2011年5月13日金曜日

イエス様と病人(2011年)

イエス様と病人
2011年5月12日、春日部家庭集会(夜の部)
ゴットホルド・ベック

マルコ
7:31 それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。
7:32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。
7:33 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。
7:34 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。
7:35 すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
7:36 イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。
7:37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」

今、最後の37節ですね。「この方のなさったことは、みなすばらしい。」私たちも、今、現在、このように言えるようになるだけではなく、いつか、召されてから、主の栄光を拝するようになれば、もっともっと、そう言うことを言わざるを得ないのではないでしょうか。イエス様のなさったことは、『大部分』ではなくて、『みんな』すばらしい。


2000年前にイエス様に出会った人々は、結局、それを体験的に知るようになりました。ですから、マルコ伝は、ユダヤ人のためよりも、ローマ人のために書かれたものです。そして、ローマ人にとって、大切だったのは、やはり、力を持つことです。権力を得ることです。ですから、このマルコ伝の中で、結局、イエス様にとって不可能なことはない。イエス様はなんでもできると、繰り返し繰り返し、書かれています。『イエス様と病人』という題をつけることができるかもしれない。あるいは、『主イエス様との出会いの大切さ』とも言えるのではないか。

イエス様との病人との関係は、ちょうど民主主義と独裁制、愛と憎しみのように、全く正反対の関係にあります。イエス様は言われたのです。私は、いのちです。いのち、そのものです。イエス様の中には、結局、喜び、平安、力が満ち満ちていました。それとは反対に、病人には、苦しみ、悩み、弱さ、絶望、不安、心配、動揺などが渦巻いています。そして、病人は、ここに出てくるオシと同じように、人間社会からは閉め出されてしまっているのです。その意味では、イエス様と病人とは、お互いに相容れない関係にあるわけです。

もちろん、この病人の悩みの種とはなんであったかといいますと、体は病気になったことよりも、孤独になったのです。ですから、2000年前の時代と、今の時代は、同じものでしょう。今、一番、流行っている病気は、もちろん、癌ではなくて、孤独病です。人間は、ひとりぼっち。イエス様は、いのちそのものであり、病人とは、結局、なんの希望も、喜びもない。けど、この二人、すなわち、イエス様と病人の二人は、そこから新しい救いの道を作り出すために、どうしても、二人は、一緒にならなければならない運命に定められていたのではないかな。

イエス様は、病人のために来られたと、何回も言われました。だからこそ、イエス様と病人とは、一緒にならなければならない。イエス様は、はっきり言われました。健康な者は医者を必要としないが、病人は医者を必要とします。医者であるイエス様を必要としない健康人は、ちょっと、かわいそうなのではないでしょうか。イエス様は、はっきりと言われました。『私は、失われた者を見いだし、探し出すために来た』と、はっきり、言われました。病人、すなわち、悩んでいる人、精神的に疲れている人、喜びと希望を失った者は、イエス様を必要とします。

そして、イエス様は言われました。私は、病人のために来た。病人のために生きている。ここに登場するオシでツンボの人は、確かに、耳と舌とを持っていたのです。けれども、周りの人々と交わることができなかったのです。結局、耳や舌を持っていても、耳が聞こえず、口のきけない人は、平気ではないと思います。あきらめたかもしれませんけど、やっぱり、苦しみを持っていたに違いない。周囲の人々と交わることができないために、結局、いつも寂しかった。孤独でした。この人はただ単に、表面的な、いわゆる外側の苦しみだけではなくて、心の奥底に悩みと苦しみを持っていたからです。彼は、耳と舌を持っていましたが、今、話したように、それらを使うことができなかった、結局、あっても使うことができなければ、役に立たないもの、価値のないものに過ぎなかったのです。

このようにして、必然的に、彼は周囲の世界から切り離され、孤独になったのであります。そのことによって、外側の苦しみだけではなくて、心の悩みと悲しみが大きかったのではないでしょうか。この人に対しては、多くの医者もどうすることもできなかったし、長い間、非常な苦しみと悲しみの中に閉ざされていたことも分かる。この苦しみは、非常に深かったから、人間的な同情や慰めではどうすることもできませんでした。

