2011年1月22日土曜日

試練に耐える人は幸いです

試練に耐える人は幸いです
2011年1月22日(土曜)、和歌山橋本家庭集会
故・小久保到兄(芦屋集会)

ヤコブの手紙
1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

今日は、家内と一緒に来ることができました。また、当地は、きょう初めてうかがいました。本当にまわりの景色を見ながら、日本の風景はどこへ行ってもすばらしいなと言う実感をいたした次第です。そのすばらしい環境は、宇宙を支配している創造主のイエス様の法則によって地球が成り立っている、その中で、私たちは生かされている。なかなか、その実感を受け取ることができないわけですけど、本当に、イエス様を信じることは、宗教ではなくて、イエス様への信仰を通して、ひとりひとりが立ち返り、生涯を主と共に歩むために救われた。そして、すべての人が神さまのもとに行けるように、大きな約束をイエス様がひとりひとりにお与えになっています。

それから外れますと、本当に、いま兄弟に読んでいただきました「試練にあう人は幸いです」と言うその言葉も、なかなか受け取ることはできませんけど、すべての人は、やはりなんらかの試練をもって生きています。

その試練に耐え抜いた人は幸せです。病気の人は、ほんとうに、体の弱いことを通して、イエス様に力をいただいて、逆に強くされている。強い人は、逆に、弱く見えるのではないかと思います。それは、自分が強いと言う錯覚に陥って、自分が中心になって、生きている。そこには、主の働きも、主を求めようとする気持ちもありませんから、結局は、自分勝手な生き方をしてしまって、疲れてしまうと言う繰り返しの人生を、毎日を送らざるを得ない。そう言うふうに見ることができます。

そして、私たちはこの聖書を通して、日々の糧をいただいて、主と歩む幸いが補償されておりますので、楽しく、共に主の元に集まり、地上での生活を与えられています。

きょうは、このヤコブの箇所ですね。今の時代を見た時に、試練に耐えることがいかに大切なのか、そのことを感じます。まして、このヤコブの手紙は、5章からなっていますが、非常に読みやすい。ひとりひとりの心にすっと入ってくる人生訓と言いますか、ほんとうに、励まされて歩める言葉が非常に多く語られています。

ヤコブ
1:1 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。

これは、ユダヤ12部族、2部族は南王朝、10部族は北王朝。10部族は滅ぼされました。2部族は、バビロン捕囚に遭い、イスラエルは離散してしまいました。国外に散っているすべての部族に手紙を送りました。

ヤコブ
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
1:8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

「安定を欠く」とは、どう言うことか?ここに「二心のある人は、安定を欠く」とあります。自分が可愛いか、主のために生きるか自分のために生きるかを天秤に掛けたときに、自分の私欲に心を支配されると、安定を欠いてしまうと言うことを、ここに書かれています。

と言うのは、自分を頼りにするのではなくて、イエス様が先に居て、イエス様にお願いして歩ませていただくと言う謙虚な姿勢がないと、本当に疲れてしまう。そのことでもあります。

ヤコブ
1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。

1:19 愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

このように、すべての良いものは、上から来るとあります。私たちが今この社会で生活しているその環境と言うのは、自分を頼りにしたり、金銭を頼りにしたり、物を頼りにしたりすることが多くあります。

しかし、そこでよく言われるのは、神さまから来るのか、悪魔から来るのかと言うことがあります。

悪魔と言うと、私たちは実体を見ることができませんけど、神さまから来る以外のことは、悪魔の働きとみることができます。イエス様が40日間、荒野で悪魔の誘惑に遭うシーンがありますけど、40日と言う長い断食と、悪魔の働きによって試されます。イエス様にとっては、公生涯のスタートとして、それが起こりました。それは、イエス様にとって、大きな試練でした。

それを見てみますと、すべての国をあなたにあげるからと誘いをかけます。誘惑をします。それは、イエス様を試すと言うことなのです。そう言う神さまから来る言葉ではなくて、悪魔からきました。ほんとうは、悪魔は賢いのですよね。人を騙すと言うよりも、たとえば、律法的に非常に長けた人、そう言う力をもった知識人、その考え方を受け入れなさい。私を拝むと言うような、神さま以外の宗教的な、私を拝みなさい、私が神さまである。私は、お金をいっぱい持ってるから、私を信じて私に従いなさい。

