2011年7月5日火曜日

かしらであるイエス様を見上げよう

かしらであるイエス様を見上げよう
2011年7月5日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

エペソ
3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。


重田兄が司会をすると、必ず二百十二番を歌われるようになるのではないかと思いますね。一つの群れ、主のみ体・・・仲良し会ではない。ずっと、私の悩みの種は、イエス様にとって、からだなる教会がいかに大切であるかと、解かっていない人が多いということです。イエス様は、はっきり「わたしは、わたしの教会を建てる」と、約束してくださいました。だからこそ、すべてをめちゃくちゃにする悪魔は、信じる者が、このからだなる教会の大切さを知らないように、夜昼、攻撃し、メクラにしようと思っています。そして、ある程度まで成功したように見えますけど、この勝利とは、もちろん、本物ではない。にせものです。イエス様は、自分のからだなる教会のかしらです。

今年の正月の時、愛する重田定義兄弟は言いました。本人は忘れたかもしれない。すなわち、『今年こそ、希望の年です。再臨を待ちましょう。それから、今年こそ、悪魔の戦いの年です。主のからだなる教会は私に、とってすべてです』と。パウロこそが、教会の奥義を初めて、上からの光によって、啓示によって、解かるようになりました。彼は、コリントにいる兄弟姉妹に書き送ったんです。どうしてであるかと言いますと、一致がなかった。妬みもあったし、争いもあったし、結局、ダメだった。彼は、彼らに書いたのです。

第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

考えられないほど、大切な箇所です。

第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

上からの光に照らされて、すなわち、上からの啓示によって、この真理を心の目で見ることができれば、本当に幸いです。それによって、すべての疑問、また、疑いが飛んでいってしまいます。もう一箇所、読みます。

エペソ
3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。

この箇所の「今」ということばは、聖霊の働きが、いかに実際的であるかを教えています。あるクリスチャンは、夢のような世界に住んでいるが、聖霊はそのような人を、もちろん、用いることができません。この今、読んだ十節、十一節は、信じる者の目を覚まさせることばなのではないかと思います。新約聖書のメッセージにおいて、主なる神の用いたもう一番、深い関心は、ご自分の教会であることが解かる。

エペソ書を読むと、教会が何であるかが解かります。宿題をあげましょうか。今度、来週の火曜日まで、祈りながら、『主よ、今からエペソ書一章から六章まで読みます。けど私の心の目を開いてよ。お願い。』そういう態度があれば、イエス様は、大いに喜ぶのではないかと思います。

ここで言っている教会は霊的な交わりを持ち、主なる神の力と主の愛に満たされ、よみがえりの力を持ち、あたかも、王のごとく支配する。この教会は、父なる神の喜びであり、主の満足です。多くのキリスト者は、今、述べたようなことを信じていますけど、それはいつか、きっとやって来るけど、今ではないと考えています。こういう兄弟姉妹は、霊的な交わりを、あまり欲していません。けど、魂の働きが、あまりにも大きいために、それをすることができないでいます。彼らは、愛したいのですが、その逆に憎んだり、恨んだりしてしまいます。

(・・・専門家がいるからありがたいね。天国で報いられますよ、兄弟・・・。)

いつかはそういう教会になるであろうけど、今は無理。今ではない。『やめて』と、誰も言いませんけど、思う人は必ずいます。現在、自分でできないから、将来を見て、自分を慰めようとしているのではないでしょうか。これは、大変な不信仰です。現在、自分でできないから、将来を見て、自分を慰めようとしているのではないでしょうか。しかも、私たちは、この事実を避けてはいけません。今の主の御心は、今、読みました、十節と十一節です。今がその時です。今は罪人が救われなければならない時です。救いを求めている人に、ただ一人に救い主を示す時が、明後日ではない、今です。これは疑うべくもない事実です。私たちの一致しているところなのではないでしょうか。

けどもこれと同じように、救われた罪人であるキリスト者が、お互いに霊的な交わりを持つのも、今が、その時ではないでしょうか。イエス様の教会が、父なる神に用いられる道具であると、すばらしい経験を味わうのも、今がその時ではないでしょうか。習慣的な、また、儀式的な態度から抜けきり、実を結ぶ霊的な立場に入るのも、今が時ではないでしょうか。