おそらく2000年前の人々も、現代人と同じように、「がんばろう!」と思ったかもしれない。もう、人間はこういう態度をとると、主は、見向きもできない。結局、助けを求めることこそが、大切なのではないでしょうか。現代人の多くは、「がんばれば、なんとなる」と、思い込んでしまっているのです。決して、祝福の道ではない。この病いは、単なる空想ではなかった。単なる夢ではなかった。恐るべき現実だったのです。毎朝、目が覚めると、やっぱり、相変わらず、「私は、病気です」と、彼は、もちろん、認めざるを得なかったのです。

この読んでもらいました箇所を見ると、イエス様は、この病人を癒したのです。どういうふうに、癒しのでしょうか。今、読まれた箇所をみると、イエス様はまず、彼ひとりを連れ出したとあります。イエス様は、彼と二人だけになりたかったのです。この病人にとってイエス様との出会いは、彼の一生を根本から変えてしまう転回点を意味していました。我々も、苦しみ悩む時には、イエス様と二人だけになる時間を、作り出さなければならないのではないでしょうか。人間との交わりによって、問題は解決されえないでしょう。だから、イエス様は、「おいで、私の所に」と、何回も、何回も言われました。

ただ、一人になると言うことは確かにおもしろくないでしょう。恐ろしいことです。無力の状態に置かれることです。現代人の多くは、ただ一人になることを恐れるために、たとえば、テレビを見たりして、気を紛らわせざるを得ない。人間は、孤独になりたくない。孤独になることを好む人はいないでしょう。その状態から逃げることをいつも考えています。イエス様なしに、一人で居ることは、最も恐ろしいことなのではないでしょうか。けれども、イエス様と二人で、二人だけで居ることは、最も素晴らしいことです。

いろいろな問題、苦しみ、悩み、不安などに、取り囲まれて一人で居ることは確かにたいへんです。恐ろしいことです。けれども、そこにイエス様が入ってこられると、喜び、力、平安に、満ちた新しい変化が起ります。

普通、イエス様が癒しをなさる時は、99%くらいかな、御言葉を持って奇蹟を瞬間的に行われました。けれども、この場合は、言葉ではなくて、行いによって病人に接近されたのです。イエス様は、まず病人の両耳に指を差し入れ、それから、舌に触れました。それによって、病人は、イエス様が、耳と舌に触れることによって、何かをなさろうとしていることを、もちろん、感じることができたのです。イエス様は、話し合いによって病人に近づかれたのではなく、行いによって病人に分からせたのです。

それから、大切ですね。イエス様は、天を仰ぎ見たと、書いてあります。病人も、イエス様のなさることを見て、間違いなく、同じように天を見上げたことでしょう。そのことによって病人は、分かった、すなわち、本当の救いは、上から来るのだと、分かったのです。

それから、イエス様は、その人に、『開け』と命令なさいました。もちろん、このイエス様の御言葉は、単なる音ではありませんでした。普通の人間が、同じように言っても、それは単なる一時的なことに終り、すぐに、消えてしまいますけど、イエス様の御言葉はそうではなかった。イエス様の御言葉は、決して決して、単なる慰めではない。単なる願望の言葉でもない。イエス様の御言葉は、力に満ちた業(わざ)そのものです。この男は聞くことができ、また話すことができるようになったのです。群衆は、オシが癒されたのを見て、一方ならず驚いていましたね。

マルコ
7:37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」

この男の人生は、イエス様との出会いによって、変わりました。根本から新しく、造り変えられたのです。すなわち、疑いと絶望とは、その瞬間に消えました。そこには、喜びと感謝と賛美があがったでしょう。それこそ、喜びと祝福に満ちた新しいいのちが生まれました。このように喜びと祝福に満ちた新しいいのちは、誰にも提供されている、すばらしイエス様の贈り物です。

