2024年6月16日日曜日

キリストの苦しみにあずかる

キリストの苦しみにあずかる
2024年6月16日、市川福音集会
井上浩一兄

第一ペテロ
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

今、兄弟にお読みいただいた御言葉なんですけれど、私には、少し個人的な思いがあります。私の妻は八年前に甲状腺のがんで天に召されました。悪性の未分化がんだと分かってから召されるまでが、わずか四カ月でした。今日の引用聖句は、召された彼女の枕元に、鉛筆書きのメモで残されていたものです。その時から、私の心にはずっと刻まれている御言葉です。

私は、三十二年前に彼女を通して主なる神を知ることができ、洗礼を受けて、結婚に至りました。妻は、私にとって信仰の先輩であるだけではなく、彼女が召されるまでは、私は彼女を通して主とつながっていたのだと思います。はっきり言って、イエス様との直接の交わりを持たない者でした。本当に私の信仰は生ぬるく、まさしく黙示録が指摘する、あなたは生ぬるく熱くも冷たくもない者だったのだと思います。

だから、入退院を繰り返した四カ月の短い闘病生活の中で、私は彼女を失うかもしれないという恐れと不安の中で、常に心を騒がせていました。文字通り、全く地に足がつかない状態でした。そして、『妻の病を癒してください』と主に祈りながら、その一方で、医師や薬に、より多くを期待している自分がいました。承認されたばかりの新薬を勧められたときも、これこそが主が用意してくださった救いの御手だと勝手にそう思っていました。

今から思えば、私は、主に自分自身の思いを明け渡すのではなく、むしろ、主ご自身を私の足元に従わせようとしていたのでした。本当に、自分勝手な罪人の頭(かしら)でした。そんな私も危篤状態の妻の病室に駆けつけたとき、一歩、病室に入った瞬間に、彼女は助からないと感じました。そして、まさにその時、私の信仰は間違っていたのだと示されました。

だから彼女が召された後、自宅のベッドの脇に残されていたこのみ言葉が、私にとっては遺言のようなものに思えたのです。でも、この御言葉が本当に意味するところを、私自身はよくわかりませんでした。今、思い返すと、妻は、自分の病気、そして、自分の死をキリストの苦しみにあずかるものとして受けたのだと思います。

前置きが長くなりましたけれど、今日はこの『キリストの苦しみにあずかる』ということについて、聖書からご一緒に考えたいと思います。もう一度、引用聖句を第一ペテロの四章一二節からお読みします。

第一ペ
4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

ペテロは、イエス・キリストを信じる者たち、主に愛されている者たちの間には燃えさかる火の試練が与えられる、そして、それは信じる者を試みるためだと言っています。さらに、火の試練の中に置かれることは、キリストの苦しみにあずかることなのだから喜びなさいというのです。

『キリストの苦しみ』と一言でいっても、そこには二つの意味があると思います。

ひとつは、イエス・キリストの名の故に受ける苦しみです。初代教会の兄弟姉妹は、イエスを主と信じたことで迫害を受けました。ユダヤ社会から排除されたばかりでなく、時に罵られ、責められ、そして、捕らえられて拷問を受けたり、肉体的な苦しみも受けました。死に至る者もいました。その後の長い歴史の中でも、イエスを信じる信仰の故に迫害を受けた信者は数えきれません。今も世界には、イエス・キリストの名のゆえに苦しみを受けているキリスト者は多くいます。

私たち自身も、少なからずその中に置かれているのだと思います。日本のクリスチャンは、人口の一パーセントにも満たないと言われています。そのうちの何人が本当に救われ、聖霊を受けているのか、神のみがご存知です。神の目から見れば、多くのクリスチャンは、『キリスト者のようなもの』なのかもしれません。もちろん、私もそのような者の一人なのかもしれません。

そんな日本の信者でさえ、学校や職場、自分が置かれた環境の中でイエスを主と告白することがいかに困難であるか、感じているのではないでしょうか?また、信仰を告白することによって、人間関係がこじれる場合もあるでしょう。日本において、信仰によって差別や迫害を受けることはないかもしれません。ですが、それでもキリストの名による試練は各自に与えられているのだと思います。問題は、それぞれが、それをキリストの苦しみとして受け取れるかどうかなのだと思います。