私たちは、主なる神の多種多様な知恵を現す教会に属しているのでしょうか。私たちは今、この十節、十一節を読んで、霊的な区域に大きな影響を受けるでしょうか。それとも、天使たちは私たちを見て、泣き、悪霊が勝利を治めるのでしょうか。聖霊は、「今」、そう言っています。しかも、私たちにそう言っているのです。けど、私たちはどうしたら、それができるのでしょうか。そうなっているのでしょうか。

私たちは、いったいどうしたら、それができるのでしょうと、思う人がいっぱいいるでしょう。これに答えて、三つの点に分けて考えたいと思います。第一番目、神の知恵である主イエス様を通して。第二番目、主のからだである我々によって。三番目、主ご自身を現す手段である教会によって、それが可能です。

まず、神の知恵である主イエス様によってです。主なる神の永遠のご計画は、ご自分の知恵であるイエス様を現すことです。神の知恵は、個人の救いだけではなく、もっともっと、大きなものです。あらゆる問題を解決し、あらゆる恐れを取り去り、また、あらゆる希望を実現しなければいけません。それは、主なる神のすばらしい知恵です。私たちが、イエス様は、自分に完全に充分であるということを、生き生きと、実際に経験することが、神の永遠のご計画です。イエス様は、全世界にある、ありとあらゆる問題に対して、答えを持っている。これは、神の永遠のご計画の内にあるものです。コロサイ書二章九節、皆さん、ご存知の箇所ですけど、非常に・・・覚えるべき箇所ではないです。

コロサイ
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

イエス様が完全に、充分であるということを知るならば、それは、大きな経験です。イエス様は、この宇宙で、父なる神の知恵であることが明らかにされ、また、イエス様が、完全に充分であることが明らかにされるならば、それは、何という栄光でしょう。父なる神の知恵によって、人間のあらゆる問題が解決されました。このすばらしい事実を言葉だけではなく、自分の経験、また、行いによって、述べ伝えることは、教会の特権でもあり、また、責任でもあります。

これを考えると、二番目の点に到達しますね。キリストのからだである我々によって、主なる神の言い表すことのできないほどのすばらしい知恵を、現さなければいけません。もう一回、読みますね。

エペソ
3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。

ここに書いてある、天上にあるもろもろの支配や権威は、どうして、大切なのでしょうか。この天上にあるもろもろの支配や権威は、我々の内面的な実際と、外面、形式をはっきりと区別し、見分けることができるのです。

教会に対する主なる神の薦めは、教会が、キリストの富の内に住み、いかなる困難や問題にあっても、キリストがあらゆる問題の解決であるということを示すところにあります。その支配と権威は、我々の遠くにあるものではありません。私たちが考えているより近くにあるのです。私たちは、この支配や権威を見ることはできませんけど、彼らは、私たちを見て、喜んだり、非常に、憎んだりします。私たちは、これらの支配や権威に対し、我々を通して、イエス様の勝利や権威に対し、我々を通して、主の勝利の完全さを示さなければなりません。もし、私たちが、イエス様のいのちの力によって生活するならば、支配や権威は、主の力が全宇宙のあらゆる問題を解決したことを知ります。

三番目、教会は、主ご自身を現す手段であります。したがって、これから、教会を、イエス様のからだを、よく学ぶべきなのではないでしょうか。『教会の使命は、神の多種多様な知恵を述べ伝えることである』と聖書ははっきり言っています。教会によって、主なる神の知恵を現すことは、決して、機械的な事柄ではありません。すなわち、救われたばかりの罪人が、すぐに、神の達したような知恵を現すということは、もちろん、ありえません。もちろん、信者一人が、主の達したような知恵を現すことはできません。それが、機械的なものであるならば、あのパウロの力を入れた書簡は、我々に必要ではありません。私たちは使徒たちの厳しい警告に耳を傾ける必要はありません。もし、そうなら、パウロは、祈りの中で戦わなくてもよかったはずです。実際にそうではない。

