2011年5月17日火曜日

今から

今から
2011年5月17日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第2テモテ
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

今、司会の兄弟のお読みになりました箇所の中で、「今からは」という表現が出てきます。


第2テモテ
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

すなわち、「主よ。来てください。」そういう願いを持つ人々は、もちろん、大いに報いられるようになり、祝福されます。ですから、今日の題名は、「今から」であります。大切なのは、過去ではなく、今からのことです。黙示録の中で、次のように書かれています。

黙示録
1:8 神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

初めであり、終わりである。

黙示録
22:20 「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

こういう心がまえを持つ人々こそが幸せです。今日(こんにち)の時代のすべてのものは、ひとつの目標に向かって、殺到しています。このことは、取りも直さず、私たちの今日の不気味さなのではないでしょうか。それは、何に向かって行くのか、非常な速さで進んできます。たいていの人々は、どこへ行くのか、知りませんし、目標も持っていないのではないでしょうか。

私たちはみな、何か大変なことが起こるということを感じますけれども、それはいったい、何なのでしょうか。このままの状態が続くはずはない。けれども、この次に起こることは、いったい何なのでしょうか。

この不安が、今の時代の大部分の人々を重苦しく、意味なく押さえつけて、また、しびれさせています。この質問に対して、我々に答えようとする者は、いったい誰なのでしょうか。多くの人々は、自分の頭でこの謎を解こうとします。けれども、その結果は別のものとなります。他の人々は、易者や星占師、また、トランプ占いによって、悪魔に尋ねています。その結果は、魔術や悪魔の力の中に堕ちこむのです。ある母親から電話がありました。二十五歳になった娘は、家出してしまった。どこにいるのか分からない。彼女は、占い師に従ったからです。

私たちは、誰に尋ねようとするのでしょうか。将来に対しては、ただひとつの権威あるものがあります。すなわち、聖書です。私たちはこの神の御言葉の権威を、認めるのでしょうか。真理そのものであり、嘘を知らない私たちの主イエス様は、言われました。

マタイ
24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしの言葉は決して滅びることがありません。

5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

あらゆる言葉だけではなく、あらゆる言葉のつづりも、すたれることはないと、イエス様は言われます。私たちは、自信を持って、将来を聖書に尋ね、聖書に目を光らせたいものであります。イエス様は何と言ったかといいますと、非常にすばらしい約束です。

ヨハネ
12:46 わたしは光として(・・・宗教家としてではない・・・)世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。

イエス様は宗教家ではなく、光です。昨日も、今日も、いつまでも、イエス様は、光そのものです。イエス様は、愛と平和と希望と慰めの光です。

イエス様を光として知るようになる者は、誰でもその人の人生の中で、すべてのものが新しくなります。光に照らされることを拒まない人を、そして、過ちを犯す者として、まことの光であるイエス様の御許に来る者は拒まれません。その人は受け入れられ、救われます。光に来る者は、もちろん、罪から離れます。聖書は、次のように言っています。

第2コリント
6:14 光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。

ただ、イエス様お一人だけが言えます、「わたしは、まことの光そのものである」と。我々人間は、闇であり、我々の内側には、暗さと不純とよこしまと偽善があります。だから、多くの人々は、光であるイエス様と関係を持ちたくない。イエス様の時代の人々について聖書は、驚くべきことを言っているのです。

ヨハネ
3:19 光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。

結局、彼らは正直になろうとしなかったし、頭を下げたくなかったし、悔い改めようとしなかったのです。イエス様の呼びかけとは、「わたしのもとに来なさい、ありのままで。わたしは光です。」光のもとに来たくない人は、結局、自分の罪を隠す者であり、正直になりたくない思いの表れなのではないでしょうか。すなわち、不幸への道そのものです。

人間にとって最も必要なのは何でしょうかね。光に照らされることです。罪の赦しを得ることです。そして、光であるイエス様との交わりを持つことです。イエス様を信じることとは、取りも直さず、光に来ることです。すなわち、イエス様の御許に来ることです。そして、イエス様の御許に来る者は、まちがいなく受け入れられ、また、その債務は赦されます。聖書の中の最もすばらしい言葉のひとつは、第一ヨハネ一章七節、暗記している言葉なのではないでしょうか。

第1ヨハネ
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

すごい約束なのではないでしょうか。イエス様の一人の弟子であるヨハネの書いた言葉です。どうしてそれを書くことができたかと言いますと、体験的に知るようになったからです。

