2011年1月18日火曜日

主のみからだなる教会

主のみからだなる教会
2011年1月18日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

もう少し、早めに現れたら良かったかもしれないけど、皆の顔、見たくて見たくてしかたがなかった。

今、歌いましたように、「一つの群れ、主のみからだ」という言葉が出てきます。私の個人的な悩みの種は、イエス様にとって、からだなる教会が、いかに大切なのかと解かっていない人が多いということです。イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てる」と約束してくださいました。だからこそ、すべてをめちゃくちゃにする悪魔は、信じる者が、このからだなる教会の大切さを知らないように、昼、夜、攻撃し、メクラにしようと思っています。そして、ある程度まで成功したように見えます。けれども、この勝利は、もちろん、偽ものです。


イエス様は、自分のからだなる教会の頭(かしら)です。正月の時だったと思いますけど、愛する重田定義兄弟は、言いました、『今年こそ、希望の年です。再臨を待ちましょう。』それから、もうひとつのことを言われたのです、『今年こそ、悪魔との戦いの年です。主のからだなる教会は、イエス様にとって全てです。』我々にとって最も大切な箇所のひとつは、今、読んでもらいました箇所でしょうね。

第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

上からの光に照らされて、すなわち、上からの啓示によって、この真理を心の目で見ることができれば幸いです。それによって、すべての疑問、また、疑いは飛んで行ってしまいます。ですから、今日の話の題名は、『イエス様は、ご自分のからだなる教会の救い主である』について、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。

個々、別々の教会ですかね、集会、また、教派、団体についてではなくて、主のからだなる教会について考えたいと思います。イエス様のからだなる教会は、イエス様ご自身のように、世界中に渡って、広く、限界がありません。イエス様が救い主として認められ、受け入れられている、いたるところにイエス様のからだなる教会はあります。主のからだなる教会。このイエス様のからだなる教会の生活方法と生活領域について、ちょっと、一緒に考えてみたいと思います。

私たちが、イエス様のからだなる教会であるのなら、イエス様の生活は、我々の生活であり、イエス様の生活方法は、我々の生活方法でもあるはずです。我々にとっては、イエス様に対する関係が問題である。私たちは、主が、自分たちの生活方法が、光であれば、あるほど、生き生きとした信仰生活を送ることができるのです。イエス様とからだなる教会。この二つは、最も密接に結びついています。イエス様が主体であり、初めです。ですから、私たちは、イエス様のからだについて、話そうと思うと、イエス様ご自身から、出発しなければならない。

イエス様と、からだなる教会について、黙示録1章11節から、16節においてすばらしく、良く示されています。

【参考】黙示録
1:11 その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
1:12 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
1:13 それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
1:15 その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

そこでは、高められたイエス様が、ご自分のからだなる教会の真ん中に立っていることが見られます。イエス様は、ご自分のからだなる教会を通して、自分自身を現しています。光輝く、聖なる者として、ご自身を現しています。イエス様は、自分が、自分のからだなる教会にとって、何であるかを示しています。イエス様は、ご自分を、最初のものにして、最後のもの、アルファであり、オメガである、また、初めであり、終わりであると言われました。

イエス様は、とにかく生きておられるお方です。ですから、イエス様は、からだなる教会の始まりであり、発展であり、完成です。イエス様にとってこそ、からだなる教会は、すべてです。私たちは、御子であるイエス様が、七つの金の燭台の真ん中に立っているのを見ます。完全な白い祭司の衣を、身にまとった、祭司であるイエス様を見ることができます。祭司は、一年に一度、旧約聖書では、旧約時代には最も大切であった、いわゆる、贖いの日に聖所へ入ります。すなわち、罪を負うべく、罪のいけにえの血を自分のために、また、民のために、主なる神の前に捧げるのです。この聖所に入る時に、この白い衣を着たのです。

高められたイエス様は、祭司の白い着物を贖(あがな)いの日に着ます。イエス様は、常にご自分の血を、からだなる教会、救われた信者、ひとり一人のために、父の前に捧げて、すべての罪を赦すのです。今は大いなる贖いの日です。今は、救いの恵みの日ですと、あります。イエス様の啓示を、ただ、眺めているだけではなく、今日、まったく、生き生きと経験できれば、幸いなのではないでしょうか。

主の恵みによって、救われた一人ひとりは、イエス様を救い主として、受け入れたのですから、私たちは、イエス様のからだの一部です。そして、イエス様のことばは、私たちの内で、きっと、生き生きとした経験となるはずです。

