス様を外に立たせておくのでしょうか。イエス様が扉をたたくのを聞いても、開けないままでいるのでしょうか?

私たちは何をやりたいのでしょうか?イエス様は我々に無理にやれとは、決して言わない。ドアの鍵は、ただ内側にあります。すなわち、我々人間の側にあることを考えるべきです。私たちが、その扉を開かねばならない。私たちが扉を開くと、その瞬間に、イエス様は入って来られるのです。私は入りたいと、イエス様は言っておられます。イエス様を入れますか?

どうか、この恵みを受け取ってください。さもなければ、遅くなるかもしれない。問題はまったく、はっきりとしています。それは、私たちと、イエス様とのあいだの問題です。私たちはイエス様を受け入れたいのでしょうか?それとも、拒みたいのでしょうか?イエス様を受け入れなさい。そうすれば、永遠のいのちがあなたのものとなるのです。これは、すなわち、永遠のいのちとは、なんと言う贈り物なのでしょうか。なんという救いの計画でしょうか。聖書は言っています、『私たちはこんなに尊い救いをなおざりにしては、どうして報いを逃れることができようか。』

神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そして、このいのちが御子のうちにあるということです。そして、聖書の呼びかけとは、何であるかといいますと、確かに今は、恵みのとき、今は救いの日です。だから、今、今日、この瞬間、自分をイエス様に明け渡そうではないでしょうか。


おわり

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