2024年8月3日土曜日

ダビデの二つ目の罪

ダビデの二つ目の罪
2024年8月7日、秋田福音集会
翻訳虫

第二サムエル記
24:2 王は側近の軍隊の長ヨアブに言った。「さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、その民を登録し、私に、民の数を知らせなさい。」
24:3 すると、ヨアブは王に言った。「あなたの神、主が、この民を今より百倍も増してくださいますように。王さまが、親しくこれをご覧になりますように。ところで、王さまは、なぜ、このようなことを望まれるのですか。」

ダビデは聖書に登場するもっとも有名な人物のひとりであります。ダビデは、イスラエルを統治した偉大な王として国民に愛されてはいましたが、一方で、神の前に大きな罪を犯したことも知られています。

ダビデの罪と言えば、バテ・シェバの事件のことを誰もが思い出すのではないかと思います。ダビデは忠実な部下であったウリヤの妻と姦淫の罪を犯しました。

それから数十年の後、ダビデは再び大きな罪を犯しました。それは、自分の国の人口を数えるという罪であり、そのためにダビデは報いを受けることになりました。

この出来事は、第一歴代誌の21章と、第二サムエル記の24章に詳しく記録されています。本日は、この出来事について考えてみたいと思います。

ダビデによる人口調査

まずは、この人口調査の全容を、振り返ってみます。

ダビデは、サウルの後を継いでイスラエル国の二代目の王となりました。この事件は、ダビデが強国となったイスラエルの支配者として君臨していた時期に起こったものです。

発端部分を、今度は第一歴代誌からお読みします。

第一歴代誌
21:2 ダビデはヨアブと民のつかさたちに言った。「さあ、ベエル・シェバからダンに至るまでのイスラエルを数えなさい。そして、その人数を私に報告して、知らせてほしい。」

ダビデの臣下であった司令官ヨアブは、主君の命令にしたがって、イスラエルの人口を調査します

第一歴代誌
21:5 そして、ヨアブは民の登録人数をダビデに報告した。全イスラエルには剣を使う者が百十万人、ユダには剣を使う者が四十七万人であった。

しかし、この人口調査によって、ダビデは神の怒りを買ってしまいます。

第一歴代誌
21:7 この命令で、王は神のみこころをそこなった。神はイスラエルを打たれた。

ダビデは自分が犯した罪の大きさを思い知らされ、神の前に赦しを乞いました。

第一歴代誌
21:8 そこで、ダビデは神に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」

しかし、神はこの謝罪を受け入れず、イスラエルに恐ろしい罰を与えます。

第一歴代誌
21:14 すると、主はイスラエルに疫病を下されたので、イスラエルのうち七万の人が倒れた。

以上が、この人口調査の事件の顛末であります。

聖書の中で、あまり注目されることがない箇所かもしれません。しかし、この出来事にはいくつか、非常に不思議に思えることがあります。

まず、自分の国を人口を数えることがなぜ、それほど大きな罪なのでしょうか。また、人口を調査しただけで数万の民が殺されるという罰は、あまりに苛酷なものに思えてなりません。

これから、この人口調査の罪について詳しく見ながら、この出来事が、今に生きる信者である私たちに、どのような意味を持つかを考えてみます。

ダビデが犯した罪

ひとつ目の疑問として、ダビデが犯した罪とは、何だったのでしょうか?

現代の日本でも国勢調査というものがあります。国をおさめる王であれば、どこにどれだけの住民がいるかを把握しようとするのは当然のことではないでしょうか?聖書を読んでも、なぜ、この人口調査が神の怒りを招いたのか、その理由は説明されていません。

しかし、この疑問に対する答えを聖書のほかの部分から推測することはできます。大きく三つの理由が考えられます。そこには、私たちも神に対して犯している傲慢さが隠れているのではないかと思います。

第一にイスラエル国民の所有者は神であり、王のものではありません。私たちには、他人が持っているものを勝手に数え上げる権利はありません。

実は民数記の中では、モーセがエジプトを脱出したイスラエルの人口を調べています。しかし、これは主の命令によるものでした。民の数を数えるのは、所有者である神だけが持つ特権であり、王の権利ではなかったのであります。

詩篇の中でダビデ自身がこう歌っています

詩篇
24:1 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。

王としての功績を誇ったダビデは、自分の言葉を忘れ、自分こそイスラエル国民の所有者のように思いこんでしまったのではないかと思います。

第二に、ダビデが人口調査を行った背景には、自分の国の強さを人口というかたちで測りたいという思いがあったのではないでしょうか。

旧約聖書の時代、イスラエル国における戦争とは、神ご自身が先頭に立って戦うはずのものでした。しかし、神ご自身に頼るのではなく、民、すなわち、兵の数というかたちで計られる強さを求めたダビデは戦いの主権を神から奪ったことになり、ここに罪がありました。

これとは、対極的な出来事が、ずっと古い時代にありました。その出来事は士師記の中で記録されています。

イスラエルのために戦う士師であったギデオンは、戦いに備えて数万人の兵士を集めました。しかし、これに対し、主は、民の数を減らすように命じられます。

士師記
7:4 ・・・・主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。・・・・
7:5 そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」
7:6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。
7:7 そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」

数万にものぼる兵の中から、主はこのように選んだ三百人だけで戦うように命じられました。

人間的に考えますと、これも、実に不思議な命令であると言えます。戦争となれば、兵の数は多ければ多い方が有利であろうと誰もが考えるのではないでしょうか?

