2011年1月25日火曜日

主の御姿(みすがた)に似せられる必要性

主の御姿(みすがた)に似せられる必要性
2011年1月25吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

今、歌いました歌は、本当によく、歌われます。非常に大切なのではないかと思います。心から、歌うことができれば、やっぱり、見方が変わる。

イエス様は、かしらであり、我々は、つながっているからだです。からだなる教会を、心の眼(まなこ)で見ることこそが、考えられないほど大切です。主のご目的とは、今、言われましたように、私たち、すべてが、イエス様の御姿(みすがた)に変えられていくことです。今のところも、私たちにとって、一番、大切な箇所のひとつなのではないでしょうか。苦しみ、試み、また、悩みが、増し加えられれば、増し加えられるほど、私たちにとっては、私たちを、さらに引き上げ、新しく、堅い土台に立たせてくれる、新しい信仰の目が開かれる必要があります。

ですから、今日、ちょっとだけ、主のご目的がどこにあるのか、新しく、考えてみたいと思います。どんな困難の中にあっても、主のご目的を、はっきりとわきまえていますと、絶えず、力強い歩みができるのです。

七つの点に分けて考えてみたいと思います。

第一番目、この世で起こるすべての現象の真ん中にある、主のご目的、主のご予定という点を考えてみましょう。

今、読んでもらいましたローマ書8章15節から30節までを見ると、主は、以前から、あることをはっきりと、あらかじめ、定めておられたことが解かります。永遠の昔より、この世界を創造される以前より、予定しておられました。この主の予定されたことは、『できるか、できないか解からないが、やってみよう』といったような思いつきではありません。もし、主が、何かお考えになりますと、それは、必ず、成就されます。よく開くエレミヤ書29章11節を見ると、主は言われます。

エレミヤ(口語訳)
29:11 わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災(わざわい)を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。

主が、ご自分でご計画され、それを成就なされようというのに、そのようなことはないと、あえて言う人はいないでしょう。主が、お考えになることは、必ず成し遂げられます。主のお考えは、行いです。この世のありとあらゆる現象、出来事の中にあって、また、それを通して、主が、我々に予定されていることは、私たちが、主イエス様と同じ姿に変えられていくことです。

このご予定は、必ず成就されます。なぜなら、主のお考えは必ず、行いとなるからです。主は、あらゆる時代を通して、この変わらないご目的を持っておられました。今の世にあっても、私たちは、いろいろな困難、試みを味わう時、この主の御心を静かに考えることは、我々にとって、非常に益するところが大きいと思います。主のものとなった者の生活には、偶然というものがありません。なぜかと言えば、主ご自身が、選びたもうた我々を導いておられるからです。

全能なる主は、この世のあらゆる出来事を、御手の内に握りしめておられます。あたかも、船の舵をとっておられるようなお方です。この世の現象の中心に、主のものとなった人々が渡来しているということは、聖書がはっきりと言っています。この世のあらゆる現象を通して、主が予定され、ご計画され、願っておられることは、私たちが、御子イエス様と同じ御姿に変えられていくことです。この主の変わらない、動かすことのできない、あらかじめ、定められた御計画が、私たちの確信となり、喜びとなり、また、平安となり、拠りどころとなることができれば、本当に幸いです。

2番目、この世の出来事の上に立つことの必要性について、ちょっと考えましょうか。

私たちは今、いわゆる原子力の時代に生きています。国々は争って、原子力の研究を進めただけではなくて、ある意味で成功した。けれども、これらの科学の進歩していく、その陰には、言い知れない不安があることも見逃せません。私たちが働き、生きていくその最後は、いったい、どういうことになるのでしょうか。完全な破壊でしょうか。信じる者だけではなく、未信者も、世界にも、同じ疑問が持たれています。