キリストの苦しみのもう一つの面は、イエス様ご自身が本当に受けた苦しみです。

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

イエス様は、神のあり方を捨て、人間と同じようになり、すなわち、人間の肉体の痛みも、心の痛みも、全て同じように持つ者として、この世に下られました。そのイエス様の歩みは、文字通りイザヤの予言の成就でした。

イザヤ
53:2 ・・・・彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。・・・・

イエス様は、悔い改めと罪の赦しを説き、病を癒し、死んだ者をも生き返らせ、悪霊を追い出し、父なる神を証ししました。それゆえ、多くの者がイエス様に従いました。しかし、いったん彼が捕らえられると、皆が離れていき、それまで、『ホサナ』と喜びの声を上げていた者たちが、『十字架につけろ!』と叫びました。十二弟子でさえ、一人はイエス様を祭司長たちに売り渡し、残りの者は散らされ、イエス様のもとから逃げ去りました。

イエス様は、身近にいる弟子たちでさえ自分を否み、裏切り離れていくことは、はじめから知っていました。最後の晩餐の前に、弟子たち一人一人の足を洗っているときも、彼らが、『あなたと共になら死にます』と熱く語っているときも、彼らが裏切ること、逃げ去ること、否むことを知っていました。それでもなお、イエス様は弟子たちを愛しました。ペテロに、『あなたの信仰がなくならないように祈った』と言われましたが、それだけではなく、弟子たち皆の信仰がなくならないように祈ったはずです。今も祈っておられるはずです。

十字架を前にして、ゲッセマネで、イエス様は、悲しみもだえ始められたと聖書は記しています。イエス様は、『わたしは、悲しみのあまり死ぬほどです』と言われました。そして、捕らえられ、十字架につけられ、死にいくイエス様を見て、多くのものは失望しました。敗北者にしか見えなかったからでしょう。彼が救い主だと思うものなど、誰もいなかったでしょう。

イエス様は、十字架の上で人々の罵りの声を黙って聞かれていたのです。そして、何よりもイエス様の真の苦しみは、父なる神との断絶の中で死なれたことです。究極の孤独の中で死なれたことです。

マタイ
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

『どうして、わたしをお見捨てになったのですか?』父なる神に見捨てられた中で、イエス様は死なれました。もちろん、イエス様が味わったその絶望と孤独、本当の苦しみを私たちは知ることができません。イエス様の痛みや苦しみは、私たちがこの世で受ける苦しみとは、比較できないほどのものだと、信じる者なら誰もがそう思うはずです。

でも、ペテロは、『キリストの苦しみにあずかれるのだと喜びなさい』と言っています。なぜでしょうか?キリストは、見とれるような姿もなく、輝きもなく、慕われるような見ばえもない、皆にさげすまれ、のけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、尊ばれなかったと、イザヤは預言しています。『彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。』

イエス様は、私たち罪人の身代わりとなるため、人間の肉体の痛みも、心の痛みも病も全て同じく持つ者、感じる者として、この世にくだられました。そして、私たちの代わりに、十字架の上で裁きを受け、肉を裂き、血を流して死なれました。

だから、イエス様がこの世において受けられた痛み、苦しみ、そして、死は、その全てが本来、私たち自身が受けるべきものでした。だから、キリストの苦しみは、その一つ一つが私たち自身の苦しみでもあるのだと思います。そして、私たちがこの世で遭遇する痛みも苦しみも、その全ては、すでにイエス様が身代わりとして先に受けられたことです。

しかも、イエス様はそんな痛みも苦しみも、十字架の御業と三日目のよみがえりをとおして、すなわち、死んで、またよみがえることによって解決してくださったのです。イエス様は、この世の痛みや苦しみを受けた肉体の体は、すでに十字架の上で死んだのだ。だから、その痛みも苦しみも、よみがえりのいのちには何の影響も与えない。わたしはすでに死に勝利したのだと宣言されたのです。