まことの満足の秘訣は、暗闇から脱出して、光であるイエス様の御許へ行くことです。イエス様は、すべてを新しくしてくださいます。すなわち、イエス様は、呼びかけておられます。闇の中を歩かなくてもいい。何も隠さなくてもけっこうだよ。わたしに従いなさい。光であるわたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがない。いのちの光を持つ。すなわち、いのちの光とは、もちろん、イエス様ご自信です。パウロは、エペソという町に住んでいる人々に、書き記したのです。

エペソ
5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

あなたがたは、光となったから、だから、オーケーなのではない。あなたがたは、主にあってのみ、光である。すなわち、光であるイエス様から離れると、自分勝手な生活をすると、自分の知恵、また、自分の力に頼ると、いっぺんにダメになります。光であるイエス様とつながっている時だけ、私たちは光であると、イエス様ははっきり言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないし、わたしから離れたらあなたがたは、暗闇です」と。

コロサイ
1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

暗闇の圧制と、御子のご支配とありますが、何という違いなのでしょうか。

ここでも同じことが言えます。すなわち、もし、私たち信じる者が、イエス様に頼らなければ、自分の努力は、全く無駄であり、的外れの行動になります。だから、「捕らえられた者として、走りましょう」と、パウロは、ピリピにいる人々に書いたのです。走る者の心がまえは、いったいどういうものなのでしょうか。イエス様を知るようになってからの心がまえは、どういうものであるべきでしょうか。ちょっと見てみましょうか。パウロは、この手紙を捕まえられてから、刑務所の中から書いたのであります。

ピリピ
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

キリスト・イエスによって捕らえられたパウロは、ひたむきに、前のものに向かって進み、走っているとあります。

黙示録
22:12 見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

イエス様の現れを慕う者は、誰なのでしょうか。パウロは、前に読んでもらいました箇所をもう一回読みましょうか。パウロの告白でもあり、証しでもあります。

第二テモテ
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは(・・・これ、大切ですね・・・)、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

大切なのは、主の現れを慕うことなのではないでしょうか。心から、『イエス様おいで、早く来てください』という心がまえを持つことです。イエス様の現れを慕う者、すなわち、首を長くして、心から待ち望む兄弟姉妹だけが、主を知らない人々にとって、魅力的であり、用いられるようになります。

私たちは、再び来られるお方としてのイエス様を見ることが許されます。私たちの主はすぐに来ます。私たちが考えているよりもずっと早く、イエス様は、再臨なさいます。そもそも、もっとも確実なことは、主イエス様の再臨です。本当にイエス様は来てくださるのです。イエス様は今、来つつあります。イエス様が今晩十二時に来てくださるということが、確定的になったとしたら、いったい私たちは、どのような反応を示すのでしょうか。

「おいで、来なさい」という言葉は聖書の中に、書いてあります。まだ救われていない人々に対しても、もうすでに救われている人々にとっても、『おいで。』どうして?結局、救われるためです。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

すばらしい呼びかけであり、また、約束なのではないでしょうか。

ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

救われることとは、神の子どもとなることです。

第一ヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。

ある時、春日部のババ・ススム兄弟とヨシダ・ヒロシ兄弟とともに、区域のある病院に行きまして、入院されたキタムラ・ヤスお婆ちゃんと会いました。歳は、その時、七十七歳だったのです。ご主人であるカズヒサさんも一緒だったのです。おじいちゃんもおばあちゃんも、長い間、教会に行ったのですけれども、はっきりとした確信、救いの確信を持っていなかったのです。後で、ご主人は何回も、「そんなにおばあちゃんは、微笑んで笑った顔を見たことがない」と、言われました。そして、あのおばあちゃんは、何回も聞いたんです。もう一回、言って、言ってください。あの三つの言葉、『イエス様、ごめんなさい。イエス様、ありがとう。イエス様、よろしく。』救われる条件とは結局、それだけです。

けれども、救われ、神の子どもとなることとは、確かにすばらしい。けれども、神の子となった者は、必ず良い忠実なしもべであるとは言えないでしょう。ですから、「おいで、わたしのところに」という呼びかけは、結局、救われるための呼びかけです。けれども、他の箇所を見ても、何回も、「おいで」と、書いてあります。救われるためではなくて、報いを受けるためです。イエス様は、報いるために来られると聖書は言っています。

マタイ
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

どのようにして私たちは、イエス様を知るようになったのでしょうか。ただ、主の恵みによるのです。主が御許に来る者を決して拒まないと、約束してくださったから、イエス様が受け入れてくださったことを確信することができるのです。赦されているという確信を、なぜ持つことができるのでしょうか。なぜなら、イエス様は嘘つきじゃないからです。イエス様は約束してくださったからです。必ず、ご自分の約束を守ってくださるお方です。

