2011年6月14日火曜日

無力な主イエス

無力な主イエス
2011年6月14日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

使徒行伝
5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

5:5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
5:6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
5:7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずにはいって来た。

5:8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です。」と言った。
5:9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」
5:10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。はいって来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。
5:11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。

ヘブル
12:14 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

パウロの生活を観察すると、主の御心をはっきりと悟ることができるのではないかと思います。パウロは、いつも宣教師、伝道者として、歩き回りましたが、けれども、彼は、ただひとつの目的を持っていました。すなわち、イエス様のからだである教会を建てようと、努めていました。

どうしてであるかと言いますと、イエス様の御目的も同じです。「わたしは、わたしの教会を建てよう」と。この時代における主なる神の主な目的というのは、イエス様のからだ、すなわち、「からだなる教会」です。パウロは、この御旨の奥義を啓示によって、見ることができました。そして、誤解があっても、迫害があっても、パウロは心を全うして、イエス様のからだである教会のために働いたのです。我々は、何の目的を持っているのでしょうか。御存知のように、イエス様も、からだなる教会も、いわゆる宗教と関係のないものです。いのちです。

聖書は、他の宗教と違って、上からの啓示、神からの啓示です。ひとつの教えではありません。ひとつの教えではないから、学ぶことはできません。聖書は、主なる神のみことばであり、そして、イエス様も神のことばと呼ばれています。したがって、私たちはひとつの教えを学ぶ代わりに、ひとつの人格、すなわち、イエス様ご自身を知ることです。私たちは、イエス様について、色々な知識を得るかわりに、イエス様ご自身を知るべきです。救われた人々とは、どういう人々をいうのでしょうか。イエス様を体験的に知るようになった人々です。もし、生ける唯一の神が罪人の内に、御子、主イエス様を啓示された時、その罪人は救われます。

同じように、イエス様のからだなる教会は、何であるか、頭で理解することはできません。もし、パウロが、啓示を必要としていたならば、我々も啓示を必要とするのではないでしょうか。必要なのは、決まった必要条件を満たすのでしょうか。あらゆる時代においても、主なる神の完全な御心を実現することだけに、主の祝福があったということが、聖書にはっきり記されています。旧約聖書のイザヤ書から、一箇所読みます。

イザヤ
59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

だから、悪口を言う人と陰口をききたい人がいます。不信仰と人間的な考え方は、兄弟姉妹の中で、あるのではないでしょうか。霊的にコジキの生活をする人は、少ないのではないでしょうか。絶えず覚えるべきなのは、兄弟姉妹に対して抱いている思いは、結局、イエス様を的(まと)として、これに向かうことなのです。

兄弟姉妹の不一致は、弱さだけではなくて、イエス様を否定することも含まれています。一致は、イエス様の栄光を現し、不一致は、人間の人間たるゆえんを現します。一致は、兄弟姉妹のお互いの愛を現します。離れること、分裂の霊は、イエス様のからだなる教会の一致を壊してしまいます。

すべての信者に対する愛の欠乏は、主イエス様を否定することを意味します。イエス様は、からだの一致を通して、栄光を現されなければいけません。悪魔は、あらゆる統一が大嫌いです。ですから、悪魔は、人間を通して、あらゆる時代においても、この教会の統一を破壊しようと努力しました。この悪魔の攻撃によって、初代教会のアナニヤとサッピラは、悪魔の道具となって、大きな罪を犯したのです。ですから、教会は制限されたのです。信者たち皆が生きている神の宮です。聖霊の宿であると書いてあります。よく知られている箇所ですけれど、もう一回、読みます。

第1コリント
3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
3:17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神が(・・・神ご自身が・・・)その人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

イエス様のからだである教会は、主なる神の目的、また、御心であるから、主の宮を破壊する者は、破壊する者に対する裁きは、本当に厳しいのであります。神は、その人を滅ぼすとあります。悪魔は、アナニヤとサッピラを通して、神の宮、すなわち、教会の統一を迫害しましたから、主から恐ろしく裁かれました。主なる神は、御自分の宮を破壊する人を滅ぼします。絶えず覚えるべき真理なのではないでしょうか。私たちは、このみことばの厳しさを感じているのでしょうか。神はその人を滅ぼすとあります。

けれども、同じく、罪を認めた人は、一番、恵まれている人という事実も経験したでしょう。認めれば、へりくだれば、主はあふれるばかりの恵みを与えてくださるのです。もし、一人ひとりが陰口の罪を告白しなければ、隠されているすべての罪を告白しなければ、主は祝福することはないし、導くこともないし、守ることもできません。集会にきても、ひたすら祈っても、けれども、ひとつにならなければ全部、無駄です。罪を告白したら、初めて聖霊の自由があり、イエス様の喜びと平安を経験することができます。

私たちのイエス様は、生きておられますが、けれども、無力なのではないでしょうか。無力な主イエス様について話すと、話すのは一体、どういうことなのでしょうか。間違いなく、私たちは、主なる神の全能について話しますけれども、主の制限、イエス様の有限については、あまり話しません。一方は、イエス様は全能なる神であり、他方は、イエス様が限りを持っているのです。解かるために、2、3箇所見てみましょうか。

