2011年6月19日日曜日

豊かなる主、みじめな私たち

豊かなる主、みじめな私たち
2011年6月19日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

黙示録
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

愛するカツミ兄の読まれました箇所は、ある意味でちょっと大変な箇所です。我々は、もちろん、救いの確信を持たないと悲劇的です。けども、間違った確信もあるようです。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない。」そういう確信があれば、悲劇的なのではないでしょうか。主の判断は、違うものでした。「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」自分の状態を知っていれば、問題はない。知らなければ、悲劇的です。


もちろん、このことばは、主を一度、信じて今まで導かれた人々に言われたことばです。

そして、二番目に読んでもらった箇所もすばらしいね。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。」もっとも大切なのは、それでしょう。『主が恵んでくださった!』と言える人は幸せです。

『主は富んでおられたのに・・・・。』イエス様の持っていた富とは、どういうものであったか、聖書は言っていないし、どうして言っていないかと言いますと、どうせ人間のことばで言い表せないからです。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」人間が立派なものであればわかる。けれども、違います。どうしようもない我々のために、イエス様は貧しくなられました。どうして?「それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

あなたは、『自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者である・・・・』ことを知っていれば、幸せです。このことばを読む人の反応は、それぞれ違うでしょう。「ああ、ありがたい。私はそういうものではない」と思う人もいるのではないかと思います。けれども、主の光に照らされると、やはり、「このことば、私にぴったりです」と言わざるを得ないのではないでしょうか。主の忍耐に感謝すべきです。

イエス様は、我々とまったく違うから、ありがたい。イエス様は、変わったお方であり、悪いことばを使うと、変人です。

イエス様だけが、ダメな者を捨てようとしない。今の社会は、ダメな者を捨てますよ。刑務所から出た人は、いくら働こうと思っても、おそらく、働き場がない。けれど、イエス様は違う。決して、捨てない。何があっても、捨てないのが主イエス様です。ですから、このイエス様を知ることは、最高の幸せではないでしょうか。

詩篇の作者であるダビデは言いました。

詩篇
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

23:5 ・・・私の杯は、あふれています。

すなわち、私は満たされている。心から喜ぶことができる。パウロもやはり、満たされた男でした。ローマの刑務所の中で、彼は書いたのです。

ピリピ
4:19 私の神は、キリスト・イエスにある栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

山の上の別荘で言われたことではない。刑務所の中です。どうして、そういうふうに書いたかと言いますと、自分で経験したからです。私は満たされている。悩みがある。苦しみがある。けれど、関係ない。喜ぶことができる。これが、パウロの告白でした。

イエス様は、大きな声で言われたことがあります。

ヨハネ
7:37 ・・・・だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

満たされているからです。我々の主は、生きておられる。我々の誇るところは、それしかないのではないでしょうか。我々の主は生きておられるお方です。そして、この主の切なる願いは、ご自身の満たしでもって、どうしようもない私たちを満たすことを願っておられます。

主の満たしとは、イエス様のうちで、形をとって現れてくるものです。そして、イエス様と結びついている者は誰でも、結局、満たされていると言えるわけです。パウロは、コロサイにいる人々に書いたのです。

コロサイ
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

いつか満たされるかもしれない・・・のではなく、「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」私たちは、どんな困ったことがあっても、その時こそ、イエス様のみもとに行き、そのことを包み隠さず、主に打ち明けると、罪、咎を赦され、束縛から解放され、用いられる器となります。

聖書に言われている満たしとは、もちろん、ものではない。イエス様です。そして、このイエス様は、我々をも満たしたいと望んでおられると、聖書は、はっきりと言っているのです。詩篇の作者の口を通して、主は言われました。よく知られている箇所です。

詩篇
81:10 わたしが、あなたの神、主である。・・・あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

主の呼びかけとは、こういうものです。「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」主は、私たちにほんの少しのものだけをあげたいだけではなく、満たしたい――完全に満たしたい――と望んでおられます。残念ながら多くの人は、祈りのために、また、祈りを通して、口を大きくあけようとはしません。イエス様は、次のように言われました。

マタイ
25:34 ・・・・王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』

我々人間を本当の意味で満たしてくれるものは、目に見えるものではなく、ここで言われたように、「世の初めから備えられた御国」です。父なる神は、私たちに、イエス様を通して、もっともよいものを与えてくださいました。イエス様は我々のために、苦しんでくださり、十字架の上で死なれました。イエス様によって、我々に必要なものは、すべて与えられています。パウロがこのすばらしい事実についてローマにいる兄弟姉妹に書いたのであります。よく知られている箇所です。

ローマ
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

『大部分のもの』とは、書いていない。『すべてのもの。』一言で言いますと、主なる神は、私たちにご自身の満たしを与えようとなさっておられ、完全な満足を与えたいと、切に望んでおられます。そのことを、聖書は何度も繰り返し語っているにもかかわらず、何故、多くの信ずる者がみじめな状態にとどまり、主ご自身の満たしにあずかることができないのか、不思議なのではないでしょうか。