今のこの世の現象は、本当に混沌とし、めちゃくちゃではないでしょうか。人間の目から見ると、確かにそうです。けど、主の目は、そのようには見ておられません。人々は、もっと良い時代を願っています。もっと良い状態になることを願っています。だからこそ、たとえば、原子爆弾に反対するようになった人は多いです。主は、これに対して、我々の時代を良くし、環境を改善しようとは思っておられません。私たち自身を、人間を、良くしようと思っておられるのです。私たちは、御子(みこ)イエス様と同じ御姿に変えられなければいけません。この主の御目的を考えて、時代を良くしよう、環境を良くなるように願っても無駄です。そこに待っているのは絶望だけです。

私たちは、あらゆる出来事と環境の上に立たなければいけません。もちろん、私たちは、この世にあって、悩み、苦しみに引き込まれます。そして、私たちの意志も、感情も、また、考えも、この苦しみに巻き込まれてしまう時もあるでしょう。けど、我々の霊だけは、その上に、堅く立っていなければいけないのです。もし、私たちが、霊において、出来事と環境の上に立っていないなら、主の証し人として、立つことができませんし、また、御心にかなった御奉仕を成すことも、できません。それに加えて、あらかじめ定められた、主の御目的にかなうことができません。私たちは、毎日、毎日、いろいろな出来事に出くわしますけど、それから開放され、自由であらねばなりません。私たちは、この世のあらゆる出来事の上に、雄々しく、堅く、抜きん出て、立っていなければなりません。

ところが、何が私たちを、時代的な出来事と環境の中から、引き上げてくれるのでしょうか。何が私たちを、解放してくれるのでしょうか。私たちを引き上げ、解放してくださるのは、永遠に変わらない、動かすことのできない、主の御計画と御予定です。主の関心の全部は、私たちが御子の姿に変えられることに注がれています。主が、我々に、この御目的を持っておられるということを、私たちは、御霊によって教えられているのでしょうか。もし、御霊によって教えられているなら、私たちは、あらゆる問題に勝つことができます。あらゆる悩み、苦しみの上に立つことができます。

もし、御霊の証しを持っておられないなら、悩みと苦しみが来ると、すぐに、絶望してしまわなければならないはずです。私たちは、あらゆるこの世の出来事の上に立つことができるようになるため、主の御目的に対し、心の目を開いていただきたいものです。

3番目、主の永遠に変わらざる、ゆるぐことのない御計画について、ちょっと考えたいと思います。よく引用されるローマ書、8章の29節をお読みいたします。

ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

神の御子のかたちにせられていくことは、主の深い御心です。これこそが、私たちが日常、出くわす理解できない問題の説明となる、みことばなのではないでしょうか。この主の御目的は、私たちが今、出くわしている問題の解答です。また、私たちが今持っている、悩み、また、苦しみの説明でもあります。

主は、私たちに対して、御子と同じ姿に変えられるという、ひとつの御目的を持って、働きかけておられます。主は、永遠の昔より、私たちが御子のかたちに似た者となるように、あらかじめ、定めておられました。まもなく、私たちに訪れて来ます永遠の世界に入ります時、この御目的は現実のものとなります。すなわち、私たちは、イエス様と同じ姿に変えられます。このローマ書、8章28節、29節を見ると、主は働いておられると書いてあります。

なぜ、こんなにたくさんの理解に苦しむような試みが来るのでしょうか。それは、主が、我々の内に、その御姿をかたち作られるためなんです。今日(こんにち)の望みのないような状態の中にあって、ただひとつの希望は、イエス様です。そして主の御心は、御自身の御子、主の御姿が、我々一人ひとり、信者の内にかたち作られ、我々を通して、イエス様が現れることです。私たちの内に住んでおられるイエス様こそ、我々の栄光の望みです。私たち自身の内には、爪の垢(あか)ほどの望みも見出すことはできません。

けれども、このような者の内に、主の変わらない永遠の御目的が成就(じょうじゅ)されていくということは、何という大きな恵みでしょう。私たち皆、ともに、御子イエス様の御姿になるのだ・・・ということを考えてみると、すばらしいのではないでしょうか。