聖書を見ると、生まれつきの人間の霊的な状態は、オシであり、ツンボであります。ちょうどオシでツンボの男が、周囲の人たちから引き離されたのと同じように、イエス様によって、新しく生まれ変わっていない人も、主なる神との交わりを持っていないし、断絶した状態に置かれています。耳を持ち、舌を持っていても、耳が聞こえず、口のきけない人が、大勢います。聖書は言っています。『耳のある者は聴くがよい』と、何回も出てくる文章です。おもに、黙示録の2章と3章の中で、七回も出てきます。『耳のある者は聴くが良い。』その意味は、耳があっても聞こえない可能性がありうると言うことです。このような状態について書かれている聖句を何カ所か見てみましょうか。

イザヤ
6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」

それから、内容的にまったく同じ文章です。

エゼキエル
12:2 人の子よ。あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは反逆の家だから、見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない。

ゼカリヤ
7:11 それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。
7:12 彼らは心を金剛石のようにして、万軍の主がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の主から大きな怒りが下った。

新約聖書の中でも、生まれながらの人間について、なんと言っているかといいますと、皆さん、何回もお読みになった箇所だと思います。

第1コリント
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません(・・・受け入れられない・・・)。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

こう言う箇所を見ると、誰でも、考えなくちゃならないでしょう。すなわち、私は、主なる神に対して、ツンボではないでしょうか。私は、本当に動かない土台を持っているのでしょうか。私は、孤独ではないでしょうか。

今、読んだ箇所から明らかなように、主なる神によって、新しく生まれ変わった者だけが、主の御言葉を聞くことができると言うこと。罪を悔い改めたくない罪人は、御言葉を心の耳で聞くことができない。それは、決して未信者だけではなく、信者であっても、気がつかない罪を犯している場合にも、御言葉を聞くことができない。読んでも、結局、語らない。

罪と言う壁が、取り除かれない限り、私たちは主に対してツンボです。旧約聖書の、福音そのものというべき言葉は箴言28章の13節です。

箴言
28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

いうまでもなく、この言葉は、いわゆる異邦人、未信者のためだけではなく、信ずる者のためにも書かれているのです。ダビデは、これを分かっただけではなくて、体験的に知るようになりました。詩篇32篇、皆さんのよくご存知のダビデの告白、証しです。

詩篇
32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。
32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

それで彼はまた、自由にされたものとして、喜ぶようになりました。新約聖書の中で、全く同じことが書いてあるのです。ヨハネ第一の手紙1章の9節です。この言葉も、もちろん、未信者のためではなく、すでに救いに与かるようになった救われた人のために書かれたのです。

第1ヨハネ
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

これは福音そのものです。自分の罪、苦しみ、悩み、煩いをイエス様に告白しなさい。そうすれば、新しい命と、新たなる喜びが与えられますとあります。

聞く耳を持つことが大切。隠す者は成功しない。ソロモン王が箴言に書かれています。

箴言
20:12 聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの(です)。

主の働きなしに、人間は、聞く耳を持っていない。見る目も持っていません。イザヤは、祝福される秘訣について、証ししました。

イザヤ
50:4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。

主は、朝ごとに、私を呼び覚まし、私の耳を開かせてくださるとあります。また、詩篇、やはり、ダビデの賛美であり、告白であり、喜びの根拠なるものでしょう。

詩篇
40:1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、
40:2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
40:3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。
40:4 幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
40:5 わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
40:6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

ダビデは、こういうふうに言えたのですね、「あなたは私の耳を開いてくださった。」これは、何を意味しているのでしょうか。これは、新しい命そのものが、贈り物として与えられていると言うことです。だから、ダビデは、そのことを今読んだ詩篇40篇1節から4節の間で言っています。

ここに書かれている通り、このダビデと同じように言うことができる人は幸せです。黙っていることはできないでしょう。

話を戻しまして、この病人は、以前はオシであったため、周囲の人々と話をすることができなかったのですけど、癒された後で、大声で賛美をし、主のなさった御業を覚えて、主の大いなる御業を証しするようになりました。

イエス様と出会って、救いの体験をし、意識的に罪の生活から離れようとする者はただ、主を賛美し、証しする幸いに与かっています。エレミヤと言う預言者は次のように言ったのです。

