2011年1月23日日曜日

新しい歩みをするために

新しい歩みをするために
2011年1月23日、大阪集会にて
故・小久保到兄(芦屋集会)

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

私も今年で60才になります。現役最後(高校教師)の勤務があと三か月を切っているのですが、一応、現役はしりぞいて、その後、どのような歩みをするか。それは、できるだけ仕事に縛られないような歩みをしたいなと思っています。今までは、仕事、仕事。救われたと言っても、日常の生活の中では仕事が中心になって、肉的にもそのために時間を割いてしまいます。

しかし、救われた中で、どのような状況になっても、困った時、苦しい時、悲しい時、聖書を通して相談できる方がおられる。これは、ほんとうに心の慰めになります。そのことを知ると言うことは、大切なことではないかと思います。

イエス様を受け入れると言うことは、むつかしいことではないのではないか。素直に、自分が苦しい時、悲しい時、イエス様ごめんなさい、イエス様これからお願いします。そう言うまごころをもって主に尋ね求めれば、主は本当に心に安らぎを与えてくださるのではないかと思います。

私は――証しになってしまうかもしれませんが――、27年前(2011年当時)に、姉妹と結婚して、結婚を契機として聖書に出会ったと言いますか。最初に聖書を開いたのは、ちょうど20才の時なんです。それは、職場の上司からクリスマスに招待をいただきまして、その時に初めて教会に行くことがありました。

そこでは、日本キリスト教会だったと思いますので、聖歌や賛美歌を用いたり、その当時、聖書の中に書かれていることが理解しようと思っても、できるものではありませんでしたし、自ら読んでみようと言う気持ちもあまり起こっておりませんでした。

ですから、人から伝えられて、人からこういうものですよと言われて、ああそうですかと言うだけで、自分の心では理解できないものでした。その後、結婚を契機として聖書に出会って、本当の聖書の中にどういうことが書かれているか、一生懸命、読んでも理解できるものではありません。遠藤周作さんのイエス・キリストの生涯を読んだり、イエス様に近づこうと努力した経験があります。

そうしますと、遠藤周作さんが書いたのは、あれは小説ですから、神さまを人間のレベルまで下げて書かれているようにも思いました。と言うのは、人間の理解できるイエス様像になってしまう。そう思いました。やはり、本当のイエス様は、十字架で痛まれた。なんのために十字架につけられのか?そのことを心から求める時に、はじめてわかったようなものだったと思います。

それは、自分の考えていることと、イエス様が私たちに示そうとされていることはぜんぜん違うと言うことです。さきほど、答えを求めれば、自分の望む答えが欲しいと思ってしまいます。しかし、イエス様に尋ねたとき、どのような答えをくださるかは、わからないことですし、必要な答えをその時に与えてくださるものではないかと思います。

そして、その答えは、若い時にくださる答えと、苦しくて求めている時にくださる答えと、それから、死をさまよっている時の答えと、そう言うものは違うのではないかなと思います。イエス様から出る答えはひとつですけれど、私たちに与えられる答えは、その時々に、違った答えを、その時にふさわしい答えを与えてくださるのではないかと思います。

聖書は、66巻が一冊にまとめられていますが、どこを切っても必要な言葉ですし、すべてが御言葉なわけです。先ほど言いましたように、私たちが新しい歩みをするためには聖書は絶対に必要なものですし、その聖書をたよりにイエス様を受け入れ、歩める幸いが喜びとなるのではと思います。

第一テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
5:19 御霊を消してはなりません。

私たちが生きている――生かされているのは御霊によって生かされていると言うことです。ですから、その御霊を消してはいけない。つまり、イエス様から離れないようにと、示されています。

すべてのことを見分けて、良いものを堅く守りなさいと教えているのではないかと思います。

第一テサロニケ
5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

このように新しい歩みをするなかで、突如として、いろんな状況が周辺で起こされます。いまの時代が平和が安全だと言っても、それを聖書を通して見た時に、ほんとうに安全かどうかは、聖書を通して学ぶことができますし、それが、イエス様が答えとして与えてくださることではないかと思います。

それは、心の平安を保つことがまず大切である――心を騒がさないようにすることが、いかに大切かを教えています。しかし、人間の心は、自分の肉の喜ぶところへ行ってしまいますし、本当の喜びはどこにあるのかと言う基準をやはり考えることが大切になってくると思います。

聖書を読むことは、非常に好きな人はいくらでも読めるかもしれませんが、読むことが苦手な方々には、なかなか聖書を読むことも難しいかもしれません。厚い本は、読みにくいと思ってしまうかもしれません。

しかし、その厚い書物の中の一部だけを取り出して、その一部の言葉に集中したときに、『ああ、なんてすばらしいことが書かれてあるのだ』と感動することも大切であります。そういうふうに、断片的にでも聖書を読んでも楽しい、読んでためになることがいろいろ書かれていることがわかります。それが、自分が苦しいときに求めた答えであったり、そう言う聖書の御言葉にふれあう体験になります。それも、聖書を御言葉として、受け入れることになると思います。

ローマ
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

人間は生まれながらにして罪人であると言う大前提になりますけど、それは昨日もお話しましたけれども、私たちが罪を犯したから罪人と言うことではなく、私たちが生まれる以前から、アダムの時代から、アダムを通して、生まれた者は、神さまから離れた罪人だと書かれています。

ですから、その罪人が当然、楽園に養われていたように、その楽園に導こうとするのが救いの道でありますし、イエス様の導きであります。ですから、肉に従うなら死に、御霊に導かれるなら生きると書いてあります。

ですから、肉が喜ぶことではなくて、ほんとうの精神的な安らぎが大切なことである。ですから、御霊を消さないと言うのは、心の中に御霊を灯し続けないと言うことにもつながりますし、その御霊が内に住んでいると言うことは、イエス様をいただいていると言うことにもなります。