主の満たしについて、いろいろなことが考えられますけれど、ちょっと、四つの点について考えてみたいと思います。第一番目、いのちの満たし。それから、二番目、愛の満たし。三番目、喜びの満たし。四番目、平和の満たし。結局、人間は、いのちによって満たされる必要があるし、愛によって満たされること、喜びに満たされること、平和に満たされる必要があります。

それでは、まず、いのちの満たしから、考えてみることにしましょうか。ここで、一つのたとえを申し上げると、もし、私たちが、重病人を病院に訪ねたとします。そして、私たちが、その人の名前を呼んだとき、その人が、一度はかすかに目を開けても、また、すぐにまぶたを閉じてしまいますと、いったいどうでしょうか。確かに、その人は、まだ、命があるけれど、いのちに満たされているとは、絶対に言えません。

旧約聖書の中で、力持ちで、いのちに満たされている人々のことが書かれています。例えば、ダビデはそういう男でした。聖書をみると、彼は、ライオンと熊を殺してしまった。本当のいのちが働いた。多くの人々は、新しく生まれ変わっていますけれど、証しをする備えも、意志も持っていない。パウロはどこへ行っても、証しをしたのです。証しをすることとは、自分の経験したことよりも、イエス様を紹介することです。

今日、読む暇がないのですけれど、宿題として言いましょうか。家に帰ってきてから、使徒行伝の中で、パウロの証しを新たにお読みになってください。使徒行伝、九章、二十二章、二十六章を読むと、パウロが、どのようにおおやけに証ししたのか詳しく書いてあります。

主は、証し人を求めておられ、私たちがその証し人となって、どのようにして主のいのちをいただいたかを他の人たちに宣べ伝えてもらいたいと、主は願っておられます。イエス様の証しの一つが、ヨハネ伝に書かれています。

ヨハネ
10:10 ・・・・わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

豊かなるいのちを与えようと、主は望んでおられます。これこそ、イエス様がこの地上に来てくださったことの一つの目的であり、その意味において、私たちは、自分だけが満たしを受けるだけではなくて、そのいのちの満たしを、一人でも多くの人々に伝える使命を持っているのです。この使命に邁進するために祈り、また、そのような器として用いられるように祈ろうではないでしょうか。

イザヤ書の中ですばらしい約束が書かれています。

イザヤ
60:22 最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。

人間はできないから。いのちに満たされているイエス様だけが、私たちをいのちに満たすことがおできになるのであり、それだけでなく、他の人々にも、いのちの満たしをもたらすことがおできになるのですが、けれど、主は、それをすみやかにしてくださると約束されています。

二番目、愛の満たし。愛に満たされる大切さです。これは、あなたがどんな人をも――その人が敵であっても――愛することができることを意味しています。

何百年か前に、リビングストンという兄弟は、アフリカへ行って、イエス様の福音を宣べ伝えました。もちろん、彼は白人でしたが、黒人のあいだで生活しました。彼は、彼らを深く愛し、二十五年以上も祖国に帰ることなく、そのようにして、最期はアフリカで死にました。どうして彼は、そのような生涯を送ることができたのでしょうか?それは、彼が愛によって満たされ、他の人々もまた、愛によって満たされるべきであるという使命に邁進したからです。

使徒行伝に出てくるステパノという兄弟も、同じように、愛に満たされた方でした。彼は、石を投げつけられても、息を引きとるとき、何と祈ったかと言いますと、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と、ひざまずいて、大声で叫びました。これこそ、愛に満たされていることです。

私たちも、また、我々の関係者、隣人、また、兄弟姉妹、そして、敵でさえも愛すべきであると書かれてあります。もちろん、このような愛は、私たちが生まれつき持っているものではない。また、どんなに努力しても、持つことはできません。それでは、どうしてそういうことが書かれているのかと言いますと、その秘訣とはローマ書、五章五節でしょう。

ローマ
5:5 ・・・・私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

人間の愛でもって赦すことができても、愛することができません。神の愛だったらできる。証拠なるものは、犠牲になり、捧げられたイエス様なのではないでしょうか。

三番目、喜びの満たし。すなわち、喜びに満たされることの大切さです。ダビデは、次のように証ししました。

詩篇
16:11 ・・・あなたの御前には喜びが満ちています。

これは、ダビデの証しですけれど、主なる神の御前で、光の中を歩むならば、誰でもこの喜びに満たされます。この喜びを、主は、もちろん、一人ひとりに与えたいと望んでおられます。主の喜びは、波のように変わるものではなく、絶えざる喜び、変わらない喜びです。ハバククという預言者も、このことを経験しました。皆さん何回もお読みになった箇所ですけれども、すばらしい告白であり証しです。

