2024年6月8日土曜日

キリストのみからだなる町田集会

キリストのみからだなる町田集会
2024年1月7日、町田福音集会
重田定義兄

エペソ人への手紙
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

どうもありがとうございます。新しい年を迎えました。今年も、よろしくお願いいたます。

昨年の十月の町田のよろこびの集いで、私は、ノアの箱舟というのはイエス様という箱舟であるというお話をさせていただきました。そしてまた、イエス様という箱舟は、イエス様の御体なる教会であると言ってもよいと思います。

そこで、今日はまず、キリストのみからだなる教会についてご一緒に学び、その後で、町田集会が、主のみからだなる教会であることをご一緒に考えてみたいと思います。

聖書には、先ほど読んでいただいた引用箇所の他にも、教会はかしらがキリストであり、信者はそのからだであるという箇所がいくつかございます。

ローマ
12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

コロサイ人への手紙
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。

そして、さらに、このキリストのみからだなる教会についてパウロは、第一コリントで、詳しく解き明かしをしております。少し長くなりますけれども、全部、お読みいたします。

第一コリント
12:14 ・・・・からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。・・・・
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

すばらしい置き明かしであります。

約二千年前に、まだ医学が未発達の時代に、このように人体の機能を正確に把握し、それをキリストのみからだなる教会に結びつけたというパウロのこの解き明かしは、まさにすばらしく、御霊の導きによるものとしか考えられません。

しかしながら、現実の世界を見ますと、このような教会は、決して多くはないどころか、むしろ、わずかしかないと言ってもよいでありましょう。どうしてでしょうか?これからその理由について考えてみたいと思います。

その最大の理由の一つは、御霊の働きのない信者にあります。御霊とは何でしょう?イエス様はおっしゃいました。

ヨハネ
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。

そして、イエス様は、この御霊の働きについて、次のように教えました。

ヨハネ
14:26 ・・・・助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

このように御霊は、私たち信者が信仰の歩みを進めるために、なくてはならないものなのであります。そして、またパウロは、その御霊が、私たち信者の体を住まいとしてくださると、次のように言っております。

第一コリント
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

しかし、実際には、御霊が住んでいても、信者の肉が御霊の働きを阻止している信者、いや、もっとひどいのは、御霊を締め出している信者がいることであります。御霊が働けない、あるいは、御霊を締め出している――そのような信者は、神の義と人間の義、神の愛と人間の愛の違いがわからず、それを取り違えてしまう危険に陥りやすいのであります。その良い例を、ひとつ挙げましょう。

マタイ
16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

人間の愛は、肉的であり、自己中心的であり、生ぬるいものでありますけれども、神様の愛は、霊的であり、自己犠牲的であり、また、厳しいものであります。その神様の愛の厳しさについて、へブル人への手紙には、次のように記されております。

へブル
12:5 ・・・・あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。

神様は、私たち信者を子として愛してくださり、信者を御心にかなうように成長させようと、愛の鞭を加えられるのです。

未信者は、自己中心的な肉的な愛しか知らない――これは当然のことでありますけれども、御霊の導きを失った信者もまた、未信者のように肉的なことしか考えられない。そのために、信者のあいだで争いが起こったり、また、教会が分裂するという危険すら起こり得るのであります。初代教会でも、そのようなことが起こり、パウロは、次のように信者を戒めております。

第一コリント
3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人(・・・・これは未信者をさしています・・・・)のように歩んでいるのではありませんか。
3:4 ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。

このようにパウロは、コリントの教会の信者を戒めております。

もうひとつ大切なことがあります。それは、御言葉は、御霊に裏付けされていなければならない、すなわち、御霊の保証が必要だということであります。なぜならば、サタンでさえも御言葉を使ってイエス様を誘惑したように、信者は自分の肉の考えや行いを正当化するために、都合の良い御言葉を選ぶという危険があるからであります。

イエス様は、ご自分のきよい血潮で、私たちの罪に汚れた心を洗い清めてくださいました。しかし、その清められた心に、聖霊が宿っていないと、再び、悪霊が入り込む恐れがあります。

ルカ
11:24 汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。
11:25 帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。
11:26 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」

ですから、私たちは常に、私たちの内に宿された御霊に満たされているようにと祈る必要があります。

さて、これまで主イエス様の御体なる教会について、ご一緒に学んでまいりました。

世界には数えきれないほどの多くの教会があります。しかし、前に申しましたように、パウロの言うような主のみからだなる教会の数は極めて少ないと言わざるを得ません。それは、多くの教会がかたちとしてはイエス様を頭(かしら)としてはいても、それは飾り物にすぎず、実際には、牧師や司祭といった人間が頭(かしら)となって、教会を支配しているからであります。そこでは、霊的な愛ではなく、人間的な愛が語られるだけであります。

ここで主題に掲げました、私たちの集う町田集会はどうでありましょうか?主のみからだなる教会と言って良いでありましょうか?答えは、然りであります。その理由は、数々あるとは思いますけれども、今日は三つだけあげます。

ひとつは、町田集会の成り立ちとその変遷であります。町田の集会は、ゼロから――無からスタートしました。そして、これまで三度も、その居場所を失うという危機に陥りました。しかし、その度に、私たちの願いをはるかに超えたすばらしい集会場が与えられております。まさに、これは奇蹟としか言いようがありません。主が、私たちが御霊にあってひとつとなって祈る、その祈りをよしとされ、町田集会をご自分の体として私たちに与えてくださったと、私たちは考えざるを得ません。

二つ目は、町田集会では、集会が立て上げられた最初から今日(こんにち)まで、賛美の歌――日々の歌、212番が福音集会の初めに歌われているということであります。日々の歌、212番の歌詞こそ、主のみからだなる教会を表すものであります。かつて、吉祥寺集会でも、火曜日の学びの冒頭で毎回、この賛美の歌がリクエストされておりました。しかし、ベック兄が召された後、いつとはなしにリクエストされなくなってしまったのは、本当に残念であります。町田集会の私たちが、この賛美の歌を旗印として高く掲げていること、これこそが主なる教会の印(しるし)ではないでありましょうか?

三つ目。町田集会では毎年、町田よろこびの集いと言う伝道集会を開いております。昨年の十月にも開かれ、メッセージや証し、賛美の演奏等々により、多くの未信者に主の愛と恵みに満ちた福音を伝えることができ、主のご栄光を拝することができました。

それは、集会の兄弟姉妹がたが、御霊にあって、一つになって、祈りながら準備を進め、当日も多くの兄弟姉妹が、目立つことのない裏方として、それぞれに与えられた役割を、黙々として果たされたからであります。これこそ、主のみからだなる教会の姿、パウロが言っております主のみからだなる教会の姿ではないでしょうか?

しかし、このような主のみからだなる町田集会にも――というよりも、主のみからだなる集会だからこそ、サタンの攻撃を受け、残念なことに、サタンに惑わされた何人かの兄弟姉妹は、集会から出て行かれました。

世の終わりがいよいよ迫っている今年、私たちは愛する町田集会が、さらに主のみからだなる教会として、この闇の世に主の栄光を輝かすことができるように、私たち一人一人が、主のみからだなる部分部分に組み入れられ、結び合わされている器官であることを強く自覚し、感謝し、御霊にあって強められ、心をひとつにして祈り合い、助け合い、支え合っていこうではありませんか。

ありがとうございました。

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