イエス様は、『ご自分のからだなる教会は、唯一のものであり、すべてです。』もし、私たちが、この事実を真剣に取りあげ、完全に、自分のものとするならば、私たちは、生き生きとした、イエス様のからだなる教会として用いられるのです。私たちは、高められたイエス様を、このヨハネの黙示録一章に表されているように、静かな時に受け入れ、見つめてみたいと思います。イエス様が、私たちの心の奥底にまで、入り込み、私たちがイエス様を認め、受け入れるまで、イエス様が我々の内に、また、私たちからだなる教会の真ん中で、御業(みわざ)を成すことができるまで、イエス様を見つめたいと思います。

イエス様の働くところには、祝福が流れます。どんな人も他の人を目覚めさせることはできませんが、私たちは、イエス様の御業が成されるために、場所を空けることはできます。イエス様のからだなる教会に対する働きは、からだなる教会に対する救いの業に見られるのです。

エペソ
5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
5:29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

イエス様は、ご自分のからだなる教会の救い主です。イエス様の救い主としての御業は、ここで、次の二つのことばにまとめられることができます。第一番目、彼は愛した。二番目、彼は与えた。この二つの事実は、聖書では、しばしば、一緒にして使われています。よく知られているヨハネ伝3章16節です。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

愛した。与えた。もう一箇所、ガラテヤ書2章20節、皆、暗記している、信じる者にとって最も大切な箇所のひとつではないかなと思います。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

このようにイエス様は、愛しました。イエス様は、砂の中から、金(きん)を集めるように、ご自分のからだなる教会をお集めになります。イエス様は、ご自身のからだなる教会を、自分で探し、贖い、解放し、清め、目覚めさせ、また、新たにし、形づくり、純粋にされるのです。

何十年か前に、ドイツで、ベテルという町にある孤児院に色々なものを贈ることができたんです。そして、この孤児院に集められたすべての物の表を作られたのです。それらの物はみな、考えられないけど、みな、使うことができました。けど、この表の中にただひとつ使えない物がありました。すなわち、瀬戸物のかけらです。瀬戸物のかけらは、孤児院でさえ使うことができませんでした。けれども、私たちは、主なる神が、瀬戸物のかけらさえ、用いることができることを知っています。

聖書の中で、陶器師のたとえ話が書かれています。主なる神は、瀬戸物のかけらを用いることができるお方です。また、イエス様は、実に、これを愛してくださるのです。主のからだなる教会は、ただ、かけらの寄せ集めからできているにすぎない。イエス様は、私たちをこんなにも愛してくださって、私たちのために、ゴルゴタに死なれました。これは、主なる神の愛のもっとも大きな奇跡です。

自分自身が、死に値する者であると知った人は、この愛を知っています。私たちは、死に値する者であることを認めるでしょうか。どうしたら、私たちは、それを認めることができるのでしょうか。

ドイツには、こういう歌の一節があるのです。すなわち、「私は、もっとも悪い人間の一人である」という意味の一節です。すなわち、『私は、もっとも悪い人間である。』理論的には、これに賛成するでしょうけど、もし、私たちの内の誰かが、それを私たちに向かって、直接、言うと、どうでしょうかね?このもっとも悪い存在である、私という尊厳が傷つけられる時、何と早く私たちは、侮辱されたと思い、腹を立てることでしょう。私たちは、私たちが悪い人間(である)ということを結局、解かっていないかもしれない。ですから、私たちは、実際には、このことをほとんど認めない。

自分の罪を確信するには、聖霊の、心の奥底にまで届く働きが必要です。自分を正しい者とすることは、もっとも醜い一番、誰でもある罪ではないでしょうか。

私たちは、罪の認識を私たちの内に、無理に起こすことはできません。けども、主のみことばによって、主の私たちに対する判断を、信じることができます。主なる神のみことばは、私たちを信じるよりも、もっと、よく信じることができるでしょう。イエス様の十字架は、我々の主なる神の判断について語っています。イエス様の血は、『お前の罪は、死に値するものだ』と、言っています。イエス様の十字架を仰ぎ見るたびごとに、私たちは、心の底から揺り動かされます。これは、十字架、ゴルゴタの奇跡です。なぜなら、イエス様は、ご自身をもって、私たちの罪のために、責任を取ったことを示し、イエス様が、我々の死の判決を自分自身に担い、実際に私たちのために死なれたからです。ここに至って、イエス様が自分の救い主となるのです。