だから、私たちがこの世で受ける痛みも苦しみも病も死も、イエス・キリストに似たものとなるための過程に過ぎないのだと思います。そして、それをキリストの苦しみとして、一人一人が受け取るならば、それこそがよみがえりのいのちにあって生きることなのだと分かります。なぜなら、イエス様は父の御心に従い、キリストの苦しみとして十字架につかれからこそ、よみがえりのいのちを得たのです。よみがえりのいのち、すなわち、死に対する勝利の前には、必ずキリストの苦しみを受けなければならないのだと思います。だからこそ、ペテロは、『キリストの苦しみにあずかることを喜びなさい』というのでしょう。

そして、キリストの苦しみを喜んで受けるのであれば、よみがえりのいのちにあって生きるのであれば、キリストの栄光が現れるとき、すなわち、主のご再臨の時に、心から喜びおどる者となれるのだと言っているのだと思います。

パウロも、キリストの苦しみについて、ピリピ人の手紙の中でふれています。

ピリピ
3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

このみ言葉は、パウロの内なる思い、心の底からの願望を吐露したものだと思います。

十二弟子たちと違い、イエス様が捕らえられ、十字架につけられ、死なれたとき、パウロは、イエス様に敵対するものでした。その後も、キリスト者を責め、迫害する者でした。そのパウロが、ダマスコへの途上、よみがえりのイエス様と出会い、選びの器として福音宣教に召されました。

パウロは、イエス様に敵対するものであったからこそ、主を十字架につけたのは、自分自身なのだと痛感していたのではないでしょうか。だから、その後のパウロにとっては、イエス様が全ての全てとなりました。この聖句の少し前、ピリピの三章では、

ピリピ
3:8 ・・・・私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。・・・・

と語っています。また、続く八節、九節では

3:8 ・・・・私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

と言っています。パウロは文字通り、イエス・キリストを得ようとしていました。得たいと思っていました。だからパウロは、イエス様が体験した肉体の苦しみも、心の苦しみも、そして、十字架の死をも自分も、同じようにたどりたいと切望したのでしょう。本当に、イエス様と同様に死者の中から復活したいと切に求めたのではないでしょうか。ここに、彼の熱い信仰を垣間見ることができるのだと思います。

使徒の働き9章で、イエス様は、パウロのことをアナニアに告げる際、こう言われました。

使徒
9:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。

イエス様が言われた通り、パウロは、多くの苦しみを通されました。それでもなお、彼はキリストの苦しみにあずかることを自ら求めたのです。彼にとって、キリストの苦しみを体験することこそが、よみがえりのいのちを生きるための、すなわち、キリストを得るための道だったのです。

パウロは、コリントの集会への手紙の中でも、キリストの苦しみについて語っています。

第二コリント
4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

パウロが言うキリストの死は、キリストの苦しみに他なりません。イエス様は死んでよみがえり、今は天にのぼられ、神の右の座に着座しておられます。私たちの肉の目には見えませんが、信じるものに与えられた聖霊を通して、イエス様は、今も生きて働かれています。

だからイエス様は、私たち信じる者をご自身のみ体としてみ体となる教会として用いたいのです。この世の人がイエス様を見ることはありませんが、イエス様は、み体なる教会の器官である一人一人のキリスト者を通して、そのご臨在をお示しになりたいのだと思います。

だから、私たち信じる者は、絶えず死に渡されているのだとパウロは言っています。すなわち、私たちは常にこの世の痛み、苦しみを受けています。そして、一人一人がそれを主のみ体として受け取るなら、キリストの苦しみとして受け取るならば、私たちの死ぬべき肉体を通して、イエス様のよみがえりのいのちが明らかに示されるのだと、み言葉は示しているのだと思います。

最後に、二つのみ言葉にふれます。

ピリピ
1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。
1:30 あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。

パウロを通して、主は語っておられます。私たちは、信仰を与えられたと同時に、キリストのための苦しみをもたまわったのだ。そして、このキリストの苦しみにあずかることは、イエス様と同じ戦いを経験することであるのだと。

第二コリント
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

キリストの苦しみにあずかる時、それは、キリストの慰めを受ける時でもあることがわかります。主イエス様が、与えてくださることは喜びも悲しみも、すべてが天の御国の約束に至る恵みであると、み言葉は示しています。

終わりです。ありがとうございました。

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