教会によって、将来、神の達したような知恵を現す、しかし今ではない、これは、すばらしい夢であるが、実現することができない。『このようなことを言うのは、危険です』と思う人もいるでしょう。パウロも、それを知っていました。パウロは、将来ではなく、今、教会によって、神の知恵を現さなければならないということを確信したのです。パウロの時代から、今までの間に、ずいぶん、色々な事柄が確かに変わりました。しかし、神のみことばは変わりません。

聖霊は、キリスト者たちが証しし、伝道することを望んでいるばかりでなく、救われた兄弟姉妹が集って、主を賛美し、イエス様とともに祈ることにより、教会によって、イエス様の栄光を現すことが目的です。主には、教会の生活、教会の一致、教会の秩序、教会の成長によって、栄光を帰さなければなりません。イエス様は、教会の生活によって、栄光を帰せられなければいけません。したがって、個人の生活においても、また、教会の生活においても、すべての自然の性質に、反対し続けなければいけません。すなわち、私たちは、自分の意思、自分の考え、自分の感情の内にいてはいけません。絶えざる聖霊の支配のもとにいなければなりません。もし、そうしなければ、イエス様は、決して栄光を帰せられません。

信者と未信者とをいっしょにしたグループを、教会ということはできません。生まれ変わることが絶対に必要です。生まれ変わりに際し、熱心さ、努力などは、必要ではありません。ある人が、教会に来て、熱心に、伝道の話を聞いても、生まれ変わらなければ、その人は、教会、真の教会に属していません。イエス様を宿した者が一つになった家族が教会です。

新生は、土台です。けど、これは、もちろん、始まりにすぎません。私たちが、イエス様のいのちに満たされることが、聖霊の目的とするところです。また、この満たしが、毎日毎日のことでなければいけません。これは、古い性質を否定することによってのみ可能です。パウロは、ガラテヤ地方に住んでいる兄弟姉妹に書いたのです。

ガラテヤ
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

肉、すなわち、私たちの自我は、我々の最大の敵です。この自我に対する主なる神の答え、また、この暴君に対する武器は、十字架です。十字架が、教会生活、また、個人の生活において、瞬間、瞬間、自分の欲しいと、感じることを否定していくのです。もしそうしなければ、天上にある諸々の支配や権威に対し、主なる神の知恵を現していくことはできません。肉の思い、自分の意思は、十字架の下に抑えつけられなければいけません。

人間の裁き、自分の願いを言い表すこと、間違った依存、これらのことが、聖霊を悲しませます。そして、このような時、イエス様は、教会を通して栄光を現すことができません。しかし、栄光を現すことは、教会の使命です。

また、イエス様は教会の生活を通してだけではなく、教会の一致を通しても、栄光を現されなければなりません。イエス様の名によって、二、三人、集れば、それは、イエス様はそこにおられる証拠です。私たちの自我の生活が、教会を分けます。口で一致するということは、確かに簡単ですけど、本当の深い一致を経験することは、なかなか大変です。今日は、暇がないのですけど、読んでもらいたい箇所があります。来週まで。

【参考】第一コリント
12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

この箇所を見ると、深い本当の一致を経験しなければいけないことが、よく解かります。あらゆる集会は、主イエス様の縮図でなければいけません。本当の教会は、同じいのちによる一致が、認められなければいけません。また、この一致を、毎日の生活に実現しなければいけません。また、そのために、戦わなければいけません。もし、必要であれば、この一致のために、苦しみも受けなければいけません。もし、十字架が、我々の生活の内に働くなら、この一致が可能です。十字架によって、我々は、自我の生活の瞬間、瞬間、否定していくからです。不一致は弱さだけではなく、イエス様を否定することも含まれています。一致は、イエス様の栄光を現し、不一致は、人間の人間たるゆえんを現します。一致は、兄弟姉妹のお互いの愛を表します。離れること、分裂の霊は、主のからだの一致を壊してしまいます。

すべての兄弟姉妹に対する愛と交わりは、絶対に必要です。これは、言うに易く、行うに難いことです。パウロとペテロの二人は、確かに違った性質の持ち主でした。そして、二人の方針も違っていました。けど、二人はお互いに兄弟の愛を保っていました。これに反し、コリントにいる兄弟姉妹たちは、きわめて不一致でした。すべての信者に対する愛の欠乏は、キリストを否定することを意味します。