ただ、愛のみが、聖い愛のみが、これをすることができたのです。

自分がしたことのない罪の濡れ衣(ぬれぎぬ)を着せられることほど、腹の立つものはありません。人はそれに対して、何と弁護することでしょう。けど、何という重荷がイエス様の肩(かた)にかかったのでしょう。犯罪の人殺しのもっとも恐ろしい、もっとも残酷な身の毛のよだつ罪、不道徳と不潔の泥沼の中にいる人の罪、すべての神を汚す恥知らずの行為、あるいは、すべての不親切で腹を立てた言葉、主はこのような、この世のすべての罪を自分自身が犯したかのように、すべてを一身に担いました。

イエス様は、愛してくださいました。私たちの一生は、このすばらしい福音を感謝し尽くすには、短すぎます。永遠に感謝しても、し足りません。イエス様は、愛しただけではなくて、イエス様は、与えた。自分自身を、与えて下さったのです。単なる愛ならば、私たちを救うことはできなかったでしょう。

主なる神の、大いなる力強い愛は、私たちに苦労をしろと言うことはできません。もし、できるなら、それは本当の愛ではなく、盲目的なものです。主の愛の力は、罪人の罪を贖うということはできません。罪人は罪だからです。主なる神の愛は、ただひとつのことができます。罪の代価を払うことができます。それを、イエス様ご自身がしてくださいました。その一人子を与えたのです。すなわち、命まで与えた。十字架は、私たちが、自分の認めた死の判決を、我々にではなく、イエス様に成された刑罰の執行です。それは、イエス様の血によって、あらわされた献身です。流された血の犠牲です。いのちを捧げる献身であり、尊いものです。イエス様の血は、何と貴重なものでしょうか。

ですから、イエス様の血は、すべての罪を清めます。私たちは、イエス様に対する献身を大げさに言います。けど、私たちに対するイエス様の献身は、はるかに大きいのです。イエス様は、このようにして、ご自分のからだなる教会を勝ち取りました。自分自身を捧げた愛によって、勝ち、得られたのです。

物語や伝説の中で、自分の命の危険を冒して愛する妻を得たことが、しばしば書かれています。ここでは、しかし、それは物語、または、伝説でもない。ひとつの事実です。主なる神の御業です。そして、私たちの救い主は、生命の危険に合ったばかりでなく、愛のために身を捧げました。イエス様は、最後まで愛しました。ですから、イエス様は、最後まで救うことができます。イエス様は、自分自身で、ご自分のからだなる教会を贖いました。この愛の秘密については、雅歌の8章6節に書かれています。なかなか、見つからない箇所だと思いますけど、雅歌はどこでしょうかね?

雅歌
8:6 私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。

パウロは、エペソ書5章32節でこう言っています。

エペソ(口語訳)
5:32 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。

それは、主イエスとそのからだなる教会の間の愛の奥義です。そして、この関係を主のみことばは、結婚のたとえで示しています。結婚は、何という聖なるものでしょう。結婚は、すべてにおいて、キリストと、そのからだなる教会をはっきり反映しなければなりません。信者の夫婦にとって、イエス様と、そのからだなる教会との関係は、結婚生活の模範です。その時もはや、「私がこうしたい、私の権利だ」という基準ではなく、新しい基準に従わなければならない、すなわちイエス様は、愛され、ご自分を捧げました。それゆえに、イエス様は、赦すことができます。

こうしてイエス様は、ご自身のからだなる教会の救い主になりました。イエス様の血は、すべての罪を、償って余りがあります。その罪は、どんなに大きなものであろうとも、イエス様に背中を向けた者の罪をさえ、償って余りがあります。イエス様は、罪人と、罪を犯した信者のすべての罪を贖(あがな)うことができます。ですから、大切なのは、医者であるイエス様を呼んで、傷を見せなさい。主の前に、病気の箇所を教えてください。心の底まで開きなさい。罪を数え上げなさい。ただ、罪の告白と、罪の赦しによってのみ、祝福の道、そのものが開かれるのです。

イエス様は、私たちを愛しました。私たちのために、ご自身を捧げました。私たちは、今まで、このイエス様の尊い愛の宝に対して、何をしたのでしょうか。

愛を拒むほど、重い罪はないでしょう。母親の愛を拒むことは、何と言う深い罪でしょう。夫婦間の愛を退けることは、何という悲しむべきことでしょう。けれども、イエス様の愛は、母親の愛よりも、夫婦間の愛よりも大きなものです。それでは、救い主の愛を拒むことは、何という罪でしょうか。私たちは、自分の救い主の愛に対して、何をしたのでしょうか。イエス様は言われた、「わたしは救いたいと思った。しかし、あなたがたは、救われようとしませんでした」と。