そう言う惑わしの言葉。そして、主から離そうとする。それは、戦争でも、世界の混乱の状況も、神さまから離れた結果出てくる問題です。

私たちは神さまによって多くの御言葉をいただきながら生活をしています。信仰を持つと言うことは、イエス様を頼りに生きると言うことです。

ローマ
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

ここで、信じることがまず大切です。ですから、うわべだけでわかった、わかったと言うようなことではありません。そこにまた、行動が伴います。心で信じて、口で告白して救われるとあります。救われたら、次はどうするのか、今度は、福音を宣べ伝えたりする行動が伴います。

ローマ
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。」とあります。当時のユダヤ人には選民意識がありますから、自分たちが神さまと繋がっていて、あとは異邦人だと言う状態でした。しかし、ユダヤ人が主から離れて行ってしまった歴史があります。そして、時代は異邦人の時代になったとあります。ですから、今も異邦人の時代として、異邦人に救いが宣教されています。そして、異邦人が救われて、また本当のユダヤ人が救われて行くと言う世界の縮図を見ることができます。

ローマ
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。分け隔てがないのです。ここにギリシャ人もユダヤ人も区別はありませんとありますように、すべての人が、主の御名を呼び求めたら救われる、そのように書かれています。

ローマ
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

私たちは、生活の中に、自分を頼りにしていますと、なかなか本当の救いや心の癒やしとか、そう言う楽しい人生を歩むことからはずれてしまいがちです。しかし、主を呼び求めて信じた人は、だれでも救われると言われるなかで、「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」です。ですから、ひとりひとりに伝えていく目的と使命が与えられていると言うことではないかと思います。

イザヤ
65:2 わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。

すべてが、創造主と自分の関係ですから、対立するのは自分に与えられた使命はなにか、それを自覚することが必要となります。自分がなんのために造られたか、なんのために、創造主の前に、どのように生きるべきか、ひとりひとりが、主との対話をして、主から聞いた、心に受けた御言葉を通して、自分と神さまとの関係を保ちながら、自分は創造主の前にどのような生き方をすべきか、これを知ったときに、生きる目的、生きている意味を実感できるのではないかと思います。

試練に遭うときは、どうしても後ろ向きになってしまいます。また、うつむいてしまったり、心が疲れてしまいます。そう言う時でもありますが、逆に主を信じることによって、本当の喜びの方に向かうことができる。脱出の道がそこに用意されている恵みを頂くことができるのではないかと思います。

ですから、これを知ったときに、勇気をもって人生を歩み始めることができるのではないかと思うのです。

時代はどんどん変化していきます。どのように変化していくかを知ることもできません。ですから、どういう変化が起きようともぶれない生き方は、主を信じることによって生まれてきます。そのことを教えられているのではないかと思います。

そのためには、人生に流されていた生き方、その時、楽しければ良いと言う自己満足的な生き方。そのような生き方ではなくて、自分の内側に徹底的な基準、自分を中心とした生き方ではなくて、ただただ周囲に順応する生活の仕方ではなくて、主を己の喜びとすると言う御言葉によって、生きる生き方で人は変えられるのではないか思うわけです。

イエス様は、「人は、パンのみ生きるのではない。ひとつひとつの神の言葉によって生きる」と断言して、わたしたちに教えてくださっています。神さまの言葉は、ひとりひとりに与えられています。特定の人に与えられているのではありません。

ひとりひとりに、もうすでに聞く耳と姿勢があれば、いつでも語りかけてくださる。それは、ひとりひとりに与えられている創造主からの使命のことですけど、人間は、偶然に生まれてきたのではないと言うことであります。ひとりひとりが大切な存在です。ですから、その命をいかに生かすかと言う、そのためにどのように生きたらいいのかを、ここでは教えています。