4番目、悩みによって、主と同じ御姿に変えられることについて、ちょっと考えたいと思います。

私たちが今、いろいろな持ち場で、働いていますけど、それは、主がそこに置きたもうたのです。たとえ、苦しみがあっても、悩みがあっても、主の御心を甘んじて、受けていかなければなりません。主は今、私たちが出くわしている悩みや、苦しみを通して、私たちの内に何かを成したいと思っておられるのです。

もし、もっと良い時が訪れて来るのを待っていたら、良い環境が来るように願っているとすると、後になって後悔するようになるでしょう。後になって、『私はあの時、主の目的を、苦しみの内に、知るのが本当だった。私は忍耐を持っていなかった。私はあの時、自分の周りにあった環境をもっと良くしようとばかり考えていて、環境によって、主が、私自身を変えようとなさっていたことに、気がつかなかった』と、言うようになるでしょう。悩みや苦しみを通して、主が我々の内に御自身の御姿をかたち作られ、私たちは、主の御姿に変えられていくのです。そして、一方では、自分がどんなに恐るべき罪の性質を持っているかということに気がつき、恐れおののきながら、他方では、主が、このような者の内に御姿を作ってくださるという幸いを感謝しながら歩むようになるのです。

この御子の御姿に変えられていくのは、非常にゆっくりです。しかし、最後には、御子が多くの兄弟たちの中で、長子となるために私たちは、全く、主と同じ御姿に変えられていくのです。

イエス様は、なぜ、たとえば、私を日本に導いたのでしょうかね?主が導かれた大事な目的は、みことばを述べ伝えること、イエス様を紹介する、いわゆる奉仕のためではないと思います。御子と同じ御姿に変えられるのを第一の目的として、日本に遣わされました。

なぜ、あなたが、たとえば、会社で勤め、学校で働いたり、勉強したりするのでしょうか。苦しみ無しに、安楽な時を過ごすためでしょうか。そうではない。主の御姿に変えられていくために、そのような環境に置かれています。

主は、あなたが、何をなさるかより、あなた自身に関心を持っておられます。主にとって大切なのは、いわゆる、奉仕することではなく、我々の性格が大切です。人格が大切です。天の標準は、地上のそれとはちょっと違います。天では、私たちが何をやったか(によって)、私たちを計ることをいたしません。主イエス様の標準によって、私たちを計ります。すなわち、イエス様が、どれほど我々の内にかたち作られているかによって、私たちは計られるのです。もし、私たちがご奉仕しても、その結果、人々の内にイエス様の御姿が、かたち創られていないようなら、そのご奉仕は、全く空しい奉仕と言わなければなりません。

私たちが、どんなに説教を聴いても、喜びの集いに行っても、イエス様が我々の内に御形(みかたち)を作られていくことはできない。苦しみによってのみ、我々は、主の御姿に変えられていくのです。それでは、私たちは、何のために、たとえば、今日ここに、このように集まったのでしょう。私たちは、お互いに助け、共に主の御心は何であるかを知るために、ここに集まってきました。けど、実際に、主の御形(みかたち)に似せられていくのは、日ごとに経験する艱難(かんなん)と苦しみによってだけなのではないでしょうか。

5番目、御霊(みたま)だけが、我々を御子の姿に変えることができるということについて、ちょっと考えたいと思います。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮(きわ)める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

御霊は、いつも主の思い、主の計画を御存知で、いつも、それが成就されるようにと働きます。御霊だけが、我々をイエス様と同じ姿に変えてくださいます。けど、それこそ、とりもなおさず、主の御目的です。もし、御霊がすべてのことにおいて、支配をしてくださらなければ、どんなに説教しても、どんなに教えを述べても、それは空しいことです。もし私たちが御霊に支配されなければ、どんな集会に集っても、1ミリも前進することはできません。