今、我々の耳を開き、私たちの心に迫る福音は、答えを求めています。ヘブル書の中でも、旧約聖書の中でも、書かれていることばは、「今日、御声を聞いたなら、心をかたくなにしてはいけない。」イエス様は、すべてをなさいました。イエス様は、愛しました。主イエス様、自身が最高の贈り物です。私たちは、それを欲しくないからと言って、退けるべきなのでしょうか。そうすると、きっと、ひどく後悔するでしょう。

今、答えるならば、多くのものを犠牲にしなければならないからといって、答えを延ばすのでしょうか。明日では遅すぎるということになるかもしれない。私たちは、イエス様に対する決定をすることができるのは、もちろん、生きている間(あいだ)です。この世において、イエス様を受け入れない者は失われます。ですから、私たちの人生の一日たりとも、無駄にしないで、今日を真剣に生きましょう。イエス様の愛と献身に対して、イエス様が喜ぶ、ただひとつの答えを答えましょう。すなわち、あなたが私をも、あなたの尊い血によって、お救いくださいましたことを感謝します。そうすれば、イエス様は、自分の救いそのものとなります。そして、イエス様は、私たちも、私をも、救ってくださったと、よろこぶことができます。

こういう話があります。ある朝、レイ子ちゃんという七歳になる女の子が、上野駅で、父親と一緒に汽車を待っていました。レイ子ちゃんは、物珍しそうに、あたりを見回していました。お父さんは、友人と話しをし、夢中になっていました。その時、警官の一団がやって来ました。その警官たちの真ん中に、手錠をはめられた、怖い顔つきをした犯罪人が、引かれて来るのをレイ子ちゃんは見ました。その男は、恐ろしい犯罪を犯しました。そして、今、刑務所へ送られる途中でした。レイ子ちゃんは、この犯罪人のことをよく知っていました。その朝、お父さんは、次のように言ったから。「この犯罪人の仲間が助けに来るかもしれない。だから、この男を厳重に監視しなければならない。すぐだ」と。

レイ子ちゃんのすぐ近くで、この一団が止まりました。お父さんは、友人と話に夢中になっていたので、何も気がつきませんでした。そうでなかったら、お父さんは、子供をこの恐ろしい一団に近づけなかったでしょう。レイ子ちゃんは、すぐに立って、男を、少し不安げに、しかし、心から同情して、眺めていました。これを最後にして、このかわいそうな男は、一生の間、監獄(かんごく)に閉じ込められて、日の目を見ないだろうと、レイ子ちゃんはたいへん、悲しく思いました。突然、男は、レイ子ちゃんを見て、それから、目をそらしました。それから、すぐ男は、レイ子ちゃんの同情あふれたまなざしを王冠のように、もう一度、見ました。男は、レイ子ちゃんを少しのあいだ、じっと見ていましたが、まもなく、耐え切れないように、目をそらしました。レイ子ちゃんは、男が自分のことを、うるさく思ったのだと思いました。レイ子ちゃんは、それをたいへん、悲しく思いました。それで、この恐ろしい男のすぐそばまで行って、真剣な声で言いました、「おじさん、私はおじさんを悲しませるつもりはなかったのです。ただ、おじさんのことを心配だったのです。イエス様もまた、おじさんのことを心配しています。」

すると、その時、警官の一人が、レイ子ちゃんの腕をすばやく掴み、気がついて出てきた父親に、引き渡しました。このレイ子ちゃんの言葉を聞いた者は、その犯罪人より他にいませんでした。

幸いのことに、この男は、このことばを聞いたのです。あどけなく、同情に満ち溢れた、心から話された言葉は、この犯罪人の怖い心に入り込みました。そして、悲しい監獄の中で、この男は、この言葉を忘れることができませんでした。看守は、この危険な悪者はもう何の騒ぎも犯さず、暴れもせず、逃げようとしないで、毎日、おとなしく、親切になっていくのを見て、非常に驚きました。数ヶ月の後、監獄の牧師が、彼が、どうしてこのように変わったのか、訊いた時に、謎が、もちろん、解けました。「それは簡単だよ」と、犯罪人は答えました一人の女の子が、私のことを心配してくれました。そして、イエス様も私のことを心配しています』と、言いました。この女の子と、イエス様が同情してくださいましたので、私の心は砕けました。

イエス様は、すべてをなさいました。イエス様は、愛を示してくださいました。イエス様ご自身が最高の贈り物です。

イエス様の献身に対して、イエス様が喜ぶ、ただひとつの答えを答えましょう。すなわち、あなたが、私をも、あなたの尊い血によって、お救いくださいましたことを感謝します。そうすると、イエス様は、自分の救い主となり、そして、イエス様は、私をも、私をも、救ってくださったと、喜びの声をあげることができるのです。


おわり

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