人間は、偶然に生まれてきたのではなくて、神によって造られたことを覚えなくてはならない。どのような生き方をするか。その支配も神さまがされている。したがって、おのおのに、神さまから目的と役割が与えられています。大きいかとか、小さいかとかではなくて、ひとりひとりに大切な役割と目的が与えられています。

これが、聖書と創造主を知る人々の人生の生き方のもとになるのではないかと思います。

つまり、創造主を知ることが人生の最大の目的でもあるわけです。ですから、若い時にこの創造主を覚えた人は、ほんとうに幸いだと思うのですけど、しかし、試練とか訓練を経て、神さまの存在気がつき、神さまとともに歩む、自分がどのように生きているか生かされているか、その目的と使命を知った時に、生きていて良かったと、人間として賜物も理解できるのではないかと思うのです。

逆にそのことを知らなければ、いずれ人はすべて死に向かって生きているわけですから、無意味な人生として終わりになってしまいます。しかし、そのことを主は、私たちが一日も早く気づくように、日々、とりなしの祈りをしてくださって
いる。そのことも、聖書の中に書かれています。

私たちが祈る前に、先に主がいつも祈って、救いの道を差し伸べていてくださっています。その祈りの大切さについて、第二歴代誌をみてください。

第二歴代誌
7:14 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

旧約はイエス様が救い主として来られる預言の書でもありますが、その歴代誌の中にあります。「彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」とあります。ですから、土壌が癒やされなければ食物も環境も保てません。いまの時代を見ますと、環境はますます悪化する方法で、開発と言う名目で自然界は、変化をとげています。

たとえば、アマゾン流域の森林伐採がどんどん進んでいるそうなんですけど、それは、地球温暖化になって、いろんなところに影響が出て来ます。そこを開発して、何がそこに築きあげられるのか。

ヤコブ
4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

ここには厳しい言い方で書かれています。願ったことはなんでもかなえられたらとお祈りしますが、動機が悪ければ与えられない。ですから、素直な心でイエス様にお願いする。そう言う心が大切なことを教えています。不純な動機はだめですと書いています。

第一ヨハネ
5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

このように、心から神さまに確信を持って願う。「確信」と言う言葉がよく出て来ますが、神さまの存在を疑うこと無く、素直に願いなさいと教えています。ですから、どんな答えが出て来ても、喜んで神さまにお願いすることが必要なのではないかと思います。最後に、ヤコブの5章から読んでみたいと思います。

ヤコブ
5:7 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
5:8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

ここの今から何千年前から主を待ち望む姿勢は変わっていないのです。イエス様が、2000年前に、すべての人の救いのために十字架にかかってくださったとあります。今生きている私たちは、すべての人が罪人ですとあります。それは、なぜかと言うと、私たちが罪を犯したから罪人ではなくて、アダムからそれ以後の人類はみな罪人です。その罪人とは、神さまから目が離れた存在、主に背いて生きている存在、それを罪人と言うわけです。

ですから、イエス様は、主の元に帰れ、主とともに私たちが歩むために、私たち一人一人の救いを呼びかけておられます。このヤコブは、肉的にはイエス様の弟です。

ヤコブ
5:9 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。
5:10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
5:11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

ヨブも最初は豊かな金持ちの人生を送っていましたが、すべてを取り上げられました。奥さんは、主を呪って死になさいと言う厳しい言葉をヨブにかけます。けれども、ヨブの人生の最後には、主から恵みを再びいただいて、家族も回復されて、豊かな人生の結末を迎えることができています。そのことを覚えなさいとヤコブ書には書かれています。

ヤコブ
5:12 私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。
5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
5:14 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
5:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
5:17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。
5:18 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。
5:19 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、
5:20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。

このように、本当にひとつひとつの御言葉が励ましと、ひとりひとりが祈ることによって、忍耐をもって耐え忍びなさいとあります。今のこのような時代にあっても、この姿勢は、大切な時期ではないかと思うわけです。主の日は近いと言う御言葉を通しても、ひとりひとりが主から離れるのではなくて、主のもとに結束していく人生を、福音を通して、ひとりひとりが交わりを深めて歩めたら幸せだと思います。

どうもありがとうございました。

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