私たちは、知識を蓄えても、いくら教えを聞いても、御霊が働くことができなければ、イエス様の御姿に変えられていくことはできないのです。私たちは、多くの知識を持っているかもしれないけど、二~三年後になって、『その知識は実際には役に立たず、空しいものであった。私たちの信仰生活の土台であるイエス様の血のところまで、もう一度、戻らなけれいけない』と気づくのです。そのような時、教えは役に立たない、捨ててしまってもいいと考える人もいるかもしれないけど、それもまた、良くないことです。私たちは、主の御目的を知っているかもしれませんが、その知識を聖霊がお用いになるかどうかが問題でしょう。私たちの持てる知識はみな、御霊(みたま)がお働きになるための土台とならなければなりません。

なぜ、神の子とされた者に悩みや苦しみがあるのでしょうか?それは、繰り返して言っていますが、御子イエス様の御姿に変えられるためです。主は、この目的を達成されるために、いろいろな悩みや苦しみをお与えになるのです。

イエス様は、いつも、「お父様、わたしの心ではなく、あなたの御心をなしたまえ」と、祈られたのです。ですから、もし、私たちが御子と同じ御姿に変えられていきたいなら、主と同じように、「主よ、私の心ではなく、あなたの御心をなしたまえ」という、態度をとらなければなりません。もし、そうなるならば、自分では何事もすることができなくなり、すべてを主にお任せした、より頼みの生活になってきます。自分自身の努力ではなく、御霊のお働きによって、こうなるのです。私たちの内に主の御姿をかたち作っていくために、御霊が自由に、私たちの内で、お働きになりますように。

6番目、イエス様の御姿に変えられていくと、まことの知識にあずかるに至るのです。パウロの祈りを読みたいと思います。すばらしい祈りです。

コロサイ
1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。
1:11 また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、
1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

まことの知識を持っている人は、主を喜ばせる人、また、主を崇拝する人です。

もし、私たちが、いつまでも残る実を結ぶ奉仕をしたいと思うならば、また、常に天の窓が開けて、光のうちに生活したいと思うならば、まことの知識を持つ必要があります。まことの知識とは、経験によって得られるもので、この知識を一旦、自分のものとすると、私たちの人格は、切り離せないものになります。主は、私たちが、このような知識を持つように願っておられます。もちろん、このまことの知識は、頭の知識とは、ぜんぜん、関係がありません。主を信じる者の中で、私は前には、そのように信じたが今は信じていない。前にはそう考えていたが、今の考えは違うというような人々が、確かにいます。けど、主はそのようなことを、喜びたまいません。

私たちは今、末の世に生きておりますが、かかる世にあって必要とされているのは、しっかりと立っている人であって、河原に生えている葦のように、風の吹くままに、向こうに傾いたり、こちらに傾くといった人ではありません。しっかりと立つには、まことの知識が必要です。

私たちはいったい何を知る必要があるのでしょうか。

まず、私たちは、我々の生まれながらの罪の性質は、決して直らないということを、知らなければなりません。これを、まことに知っている人は、『自分でやることはできない、主により頼まなければ、何もやることができない』ということも知っているのであります。私たちは、罪を赦されて、主から義と認められるためには、自分で何もすることができなかったのです。ただ一方的な憐れみによって、義とされました。同じように、私たちが清められていくのも、自分の行いではありません。このことも知らなければなりません。このことを、まことの知識として知っている人は、自らを、自ら清めようと努力することを止め、ただ、よみがえられたイエス様に、自らをおゆだねするはずです。

私たちが、知らなければならないのは、からだなる教会に対する主の御計画です。教会は、イエス様の肢体であり、すべてのものに満ち満ちているところのものであり、また、聖霊の宮です。からだなる教会は、全く天的なものであり、霊的なものであり、また、世界的なものであるから、いかなる組織や人間によっても、支配されるべきではありません。もし、この知識を、上からの啓示によって、自分のものとすることができるなら、それは、我々の喜びで、力であり、また、自由です。一言で言えば、この知識は、我々のいのちとなります。もし、この知識を捨てるとすれば、それは、霊的な自殺を意味しています。私たちはみな、かかる知識を必要としています。