なぜ、主が数万人の兵の中から三百人だけを選んで戦うように命じられたのか、主はその理由を少し前に語られています。

士師記
7:2 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎる・・・・。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。

主はこの三百人による戦いを支え、ギデオンは劇的な勝利を収めました。

戦いにおいて重要なことは、兵士の数ではなく、どれだけ神に信頼できるか、その信仰の強さであることを神は示されたのであります。

ダビデが人口調査を行ったことは、戦いを勝利に導くのは神の霊であるという真理を忘れ、兵の数に信頼を置き、兵の数を誇ったことの現れであったと言えます。この行為自体が神の権威を踏みにじるものだったのであります。

第三の理由として、この人口調査は、イスラエルが数々の戦いに勝利し、強国となった後で行われています。ダビデには、イスラエル国の繁栄を成し遂げたのは自分であると考え、人口という目に見える数字によって、自分の業績を計りたいという気持ちを持ったのではないかと思います。

ダビデ自身が詩篇の中でこう歌っています。

詩篇
20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

王としての成功を人口という数字で測ろうとしたとき、ダビデは、主の御名を誇ることを忘れました。

現代に生きる私たちの中にも、人生の成功を所有しているものの大きさ、たとえば、資産の額、家の大きさや乗っている車などで測ろうとする気持ちがあるのではないでしょうか。

主を信じる信仰こそが、私たちの人生で与えられた財産であります。

人生の成功を数で測ろうとする考えは、この真実から目をそらさせるサタンの罠であります。私たちも、そこに陥りそうになることがあります。

真の成功はどれだけのものを持っているかではなく、どれだけ主に信頼できるかにあるということ、この真実を常に心にとめておけば、私たちも自分が持っているものを数えるという罪から守られるのではないかと思います。

罪を認めたダビデ

さて、聖書に戻って、第二サムエルから、この出来事の続きを見てみます。

ヨアブたちは、十か月かけて全イスラエルの人口を調査し、その結果をダビデに報告しました。このとき、はじめてダビデは、自分の犯した罪を覚えて動揺したとあります。

第二サムエル
24:10 ・・・・ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」

ダビデは自分の罪を告白し、赦しを請いますが、主はダビデを断罪するため、イスラエルの民に疫病という苦しみを与えられました。

第二サムエル
24:15 すると、主は、その朝から、定められた時まで、イスラエルに疫病を下されたので、ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。

国民が打たれるのを見たダビデは、ここで初めて、真摯に民に対するあわれみを乞い、自分こそが罪の報いを受けるべきであったことを告白します。

第二サムエル
24:17 ・・・・「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。・・・・どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」

ダビデが信仰を取り戻したことに神は応えられ、民の苦しみは終わるのであります。

二つの罪

ところで、この人口調査の前にダビデは、自分の忠実な部下であったウリヤの妻、バテ・シェバと通じるという罪を犯しました。そして、そのことを隠ぺいするためにウリヤが戦死するように仕向けました。

人間的に見ますと、この方が、ずっと卑劣で赦しがたい罪のように思えます。ダビデはこの罪の報いとして、幼い我が子を失いました。しかし、人口調査に対する罰として、七万人の国民が殺されています。

二つの罪の中でダビデは、神がモーセを通して与えた戒めを破っています。十戒をあらためて見てみます

出エジプト記
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。

ウリヤの妻を盗み、姦淫し、ウリヤを殺させたダビデは三つの戒めを破っています。これに対し、第一の戒めは次のようなものでした。

出エジプト記
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

ダビデが兵力を数えたことは、上で見てきたように、世界を造られたただ一人の真の神以外のものに頼ろうという考えを持ったことの現れであります。

ダビデはこのとき、第一の戒めを破っていました。

神を支配者として認めないということは、聖書全編を通して繰り返し語られている人間の罪の本質であり、何よりも大きな罪であることを、人口調査の一件は教えているのではないかと思います。

罪の報いとして与えられた罰

さて、最後にこの出来事に関して、もっとも理解しがたい点について考えてみます。それは、ダビデ自身が神に尋ねた疑問でもあります。神が国民を打つのを見たダビデの言葉です。

第一歴代誌
21:17 ダビデは神に言った。「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪を犯したのは、はなはだしい悪を行なったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください。」

罪を犯した本人ではなく、民、しかも数万という民が懲罰を受けるのは、あまりに理不尽で不公正ではないかと、誰もが感じるのではないでしょうか?

聖書には確かにこのような理解しがたい出来事が多く出てきます。ある兄弟は、人間的には理解できないことも理解できないままに受け入れることこそ信仰であると言われました。

それでも、私は、このメッセージをまとめるにあたって、王の罪のために民が苦しみを受けたことについて、何か納得できる説明を見つけられないかと思い、外国のサイトなどをいろいろとあさってきました。

しかし、私は、あるみ言葉を読んだ後で、この出来事から私たちが学ぶべきポイントはそこではないと思うようになりました。それは次のみ言葉であります。

ガラテヤ
3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

現代の世界でも、疫病が起こり、たくさんの人が命を落としました。また、大きな病気を与えられて苦しむ方もいます。旧約時代の人あれば、このようなとき、自分は何かの罰を自分が受けているのではないかと恐れ、神の怒りの前におののくしかなかったかもしれません。

しかし、今に生きる私たちは、イエス様が十字架で私たちの身代わりとなって全ての罪を背負い、のろわれたものとなって、私たちが受けるはずであった罰を受けてくださったことを知っております。

どのような苦難があっても、それは、のろいでも神の懲罰でもありません。また、他の誰かが犯した罪の報いを受けているのでもありません。

イエス様の十字架を知っている私たちが生きている時代ははダビデの時代とは違います。私たちは恵みの時に生きています。

苦しみも主が備えられた光の道であると、私たちは確信することができます。これこそ、なによりも大きな祝福として、日々覚え、感謝すべき事実ではないかと思います。

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