マタイ
13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

多くの信者の悩みとは、実がないということです。けれども、みことばは力強いものであることを、聖書ははっきりと教えています。たとえば、イザヤ書55章11節を見ると次のように書かれています。

イザヤ
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

また、イエス様は弟子たちに言われました。有名なヨハネ伝15章16節。

ヨハネ
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

解かるように、主なる神のみことばは力強い。実を結ぶみことばです。けれども、罪がみことばをふさぐので、実を結ばなくなる人のことであると聖書は言っています。何という多くの信者は、奇蹟を行う力強いみことばを制限するのでしょう。私たちは聖霊に満たされているか、空っぽの樽(たる)のような者であるかのどちらかです。どうしてですか?主のせいですか。みことばは、あまりにも役に立たないものなのでしょうか。聖書の答えは、このイザヤ書、59章の1節、2節なのではないかと思います。

イザヤ
59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

もう一箇所、マタイ伝23章を見ると、内容的に同じことが書かれています。

マタイ
23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

何という大きな主のあこがれでしょう。イエス様は、民との親しい交わりを欲しかったのです。あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを望まなかった。めんどりが、翼の下にそのひなを集めるように、主が我々を全能の下に集めようと、愛の努力をしました。けれども、多くの信者は、応じようとしなかったのですから、イエス様の全能と富と満たしを経験しなかったのです。

これは、主のせいでしょうか?あなたの救い主の声を聞いてください。わたしは、あなたとの親しい交わりを欲しいのです。この主イエス様のあこがれに対する答えはどうでしょうか。私たちは、かたくな、傲慢な心を持って、自分の選んだ道を続けようと思いますか。それとも、自分の罪を新しく悔い改めて、尊い流された血に感謝し、自分を新たに主イエス様に明け渡そうと思いませんか。天と地獄が、私たちがこれからイエス様に答える答えを、聞き耳を立てて待っています。もし、イエス様が、「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」と言えば災いです。もし、人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすのです。「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。」何という、厳しいことばでしょう。

旧約聖書の民数記を見ると、主の悩みについて書き記されています。

民数記
14:22 エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、
14:23 わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。

主なる神は、イスラエルの民にカナンという国を、確かに約束されました。イスラエルの民にとって、カナンの地は、食料、喜び、満たし、実、勝利を意味していましたけど、民は不信仰であり、不従順でしたので、約束された国へ入れなかったばかりではなくて、二百万人の人々が、途中で死んでしまいました。全能の神は、不信仰の罪によって、制限されたのです。罪によって無力になった主は、ご自分の約束を実現することができませんでした。また、イザヤ書の59章1節、2節を見ると、結局、同じ事実について書かれています。

イザヤ
59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

主はどうして、私たちの多くの祈りを聞くことができなかったのでしょうか。信者たちは、しばしば、喜びのない、空っぽの樽のようなものです。どうしてでしょうか。これは、主のせいでしょうか。いいえ、絶対にそうではない。

イザヤ
59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

全能なる神が、何もできない。罪によって、主の全能が、有限にされています。批評的な考え方によって、隠された罪によって、悪口を言う人によって、主の御手が短くて救えないのであり、その耳が鈍くて聞きえないのであると、この箇所を通して、はっきり知ることができます。私たちは決して主を助けることができません。できることは、主を妨げることです。自分の罪を新しく、半分だけではなくて、徹底的に悔い改め、尊い血潮に感謝し、自分を新たに、イエス様に明け渡そうと思いませんか。

マラキ書の3章10節も、よく引用される箇所です。主は祝福したいけど、条件付きです。

マラキ
3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

何ということばでしょう。万軍の主は、イスラエルのために、あふれる恵みを注ごうと思われたんです。けれども、主は、これをやることができなかった。何でもできる方が、できなかった。なぜなら、信者たちは、十分の一を主に捧げませんでしたから。わたしたちは、十分の一、また、自分自身を大喜びで、主に捧げますか。十分の一、全部、わたしの倉に携えて来なさい。これをもって、わたしを試み、わたしを試み――すごいのではないでしょうか――わたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふれるばかりの祝福をあなた方に注ぐか、否か、見なさい。万軍の主が言われる。もし私たちが必要条件を満たしたら、あふれる恵みを経験します。

マルコからまた、一箇所を一緒に読みたいと思います。

マルコ
1:40 さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」
1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
1:42 すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。
1:43 そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。
1:44 そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
1:45 ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。

何という奇跡だったでしょう。

マルコ
1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
1:42 すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。

そして、イエス様は、この癒された人に、命じられました。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。」しかし、彼は出て行って、自分の身に起こったことをさかんに語りました。ですから、イエス様は、もはや、表立っては町に入ることができなくなりました。万軍の主が、「きよくなれ」と言われた時、その人はきよくなりました。けれども、同じ全能の主は町に入ることができなくなりました。「イエスはもはやできなくなった」と書いてあります。