まことの知識は、いのちです。けども、問題はいかにして、このような知識を持つことができるか・・・ということです。それは、イエス様と同じ姿に変えられていくことによってのみできるのです。けど、御霊は御子(みこ)と同じ御姿に私たちを変える御業(みわざ)を、ただ悩みによってのみ、行います。悩みと戦いの真っ只中にあって、初めて、イエス様と同じ姿に変えられていくのです。イエス様は、我々を人間的な目で見るならば、全く望みのない、絶望的な状態に導いてくださいます。

主はなぜ、そのようにお導きになるのでしょうか。それは、私たちが我々の生まれながらの罪の性質は、絶対に良くならないものであるということを、まことの知識として知っているかどうか、また、我々は、清きに至ることについて、全く無力であるということを、まことの知識として知っているかどうか、また、イエス様のからだなる教会に対する知識が、単なる教えであるか、または、私たちのいのちとなっているか、これらを試し見るために、主は、悩みのうちに私たちを導いてくださいます。この方法によってだけ、まことの知識を得ることができます。私たちが、イエス様と同じ御姿に変えられていくと、まことの知識は、頭の知識ではなく、我々のいのちとなります。私たちは、もっともっと、数多くのまことの知識を得たいものです。

7番目、苦難を通して、全うされることについて、ちょっと、考えたいと思います。

どうして、この世は、こんなに混沌としているのでしょうか。なぜ、この世には、理解に苦しむことがこんなにたくさんあるのでしょうか。また、なぜ、悩みや苦しみが、こんなにたくさん、あるのでしょう。主は、これらのすべてを、私たちが、御子の御姿に変えられるためにお用いになっておられます。イエス様が、我々を通して、すなわち、主のからだなる教会を通して、現されていかなければいけませんが、これは、主の御計画です。

この目的のため、主は、我々を、創造の初めより、選んでくださいました。悩みや苦しみに、うちひしがれている人々のために、何を祈ったらいいのでしょうか。その人の苦しみからの解放のために祈りますけど、祈っても、その人の状態が好転しません。ますます、悪くなります。そのような時、悪魔がやって来て、『お前の祈りは駄目だ。』私たちは、失望してしまいます。私たちのこのとりなしの祈りにおける絶望から、希望が生まれるのでしょうか。はい、希望があります。その信じる者が、悩み、苦しみ、押しつぶされているのは、主の御計画です。その苦しみによって、この人の内に、御子イエス様の御姿が、かたち作られていきつつあるのです。御子イエス様と同じ御姿に変えられていくということは、主にとって一番、大切な御目的ですが、すぐに、祈りに応えて、悩みから解放されるということをされないのです。

イエス様の苦しみの中における、あの忍耐を見てください。私たちも、主と同じ姿に変えられなければならないのです。イエス様は、苦難を通して全(まっと)うされました。私たちが全うされるためには、他の道はありません。四福音書を読んでみると、イエス様は、他の人々とは、根本的に違っておられましたことがわかる。イエス様のお母さん、また、イエス様の弟子たちでさえも、イエス様のことを理解できないことが、度々ありました。私たちも、主と同じ姿に変えられなければいけません。イエス様の最後の頃を、考えてみてください。イエス様は、人から全然、省みられませんでした。また、人から、少しも誉を受けませんでした。

もし、信じる者が、救われた者のあいだだけでなく、未信者のあいだでも、何か認められようとするのを見ます時、それは、一番、苦しい、悲しいことです。我々のイエス様は、そうではありませんでした。この主イエス様と同じ御姿に変えられたいと願うならば、どうして、人々にとり入れられたいと願うのでしょうか。イエス様は、全能なる神であられました。けど、イエス様は、叩かれ、鞭打たれ、つばきせられ、侮られました。