ハバクク
3:17 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

ここで二回、「主にあって」と、書いてあるから、どうして喜ぶことができたかと言えば、もちろん、主のせいです。彼は、何でも主のせいにしました。彼は一生懸命、働いた。結果はむなしかった。うまくいかなかった。けれども、主は知っている。私は知らない。けれど、主は知っているから、だから、「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」本当にすばらしいあかしです。この喜びの満たしは、この世の財産や様々な事象にかかっているのではない。この喜びは理解することも、説明することもできないほどのものです。

初代教会の信者たちは、誤解され、迫害され、いじめられたけれど、悩みながら喜ぶことができたのです。ペテロは、彼らの経験について書いたのです。一文章だけです。

第一ペテロ
1:8 ・・・ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

結局、彼らの住んでいる世界とは、ちょっと違う世界だったらしい。何があっても彼らは、大いに喜ぶことができた。なぜならば、『主は支配しておられる。偶然はない』と、確信したからです。

四番目、平和の満たし、すなわち、平和に満たされる大切さですね。主は、ご自分の全き平安を人間、一人ひとりに与えようと願っておられます。

イザヤ
26:3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

あなたの存在を認めることではない。信じていることだけではない。あなたに信頼しているから。

イエス様は、「平和の君」であるから、このイエス様なしには、誰も全き平安を持つことはできません。イエス様がこの世に来られたのは、ご自身の平安を我々に与えるためでした。イエス様に信頼するならば、必ず、主は恵んでくださり、ご自身の平安を与えてくださいます。イエス様こそが、平安に満たされたお方でした。

マタイ
26:30 ・・・賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

イエス様は、ゲッセマネの園に行く前に、賛美の歌を歌った。イエス様は、間もなく捕らえられ、五、六時間後には、十字架に釘付けられ、人間一人ひとりのすべての罪の苦しみを受けてくださり、父なる神に見捨てられるということを知っておられたにもかかわらず、賛美の歌を歌った。

イエス様は、十字架の上で考えられないほどの苦しみと悩みを経験なさり、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、叫ばれました。このような苦しみを、前もって知っていながら、どうして、イエス様は、賛美の歌を歌うことができたのでしょうか。それは、イエス様が、全き平安を持っていたからです。

そして、この主は、我々にも、同じ平安を与えたいと思っておられます。そのためには、何が必要であるかと言いますと、一言で言えば、イエス様に満たされること、すなわち、主のいのち、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされることです。

満たされるために何をしたらいいのでしょうか。主の満たしを受ける秘訣とはいったい何でしょうか。

まず、第一に私たちは自分が空っぽなものであるということを知る必要があります。もしも、私たちが本当に正直であるならば、自分の内には、何にもよきものがないということを認めざるを得ません。けれども、それだけではなく、私たちは、結局、毎日、『今から!』と、考えることができ、前向きに生活することができる。どうしてでしょうか。

答えは、ヨハネ第一の手紙、一章九節ではないかと思います。聖書の中で、大切な「真珠」のようなものではないでしょうか。

第一ヨハネ
1:9 もし、私たち(・・・・信ずる者・・・・)が自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

主は、すでに、ご自身の血潮によって、尊い救いの代価を払ってくださいましたので、人間一人ひとりの罪を赦したいと切に願っておられます。ある人は、自分の罪は、あまりにも大きすぎて、果たして、主は、こんな罪をも赦してくれるのだろうか・・・・という疑いを持っています。けれど、イエス様は、必ずそのような罪をも、喜んで赦してくださるのであり、そのときを待っておられます。

満たされる根拠は、すべての罪は赦されており、忘れられているという確信です。

けれど、大切なことは、ただ単に、空の器として、ありのままの状態で主のみもとに行くだけではなく、すなわち、ただ単に、自分の罪を認めて、言い表すだけではなくて、第二番目に、幼子のような信仰を持つこと、主の約束をつかむことも要求されています。

悔い改めた後で、主が、自分の罪を本当に赦して、洗い清めてくださったという確信を持たなければなりません。この確信の土台となるものは、人間の感情、人間の理解力ではない。主の約束のみことばこそ、本当の土台です。中途半端な信仰は何もならず、主が求めておられることは、徹頭徹尾、主に信頼する信仰です。

イエス様は、考えられないことを約束しました。

マルコ
9:23 ・・・イエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

聖書は、時代遅れなものではないし、このみことばも、我々に約束されている言葉ではないでしょうか。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」

信仰とは、主の贈り物をいただくく空の手のようなものです。けれど、まことの信仰とは、提供された主の贈り物を意識的に受け取って、それを自分のものとすることです。主の目から見ると、もっともひどい、恐ろしい罪とは何でしょうか。言うまでもなく、不信仰の罪です。この不信仰の罪のゆえに、救われていない人々は滅びるようになります。そして、この不信仰のゆえに、すでに救われている人たちは、成長しなくなってしまい、用いられなくなってしまいます。