私は赦されているという確信の結果は、何かというと、愛と感謝の表れとして、私の人生は、今から、ただイエス様お一人のものとなるべきであるということになるに違いない。救われることとは確かに大切です。すばらしいことです。けれども、私たちはどうして救われた、何のために救われたのでしょうか。もちろん、主に仕えるため、また、イエス様の再臨を待ち望むためです。

テサロニケ第一の手紙を見ると、次のように書かれています。このテサロニケにいる人々とは、本当に模範的な信者でした。パウロの喜びの種、礼拝する原因でもあったのです。他の教会もいっぱいあったのです。コリントにいるイエス様に出会った人々を見た時、彼はがっかりしたんです。彼らは、救われたけれども、パウロの悩みの種でした。けれども、テサロニケの人々はちょっと違います。

第一テサロニケ
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

主に仕えていこうと望む者は、意識して、毎日、イエス様の再臨を待ち望む者は、人殺しと呼ばれている悪魔の攻撃の的になります。救われている者は救われています。「救われている者は、永久的にイエス様のものです」と、悪魔でさえも、認めざるを得ません。けれども、悪魔の目的とは、救われた人々が、主に仕えないように、イエス様の同労者にならないように、再臨を待ち望まないようにということです。イエス様は、はっきり言われました。有名な山上の垂訓の中です。

マタイ
6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

ヤコブというイエス様の弟子も、同じ事実について書いたのです。非常に厳しい言葉です。未信者のためではなくて、主の恵みによって救われた人々に書かれた文章です。

ヤコブ
4:4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

イエス様は、救われた人々に、報酬、褒章、王冠を分け与えるのです。もう一箇所、読みます。コリント第一の手紙、彼らにこの言葉が必要だったからこそ、パウロは聖霊によって導かれて書いたのです。

第一コリント
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

報いを受けるか、損害を受けるかのどちらかです。その日が、我々の生活を明らかにします。すなわち、再臨の日が、金、銀、宝石と木、草、わら、すなわち、イエス様から出たものか、または、自分からでたものかを、明らかにするのです。非常に厳しい言葉の一つがマタイ伝七章に書かれています。

マタイ
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

彼らは、「私たちは信じている、救われている」と、思いこんでしまったんですけれども、もし、イエス様が「わたしはあなたがたを全然知らない」と言うと、違う話になります。失われるいのちは、何と悔やまれることか、それは、取り戻すことも、取り替えることもできません。永遠の実を結んだいのち、これは大きな喜びであり、勝利です。もし、その時、主が、私たちに次のように言うことができれば、本当に幸いです。

マタイ
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

私たちが本当に、主から出て、イエス様のために生活したか、それとも、自分から、自分のために生活したか、どちらでしょうか?この日がそれを明らかにするのです。だから、パウロは、ローマにいる主の恵みによって救われた人々に書いたのです。

ローマ
13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが(・・・救い主が・・・)私たちにもっと近づいているからです。
13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

イエス様の再臨に対する生き生きとした希望から、清くなるという力も湧き出てきます。実際生活において、罪に支配されている者が、イエス様の再臨を待っているなどということは、あり得ないことです。

第一ヨハネ
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

コロサイ
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

我々の生活において、イエス様の再臨に対する希望が、あらゆる悩みに耐えるための、最も大きな力なのではないでしょうか。

イエス様は近い。イエス様はすぐ来られます。この言葉は、初代教会において、口から口へ語り伝えられ、そしてこの言葉は、当時の証し人たちに、迫害の最中において絶えず、力を与え、喜んで死の旅路に着かせたのでした。彼らは欺かれたのでしょうか。それとも、彼らは空しく待っていたのでしょうか。イエス様が、「わたしは再び来る。しかしその時は父が定めておられる」と語られてからというもの、この言葉は、生き生きとした信仰の本質をなすものであり、イエス様の再臨の事実が、目の前に生き生きと認められるのです。

すなわち、多分、今日にも来られるイエス様が、私たちが、その日は、今日かもしれないという希望の光によって、毎日、捧げることを望んでおられます。

イエス様の再臨という希望は、初代教会の時ほど、生き生きとしていた時はなかったようです。そして、当時ほど、イエス様のお告げが生き生きと力強かった時もなかったようです。イエス様は、来られる、すぐ来られると期待している者は、誰でも主の使命を一秒でも早く行わなければなりません。すなわち、「全世界に出て行け、すべての創られたものに福音を述べ伝えなさい。」意味は、イエス様を紹介しなさい。主イエス様は、み言葉の内に、非常にはっきりと語っておられます。イエス様は、今日の時代においても、世界の出来事を通して、はっきりと解かるように語っています。「その時は近い」と、主は、呼びかけておられます。イエス様はすぐ来られると、私たちも絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。


おわり

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