もし、イエス様がそうしようと思われたら、それらの人々は、イエス様の一言で、この地上から抹殺されたはずです。たちどころに滅んでしまったはずです。けど、イエス様は、すべてを耐え忍んで、自ら、悩むをよしとされ、両手両足に釘を打たれ、おまけに、十字架の上で、「お前は人を救ったのに自分を救うことが、できないのか」と、ののしられました。もしそうしようと思えば、イエス様のために十二の天の軍勢が控えていましたから、主の一言で、主を救うためにやってきたことでしょう。けど、イエス様はそうされなかったのです。

主は柔和にして、心へりくだったお方です。私たちは、このようなイエス様と同じ御姿に変えられていきたいものです。イエス様は、天のかおりを身にただよわせておられた方でした。地上に来ておられた時でさえも、イエス様は自ら、「わたしは、天にいる人の子である。わたしの国は、天国である」と言われました。イエス様は、地上のあらゆる悩みや欠乏の上におられました。我々も、主と同じように、この世のあらゆる環境から、注意していたいものです。

第一コリント
15:47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
15:48 土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。
15:49 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。
15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義(おくぎ)を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

天国に至る道は、散歩道ではありません。主と同じ御姿に変えられていく道は、確かに、楽なものではない。この道は、地上における宿り人のたどる道であり、人類が歩む道です。イエス様によって、主と同じ御姿に変えられていく人々の特徴は、きわめて、天国に対するホーム・シックにかかっているということです。社会に認められ、人々から誉れを受けるなどということは、全然、考えたくもなくなります。もし、天国を慕い、仰ぎ見るなら、私たちの悩みは、また、苦しみは消えてしまいます。

けれども、それとともに、天国がどういうところか、天国の性質も合わせて考えてみる必要があります。

天国には、ただ一人の人がいるだけです。それは、イエス様をかしらとし、そして、主の恵みによって救われた者を、からだとする一人ひとりの信者です。そして、この一人の人の性質は、全く、天的で、霊的であり、宇宙的であり、また、困ったところのない透き通った性質です。ですから、主は、二つのみことばをもって、私たちに非常に厳しく語っておられます。

ローマ
8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。意味は、救われていない。

ピリピ
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

イエス様は、透き通った人格の持ち主でした。きわみまで、ご真実な方であり、また、偽善を知らなかった方です。また、二心(ふたごごろ)を持たなかった方です。向こうに行って、あのように言い、こちらに来て、都合のよいことを言うといった方では、決してありませんでした。私たちは、このイエス様の御姿に、変えられなければいけません。イエス様は、祈りの方でした。勇気のお方でした。柔和にして、心へりくだった方でした。平安、平和、喜びのお方でした。このイエス様の御姿に変えられなければなりません。

これに至る道は、イエス様の歩みたもうた道を歩む道です。悩み多き道、誤解に満ち満ちた道であり、あざけりの道でもあります。

マタイ
10:24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
10:25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。

ルカ
21:16 しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、
21:17 わたしの名のために、みなの者に憎まれます。

もう一言、付け加えましょう。主イエス様の御姿に変えられていくことができる人は、まず、第一に、その罪が赦された人です。御霊が、まだ、私たちの内にされていないことを示しておられるなら、主のもとに行って、早く解決しなければいけません。イエス様の御姿に変えられるためには、そうすることが必要か。人によく見られたい、認められたい、そんなことよりも。もっとすばらしいことが、我々を待ち構えています。それは、栄えある主の御姿に変えられていくことです。主の血潮は、各々の罪、また、すべての罪より、私たちを清めてくださいます。イエス様の御姿に変えられていくことこそ、主が、我々の生涯に意図されておられるところです。主は、我々の内にそうすることができるのでしょうか。

人殺しのモーセは、世界で一番、柔和な人に変えられました。裏切り者のペテロは、もっとも大胆な証し人となりました。教会の破壊者、迫害者パウロは、もっともすぐれた教会の建築士に変えられました。

ローマ
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

もう一箇所、読んで終わります。

ユダ
1:24 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、
1:25 すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。


おわり

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