不従順は、主が制限されます。人間的な考えによって、全能の主が、無力になります。主はどうして、続いて福音を述べ伝え、奇跡を行うことができませんでしたか?主から癒された人、イエス様を経験した人、すなわち、信者によってイエス様は、もはや、できなくなったとあります。もし、主が、不従順によって、人間的な考えによって、友だち、家族、親戚を救うことができなかったら災いです。イエスは、もはやできなくなった。何という恐るべきことばでしょう。

マルコ
6:1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
6:2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
6:5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。

もちろんすべての病人を癒そうと思った。けれども、全能なる主はできなかった。ここで、イエス様は安息日になった時、会堂で教え始めました。その時、イエス様のテーマとは、イザヤ書61章だったのです。

イザヤ(口語訳)
61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ(るためである。)

そして、イエス様も、少数の病人に、手を置いて癒されました。けれども、イエス様は、万軍の主として、力強い業と奇跡を行おうと思ったんですけれども、不信仰によって一つもそれをすることができなかった。何でもできるお方は、できなかった。イエス様は、我々を見ると、私たちの不信仰を驚き、あやしまれるでしょうか。私たちの憎むべき不信仰のために、何と多くの人々は、悪魔の奴隷なのでしょうか。イエス様は、この不信仰のため、ひとつもすることができなかった。

昔から、私の大好きな大好きなことばは、歴代誌、下の16章9節なんです。

第二歴代誌
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

万軍の主は、今日も一生懸命、探しておられます。なぜなら、主は奇跡を行う力を現したいのですから。けれども、主に向かって、心を全うしている人がなければ、高く引き上げられた主は、御自分の全能を現すことができないのです。全能の主は、分かたれた心のために、無力な主になりました。

ヨシュアの告白は、皆さんよく知っているのですけど、ヨシュア記、24章15節には、ヨシュアの決心ですか。新たなる決心について書いてあります。

ヨシュア
24:15 もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。

主なる神は、全能の主です。けれども、罪によって、この全能が制限されます。私たちは決して、主を助けることができないということを、私たちは、日々、信仰の霊によって、学ばなければなりません。他方では、私たちは罪の力によって、神を妨げることができるのです。天地の創造者である全能の主は、我々によって、妨げられてしまいます。私たちは、主の力を妨げることを全部、捨てようと思いませんか。私たちは、見えるもの、感じるものによりますか?それとも、信仰によって、前進するのでしょうか。

主は、霊的に死んでしまった者を、今日も、生き返らせることができるのです。力強い、いわゆる霊的な覚醒を与えることができる主であります。これを堅く信じるでしょうか。それとも、不信仰、不従順によって、悪口によって、主の力を妨げるのでしょうか。

前に、教会の大切さについて話ましたが、もう一回、言いたいのです。主なる神の目的は、決して、個人個人の信者ではなく、イエス様のからだである教会です。永遠から永遠に渡る主のご計画は教会です。私たちの祝福が問題なのではない、主ご自身の喜びと満足が問題なんです。そして、主の満足とは、個人個人の信者ではなくて教会、すなわち、イエス様のからだであります。エペソ書の中で、この事実について、一番はっきり書かれています。

エペソ
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

教会とは、主の器、用いられる道具であるべきです。

エペソ
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

からだは、その人の人格を現します。同じように、イエス様は、からだを通して、信じる者を通して、現されなければならないのです。どうですかね。私たちは。イエス様の最後の権威と栄光を現すのでしょうか。それとも。主の力を妨げているのでしょうか。

イエス様の現す手段は、からだだけです。すなわち、信者たちだけです。従って、イエス様がご自分の栄光と満たしを現すかどうかが、我々の責任です。罪によって、主なる神の全能が有限にされています。たとえば、悪口を言う人によって、主の手が短くて救いえないのであり、その耳がにぶくて聞きえないのです。

兄弟姉妹に対して抱いている思い、また、陰口は、結局、神の宮を破壊することを意味する。そして、人が神の宮を破壊するならば、神は、その人を滅ぼすとあります。十分の一を主に捧げなければ、意味は、自分の意思を主に明け渡さなければ、決して、約束されたあふれる恵みを経験することはできません。不従順は、主が制限されます。人間的な考えによって、全能の主が無力になります。イエス様は、万軍の主として力強い業と奇跡を行おうと思っていますが、不信仰のために、ひとつもすることができなかったとありますね。何と多くの信者は、奇跡を行う力強いみことばを制限するのでしょう。そして、多くの信者は、応じようとしたくないのですから、主の全能と主の富、主の満たしを経験することができません。

イスラエルの民の不信仰と不従順の罪によって、全能の神は制限されたのです。罪によって無力になった主は、ご自分の約束を実現することができなかったのです。我々の憎むべき不信仰のために、何と多くの人々は悪魔の奴隷なのでしょうか。イエス様はこの不信仰のために、ひとつも働くことができないのです。私たちは、自分の罪を新しく悔い改めて、尊い血潮のために感謝し、自分自身を新たに、主に明け渡そうと思いませんでしょうか。


おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