信仰のあるところでは、悪魔は逃げざるを得ません。そして、信仰のあるところには、主がご栄光を現すことがおできになり、奇跡を行なうことがおできになります。そして、信仰のあるところには、主は、本当に、心から崇められるようになり、礼拝されるようになります。

私たちは、信仰生活において、いつも分かれ道に立たされているのではないでしょうか。すなわち、目に見える現実の世界を見て、それによって動かされ、支配されているか、あるいは、みことばを自分のものとして、主に拠り頼むかのどちらかです。これこそが、主の望んでおられる信仰であり、この信仰によって、私たちは主を喜ばせることができるのです。

現代人の多くは、自分のことだけを考えるので、不幸になっています。どうすれば幸せになれるのか。それは、イエス様と結びつくことによってのみ実現されます。そのための段階は、まず、第一段階として、ありのままの状態で、主のみもとに行き、すべてを包み隠さず、イエス様に打ち明け、罪を言い表すことです。それから、第二段階は、幼子のような素直な信仰と信頼を持って、イエス様を見上げ、イエス様の約束をつかみ、赦しのために、主に感謝することです。

そこで、第三段階は何かというと、それは、満たされることです。もちろん、聖霊によって満たされることです。聖霊によって満たされることによって初めて、幸せになれます。もちろん、信じる者は誰でも聖霊の宮であり、聖霊を宿しています。けれど、多くの信者の場合、聖霊は、イエス様の栄光を現すことができません。これは、本当に悲しい事実と言わざるを得ません。

もちろん、聖霊に満たされるとは、奇跡を体験したり、異言を語ったりすることではなく、従順に主に従うことであり、自分の支配権をイエス様に明け渡すことです。そうすると、その結果として、二つのことが言えます。

その一つは、イエス様を信ずる者が、喜んで、主を証しすること、すなわち、主の証人となり、そして、他の人たちを主に導くことです。

使徒の働き
1:8 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

『なるべきである』とは書かれていない。ただ事実として、述べられています。

多くの人々は、自分は聖霊に満たされていると思い込んで、傲慢な生活を送っています。けど、聖霊に満たされたことの特徴は、滅び行く人たちのために、最善を尽くすことであり、イエス様を証しすることです。それは、自分を否定すること、また、犠牲を払うことなしには、決してできません。

もう一つ、御霊の実が結ばれることも聖霊に満たされることの特徴です。聖霊の実についての箇所は、皆さんご存知でしょう。

ガラテヤ
5:22 ・・・・御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。

このような御霊の実が実らないということは、その人が御霊に満たされていないことの表れです。言うまでもなく、この御霊の実は、人間の自分の努力の結果ではなく、聖霊の支配の結果です。ありのままの状態で、イエス様のみもとに行き、すべてを包み隠さず打ち明け、幼子の信仰を持って、主を見上げ、自分の支配権をイエス様に明け渡すことによって、私たちは、主の満たしをいただくことができます。

パウロは、救われた人々のために、いつも祈り続けたのです。聖霊に満たされなさい。ひとつのパウロの祈りを読んで終わります。

エペソ
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされるように。」

私たちが、主のいのち、愛、喜び、平安に満たされるための第四の段階は、主を信ずる者同士の交わりの必要性を知ること、そして、実際に交わりを持つことです。ですから、今の十八節に、「すべての聖徒とともに」という表現が使われています。そして、私たちは、特別な人たちだけではなく、主を信ずる者、すべての兄弟姉妹を愛することを学ばなければなりません。

これは、また、自己否定を通してのみ、実現されることです。自分自身を守ろうとする努力はやめましょう。主に満たされるために喜んで犠牲を払い、そのためには、自分が犠牲になってもよいと考える人は本当に幸いです。その人は、決して、損をすることはなく、必ず、主のいのち、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされます。

これもまた、決して、私たちだけが独り占めするものではなく、悩み、苦しみ、悲しんでいる人たちに対して、私たちを通して、彼らもまた、主のいのち、愛、喜び、平安に満たされるためです。私たちが、このように用いられるように、切に祈ろうではありませんか。イエス様の約束は、ヨハネ伝にあります。

ヨハネ
7:37 イエスは大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

『がんばりなさい』ではない。わたしのもとに来て飲みなさい。

7:38 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

また、始めに、勝美兄弟が読みました箇所をもう一回、読みます。

第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

あなたがたは富むものとなるべきです。詩篇の作者は、次のように言いました。

詩篇
25:9 主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。

貧しい者を捜し求めておられる。そして、前にも読みました。

詩篇
81:10 あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

これは、すばらしい呼びかけ、また、約束なのではないでしょうか。

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