エレミヤ
20:9 私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。

パウロも、同じような心構えで証ししました。

第1コリント
9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

主の声を聞くことと、イエス様を証しすることとは、並行して行われるものです。例えば、「あなたの罪は赦された。私はあなたを贖った。あなたは私のものだ」と言う主の声を聞き、救いの体験を持った者は、必ず、そのことを証しせずにはおれない者となります。

そして、多くの人は本当の出会い、救いの体験を持っていないため、主の証し人となることが少ないのです。

この病人は癒されました。どうして?なぜ、この病人は癒されたのでしょうか。この耳が聞こえず、口のきけない人は、何人かの人々によって、イエス様の御許に、連れてこられたのです。

マルコ
7:32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。

したがって、この病人にとっては、それらの人々の手助けがどうしても必要でした。つまり、このように、みじめな憐れむべき病人を助けた人々が、そこに居たのです。彼らは、望みなき者をイエス様の御許(みもと)に連れて行きました。

彼らはまた、この病人のために祈り、イエス様に、『お願い手を置いてやっていただきたい』と、イエス様に頼んだのです。彼らは、イエス様がその病人にさわること、そして、それと同時に病いが癒されることを知っていたし、確信したのです。

イエス様は、前に話したように、命そのものです。その命であるイエス様が病人にさわると、当然ですが、病気が逃げてしまいます。すなわち、病気が癒され、病人は健康になることができます。このような箇所を見ると、やっぱり、いつも考えるべきでしょう。すなわち、私たちは、病人をイエス様の御許に連れてきた人たちと同じ者であると言えるのでしょうか。

私たちも、イエス様が病人に触れるようにと、病人のために手助けをしているのでしょうか。私たちは、自分自身のことで忙しく、悩んでいる者をイエス様の所に連れて行く時間すらないと言うことが、しばしば、あるのでないでしょうか。

すなわち、私たちは、悩んでいる者に対して、心の目を開いて見ているのでしょうか。あるいは、閉ざしているのでしょうか。もしも、心の目を開いているならば、悩んでいる罪人を、一人でも多く、イエス様の御許に連れていかなければなりません。

どうしてでしょうか。当たり前です。イエス様にとって、不可能なことはないから。『主よ、どうか、私の両親、主人、子供、そして、友人に、手をおいてやってください』と、心から主にお願いし、祈らなければならない。祈り続けなければならない。

私たちは、罪人に対して、主を知らない人々に対して、無関心であったり、無責任であったりすることは、結局、許されない。その病める人に対して、主イエス様が私たちを通して、主の大いなる御業を現すための器となり、通り良き管となることこそ、一番、大切です。

イエス様が、我々をお用いになる秘密はなんでしょうか。イエス様は、我々の模範です。初めに読みました個所を見ると、なんと、書いてあるかと言いますと、「イエス様は、天を仰いだ」と、あります。

このことは、イエス様が自分自身の力に拠らないで、父なる神にすべてを委ねられたことを意味します。御心だけがなるように。このように、私たちも、全く主に依り頼むならば、いかに苦しい状態であっても、主に対する目が開け、新しい道が開かれるのです。

けれども、主に依り頼まないならば、他の人々の苦しみや悩みに対して目が開かれることがないでしょう。そして、私たちが悩んでいる人々をイエス様の御許に連れて行き、その人々がイエス様と出会い、交わりを持つことができた時に、本当の救いが体験され、豊かに祝福されます。

それは、主の一言によって行われるのです。私たちは、他の病人、他の苦しんでいる悩んでいる人、ここでは、オシですけど、彼らに向かって癒しの言葉を語ることでできるでしょうか。あるいは、このオシのように黙っているのでしょうか。

イエス様は、幸いに、昨日も、今日もいつまでも変わらないお方です。常に変わることのないお方です。すべての力が、イエス様によって、自由自在に用いられるのです。我々の周囲にある苦しみや、悩みは、ますます、大きなものとなりつつあります。私たちは、主の妨げとなることなく、主の器として用いられるように祈れば、本当に幸いと思います。


おわり


【編集者より】ドイツ人であったベックさんのメッセージには、現代では不適切とされる差別語が使われていることがありますが、ベックさんが語られた言葉を尊重して、そのまま、言い換えることをせずに掲載しています。ご了解をいただきますよう、お願いします。

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