一つのことが、大切でしょう。すなわち、主の道を示されたならば、その道を行かなければいけません。たとえ、他の人の反対があっても、妥協せずに進まなければいけません。一番、大切なのは、自分の自由を持っていることです。主が、その道を示されたなら、その道を行く自由が必要です。パウロは、多分、未信者よりも、信者のために祈り続けたのではないかと思います。エペソ書の中に、彼の祈りが載せられています。

エペソ
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

こういうふうにパウロは、救われた兄弟姉妹のために、心から、祈ったよりも、祈り続けたのです。

教会の生活によって、教会の一致によって、イエス様の栄光が帰せられることが問題です。また、教会の秩序によっても、イエス様に栄光を帰する。もし、聖霊が支配者ならば、そこには、秩序もあります。教会の使命は、イエス様の支配を述べ伝えることです。それは、言葉だけでなく、御霊に対する従順によって、述べ伝えることです。

初代教会は、決まった組織はありませんでしたけど、驚くべき結果がありました。多くの人々が救われました。『毎日』と聖書は言っています。

主からお召しにもらった教会が語る時、人々は、その話を人間の声としては聞かず、御霊の声として聞いたのでした。使徒行伝を読むと、それは明らかになります。ペテロたち、兄弟たち、一人ひとりが、聖霊に全く従順だったから、そのような結果になりました。初代教会の兄弟姉妹たちは、主のしもべを通して、いつも主から、新しい啓示を受け取ったのです。信者たちは、主の御心を悟って、すぐに、それに従いました。我々の場合はどうでしょうね。教会は、主イエス様がすべての主であるということを、述べ伝えなければなりません。教会の生活は、主の支配を現さなければなりません。

今、教会がすぐに秩序立つ必要はありません。必要なのは、新しい啓示をもらったら、すぐに主に従うことです。打算をせず、すぐに主に従うことです。教会の成長によって、イエス様の栄光を現すことが問題です。イエス様のいのちの満たしは、いつも流れ動いています。かしらにあてはまることは、肢体にもあてはまります。ここで言うかしらは、もちろん、イエス様であり、肢体は教会です。絶えず新しい人が、集会に来て、信者になることが我々の目的でなければいけません。

とともに、聖書に対する我々の知識も、もちろん、成長しなければいけません。御霊が、我々にいつも新しい真理を、教えるようにならなければいけない。教会は、聖霊の語ることを、聞く耳を持たなければいけません。

パウロは、新約聖書、全部を書くことができませんでした。同じように、一人の信者が聖書の真理のすべてを述べ伝えることは、もちろんできません。健康な教会では、説教者は、一人でなく、色々な兄弟たちが、みことばを述べ伝えます。教会の他の奉仕と同じように、みことばを述べ伝えることも、一緒にやらなければなりません。聞くことも、もちろん、大切です。みことばを聞くうちで、好きなものにだけ、耳を傾けていては、決して、成長しません。

たとえば、自分がイエス様とともに、十字架につけられたいという、十字架の話を聞きます。このみことばを、心に入れることを拒み、退けるならば、また、その話をする人を好ましく思わないようであるならば、決して教会は成長しません。成長は、福音を述べ伝えること、福音を聞くことによるのではなく、従順によって、成長するのです。

教会はイエス様の栄光を帰すことが大切です。しかも、教会全部が、イエス様の栄光を帰すべきです。ですから、信者一人ひとりが、役目を持たなければなりません。主なる神の御心は、教会全体が、御子、主イエス様に、栄光を帰することです。初代教会はそうだった。主の御心は、今日の教会に対しても、そうなのです。教会は、天の軍勢もあやしむばかりに、熱心に主なる神の知恵を、述べ伝えなければなりません。聖霊だけが、このような教会を今日、創ることができるのです。

聖霊は、二心を持たず、すべてを主に捧げる人を用いようと望んでおられます。天の軍勢は、私たちが、イエス様に栄光を帰するかどうかを、目を覚まして、熱心に見守っています。一方、悪魔の軍勢も、我々を妨げるために、一生懸命、私たちを見守っています。私たちは、教会全体が、イエス様を証するように、祈らなければいけません。なぜなら今、今日(こんにち)、天上にある諸々の支配や権威が、教会を通して、神の達したような知恵を知るためであるからです。


おわり

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