ローマ
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

ここでも「からだの行い」と言うのは、罪の支配の中にあった状態を示しています。ですから、罪から解放された状態が、新しく命を得た状態です。御霊によって生かされることを示しています。

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」イエス様を信じる者はすべて神の子供として受け入れられるということを聖書はひとりひとりに語りかけています。分け隔て無く、すべての人に、このように神の子供として受け入れられる準備があることを示しています。

ローマ
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

このようにパウロは証ししています。「今の苦しみの時代」――これは、再臨が迫っていると言われますが、イエス様がまた来られます。そう言う時の世界の状態は、どのような状態であるか測り知れないものがあると思います。

ですから、平安だ、安全だと言う周辺に惑わされないで、ほんとうにその日を、御霊によって静かに待ち望む姿勢が大切であると教えています。

ローマ
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

「被造物」とは、救われたすべてのもの。ですから、私たちは、新しく造られた者として歩んでいますけど、時として、主から目を離したときに、また古い自分に戻ってしまう性質を持っています。その時にも、主に尋ね求めて歩むことの大切さを教えています。

一回信じたから、一回救われたから、すべて新しいと言うことではないわけです。新しい歩みを続けることが大切であると考えますと、一日、一日、新しい一日を過ごすことが必要であると教えています。

第一コリント
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

福音の中心、救いの成就を示している言葉として見ることができます。つまり復活して今も生きておられる。復活をされたイエス様が聖書を通して、私たちに永遠に語りかけている御言葉であります。

9節にはパウロの証しとして次のように書かれています。

第一コリント
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

あの当時、パウロがしたことは、イエス様の弟子たちを(迫害し)、イエス様の教えをことごとく否定した働きをしていました。それが、イエス様と出会うことによって、全く新しく、目から鱗が落ちるように造り変えられました。

第一コリント
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

すべてを造り変えられたのは、パウロに神さまが恵みをもって示してくださったその結果であると書いてあります。ですから、この恵みを受けると言うことは、遅いか早いかではないのです。罪が多ければ、多いほど逆に恵みも大きいと、

パウロはそのように迫害して非常に弟子たちを苦しめたけれども、それ以上の働きをさせられるようになったと証ししています。

パウロは、働きは中途半端ではなくて、本当に心からイエス様のために、イエス様と共に死を覚悟して迫害をものともせずに、歩んだ、そのような福音伝道の道であったと思います。

マルコ
12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。』」

イエス様が応えられた箇所です。聖書が示す神は唯一の神である。ですから、私たちがいろんな所で見るいろいろな神さま――日本では、万の神で、すべてに神が宿るように解釈されている。でも、木も山も川も、すべてを創造されたのは神さまである。宇宙を支配している神さま。法則にそって宇宙が運行している。私たち人間は、被造物の一部。そして、時間と空間を越えて、私たちは、いつでも交信できる。

人工衛星に乗って宇宙に飛び出して、膨大なお金を払って飛び出す必要もありません。イエス様と私たちの交信は、瞬時に行うことができます。ですから、時空を越えてとはそう言うことですね。時間を越えて、いつでもどこでも瞬時に呼べば答えてくださる。呼び続け、イエス様の答えを待ち望む、そう言う関係をいつでも保つことができるわけです。

マルコ
12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

『あなたの隣人を愛せよ』は、イエス様の教えです。イエス様の隣人とは、イエス様を迫害するそう言う人たちであったかもしれません。ですから、そう言う人たちの救いのためでさえ、本当の神さまに従うべきであると言われています。

「ですから、神さまの御言葉を試してはならない」と、イエス様は律法学者やパリサイ人や教師たちに示されました。ですから、その隣人は誰ですか、私ではないですか。

前に、あなたがたは隣人を愛するかわりに、迫害しているではありませんかと、イエス様はおっしゃいました。イエス様を罠にかけようとして、曲がった言葉を言わせようとして。偽りの証人を作ったり、彼らはしました。ですから、主なる神を試みてはならないと戒めています。

ルカ
12:34 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。

当時の迫害の中にあるルカの時代。何が必要かと言うことです。「これは、あなたがたがもし今イエス様を受け入れているとすれば、それが、あなたがたの宝です。」

「あなたがたがもしイエス様を受け入れているとすれば、それが、あなたがたの宝です」と言うことです。その宝は、あなたがたの心の中にあるのですよと、示しています。ですから、その当時の迫害の中にあって、主を求めることがなかったら、あなたがたの心は寂しいでしょう。しかし、主を受け入れることによって、救いを求める心の中に、あなたがたの宝があると、その宝の存在を示しています。

詩篇
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

ここには、私たちが主を求める時に、本当に大切なことがここには書かれています。いつも、主を前にしていなさいと書かれています。心の安定した状態、確信をもって主に仕えている姿勢が書かれています。

これはダニエルも、そう言う中で、唯一の神に従った結果、獅子の穴に投げ入れられても安心して寝ていた。どのように寝ていたかは、獅子のたてがみを枕にして寝ていたのではないかと。そう言うことが言われるほど、獅子に勝った。ダニエルの心が獅子に勝っていた。ですから、獅子はダニエルに従ったと思うのです。

力がどこから来かと言うと、唯一の神を信じ切っていた結果の現れとして示されています。

最後に使徒の働きの17章を読んで終わりにしたいと思います。

使徒の働き
17:26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
17:27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
17:28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。
17:29 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。

このように日々新しく造られた歩みをする。そして、神さまに感謝しつつ歩めたら幸いです。また、これから救われる方のために祈り、福音を宣べ伝える器として生かされている恵みを感謝しつつ歩みたいです。

ありがとうございました。

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